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強勢と弱勢 [楽理]

 今回は記事タイトルからもお判りになる様にリズム面について語る事になる訳ですが、タイトルに用いた「強勢と弱勢」という呼称を現在の音楽教育の現場では「強拍と弱拍」という風に教える事の方が多い事でありましょう。然し乍ら私はそれらを敢えて「強勢と弱勢」という、聊か古めかしい方の表現を使うのは私なりの意図があっての事なのであります。


 今回の私の記事はリズム面の楽典とする訳にはいかないので、基本的な楽典の素養は読み手の方々各自が最低限の理解をしておく必要はあるのですが、端的に言えば4拍子のポピュラー楽曲の「2・4スネア」とは弱拍を弱めない様にするビートのひとつと思ってもらいたいのです。処が音域がバスドラムよりも際立って聴こえるスネアを「強拍」だと覚えてしまう様な愚者はいつの世にもある一定の割合で出現する物です(笑)。

 強拍というのは音量やダイナミクス面ばかりが大きいのではなく、始まりを感ずる因果関係のスタートポイントだと感ずる拍子だと思ってもらえばイイのです。無論、ポピュラー音楽の中にはギミックと呼ばれる「衒い」の手法を其処彼処につかう事によって、8分音符1つ分ずれているのを態とずれていない様に聴かせて聽者を欺いてみたり、始まりのポイント(つまり強拍だと感じていた)と思っていたら歌が入って来た所で自身が2拍目にすり替えられた様な気分に陥り拍子の取り方にギミックがあったのを実感するという現実に遭遇する事はあるでしょう。

 例えば「羅生門(らしょうもん)」という言葉を発する時、我々の多くは恐らく次の例から比較すると「4・5番」を自然に捉えて、「1〜3番」は不自然と捉えると思うのです。「4・5番」を自然だと感ずる要因となる共通点は、羅生門の「ら」を弱勢に採っている事でありましょう。強勢に置かない。言い換えれば「ド頭」もしくは「強拍」に置かないという所にその自然さが現れるのであります。
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 我々は「羅生門」という言葉を弱勢で発話すべきだと誰からも教わった訳ではないでしょう。無論それが正解であるか何うかは別として、現時点で広く認知されている「羅生門」の自然さは先の「4乃至5番」であると言えるでしょう。時代が変われば言葉自体も変わる可能性もあるでしょうが、標準的なリズムやアクセントの採り方の変化が如何斯うという事よりも、習ってもいない物を「自然/不自然」と感ずる規準が、世の中には知らず知らずの内に規範として生じている事をあらためて実感してもらいたい訳です。


 「普段使う言葉をそこまで拘泥していない」という無頓着な方も居られるでしょう。それ位自然な方が「体得」という事を物語る訳です。誰もが共通認識として体得している事を題材にしている以上、それ位無意識に身に染みている位の事柄を扱う事がベターだと思います。

 我々は言葉のそれらを強勢・弱勢であるかを意識していないにも拘らずに使い分けているのは、我々が知らず知らずの内に規範に靡こうとしているからです。言葉は時代の変化だけではなく使われる地域に依っても変化が起る物ですが、少なくとも「羅生門」という固有名詞を表現する端的な言葉に方言が強く作用してしまうシーンはかなり限定的になるでしょうし、そういう地域に於ける「訛りの強い」人達がひとたびイントネーションの差異を伴う言葉に遭遇したとしても、この様に文章で示した時の「標準語イントネーション」のそれは理解可能である事でしょう。


 言葉の地域の差、つまりそれは「訛り」という強いイントネーションの違いが影響して、同じ言葉でも印象度が大きく変わってしまって別の言葉に聞こえてしまうという側面が起るシーンを意味する表現であった訳ですが、次の例に見られる6番というのは、英語圏のネイティヴ発音を知らない日本人が陥り易い誤った「インターネット」という外来語の発音です。6番の様な音高変化とリズム採りで発話すると間違い無く英語圏の方からは「?」という反応が返って来ます(笑)。
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 英語圏の人達の「インターネット」の発音というのはリズムの採り方も音高も次の7番の様に発音していたりしますから、全く趣きを異にする類の様に感じてしまうのは、こうした譜例の視覚的な側面からもお判りいただけるかと思います。
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 言葉の差異感というのは所謂イントネーションに表れる音高の違いもそうですが、リズムの拍節感の採り方でも印象はまるっきり異なって来る物であるという側面をより詳らかに述べたいとするのが今回のブログ記事の主旨であります。

 これまで例示した譜例を例に見れば、言葉は必ずしも拍子の強拍に置かれているのでないという事はお判りいただける事でしょう。楽典の知識に浅い人は、拍子記号が示す入れ子に不完全な拍数として入っている「弱起」という譜例のそれをも不完全な例として判断してしまう方もおられるかもしれませんが、それは「弱起」と「強起」という2つの小節構造を理解していない不勉強から招いてしまう物であり、あらためて弱起という物を注意深く理解する必要があるでしょう。


 言葉は総じて強勢で話される物ではなく、弱勢をも無意識に聴いているのであります。いざ「意識的」に言葉を観察すると、強勢・弱勢を使い分けている事が判るという訳です。ですから言葉の「自然・不自然」というのも自ずと理解できる訳ですね。


 今回、こうして強勢と弱勢を述べる理由は他でも無く、「言葉の変化」を私が存分に感じ取っているからなのです。その変化は時代的変化に依る物です。

 例えば、『報道ステーション』の番組内ナレーションなどでは顕著でありますが、「しかし(=然し)」という接続詞を次の8番の譜例の様に弱勢にて発音しているのであります。
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 それまで、私の日常的な経験では「しかし」という言葉を話す時は発話は強勢に置いて次の9番の譜例の様に話して居りました。おそらく多くの人も9番の発音の方が一般的だろうと思います。
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 そうした「弱勢発話の《しかし》」に聊かの違和を覚えるも、それは忌避したくなる違和感やら拒絶反応を示したくなる物ではなく寧ろ、「次を欲する」という情感が起る物であり、「しかし」という接続の後続の言葉に注力されるのである所が流石メディアは熟慮していると思わせる側面を感じるのです。

 前述の「次を欲する」という心の中で起る欲求というのは、「A しかし B」という風に「Bの存在が次にある」という標識の様な役割を秘めているのです。無論「しかし」という言葉は強勢であろうと弱勢であろうと言葉そのものが次を指し示す接続詞な訳ですから、近視眼的に品詞を理解してしまう人からすれば「何も品詞とやらを拘泥する必要はなかろう」と思う方も少なくないでしょう。

 私の言う「次を欲する」という欲求は、言葉の意味の上での後続を欲するという物ばかりではなく、弱勢から始められた言葉の次に生ずるであろう「強拍の強勢を欲する」という事を意味しているのです。「強拍の強勢」とは何か!? 茲に今回あらためて念を押しておきたい最も重要な事が隠れているのです。


 律動を楽理的に理解されている方なら、リズムは2拍子系と3拍子系統に分類する事が出来、これらは単純拍子というグループに括られる2つのリズムである事は理解されておられると思います。同種の単純拍子を組合わせた拍子を「複合拍子」、異種の単純拍子同士が組合わせた拍子を「混合拍子」という風に体系化される物です。能く言われる「変拍子」というのは概ね混合拍子の事を指しておりますが、幾多の拍子系統を単純な拍子変更ばかりでなく曲中で使い分けていくメトリック・モジュレーションという技法もあります。仮に四分音符=120bpmのテンポでの付点四分音符を後続小節が四分音符と同等という風に扱った場合、これはテンポが四分音符=90bpmと同等という事でもありますが、この90bpmで1拍10連符を奏した場合、基のテンポの120bpmから見れば付点八分5連符なのです(意味が伝わるでしょうか!?)。

 メトリック・モジュレーションは、ビートやメジャーできっかりと括れないパルスの集まり=メトリックを後続の拍子に充て易く変換する物である為こうした読み方もあるのですが、つまりこうした技法も「変拍子」のひとつして括られている訳でもあるので、単純に混合拍子だけが変拍子という訳でもないのです。

 単純拍子に於いて2拍子は「強・弱」という風に拍子は連なり、3拍子は「強・弱・弱」という風に連なります。ともあれ今回は「強拍以外は凡て弱拍」という風に理解してもらいたい訳ですが、最も声高に言いたいのは「弱拍の強勢」が存在するという事です。中拍であろうとも中拍の強勢もありますし、強拍の強勢は勿論強拍の弱勢もある訳です。

 先の譜例の9番の1拍子目の「か」が強拍の弱勢を示します。つまり、強拍・弱拍≠強勢・弱勢という呼称ではないという事を述べたいのであります。処が「強勢・弱勢」の語句は現今の音楽方面では使われなくなっていると思われるのですが、「弱拍の強勢」と言った場合には、「弱拍にある拍子のド頭」という事を示しているのがお判りになっていただけるかと思います。

 16分音符が4音ならんだ音符があるとしましょう。強勢以外の3音は凡てが弱勢となります。「裏」というのは常に強勢を半分に分割した物であり、その「裏」という表裏一体を端的な表象となる言葉のウケが良いためか一部のシーンでは「オモテウラ」とか「ウラウラ」とか、それはもう酷い語句で言い表されていたりするものでもあります(笑)。仮に、裏をキッカリと取れない奇数連符であれば「弱勢最後の音」や「3つ目のパルス」と言えば通じる物なのです。

 そういう訳で「弱拍の強勢」もあれば「強拍の弱勢」というのも有る訳です。特に後者ならば弱勢が必ずしも「裏」ではない事の暗喩でもある訳ですね。強拍の裏ならばキッカリ2分割をイメージする訳ですが、弱勢という言葉にはまだまだ暗喩めいている訳です。

 強勢というアクセントが前方につっかかる様に先に踏み込む事が音楽には能くあります。これはシンコペーションと言われて居る物ですが、シンコペーションという限定的な語句が日常生活に於いてピンと来ない人はそれ自体が何なのかすらピンと来ない音楽方面に無頓着な人がエレキ楽器を手にして皮相的に音楽を堪能する人も居られます。こういう人にはシンコペーションやらシンコペなどと言わずに、本当ならば「移勢」と言ってあげた方が断然伝わり易かったりもするのです。本来なら「移勢」という言葉を先に覚えた上で外来語である専門用語を獲得すべきなのでしょうが。


 扨て、今一度弱勢で話される「しかし」を振り返ってみましょう。単なる接続詞である弱勢の「しかし」は「次の強拍の強勢」を待望する或いは予感させる物を暗に感じてそれが「欲求」となる訳です。それは話法的な「落ち着き」を欲するのと同様です。例えば、どこにも句読点が打たれないかの様にして話されてしまえば聴き手としてはどんなに抑揚を付けられ様がそれに追従するだけで手一杯の状況になり急かされた気分にもなってしまい、とても落着いて理解し得る状況ではありません。

 処が、弱勢の「しかし」が在る事で、次の強拍の強勢の到来をなんとなく無意識に腰を据えて聴こうとするアンカーが打たれる訳です。ですから「A しかし B」という構文があった場合、「Bもあるんですね。判りましたBも傾聴します」という風になる訳です。

 世知辛い世の中となった昨今、現今の為政者は「AはAでしかない」という風にしか見せようとしない態度が顕著であります。

 我々は本来「AはBである」「BはAである」「AでないものはBでない」「BでないものはAでない」という事を能く理解しなければならないのであり、AとBの両義性または多義性を知った上で判断をする必要があるのです。処が、

 「純正律は美しい」「美しいのは純正律」「純正律でないものは美しくない」「美しくないものは純正律でない」

 命題から逆・裏・対偶を取ると、不必要に大義が狭義へと集約されてしまい矛盾を孕む様になってしまいますが、これに気付かなければ矛盾をいつの間にか受け止めてしまうという、誤った判断力を身につけてしまう事になるのであります。

 そうした所の配慮からおそらくメディアでは、「しかし」という接続詞ひとつを取っても、後続の強拍の強勢を待つ様にして言葉の錨を打ちつけ、後に続く構文をも傾聴してもらう様に配慮しているという配慮が読み取れるのであります。


 そういう訳で、リズム面のメリハリや抑揚に伴う後続への腰を据える様な安息感を求めるのは或る種の「呼吸感」「拍節感」に起因する欲求であるとも言えるでしょう。呼吸感という物はどこかで息継ぎをしなくてはならない為の一定の周期であり個人差はあるものの大概の人の呼吸感というのはそれほど大差はないでしょう。拍節感という物は或る種の一定の句や節の長さが記憶の方面にも口ずさむにも程よい長さの、また日本語ならば「七五調」に当てはまると途端に吟詠するに容易になる事でしょう。

 こうした欲求の果てに「理解」「体得」という物があり、それを多少なりとも意識するという事は強拍・弱拍や強勢・弱勢を注力するという事になります。そうした方面の意識付けはやはり適切な語句嵌当や知識の習得が必要となる訳でして、こうした所を無頓着にした侭では己の中から育って来る物は無いと言えるでしょう。意識付けが大切だという事でもありますね。