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平行調に「転調」とな!? アホ抜かせ [楽理]

 いつも愛読しているサンレコ。この中に私の嫌いな連載「DAWなら誰でも作曲できちゃいます」というコーナーがありまして、果たしてサンレコにおいてまるでキーボード・マガジンでやればいいようなことを掲載する必要があるのか!?と思うことしきり。


 まあ確かに茶の間にDAWソフトが入り込んで、今や小学生でもやっていて当然。卒業・入学祝いに手元の音源やソフトを充実させた学生諸氏も多いかと思うんですが、購読者を離れさせないためになんでもあり、というスタンスはDAWかな?と思うばかり。

 況してや今月号においては「平行調」について語ってるんですが、平行調が「転調」と来たモンだ。こりゃ下総皖一氏も泣いてますぜ。楽理となると途端に覚えようとしない輩が多いとはいえ、音楽誌が平行調を転調と語る日が来たとは思いもよりませんでした。

 まあ、確かに曲中でメジャーとマイナーと調号は区別なく平行調に行き来している曲ってぇのは沢山ありますよ。しかし、曲の根幹というものを判っていないからこそこういうヘンテコな区別をするのであるんでしょうな。

「スリーコードとはなんぞや?」と云われてまともに答えられるのだろうか?と疑問にすら感じます(笑)。

 楽譜上で調号が何もなければ、モーダルな曲ではない限りそれはハ長調(=C)かイ短調(Am)でありますが、じゃあそもそもスリーコードってぇのを判りやすく解説するとしまひょ、と。

 ハ長調の場合のスリーコードと言えば、C、F、Gの3つ。判りやすく階名使いましょうか(笑)。

C・・・C、E、G音(ド ミ ソ)
F・・・F、A、C音(ファ ラ ド)
G・・・G、B、D音(ソ シ レ)

 スリーコードの正式名称「主要三和音」と呼びますが、これがなぜ「主要なのか?」と言うとですね、それらの3つの和声を形成している構成音を全て羅列すると、その調性を示唆する音階の音全てを包括するからなんですね。

「G」というコードを属七(ドミナント7thコード)としていないのは、スリーコード(Ⅰ・Ⅳ・Ⅴ)を使って明示的な和音進行をさせているシンプルな状況に和声的な装飾(=高次で複雑な響き)を必要としないからであり、全音階の音組織に於いて生ずる副和音(=属和音以外の和音)が副七として7th音をまとう必要もなければ、属和音までもトライトーンを用いてまで明確なドミナントモーションを行う必要なく網羅しているからなのであります。なぜなら属和音が三全音を有しているという事は自ずと属和音は「属七」である訳です。

 本来属和音は、その和音が内含する「導音」(=属音を根音とする長三度音)が主音へ上行導音となる様に滑らかに進行する様にし乍ら、後続主和音の上音に先行和音の根音を取り込んで和音進行のメリハリを付けている物であり、且つそこに下属音を七度音として付与させる事で下属音は後続主和音への上主音への「下行導音」として滑らかな進行を得られる様にして「属七」には上行導音・下行導音の双方の力を特権的に認められた事で、属和音においては七度音の付与が認められたという歴史的背景が最初にあります。この属七和音が倍音構造上にて音響的にもその整合性と価値が見出される様になるのはもっと後の事であります。

※前提条件的に、調性音楽に於ける和音諸機能を経由してカデンツ(終止)を標榜する社会的枠組みでの和音進行というのは、後続和音では先行和音の根音を「上音」として取り込み乍ら進行する物です。Ⅳ度の和音はⅠの根音を自身の上音として取り込み、ⅤもまたⅣの根音を自身の七度音として取り込む訳ですが、この場合属和音は属七である必要が生じます。Ⅳの和音はその機能を代理的にⅡ(=Ⅱm7)に渡し、Ⅱm7→G7という和音進行に於て後続和音への上音取り込みを更に明確化させたのであり、これは調律の醸成の歴史が齎した物でもあります。

 ドミナントが七の和音という属七を必要としない状況ならば概して [ファ→ミ] という和声的勾配を必要としていない状況を指し示す訳でありますから、和声感としても素朴、同時に旋律的にも半音を生ずる事の少ない始原的で素朴な旋律である様な状況を推察するに容易い状況であります。無半音五音音階所謂ヨナ抜き音階が生ずる様な楽音というのは、その素朴な旋律に対して和声的には多少なりとも装飾を得ようとするが為に、現今社会の音楽では旋律だけを抜粋すればヨナ抜きではあるものの、他の声部がカデンツという状況を更に明確化させる為に音を補っており、旋律と伴奏すべてに於て「無半音」である状況というのは極めて希薄であるので、旋律だけを抜粋して「ヨナ抜き音階」を語るのは野暮でもある訳ですが、カデンツを経由するという事は全音階的に全音階を網羅し乍ら和音諸機能を経由している状況であるという事を今一度明確に申しておきたいと思います。

 故に、ドミナントモーションとはトニックへ強い帰結感を補強するために導入されるワケでありまして、それが平行調のAmだと属音はEmがE7に変化することになりますが、これは短調のトニックへの強い帰結感として導音を導入しただけのことで、Amの主要三和音の構成音のそれだってCのキーとなんら変わりないんですよ。Emとして用いればAマイナーではなくAエオリアンでもあるワケですが(笑)。

 つまるところ、「転調」とは、主要三和音を構成する音の分布が全然違う(短調で現れる属七として変化させる音は無関係)分布となっている調性になっていることが初めて「転調」ということなのであります。且つ、平行調が転調ではないという理由もココでお判りいただけるかと。

Twitter参照画像3枚目の赤枠で括られた文章

しかし本来の転調は新しい調へなんらかの方法で到達するだけでは十分ではなく、この新しい調が確立され、調的聴覚にとって固定されなければならない。そのため真の転調法としては、新しい調のサブドミナント(S)、ドミナント(D)およびトニカ(T)の3つの機能による完全なカデンツが必要である。したがって転調が行われる際、調的転義にによって新調のSに達したときは、そのままその後にD─Tを続ければよく、新調のDに達したときは、はじめ偽終止または不完全終止を行って、その後に完全なS─D─Tのカデンツをおくのがよい(平凡社『音楽大事典 第3巻 渡鏡子』p.1588)



参照記事



 スリーコードという基本をしっかり理解しておかないとダメってこってすな。何も難しいことではありません。仮に先の記事がこういう方面に話を引っ張りたくて敢えて提起していたとしても、誤解を招くようではいけませんな。

 コード進行の妙味を主眼に置いているのだから大目に見ろと云われるかもしれませんが、コード進行の重要性を唱えているのなら尚更平行調を転調などと混同してはならないと思うんですな。

 片側三車線の道路の左の車線は逆走してイイのか?

 歩道を見ればこちら側に向かって歩いている人やチャリンコだって居ますけど、だからと言って車道でそれをやる人は居ないでしょうし、歩行者やチャリンコのそれは「逆走」ではないですよね(笑)。まあ、高速道路で逆走してきた人見かけたことありますけど、東関道で(笑)。

 平行調を転調などと言うのはそれくらい酷い理解なんですな、コレが。

 こういう風に書くことができなければ、コーナーとして、しかも音楽誌として不必要な記事であるということがあらためて思い知るワケであります(笑)。


追記(2018年11月18日)

本文の一部は2018年11月18日に加筆訂正しました。私のブログの過去の記事だけを抜粋しただけではなかなか判りづらい所があるとは思いますが、過去の私のブログ記事の多くは当時の嫌がらせ対策もあり、態と判りづらい表現を用いたりする事で烟に巻いていたりする物があります。そうした文章を初見の読み手にとっては判りづらい白痴の書いた様な文章に読む事ができるかもしれませんが、殆ど多くの件は、後年のブログ記事に於て詳密に語っているので、過去のブログ記事だけを読んで即断してしまわぬ様に敢えてこの様に跋文を載せておきますのでご容赦を。


参照記事
https://tawauwagotsakonosamu.blog.ss-blog.jp/2013-06-30

 平行調同士つまり平行長調と平行短調の双方を行き交うのは、互いに音組織を共有するだけの2つの旋法を「移旋」しているだけにすぎません。但し、短調というのはその「短調」たる調性を華々しく彩る為に、短調のドミナントが登場する「儀式」に於て主音への導音を形成する為の導音欲求=Leittonbedürfnis と呼ばれるムシカ・フィクタが生ずる事で、このムシカ・フィクタという可動的臨時変化音のそれが平行長調の音組織と異なると強弁する輩も居られるかもしれませんが、そもそもムシカ・フィクタという可動的臨時変化音というのは和声法が整備される遥か以前の太古の時代から使われている技法であり、これはジャズ系統の、旋法の音列を堅持してモード内に生じてしまうドミナントを避けるそれとは異なる旋法社会で用いられてきた手法であり、平行長調と平行短調の間での音組織としての材料音が其々異なっている様に見えても実はそれはムシカ・フィクタによって変化させられただけの事であり、平行調同士の行き交いは「移旋」に過ぎないのであります。

 尚、私はムシカ・フィクタをムジカ・フィクタとは呼ばないポジションを採っております。音楽用語系の事典・辞典でも統一されていなかったりするものですが多くの音楽用語はイタリア語で表される事から、そうした影響もありイタリア語由来の「ムジカ・フィクタ」と呼ぶ所も少なくないのは事実です(※ニューグローヴ世界音楽大事典 日本語版に於いても「ムジカ・フィクタ」としている所に問題があるでしょう)。概ね音楽用語を自身の取り扱いの下で一義的にしか扱おうとしない者は他の音楽関連の素養も一義的な側面の解釈しか持ち合わせていなかったりする物です。なにしろ、自身の取り扱いの簡便性の為というのが最も大きなウェイトを占めているのでありますから推して知るべしです。
 
 然し乍ら「ムシカ・フィクタ」の〈ムシカ〉とは、イタリア語が音楽界で拝戴される遥か以前のギリシャ時代からのラテン語由来の発音なのであり、態々「ムシカ〜」と発音する場合、舊來から脈々と受け継ぐそれ相当の重みを以てして用いているという風に理解されると譱いと思います。

 ニューグローヴでは、多くの音楽用語が嘗てのイタリア音楽を拝戴して生じた事の重みを受け継いでいるが故に用いている事は容易に推察が及びますが、音楽用語はイタリア語由来で統御した方が合理的であるという考え方を慫慂してまで一義的にしてしまう必要はありませんし、況してや学び手の側が理解をシンプルに合理的に整理したいが為に覚える事柄をなるべく少なくして理解しようとする事から一義的な理解として収まってしまうのはいただけない姿勢であり、音楽を真に学び、そして理解するという本来あるべき真摯な姿勢とはまるっきり異なる理解に及ぶ危険性を孕んでいます。

 誤解なきよう述べておきますが、あくまでもニューグローヴの日本語版のそれがイタリア語由来で統御しようとしている狙いとは、事典という在るべき姿が、違うページを開く度に名称が統一されずに編纂されてしまおう物なら、これでは単にあらゆる物を寄せ集めただけに過ぎず、それを統一する為には事典という己のフィールドでは少なくとも統一しようという意思決定の下で書かれなくてはならないのですから、その上で「ムジカ・フィクタ」を選択した事は致し方ない事でありましょう。

 問題なのは、ニューグローヴに倣うだけの皮相浅薄な輩が、musica-fictaは「ムジカ何某し」と呼ぶべき! と一義的に決めつけてしまう所にあるという訳で、こうした姿勢こそが危険性を如実に示す状況なのです。

 その危険性の真の姿とは、己が覚えたい事を少なくしたいが為にひとつの語句しか覚えなかったに過ぎないのに、いつしか「たったひとつの」覚えた事の正当性の重みを過剰に重し付けしてしまい、他者にその語句を共通理解の下で伝えようとする時、《こうして覚える事が真の正当性なのであるから、この語句で遣り取りすべきなのでこの言葉を遣いなさい!》というバイアスがかかってしまう所にあるのです。

 こうした人が少しでも多くの多義的な状況さえ知ってさえいれば、こうしたバイアスをかけずに多義的にして遣り取りした方が多くの事を知りながら音楽的な言葉でコミュニケーションを取れるのでもあります。それをハナから避けて合理性ばかりを追求してしまって音楽的な理解が結果的に個人的なバイアスによって虫食い穴の様になってしまっては言語道断である訳で、こうした状況を「危険」と呼んでいるのであります。

 そういう色々な背景を鑑みて私は「ムシカ・フィクタ」と呼んでいるのであらためて御容赦下さい。尚、ググって直ぐに検索候補として現れるgoo辞書などでは、すでに例文にてラテン語由来の発音でのムシカ何某しではなくムジカ〜と出て来るのを安易に受け止めてしまってはいけませんので、その辺りも注意しつつ以下のサイトのリンクで「ムシカ何某し」という発音記号の方をきっちり確認していただければ之幸いです。

musica.jpeg


ラテン語オンライン辞書



 シェーンベルク自身、平行調同士の「転調」が六ヶ敷いと述べるのは、大概のケースでは移旋に過ぎない状況であるからで、平行調同士のそれで「転調」と呼ぶに相応しい物があるとするならば、例えば原調がハ長調であったとした場合、そのハ長調が同主調の平行長調(変ホ長調)へ「移高(※移調とも)」し(CアイオニアンからE♭アイオニアンへの移高)、変ホ長調がハ短調へ「移高&移旋」し(E♭アイオニアンからCアイオニアンへの移高からCエオリアンへの移旋)、そのハ短調がイ短調へ「移調(=移高とも)」し(CエオリアンからAエオリアンへの移高)、且つこれらの過程に於てそれぞれの調域でカデンツの全和音機能を経由して帰着しているのであるならば、これが晴れて「平行調への転調」と強弁して然るべきでありましょうが、ここまでの状況を詳らかにする事がなくとも、過程の「移旋」が生じている時点で大概のケースではこれらの実際の「移旋」を「転調」と錯誤して呼んでいる事でありましょう。とはいえ、それが錯誤と呼ぶほどの愆ちではない為、実際には移旋ではある状況を転調と読んでいる例は非常に多いのでもあります。

 こうした状況を詳らかにした時、平行調同士の行き交いは単に「移旋」に括られる状況を白日の下に晒してしまうだけなのにも拘らず、聞きかじりの莫迦どもは、転調がまるでなにかの食品のトッピングの様に思えてしまうのか、その字義から多くの示唆を伴わせては「移旋」という状況を識らぬままに「転調」という謬見の側を強弁してしまうのであります。まあ、茲まで述べても大概の輩は音楽的素養に菲い為に理解に及ばないのも少なくはないでありましょうが、ただ単に「あ、このブログ、バカそうだな」と思って読んでいると痛い目に遭いかねないので、とりあえずは茲まできちんと読みましょうや、莫迦どもよ(嗤)。