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短増三和音(マイナー・オーギュメンテッド・コード)の存在を確認する [楽理]

 扨て、今回の記事タイトルにある短増三和音というトライアド(諸井三郎著『機能和声法』より)は「マイナー・オーギュメンテッド・コード=minor augmented chord」という物である訳ですが、一般的にそうそう目にする事は無いかと思います。

 本記事ではこの短増三和音をこれ以降「マイナーaug」と呼ぶ事としますが、このコードというのは存在するものの、存在自体を否定されてしまっている本もあるので広まらない現実があります。

 マイナーaugの存在を否定してしまう一部の本のそれには結構有名どころの本があったりするのでコレが厄介なのであります。それがパーシケッティ著『20世紀の和声法』であります。

 例えば「ド・ミ♭・ソ♯」というマイナーaugの状況を考えた時、パーシケッティは《合成和音》を引き合いに出して、

〈ほとんどの合成和音が減あるいは増三度を有する和音を、1個から数個を作り出し、またこれらの三和音が一次的和音になる場合が多いという事実によって和声上の問題が引き起こされる。これらは通常四つの基本的な長、短、増、減、の三和音のいずれかに半音階的改造がなされる〉

という説明をしております。

 つまり、短増三和音という、短和音の第五音が増音程化する状況は、それを維持するのではなく半音階的改造=すなわち異名同音への変化をすると読み取れる物なのです。

 仮に短調主和音の第5音が増音程化するとなれば、イ短調での「Am」が「Am aug」へと変化するケースを考えた場合、パーシケッティはそれを《半音階的改造》=「F△」の第一転回形へ変化させる事を意味しているという訳です。

 また、パーシケッティは、こうした半音階的改造は和声的な部分に限定しており、旋律的な半音階的改造まで視野に入れてしまうと、本来持つ厳格な音階音組織をかき乱してしまう事への念虜を付言している事も重要な指摘でありましょう。


 とはいえ、シェーンベルクの ‘Harmonielehre’ [独] = ‘Theory of Harmony’ [英] では普通に「マイナーaug」は紹介されます。

 残念乍らシェーンベルクの本書は日本では途中までしか訳されておらず、完訳とはなっていない山根銀二による『和声学 第1巻』が『讀者の爲の飜訳』社から刊行された物で、上田昭による『音楽の様式と思想』、清水脩による『和声法』(新版含)や『対位法入門』とも異なるので注意が必要です。古書で流通する事も極めて少ないでしょう。四半世紀に1度お目にかかれればラッキーかもしれません。

 近年で「マイナーaug」を取扱っているのは、リック・ビアト氏による『The Beato Book』p.20で「短増七」の例としての四和音で紹介しております。


 いずれにしても「マイナーaug」は決して眉唾な物ではないのですが、使用例が稀という事もあって、そうした実例の前に市販される楽譜出版社の方が表記に及び腰になる事の方が多いくらいでありまして、スティーリー・ダンのアルバム『Aja』収録の「Deacon Blues」のイントロのそれなどは最たる例の一つに挙げられる事でありましょう。「m(♭6)」という表記はあっても、「m(♯5)」とか「マイナーaug」としての表記は目にした事はありません。




 扨て、「Deacon Blues」のイントロ部分のコード進行は次の様に、

C△7 -> Bm7(♯5)-> B♭△7 -> Am7(♯5)->
D△7 -> C♯m7(♯5)-> C△7 -> Bm7(♯5)-> …

という循環になっているのですが、コード・チェンジは2拍ずつ行われているので、各小節での第3・4拍目が短増七の和音である事がお判りいただけるかと思います。

 その上で、前掲の譜例動画に於けるマイナーaugのコード表記のそれとは裏腹に譜例上ではコード表記に倣わずに平易に表しているのは、先のパーシケッティの《半音階的改造を和声的にとどめる》という事を敢えて実行しているからです。

 例えば、「Am7(♯5)」というコードの第5音は [eis] であって然るべきであって、決して [f] ではない訳です。通常の私なら和声的のみならず旋律的にも厳格に半音階的改造を行います。

 然し乍ら、本譜例動画では異なる訳です。なぜなら、パーシケッティ流の注意と短増和音の実例を挙げる時の為の譜例動画なので、態とそうした表記を行なっている訳です。

 譜例動画のアップ時期とは随分かけ離れて本記事のアップとなりましたが、時期を色々と勘案し乍らやっていたのでご容赦を。まあしかし、確かに随分と年月を経てしまいました(笑)。

 とはいえ、語る順序を考えての事であり、前回の記事であるドミナント・シャープナインスとポリコードとの関係と本記事の流れはマストなのであるので、こういうタイミングになってしまったという訳です。

 ではなぜ、短増和音とドミナント・シャープナインスとの関係がそれほど重要なのか!? と言いますと、それが次の譜例でお判りになる事でありましょう。

01minorAug_Process.png


 シャープナインスから根音を省略した物が「dimM7」という四和音になり、シャープナインスから根音と第3音を省略した物が「minor augmented」トライアドという三和音となる訳です。

 無論、パーシケッティの言う様に、シャープナインスから根音と第3音を省略した時点で《半音階的改造》を施す事によって「Bm aug」を「G△」の転回形にしてしまうという事は可能ですが、これらのシャープナインスからの省略形が作用させようとしている姿というのは、元の形であるシャープナインスの五和音という重々しい和声的な響きを避けつつ、その和声本体の響きを「仄めかす」という余薫を利用した脈絡が齎す結果なのであるという風に解釈する事が肝要なのです。

 シャープナインスの余薫を利用して、その上音でマイナーaugを使う。これは決して「E7(♯9)」というコード本体の重々しさを避けた途端に「Bm aug」ではなく「G△」として使い出すという訳ではありません。根音と第3音を省略しつつも元のコードの作用だけを利用するのであるならば「G△」に変える必要はなく、寧ろ「Bm aug」として維持されて好い訳です。余計な《半音階的改造》は不必要なのです。

 勿論、シャープナインスが図らずも「隠匿」していたであろう「G△」の姿は、コードが簡略化する事で、上音が半音階的な呪縛から解放された結果で露わになった《もうひとつの姿》であるに過ぎないのが「G△」なのであり、「マイナーaug」という形で使う事が是とされる状況があるという事はあらためてお判りになろうかと思います。

 ジミヘンとて、シャープナインスを「ワシはE△とG△のポリコードで使ってるんやで!」などとは捉えてはいないでしょうし、シャープナインスを使う状況を、ポリコードとして強弁する人も亦少ない事でしょう。ポリコードとして優勢に響かせるそれは、前回にもやりましたのでお判りだと思いますが、そうした点もあらためて念頭に置いて欲しい所です。

 そう考えると、スティーリー・ダンの「Deacon Blues」で生ずるマイナーaugというのは、それら各和音の根音の五度下にシャープナインスとしての形を見出す事ができる訳で、「Bm7 aug」という状況は「E11(♯9)」(Eドミナント・イレヴンス・シャープナインスと読む)からの根音&第3音省略という断片であるという事を仄めかすのであり、「E11(♯9)」の三全音進行として後続に「B♭△7」が現れるという事でもあると解釈可能な訳です。

 こうした状況から読み取れるのは、シャープナインスが包含している「三全音」がコードとして重々しいので避けた結果の断片的状況としてマイナーaugが現れているという事なのです。

 マイナーaugというコードは、「○m aug」という風にサフィックスの間にスペーシングを必要とする状況よりも「○m(♯5)」という風に書かれる方がより合理的ではあろうかと思います。

 然し乍らそれを読む時、「○マイナー・シャープフィフス」と愚直に読むよりも「○マイナー・オーギュメント」と読む方がより慮った読み方であろうと私自身は感じております。「E11」を愚直に「Eイレヴンス」とは読まずに「Eドミナントイレヴンス」と呼ぶのが配慮されているのと同様に。

 何故なら「E9(♯11)」を「Eリディアン・ドミナント・ナインス」と呼ぶ事で、11度音が「♯11th」である属和音である事を含意する事に加え、その呼び方で多くの意味を持つからですね。そこから「リディアン」という呼称が消えれば本位十一度である事を意味するのであり、リック・ビアト氏も著書の他にYouTubeに於てもそうした呼称は端々で熟慮されております。

 シャープナインスが「隠匿」している状況は、「ディミニッシュト・メジャー・セヴンス」=「dimM7」というコードでも生じます。なにせ第5音と第7音の音程が増三度という広い音程である為、パーシケッティ流の《半音階的改造》を施すと、半音階的呪縛が解かれて「完全四度」という風に解釈してしまう事も可能であるからです。

 例として「G#dim△7」は、両外声を異名同音に変換すると短二度/長七度忒いで生ずるスラッシュコードを生じます。つまり、「G△/A♭」という状況にもなるという物です。

02dimM7_Slashchord.png


 この例については過去にもスティーヴ・スミスのトム・コスター作曲による「The Perfect Date」を例に語った事があるので、ブログ内検索で「dimM7」「スティーヴ・スミス」などと検索すれば当該ブログ記事を引っ張って来れるので、興味のある方は目を通されると好いでしょう。

 確かに、半音階的呪縛から解放されれば和声的な状況はより一層平易な状況が《平衡状態》として作用する訳であり、特に完全音程を有する和音であるならば平易な状況の側を選択する事は十分に有り得る事でもあり、音楽的な重力もそちらの側が強く働く事でしょう。

 然し乍ら、「ド・ミ・ソ」という音が「シ♯・ミ・ソ」という状況である場合、本来ある「ド」は「シ♯」によって押し退けられている訳ですから「ド」は派生音として半音階的に変化させられている状況である事を読み取る必要があります。

 そうして「シ♯・ミ・ソ」に対して「ド♯・シ♮・ラ♮」が加わっているという状況を勘案すると、これらの併存は半音階的な世界観の構築が生じている訳であり、「シ♯・ミ・ソ」という音を拔萃した途端に「ド・ミ・ソ」に変容する訳でもありません。

 音楽的に優勢な響きとは、必ずしも全音階的な状況にあるのではなく、優勢な響きは半音階的な状況が逐一変える物でもあるという事を念頭に置いてもらいたいのです。ですので、シャープナインスとて一義的なのではなく、和声的に多義的な状況へと変容する下地があるという訳です。

 初学者からすれば、和音の種類など覚える事が少ない方が合理的であり楽である訳ですが、自身の楽さが音楽の成立に比例している訳ではない事を肝に命ずる必要があろうかと思います。

 同時に、異名同音も自身が把握しやすい方の音程を手前勝手に選択してはいけないのであって、自身の判断しやすい側ばかりに拘泥してしまっていると、シャープナインスはいつまで経ってもシャープナインスでしかなく、ポリコード(エレクトラ和音)の脈絡や、ディミニッシュト・メジャー7thやら、マイナー・オーギュメンテッドの脈絡すら選択できない無能を形成してしまう事になるのです。覚えやすい事ばかりを是認してしまう事の末路ですね。

 ジャズ/ポピュラー音楽理論の範疇で覚える事はとても楽である事でしょう。然し乍ら、その理論の範疇で西洋音楽を眺める事は不可能であるのですが、西洋音楽理論を学ぶとジャズ/ポピュラー音楽理論を包摂して理解する事など非常に簡単な事なのです。自身にとって楽な道を選ぶのか、音楽的に高次な方を選択するか。それは学び手が選べば好い事です。

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