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承服しかねる「分数aug」という表現2020 [楽理]

 扨て、一昨年の2018年にアップした私のブログ記事『承服しかねる「分数aug」という表現』からおよそ2年が経過する事となりましたが、SNSでは真偽や正否のそれは無関係に「バズったモン勝ち」という様な風潮が根強いので、今猶「分数aug」という用語は用いられている様で、「分数aug」とやらの方法論の方がより一層拡大してしまった感があるのは否めません。



 オルタード・テンションと分数コードというそれは、ベタなほどに調的な見渡しと予見が容易いダイアトニック(全音階的)なフレーズに対して音階外のコードとして響きが装飾される事で、音楽的素養に疎い半可通な連中が《分数augすげえ!》という風に亢奮を制える事なく彌漫させてしまっている所が是正される様な気配もありません。


 2020年に入り正月ボケから明けたかと思いきや、ツイッターではOfficial髭男dismの楽曲「I Love...」のイントロに所謂「分数aug」が使われているのではないか!? というツイートが幾つか目に入って来た物でしたが、結論から言えば当該箇所で生ずるコードは「分数aug」ではありません。オルタード・テンションをオーギュメントと誤認しております。加えて、そうしたオルタード・ドミナント7thの響きには耳が注力されているにも拘らず、その前段で現れるもっと非凡な状況には何も語っていないという所には驚きを禁じ得ないほどであります。

I-LOVE.jpg


 では、ツイッターで「分数aug」と誤認されてしまっていた「I Love...」のPVをYouTubeから拾って、今一度確認してみる事としましょう。




 今回あらためて解説するに際し、私の方で当該部分のブリッジ部のみ拔萃して譜例動画デモを制作しYouTubeにアップしたので、併せてご確認いただければと思います。
 




 扨て、原曲PVの方の0:18〜の部分からAパターン冒頭までが、今回ブリッジ部として私が制作した範囲というのがお判りいただけるかと思います。PV画面と実際のオケで使われている楽器など異なるのは明白でオリジナルとなるオケ部分は非常にピッチが整っているのが顕著でもありますが、私の譜例動画ではあくまで鍵盤は3つの楽器に分け、ハ音記号で書かれているパートはギターでも代用可能な様にしてヴォイシングを少々弄っているのはご了承下さい。ハーモニー全体の和声感としては著しく逸脱してはいないでしょうからご安心下さい。

 懸案の「分数aug」を語る前にこの曲の必須項目として知って欲しい前提があります。私が本曲を譜例動画するに辺り、この曲の拍子の解釈は2/2拍子(=カット・タイム=アラ・ブレーヴェ)である方が4/4拍子よりも良いだろうと解釈し、アラ・ブレーヴェで書いております。4/4基準だとBPMは四分音符=173前後と表されるでしょうが、ご覧の様に2/2拍子なのでテンポは「二分音符=87ca.」と表している訳です。とはいえ、アラ・ブレーヴェであっても、本曲はそれをハーフ・タイムのビート(つまり半テンポ=半テンとも)として捉えて演奏されているのです。

 こうしたアラ・ブレーヴェの半テンは、ジェントル・ジャイアント(以下GG)のジョン・ウェザースが得意としていたビートであり、GGの楽曲のそれらのテンポもまた、4/4拍子で書かれるには速く、アラ・ブレーヴェで採るにはやや遅めという「襷に短し帯に長し」という状況のテンポと拍節感を得意としていたバンドでもあります。そういう意味では本曲を聴いて、ビートのそれに関してはGGっぽいな、というのが最初の印象でありました。

JWeathers_GG.jpg















 作者を含むバンド・メンバーが本曲を4/4拍子と解釈しているのであれば私は彼等の意図を最大限に尊重します。ただ、Official髭男dismに限らず、その解釈を是認できない場合は爬羅剔抉の心意気で指摘させていただくのが私の姿勢ですのでご容赦ください。


 という事で、懸案の「分数aug」までの短い部分ではありますが、そこまでの過程を私の譜例動画で確認し乍ら説明を続ける事にします。


 本曲は、終止を明示しようとしないプラガル(変格)に括られ、Aメロ冒頭でサブドミナント(下属和音のD△9)が示している様に、サブドミナントを主体に調性を叛く所が特徴的な運びとなっております。

 字面からは強烈に否定するかの様な印象すら与えてしまいかねない「叛く」という表現を用いたとは雖も、それを決してネガティヴな意味合いで捉えてしまわぬ様ご理解願いと思います。こればかりは私の本意ではなく私としても困って了いますので重ねてご容赦のほどを。

 通常の調性感というのは終止音(トニック)を直視する様にして、体(てい)良く収まりが宜しい事運びで「終止」が来る状況が自然な終止でありますが、本曲では終止の源泉である主音を主和音から容易に正視しようとしない手法を採っております。

 無論、そうした直視を避けてはいても平行長調の下属和音上で主音(=トニックおよびトニカとも)を指し示すので、聴者は終止感を理解して耳に届いてはいるのです。喩えるならば、調的な意味での方角としてコンパスが示す極点はあからさまな程に示してはいるのです。

 そうした状況に対していざ終止しようとすると、主和音へ結句しそうな所でイ長調の主和音としては終止せず、平行短調の副次終止音(コンフィナリス)としての「♮Ⅵ度」を明示させて来るというのが特徴のひとつです。

 コンフィナリスが意味するのは、副次的な終止。つまり平行長調から固守した見立てであれば、平行長調の「Ⅰ」へ行こうとすると「♮Ⅵ」を見せて来る訳です。嘗てのTVCMでの研ナオコと林家ペー or 志村けんのご両人が出演されていたプチシルマのCM曲も、トニックからコンフィナリスへ着地するという類の物でした。




 他方、ドミナントを経由しつつドミナントが主和音へ解決しようと見せかけておいて Ⅴ→Ⅵ という進行を採るのを偽終止と言いますが、日本のポップス界で最も能く知られた偽終止の1曲に井上陽水『夢の中へ』での《行ってみたいと思いませんか うふふ》という、E♭7→Fm(Key=A♭)が特徴的でありましょう。




 これらの特徴は、主音が主音の位置へどっしりと元の位置へ戻ろうと期待されている所で副次終止音=Ⅵの在る位置へ腰を休めてしまう様な展開を見せる訳です。どこか物悲しくもあり、人目を避けて大声で笑う事を堪えるかの様に、少し目線を外して見るかの様にして音楽との向き合いが見事に投影されるのも偽終止の齎す効果である事でしょう。

 長調が一転して平行短調の薫りを伴わせ、同様に短調が一転して平行長調の薫りを伴わせるという音楽の技法。前者も後者も「終止」という意味では不十分でどこか生煮え感を伴わせる感があると思いますが、筆舌に尽くしがたい語句なのでこれらを決して音楽的に避けなくてはならぬ様な否定的な用法という風に理解されては困ります。言葉が否定的なニュアンスを匂わせてはいても忌避する様な用法ではないという事だけはあらためて申しておきたいと思います。

 斯様な平行調に於ける長・短のいずれもが調的に(終止が)未確定であるという点が、不確定要素のある曲として聴かせる類の物として特徴的な印象を抱かせるのです。

 譜例動画の例から見れば、Aメロの2小節前では拍頭に「F♯m7」が現れており、平行長調の主和音「A」は同小節の4拍目という弱拍・弱勢に置かれている訳です。

 この状況を鑑みても、曲調としてはイ長調(Key=A)っぽく聴かせつつも、主音にフレーズが辿り着きそうになるや否や主和音上の根音としては聴かせず、平行短調にスルリと背いて、平行長調側から見た時の「♮Ⅵ」という下中和音上の第3音または平行短調主和音上の第3音(短調上中音)として聴かせる訳ですから、かなりの拘りをイントロから見せつけている事が判ります。

 また、譜例動画ではAメロ以降を明記してはおりませんが、Aメロ冒頭に於けるコード進行を平行長調から判断すると「Ⅳ→Ⅲ」と進行している時点で調性が曖昧模糊となっているという事もあらためて決定的な材料(調性が曖昧という意)となります。

 しかし調性が曖昧とは雖も、それは決して「モーダル」な世界観と形容する物とは異なり、平行調の長・短それぞれから見た場合に長調(長旋法)および短調(短旋法)という調性感を強固にする為の状況を叛くので曖昧な状況を生んでいるという訳です。

 無論、聴き手の一部の方からすれば《この曲のどこが曖昧なのか!? イ長調だろう!?》という風に疑問を抱く方が居られるかもしれません。然し乍らひとたび調判定をしようと企図してイ長調 or 嬰ヘ短調のどちらかであるのかと楽理的に解釈すると、どちらも曖昧な状況であるという事に気付かされる訳です。

 こうした曖昧な過程を局所的に見れば、平行長調っぽい雰囲気を主体にしつつ平行短調という泊り木に着地してしまう「揺れ」を理解する事ができるのでありますが、こうした平行調の両調同士の行き交いを決して転調とは呼ばないのは私のブログでもかねてより口角泡を飛ばすかの様にして語っている事をあらためて思い出していただきたいと思います。

 平行調の両調の行き交いは「移旋と移高」の2つの作用が齎している物であり、本曲も長旋法と短旋法の移旋と移高を巧妙に用い乍ら両調をも不確定的にするという手法を用いているという訳です。

 確かに本曲の終止和音はイ長調のトニックであるものの、それまでの過程でイ長調主和音が明示的になるのは少ないでしょう。

 特にAメロからBメロに移る際に、突如イ長調のトニックを思い起こすかの様に少々無理強いさせるトニックへの進行の後には、サビに於てもトニックの際立たせ方は弱く出しています。平行短調と平行長調のどちらなのか!? という風に曲を解釈すれば平行長調が優勢であるに過ぎない緩めの和声構造となっているのが本曲の特徴です。

 パッと聴きの特徴としての形容をするならば、西海岸系サウンド的な物であり、往年のジェイ・グレイドン、デヴィッド・フォスター、パトリース・ラッシェン、ジェフ・ローバー系統のそれらを追懐させて呉れる様な凝ったコード・ワークであります。


 それではあらためて、Aメロに入る前のイントロに於いて私が抜粋した当該箇所を順に確認して行く事としますが、本曲は2/2拍子のアラ・ブレーヴェで記譜している為、1小節内の拍節状況のそれが、たとえ四分音符×4と表されたとしてもそれを1・2・3・4拍目という風にはカウントしない点を注意して欲しいと思います。二分音符を基にしているので、2つ目の四分音符は「強拍・弱勢」なのです。つまり、次の様に

1つ目の四分音符(または四分休符)=1拍目の強拍・強勢
2つ目の四分音符(または四分休符)=1拍目の強拍・弱勢
3つ目の四分音符(または四分休符)=2拍目の弱拍・強勢
4つ目の四分音符(または四分休符)=2拍目の弱拍・弱勢

という風に言い表すので、4/4拍子のそれと呼び方が少々異なる所を注意してお読みいただければと思います。


 扨て、譜例動画の弱起部分にした不完全小節(シンセ・リード・パートのみアウフタクトを明示し、他のパートには休符すらも置いていないのは慣例的な記譜法のひとつ)は特に語る必要はないので、それ以降の小節として「B7」が出現する部分の強迫・弱勢の部分から語る事になります。

 このセカンダリー・ドミナントは平行長調基準であればⅡ度(上主音=スーパートニック)上に生ずる副次ドミナント(※この場合、ⅤのⅤ度=ドッペルドミナント)としての「Ⅱ7」でありますが、後続和音である直後の弱拍・強勢では「Bm7(on E)」という風に下行五度進行をしていないというドミナント・コード本来の進行しようとする振る舞いを蹂躙している所に、この曲が「プラガル(=変格)」で行こうとする気概の表れが見て取れる物です。

 本来「B7」がドミナント7thらしい振る舞いをするのであれば後続和音には「E何某」および次点に類推しうる「B♭またはA♯何某」に進む筈です。

 処がベースである下部付加音として下行五度進行をさせておきつつ上声部では本来の下行五度進行をしておらず、ダイアトニック・コードとしての「Bm7」に戻しているという所が実に心憎い所です(実際には、「戻す」という事をトリック的に使って別の調域をさりげなく見せていると私は解釈するので後述を参照)。これらのコードは四分音符1つずつの音価ですから、コード進行のそれとしては非常に短い音価でコードを経過和音としてでも巧妙に響きを装飾しようとしている意図を垣間見る事ができます。

 なお「B7」が「Bm7(on E)」へと進行した時の後続和音の上声部のコードの状況を、私としてはそれが単に、イ長調の調域での「Ⅱ7」というコードが本来のダイアトニック・コードとしての姿である「Ⅱm7」に戻す状況であるとは解釈していません。もっとトリックめいた解釈をしております。

 本来、ドッペルドミナントとしての姿へと変容した和音「B7」というのは、機能和声的には属調(ホ長調、Key=E)の調域でのコードを拝借して原調の属七(E7 in A)に「弾みを付けて」進行しようとする物です。

 それが「元の姿」と同様の「Bm7」になったというのは、単なる元のダイアトニック・コードへと姿を戻して音楽的な意味での和声の誇張が萎縮してしまったのではなく、「Bm7(on E)」というのは、その上声部にある「Bm7」は、「B7」が本来目指していた調域「Key=E」の同位和音(凖固有和音≒モーダル・インターチェンジ然り)であるムシカ・フィクタを生ずる前の「ホ短調(Key=Em)」のドミナント・マイナー(=vm)の姿として見せている姿なのではないかと思っているのです。

 直後の後続和音「E♯6」では、シンセ・リードこそ原調(Key=A)でのフレージングを強行しますが、「Bm7(on E)」では、そこでの調所属がイ長調(Key=A)であろうとホ短調(Key=Em)であろうと、局所的な経過和音の過程に於てはいずれの調性由来の和音として「強弁」する事が可能なのです。

 なにせ、このコード上で原調であろうとする最大限の根拠は、それまで薫らせてきた原調の残り香(余薫)でしかないので、ドッペルドミナントという和音の正当な呼称である「半音階的長調上主和音」(※この手の呼称の源泉を探る事の出来る言語=ドイツ語はこういう時に言語的に普遍的な強さを発揮する物です)は長調属和音の為の物なのですから、それを叛いてまで「Bm7」を見せるという事は単に原調の上主和音=「Bm7」へ戻ったという見立ては、解釈としては短絡的であり、更なるトリックが隠されているであろうと推測すべき状況であると考えます。

 たった四分音符1つの歴時であろうとも、その和音の「萎縮」が、実は属調同主調の和声の姿としてさりげなく忍び込ませているのではなかろうかと思うのです。

 それと同時に、「Bm7」をホ短調での「ⅴm(ドミナント・マイナー)」と見立てた時のネガティヴ・ハーモニーは「Cm7」を導くので、物理的には生じていないそのネガティヴ・ハーモニーの相関関係として、後続和音「E♯6」を「F6」と捉えてみれば、見事に下方五度進行「Cm7 -> F6」の状況を複雑化させた経過和音として解釈する事も可能なのであります。

 そうして四分音符のパルス4つ目となる2拍目の弱拍・弱勢では、何とも見慣れぬ「E♯6」というコード表記を充てております。

 エンハーモニック(異名同音)で解釈すれば「F6」で表されるそれと鍵盤やフレット位置では物理的に同じ所を弾く和音なのですが、後続和音「F♯m7」への上行導音として解釈する為には「F♯m7」への先行和音は異度由来からの進行として明示する必要があろうという解釈から「E♯何某」としている訳です。

 つまり「F6」とすると同度からの臨時可動的変化として後続の「F♯m7」へと進行する表記となってしまう為、そうしたジレンマを避けて敢えて「E♯6」という表記を選択しているのであります。

 御本人達がこの部分を「F6」として使っていたとしても、楽理的に正しいのは「E♯6」だと私なら指摘させていただく事でありましょう。それほどまでに「異度」からの進行という解釈が重要なのであります。

 そうした事もあり、私としてはどうしても譲れぬダブル・クロマティックの線運びを単なる半音として解釈して欲しくはないので、ベース・パートに「増一度」「短二度」という、どちらも半音音程という物理的なサイズの違いはなくとも、実際には増一度と短二度なのだという事を明示している為、赤色で態々明示している訳です。

 あらためて附言しておきますが、イントロでベースが [e→eis→fis]と奏している時のE♯6という経過和音にて、シンセ・リードは16分音符の4音に依る順次進行として [e - fis - gis - a] を聴かせているのですから凄いと思います。なぜならば背景のコードの構成音は [eis・gisis・his・cisis] ですからね。

 それが解りづらいならば「F6」のコード上で [E - F♯ - G♯ - A] と弾かれる事が非凡な、これこそが複調のアプローチであるとまざまざと見せつけて呉れている訳です。

 もしもこの箇所(※E♯を生じている部分)を平行長調規準として解釈するならば、e→eisと変じて長調属音であるドミナントを軽んじる事は無いでしょう。それでも次にはfisに行く。つまり主音と見立てる [a]を少なくともこの曲では彼等は主和音から決して直視したくない訳です。下属和音から主音を見たり、平行短調主和音の「ⅲ」として見たいという心意気が見て取れるのです。

 更に加えて本曲に於て最も非凡な例というのがこの「E♯6」の部分に現れているのですが、それについても詳密に語る必要があろうかと思います。「E♯6」での6th音は「C♯♯(=cisis)」である為、後続には「D or D♯(d or dis)」へ進めば6thコードとしての限定上行進行音のそれに準則する事となる訳ですが、後続和音の「F♯m7」の構成音には [e] 音はあっても「d何某」は無い訳です。

 然し乍ら、後続和音となる「F♯m7」は実質的に、このコードが現れた時点で「E♯6」という束縛を受ける調域から調性を瞬時に転じているので、これで整合性は取れているのです。

 仮に「F♯m7」への限定上行進行音という整合性を保つ為に先行和音を「F6」としてしまうのであれば、確かに「F6」の構成音 [d] は後続和音に対して「E何某」に進めば良いので、「F6」という表記の方がスンナリ整合性が取れている様に思えるかもしれません。

 然し乍らそうした状況では「F6 -> F♯m7」という進行でのそれぞれの根音は同度由来からの可動的な変化に過ぎず、異度由来となる上行導音というそれをコード表記の側が歪めてしまうという訳です。


 非常に限定的な側面である、完全な「無調」の世界に於ける7種の音名 [A・B・C・D・E・F・G] での其々本位記号と臨時記号は取扱い上の方便に過ぎず、逆に十二音技法からすれば重嬰・重変記号を充てようとも、音名が付きまとう事こそが足枷となりかねないのでアレン・フォート等の様にピッチ・クラスを充てて取り扱う事もありますが、調性や調号を棄ててまで表現する音楽的世界観と比して本曲はやはり「調性」が曖昧乍らも標榜する世界観に違いはないのですから、半音階を巧みに取り込む事により先行和音からの可動的変化であるのか!? 或いは後続和音への導音として異度から進行して来る類の物なのか!? という事だけはきちんと判別しておかなくてはなりません。

 唯単に、コード表記に於て何の配慮も無く取扱いの簡便さだけを利用して、コード表記の側が本来の音楽的要素を壊してしまうのは罷りならない事だと思いますので、私は敢えて明示しているのです。

 こうしたコード表記に於ける異名同音のジレンマを伴う状況は、半音階的動作を全音階に持ち込めば必ず生ずる懸念材料であり、エンハーモニックの取り扱いの不文律というのは旧くは1000年以上前の二重導音や近代に於けるロマン派の頃にも存在していた事であります。

 ヘプタトニック(=7音列)という見渡しが半音階導入によって表記上で飽和を招く訳です。もしも本曲が調号無しの無調状態で書かれているとすれば「F6」という表記の整合性を取る事は可能となります。とはいえ、本曲を調号無しで解釈するにはあまりにも酷な事であろうかとも思います。こうした経過和音の為だけに本来存在すべき調号が蚊帳の外として置かれて解釈されてしまっては主客転倒も甚だしいという状況を生みかねません。

 また、これと同様のジレンマとして生ずるAメロ直前で現れる「分数aug」と誤解された懸案の逆付点のコードにもエンハーモニックのジレンマが生ずるので、それも後述する事となります。


 引き続き「F♯m7」が現れる小節を語ろうかと思います。この小節では八分音符のパルスで「3:3:2」という拍節構造になっており、それに併せてコード進行が F#m7 -> E7(on G♯)-> A という風に形成されており、イ長調の主和音がこうして弱拍・弱勢に置かれている事であらためてイ長調を直視しない様にして態と「暗く」聴こえる様にして平行短調の側を優勢に響かせているという訳です。ですので強拍・強勢に「F♯m7」を呼び込むというのも計算尽くの事でありましょう。

 終始、調性を斜に構える様に叛き乍らも終止音の位置を下属和音上から明確にしているので調性感としては芯のある明確な曲として聞こえる訳であり、要所要所に於てイ長調のそれだと判る工夫が為されているという訳です。

 Aメロ直前の小節では先行小節の弱拍・弱勢から生じた「A」が掛留の状態となってシンセ・リードとベースも併せた下声部で反進行を採り、非常に各声部への配慮が為されたフレージングであろうかと思います。そうして弱拍の逆付点として「E♭7(9、♯11)」上にてシンセ・リードが「♭13th音」を奏するので、ツイッターで見られた懸案のコードとして現れているのであります。逆付点である事でより際立つハーモニーでもあります。

 所謂「分数aug」としてツイッターにて幾人かの人達が誤認してしまった「E♭7(9、♯11)」を分数augと採り違えているそれは、完全五度音である「B♭」音を聴いていないが為に上声部のそれにつられて、♭13thの音を五度の上方変位=オーギュメント(増音程)として解釈してしまっているからであります。

 このコードはAメロ冒頭の下属和音=「D△9」に対して短二度下行進行する為のオルタード・テンションを伴った副次ドミナントという形の「E♭7(9、♯11)」でしかないので、平行長調を固守した見立てだと「E♭7(9、♯11)」=「♭Ⅴ7(9,♯11)」と見なくてはいけなくなります。只でさえ原調の調性感を曖昧にして叛いている事を方便に「♭Ⅴ」などと表記しようものなら人中に掌底食らっても文句は言えない愚考となります。

 平行短調の側から E♭7(9、♯11)-> D△9 というコード進行を見てみた場合、それはディグリー表記として実質的には「♮ⅵ7(9、♯11) -> ♭ⅵ△9」という風に進行している事となります。

 平行短調の側から見た場合「E♭7(9、♯11)」を「♭♭ⅶ度」上のコードとして見立てなくてはならないのではないか!? と迷妄を来しかねないジレンマが発生しますが、この当該箇所では「E♭7(9、♯11)」をどうしても「D♯7(9、♯11)」とは見る事ができないので、結果的には「E♭7(9、♯11)」の前後関係ではエンハーモニックのジレンマが生じてしまう事だけは避けられないのです。

 では何故、「D♯7(9、♯11)」として見る事をせずに「E♭7(9、♯11)」と解釈しなくてはならないのか!? というと、後続和音「D△9」への下行導音として異度由来の進行として働かせている以上、同度由来のディグリー表記が出来ないからです。

 ですので D♯7(9、♯11)-> D△9 という風に解釈してしまう事は出来ないのです。本曲が完全に無調でイ長調も嬰ヘ短調の姿すらも見えにくい半音階がちりばめられた状況であるならば、コード表記など構成音さえ合ってさえすれば調所属を明確にする必要などありません。

 処が本曲はその手の無調の類ではなく、調性を標榜しつつ調性を直視しないだけの振る舞いですから、調性感を棄却する解釈は出来ないのです。ですので、調性感を維持し、転調感としても音価の歴時が非常に短いハーモニック・リズムの過程で希薄になっている状況で、音階外(ノンダイアトニック)の副次ドミナントを表さざるを得ない為、「E♭ or D♯ !?」という状況となると、茲では「E♭」を選択せざるを得ないのです。

 また、そうした逆付点のハーモニック・リズムで生じさせた「音階外のコード」=ノンダイアトニック・コードに依る装飾を他調由来の局所的な転調として、譜面上では転調という調号の変化を示さず、読み手が柔軟に解釈するという状況ならば話が早いのです。

 他調由来のコードで以て「ダイアトニックな動きの旋律」を、和声の側から奇を衒った粉飾を施したという訳です。そういう事からコード上では、シンセ・リードはダイアトニックを保った動きであるので表記的には [h] 音(英名:B 独名:H)を表しておりますが、コードの側からすれば「♭13th」相当の音になるので、譜例動画の注釈として赤色で「※実質的にはC♭」という風に充てているのは、こうした理由に依る物です。

 シンセ・リードは少なくとも全音階的に調性に遵守した線運びをしているにも拘らず、突如多声部からの音階外の粉飾に依って自身のあるべき調性が変じられたとしたらシンセ・リードしては立場がありません。そういう意味では、シンセ・リードが原調を遵守している状況で和声の側が他調由来という状況はバイトーナル=複調が局所的に生じているとも言えるのです。

 その複調状態が偶々、オルタード・テンションに括られる表記形式に則って表記可能という状況であるに過ぎず、先行する横の線と音階外の縦の響きの関係は複調状態です。唯本曲の当該箇所では複調へと姿を変えようとする世界観を標榜してはいないので、直ぐに原調のサブドミナントとして世界観が戻りAメロを聴かせるという訳であります。


 それでは「E♭7(9、♯11)」の方をあらためて解説する事にしましょう。先述にもある通り、シンセ・リードの実質的な「C♭」音をハーモニー全体的に俯瞰すれば、コード表記としては「E♭7(9,♯11,♭13)」という風に表せると言えます。

 ジャズ/ポピュラー形式ならばリード音をコード音に含め無くても良いので、コード譜としては先のサフィックスから♭13を省いて表記するのが慣例となる訳です。「E♭7(9、♯11)」という風に。

 このハーモニー全体から見える和音構成音を転回位置に還元した時にはあらためて判りやすくなりますが、[b・a・ces]=[B♭・A・C♭]が併存しているという事になります。つまり、転回位置に還元すれば和音構成音のそれらは [b・a・ces] という風に夫々が短二度となるのです。こうした所に所謂 [B・A・C・H] の様なメッセージが隠されているのかなと思いましたが大バッハへの愛を示すような意味は特に隠されてはいない様です。

 和音構成音に「B♭」音が無いのであるならばいざ知らず、含まれる状況に於てオルタード・テンションの♭13th音を第5音由来の変化音である増音程のaugとして耳にしちゃあ不味いだろうという、私の示す重要な底意に気付けなければ、私の容喙する底意も理解してはもらえなかった事でありましょう。それと同時に半音階的全音階社会を理解出来ていないと言えます。

 トップ・ノートとしてのシンセリード音を、原調の長調上主音として固執して聴いてしまう所に抑も問題が生じて来るのです。原調に遵守するパートが他のパートのノンダイアトニックなコードから突然容喙を受ける様な物です。見えない所から突如こめかみに掌底食らったかの様なモンです。バイトーナル=複調という状況を思い返していただければ、ノンダイアトニックのコードである副次ドミナント和音を使う以上、局所的に調所属は原調から転じている事となるので、原調を固守して聴いてしまっていると迷妄に陥りかねないという訳です。

 きちんと原調の調性に遵守していた線運びであるにも拘らず、長調上主音の音を♭13thとして聴かなくてはならないという事はどういう事か!?というと、ノンダイアトニックのE♭7何某しのコードが他調の拝借により響きを粉飾されている状況であるので、コンパスの指す角度が変わったという風に捉えると良いかもしれません。原調を強固に指し示すフレーズがまぶしすぎて原調を忘れずに聴いてしまうというトリックでもあります。

 どんなに歴時が短ろうと他調由来のコードに随伴する線(フレーズ)は原調の余薫に調判定の為の主従関係が持続していると解釈するよりも、当該箇所での和声に主従関係として強い因果関係が生ずると解釈するのが当然であると考えます。仮にフーガであるならば原調が持続し乍ら垂直的に複雑な響きが生ずる訳ですが。

 そうするとE♭7というコードそのものが原調の音階外である以上、シンセ・リードの♭13th音が倚音で無い限り長調上主音 [h] は実質的に他調の他の音度として「転義」すると見做さなくてはならなくなります。そうして転義した音は実質的に[h]ではなく[ces]= C♭音 となるという訳なのです。

 但し楽譜に記譜する際は先述した様に、シンセ・リードは順次下行進行をしているに過ぎないので、このパートさえ見れば幾ら転義したとは雖も [h]を [ces]と書く必要はありませんが、もしも調号無しで書いた場合には [ces] を明示する必要があるでしょう。

 畢竟するに、トップノートのシンセリードが原調を固守しているにも拘らず他調由来のオルタードテンションで響きを粉飾させており、和声的には複調状態つまりバイトーナルコードが顔を出すのですが、曲が複調を標榜しておらず調的に曖昧な状況となっているのが真相です。

 もしも、懸案のコード「E♭7(9,♯11,♭13)」を平行短調(Key=F♯m)の「♮ⅵ(9,♯11,♭13)」という風に解釈すれば一応は整合性が取れる解釈となります。それとて、イ長調優勢に響かせ、終止和音もイ長調であるものの、当該和音の前後では平行短調の姿が優勢であるという事をあらためて補強する事実となるので、終止和音部は兎も角、曲冒頭のイントロを見た時、イ長調という風に断言しづらいのも、イ長調を優勢に聴かせようとする狙いはあってもそれを希薄にしていて平行短調をも如実に薫らせているという所からあらためて判別の難しさを理解していただければと思います。


 扨て、次はAメロ冒頭部分を語る事にしましょう。譜例動画は茲までしか明示しておりませんが、長調下属和音「D△9」の次の後続和音は「C♯7(♭9、♭13)」であります。当初ツイッターでは「D△9」の後続和音をドミナント・マイナー=「ⅴm」としてしまいましたが、私の聴き取りが不充分でありました。ドミナント・マイナーとして使う事で平行短調がより暈されるので、平行短調の姿をも曖昧にする為の強固な材料として誇張してしまいました。以下のツイートがそうですので、あらためてこの点に関しては謬りであったと万謝申し上げる次第でございます。





 ともあれ、《まるで女性が直視を恥ずかしがって目をそらすかの様な振る舞い》という表現は、本曲の歌詞にも表れる「曖昧」を音楽的に表現していると述べた事についてはあらためて念押しさせていただきますのでご容赦ください。

 先のツイートのリンク本文にてローマ数字でのディグリー表記はどういう違いがあるのかと言いますとそれは、通常ジャズ/ポピュラー音楽界隈に於けるコード表記では大文字と小文字を使い分ける事はしませんが西洋音楽の場合、小文字のディグリー表記は短調を示す物として峻別が可能になります。ですので敢えてそれを明示化させる為に分注では「Ⅴ」「ⅴ」という風に使い分けているのは、大文字=長調・小文字=短調という事を示している物なのでご注意ください。

 そういう訳で、懸案の「分数aug」とやらはオルタード・テンションの取り違えに依る謬見としてツイッターで見られていたという事があらためてお判りになったと思いますが、こうしたコードの特徴的な響きに気付いておき乍ら、その当該和音よりも非凡な例と思える所には何の言及もしておらずに「分数aug」とやらがバズっているというのは開いた口が塞がりません。

 また、本曲のテーマである「愛」をいう昔も今も変わらぬ感情を音楽に投影しているのはイ長調の主音=A音なのではないかと私は信じて已みません。この [a]を愛する物として遠目から見守っているかの様にして、直視する事を避けつつ日向陰から見守っているかの様にコード進行を巧みに叛いていると解釈する事が出来ます。Aの音。これはギリシャ時代のメセーと呼ばれる物です。愛という形が不変であるという事から太古の時代からメセーに収斂する愛という姿を見る様に捉える事も可能なのであります。


 最後に、曲中盤(2:05〜)でのブリッジに於けるクロマティシズムに、彼等の非凡な例を見出す事が出来ます。




<a>《美し過ぎて》E7 -> D♯aug ->

<b>《目がくらんでしまい》Dm7 -> C♯m7 -> C6 ->

<c>《今も劣等感に》B7add4

<d>《縛られて生きている》E7sus4 ->


 上述の<a>でのE7からの後続和音は、件の「分数aug」の時の「E♭何某」とは異なり、茲は「D♯aug」と解釈すべきです。何故なら、先行する「E7」は後続和音への下行導音の役割に伴い異度由来の音度を採るべきであるというのがその理由となり、「D♯何某」となる訳です。

 そうして<b>での「Dm7 -> C♯m7 -> C6」というのも実に見事です。このコード進行であり乍らも、メロディーは不自然さを失わせない線運びです。

 更に<c>でのB7add4も見事であり、先行和音「C6」からの上行限定進行音 [a] が [h] へと進んでいる事も整合性が取れている物です。ここで、原調の属音 [e] をadd4として見ている所からも、もうこの見方は、斜に構えるどころか音楽的な 'voyeurism' に近しいとも言えるかもしれません。恐ろしいほどのセンスで実に素晴らしい使い方です。

 猶、この「B7add4」という表記は、ハーモニー全体を俯瞰した時に表しているコード表記であり、先にも述べた様に、ジャズ/ポピュラー音楽界隈に於ける楽譜のコードというのはハーモニー全体を俯瞰した表記ではなく、主旋律に対して《伴奏の拍節構造の再現はどうあれ、記したコードを体系化されている通りのヴォイシングとして弾けば、伴奏の側で形成されるハーモニーは一応表す事ができますよ》程度の物である為に主旋律をコードに含めないというのが慣例なのでありますが、私のブログでは、ハーモニー全体を俯瞰する際にそれを敢えてコード表記で表すという事を貫いておりますので、あらためてその辺りはご了承ください。

 本曲の場合、add4の音はボーカルのみが用いているので、一般的なコード表記としては「B7」だけで事足りるのですが、ドミナント7thコード上での本位十一度、つまりはadd4を用いている事を明示した上でハーモニー全体を俯瞰した表記としているので、その辺りもあらためてご注意いただければと思います。

 ドミナント7thコード上から本位四度を見るという事は、会社に居乍ら自宅でのアレコレを思案している様な物でもあり、対義的な両者を鷲掴みにしている様な状況でもあり、そうして原調の属音を掠め取ってくるかの様にadd4に入れ込むというのは並大抵の事ではありません。実に巧妙であります。

 その後に<d>の「E7sus4」と結ぶのも非常に洒落ており、[e] から見える本位四度 [a] は原調の属音なのであります。状況がどういう風に変化しようとも「メセー」だけは見失わないかの様な、苛烈な状況でも見守る様な状況を音楽的に巧みに表現されていると思います。

 もうひとつ附言しておきたい事は、上述の<c>から<d>にかけての歌詞《今も劣等感に縛られて生き》という部分では、アンヘミトニック(無半音五音音階)から更に3音のトライコルドでフレーズを形成しているので、それら3音に対する「隣音」として半音音程を附与させれば、如何様にもモード(旋法)を移ろわせて移旋を可能としている状況であり、しかもその「無半音」が示す音楽の源泉とも呼べる様な状況は、多くの民族が太古から培ってきた「礎」を感じさせる世界観をとても能く表していると思えます。

 そうしてトライコルドに隣接する半音が付された時、調的な意味での光が差し込む様に耳に届くという訳です。


 本記事冒頭の方では、西海岸系の名だたるAOR系アーティストの様な雰囲気すら追懐させて呉れる様に形容しましたが、このブリッジ部分に関して言えばプログレっぽさを感じます。カンタベリー系ならデイヴ・スチュワート。最近のネオプログ系統ならばジョン・ヤングっぽさを投影しました。特にハーモニーへの拘りと絶妙なクロマティシズムには相当に力瘤を蓄えておられる様で、ライフサインズの「Carousel」の埋込当該部を脳裡に浮かべ乍ら、「ポップスでこうした展開とハーモニーは凄いなあ」と感服頻りであります。




 私が取り上げる斯様な非凡な状況こそが、彼等の最大限の特徴を表していると私は自分を信じて已みませんが、それでも謬見の方が優ってしまうのでありましょうかね!? 別に私としては勝ち負けを競っている訳ではありませんから、ツイッターの謬見などと競い合っても徒労に終わるだけでしかありませんが、どれほど謬見を強弁しようとも答を導く事のできない者は消え迆くものなのです。そういう意味でも、謬見に陥った方は是非とも耳の穴かっぽじって本曲を今一度聴いてもらいたい所です。

 あらためて「I Love...」に感じたのは、ドラムのキックのトリガーMIDIと思しきそれは、スコーピオンズのStramrock Feverの冒頭のSEからサンプルしたのではないかと推測。実はこのSE、方々で使われていますけれどもね。