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メジャー7th sus4コードを考える [楽理]

 本記事タイトルに用いた「メジャー7th sus4」というコード表記。こりゃまた物議を醸しかねない表記だと思われる事でありましょう。方々からツッコミが入りかねない物かどうかは扨措き、能々振り返ってみると確かに目にする機会は非常に少ないコード表記であろうかと思います。

 とはいえリック・ビアト氏は自著『THE BEATO BOOK 3.0』の408頁にてメジャー7th sus4で構築されたアルペジオ・フレーズの例を挙げておりますし、そうした「メジャー7th sus4」というコードが全く別種の同義音程和音の類にも想起する事が出来るという風にして多義的な状況を詳述している物であり極めて素晴らしい例示だと思います。

 メジャー7th sus4という表記をなぜあまり目にする機会が無いのか!? という事については後述しますが、その前に「sus4」というコードを再確認する為に語っておく事にしましょう。


 一般的に用いられる「sus4」というコードは、概して普遍和音のひとつである長三和音(メジャー・トライアド)の第3音(=長三度)が半音上方の本位四度(=完全四度)に変位(※厳密には、同度での派生音ではなく異度に転化しているので「転位」である)している物であり、そうして四度へと「膨らんだ」音は元の位置に戻る事が期待される訳であります。


 ハ長調でのカデンツを例にして解り易く例えれば、ドミナント・コード上でsus4が発生する時というのは

G7sus4 -> G7 -> C△

という風な進行を「期待」されている物であります。


 本記事で私が先ほどから執拗に用いている「期待」という言葉の意味は次の例の通りです。

 例えばハ長調を前提に「G7sus4」というコードが生ずる状況に於て、本来ならば後続和音である主和音の根音 [c] 音を「先取り」して内含している事となる [c] は、後続和音としての「G7」コードの第3音として内含される [h] へ一旦戻る事となり、そして更なる後続和音のトニック「C△」の根音 [c] という風に進行する状況での [c] の「移ろい」という事なのであります。


 その「移ろい」とやらは最初から [c] 音を保続しているのではなくて、一旦「G7」の [h] に戻っている事で「より一層」トニック・コードへ解決する為の「期待」として和音の所作が現われている事になります。

 もっと平たく謂えば、ドミナント・コード上で主音をチラ見せしつつも和音機能を体よくドミナント7thに戻して、そしてチラ見せされた音がドミナントという枠に収まり乍ら、後続のトニックというコードの構成音に対して直近の音になって主和音と同じ位置へ溶け込んで行く、という訳であります。


 西洋音楽界隈に於けるこうした主音の先取りを行なう「先取音(アンティシペーション)」の振る舞いの厳密な側面は、ジャズ/ポピュラー音楽界隈での取扱いとは少々異なります。属和音に進行するまでの過程で主音がドローンの様にドミナントに於ても鳴らされていれば、その場合属和音は主音の「掛留」を受けており、その場合属和音は「G7 add4」または「G7/C」という可能性があります。

 属和音に進行するまでの過程で主音の掛留がなく、後続和音にある主音が先取りされている状況では「G7 sus4」または「G7 add4」が生ずる可能性があります。その上で和声的な濁りを避けて属和音の第3音として内含している「導音」がadd4として掛留してしまうと和声的溷濁が強まるのを避ける事で大概のケースでは「sus4」として第3音が第4音へ転位する事で溷濁を避け、その転位音が元に戻る事で「G7sus4→G7」という動きは進行感に弾みが付くというのが一般的な使用例です。

 また和声的溷濁を一切回避するという姿勢を貫くのであるならば、属和音上で現われる [c] 音という「不協和」な音は「G7sus4」の先行和音として既に現われていなければならない物です。即ち、先行和音として存在する筈の和音はトニックおよびサブドミナント類の和音に [c] 音が含まれているという「予備」の提示があって「初めて」機能和声的な振る舞いと成るのであります。こうした状況を勘案すると、ジャズ/ポピュラー音楽での機能和声的な用法に於て「唐突」にsus4というコードが用いられるそれとは全く趣きを異にする物であるとも謂える訳です。


 稀に「sus4」の4th音が正位位置である三度の位置に「戻る」時に、それが長三和音のメジャー3rd音に戻る用法としてではなく短三和音のマイナー3rdに戻る用例としてのsus4もあります。YMOの「Solid State Survivor(ソリッド・ステート・サヴァイヴァー)」のイントロは顕著な例です。

 とはいえこの実際は、マイナー11thコードの和音構成音が六声を満たした和音の体ではなく第3・7・9音が省略された(根音、完全五度、完全十一度)不完全和音という体からマイナー・トライアドへ進行する体として考えた方が好いでしょう。sus4の例としてはこうした、マイナー3rdへ「戻る」という音楽的方便の様な実例もあるという事です。因みにイントロ当該部分のコードは「Dsus4 -> Dm ×2 → E♭sus4 -> E♭m ×2」というコード進行となります。

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 sus4から本体の「普遍和音(完全和音とも)」に戻らずにsus4としての体を固守したままの用例も真砂の数ほど有るので、是亦注意しておかなくてはいけないのでありますが、sus4というコードの使い方としてモダンなのは普遍和音へ戻らぬ振る舞いをする状況でありましょう。つまり、和音構成音本体(※この場合、和音本体とは普遍和音である「長三和音」または「短三和音」を指す)の第3音へ戻らない状況を和声学で考えるならば、それは「倚和音」の状況であると謂える訳です。sus4が第3音へ戻る時の振舞いのそれは実質「刺繍音」としての役割であると謂えるでしょう。

 加えて「モダン」なサスペンデッドとなる使い方というのは、長三和音の第一転回形(ハ長調の主音基準ならば [e・g・c] となる)から「sus4」を生じている状況は自ずと [f・g・c] なので、これは同義音程和音として「Fsus2」とも成るのです。ビアト氏の場合は更にこの [f・g・c] をクォータル・トライアドとして見立てた上で [f] を更に転回させた第二転回形を生じさせ [g・c・f] という四度和音を生じさせまして、これに「GQ」という表記のコード・サフィックスを充てているのは遉の論述であります。

 念の為に述べておきますが、普遍和音とは完全五度音程と不完全協和音程(長・短の三度音)を持つ三和音の事ですので、長三和音か短三和音しかありません。他の三和音は変化三和音に括られる事となります。sus4の4th音は厳密には不完全協和音程由来の音(三度音)を有する類の物では無いのであり、また、sus4を更に好意的に解釈し、その4th音が三度に戻る事のない振舞いは機能和声的用法から外れて来るので寧ろ「無調」音楽の解釈へ近付く事にもなるでありましょう。十二音の内の3音で形成される和音としてのひとつ、という風に。

 多くのsus4コードの取扱いが三度音に戻る事を期待されている以上それは機能和声的調性音楽に則った振舞いなのである為、そういう枠組みのsus4の振舞いに加え、それとは趣きを異にする類のsus4があると認識していただければ幸いです。





 扨て、高次な音組織まで視野に入れると、鍵盤上で見た時の物理的な音の位置が「sus4」の和音構成音と実質的には等しくなる同義音程和音=「増完全三和音」(根音・増三度・完全五度)をというコードが楽理的には存在します。

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 増完全三和音を基準に見立てるよりも、Csus4を規準として捉えた上でCsus4というコードを「恣意的に」見方を変える、という風に考えた方が一般的には判り易いかもしれません。

 それというのも本記事でこれまで語って来た「sus4」というコードは、あくまでも単一の調性を暗々裡に前提として語って来た物であり、sus4という四度音のそれが三度の音へ《調的に靡く》という事を述べていた事に過ぎず、決して複調を視野に入れたsus4の振舞いを述べていた訳ではないのです。


 増完全三和音という和音体系など見た事も聞いた事もないと斥けてしまうのは簡単ではありますが、正統な和音体系として存在する以上その存在意義をまずは甘受した上で、こうした奇天烈な状況の和音はどういう状況で是認し得る物となるのか!? という前提でひとたび考えてみればそれは、複調を視野に入れた時に是認し得る物と成り得るという事をこれから説明する訳です。

 単一の調的世界観のみの音楽観の知識の範囲では否認したくなる体系であろうとも、前提とする状況が異なれば決して否認すべき世界観ではなくなるという事なのです。そういう前提として、もしも《sus4を恣意的に見たらどうなるのか!?》という風にして柔軟に考えれば更に判り易いかと思います。


 曷はともあれ、増完全三和音の和音構成音を [c] を根音(ルート)に採ると [c・eis・g] という構成音と成すのは自明な事です。和音構成音が暗に示している重要な事は「和音外音」の存在であるという事を念頭に置く必要があります。

 和音構成音同士の音程として存在する増三度と完全五度の間にある和音外音こそが、増完全三和音という和音構成音からは見えない和音外音たる増四度の存在であるという所への理解が重要なのであり、同様に和音外音である音階上の二度音もそれが短二度 or 長二度・増二度・重増二度である可能性がある訳です。

 それに限らず、増完全三和音を生む恣意的排列の音組織の構造は考えうる数多くのコンポジット(人工的)なモードとして存在する事にもなる訳ですが、少なくとも普段取扱う様な機能和声社会との音楽の音組織とは異なる特別な状況になるのは疑いのない所であります。

 増完全三和音を想起し得るモードの旋律を抜きにしてひとたび和音単体で鳴らせば物理的な響きは確かに「sus4」と実質変わりありませんが、フレーズを随伴させる時の和音外音は幾つかの恣意的なモードおよび単一の調性感から軽率なまでに想起し得る世界観とは全く趣きを異にする世界観を想起する必要性が生ずるので、自ずと解釈に依って状況は全く異なって来るのであります。

 そうして柔軟に捉えつつ「増完全三和音」と「複調」という2つの観点から詳しく見て行く事にしましょう。



 扨て、C音をルートとする増完全三和音を用意したからには、そこから類推し得る「和音外音」は和音構成音とは異なる訳ですから2・4・6・7度に類推可能な音が存在する訳です。その類推から生じた2・4・6・7度の和音外音と1・3・5度での和音構成音それぞれが充塡される事でヘプタトニック(7音列)というモード・スケールが生ずるのは自明の理であるという事も亦お判りいただけるかと思います。

 次の譜例は、C音をルートとする増完全三和音を規準に、最も近しい関係で導引可能であろう2・4・6・7度の音を充塡して形成したヘプタトニックであります。

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 和音構成音 [c - eis] の間に充塡されるべき2度音は [d] よりも [dis] である方がより自然な状況であります。これにてⅠ ─ Ⅱ度間は [c - dis] と増二度とはなってしまう物の、Ⅰ ─ Ⅱ度間を短二度として [c - des] を充ててⅡ ─ Ⅲ度間が重増二度となる例に加え、Ⅰ ─ Ⅱ度間を長二度として [c - d] を形成してⅡ ─ Ⅲ度間を増二度音程にする事を回避した方が音列全体を俯瞰した時には [c - dis] となる方が遥かに自然と言えるものです。

 もしも重増二度を生ずる状況を踏まえる場合は、微小音程(微分音)を併せて用いている時が相応しい事でありましょう。その場合はヘプタトニックよりも音組織としての音階数は増える事になるので、今回はあくまでも、十二等分平均律での半音階を前提とする状況での複調を規準とするのであらためてご承知置きを。

 本題に戻りまして、同様に4・6・7度音を類推して充塡していくとなると、和音外音として [fis・a・h] を充塡して行く方が自然な充塡となるのであり、斯様な [c・dis・eis・fis・g・a・h] というヘプタトニックを生んだという事はお判りいただけるかと思います。

 こうして生じたヘプタトニックですが、単一の調性として俯瞰して見る事は極めて困難であります。無論、これを単一のモード・スケールのコンテクスト(性格)たる調性として取扱っても何の誹りを受けませんが、単一の特異なモードとして取扱うよりも、少なくとも2種の調性由来のテトラコルド(4音列)として見る方がより自然な取扱いとなるのが何とも皮肉な所です。複調であるのに「自然」という所が、です。

 テトラコルドを想起する上で最も脳裏に浮べ易いのはおそらく [g - a - h - c] という4音列でありましょう。[g] の隣音として [fis] がある事を勘案すれば、ト長調音組織の断片と見るのが最も近しい見立てであり、次点でハ長調音組織での [g - a - h - c] という見立てでありましょう。

 では、先のテトラコルド [g - a - h - c] を補足する他の音では何を示唆しているのかというと、[c] を除けば [dis - eis - fis - g] というテトラコルドを拔萃させる事が可能なのですが、私は茲での [dis - eis - fis] というトライコルド(3音列)を少なくとも嬰ヘ長調の断片として見立てたいのであります。その上で [g] を発生させるという事で「F♯ナポリタン・メジャー・スケール」を見立てたいのでありますが、ご存知の様にF♯ナポリタン・メジャー・スケールの第5音は [cis] である必要がある為、先の例では [c] であるのでF♯ナポリタン・メジャーと見れなくしてしまいます。とはいえ、

《 [c] はあくまでもト長調音組織の断片であり、嬰ヘ長調音組織での [cis] は使っておらずトライコルドがト長調音組織断片としてのテトラコルドに対して併存している》

という風にして複調状態を是認して、互いの調域での音組織の拔萃を使っているだけの状況としての想起にとどめれば、充分に満たせて [c・dis・eis・fis・g・a・h・c] という状況を音楽社会的に形成する事が可能であるという事が謂えるのです。つまりト長調の音組織に加え、嬰ヘ長調 or F♯ナポリタン・メジャー・モードの体系を併存させる事が可能ともなる訳です。ト長調+嬰ヘ長調を取り扱った方が形成しやすく、次点でト長調+F♯ナポリタン・メジャーという事を意味しております。

 つまり、みなし「Csus4」というコードは同義音程和音として、[c] をルートとする増完全三和音がレセプターの様にしてト長調からのテトラコルドと嬰ヘ長調からのトライコルドを引っ提げて来た、という風に見立てる事も可能な訳です。



 通常の音楽観であるならば、「sus4」というコードの第4音は、全音階的にその第3音への吸着力として誘引される音楽的な重力を伴っている訳ですが、機能和声に括られない複調を視野に入れつつ、複調を俯瞰して捉えた時、「みなしsus4」たる増完全三和音は容易く複数の調域の音組織を跨がって捉えて来るという風に考えれば、「sus4」の重要性と可能性が一気に拡大する物だとして拡大解釈が可能となる訳です。こうした想起を可能にするのは、「複調」という要素と「同義音程和音」という恣意的な異名同音の想起に起因する物であります。

 例えば濱瀬元彦氏の著書『ブルーノートと調性』での論述は私の言葉の様に述べている訳ではありませんが、私の今回述べている「複調のレセプター」という動作と述べている物は、sus4というシンプルな和音構成音を数多あるモード体系へ積極的にスーパーインポーズさせて用いる同著の方法論のひとつに括る事が出来る物であろうと思います。濱瀬氏の同著は、sus4の和音構成音を一元的に特定の調域の音組織由来の物として見立てない所に多くの可能性を孕んでいる事を実証している稀有な理論書でありましょう。

 余談ではありますが、近現代の西洋音楽から波及してきた遠隔調への転調が是認される様に推移してきたのは音律の醸成という物が貢献しており、そこに減七の和音が半音階的に「レセプター」と作用して来た歴史があり、半音階に存在する遠い音脈を和音の触手がレセプターとして作用させる状況は非機能和声社会ではごく当然の様に生ずる世界ですので及び腰になる事なく耳を馴らしてから駆使すれば宜しいのではないかと思います。

 いずれにしてもsus4の見立てとして共通しているのは、一元的に特定の調域ばかりを見ない所にある訳です。私の場合は、sus4がsus4ではない同義音程和音として解釈する事で、より判り易く複調状態を説明しようとしている物であり、見かけはsus4であっても、それは同義音程和音としての見立てから想起される一例であるという事をあらためて示したのであります。


 不思議なもので、複調という音楽の全体像としては和声的にも非常に高次で多彩な響きであるにも拘らず、ひとたび各旋律を繙いて抜萃すると、実際には非常にシンプルな旋律形成である事にあらためて我が目と我が耳を嫌(うたが)う人は少なくないかと思います。事実、どんな音楽とて拔萃すればとてもシンプルに構成されている物なのです。

 唯、いくらそうしたシンプルな状況となる旋律とて軈て多くの線や和声を纏えば、一元的に調性を向くという通常の機能和声的音楽ルールの中に於てですらも音楽は高次に変容する状況として耳に届くのであり、そうした一元的な調性の状況をも突き破って複調という世界観を生ずるという訳ですから、あらためてその重畳しい音楽状況という物をお判りになっていただければ幸いです。

 高次で複雑な世界観を声高に語っておりますが、和声法体系が確立する以前の対位法社会では複調はごく普通に存在していた物です。勿論取扱いとしては一元的な調性を向く様式よりも取扱いが難しかった事は云う迄もありません。

 和声法体系が整備される事で、和音が纏っている和音構成音というのは、フレーズがその和音構成音をまだ使っていない状況であるならば手招きして呉れている様な物であると形容する事が出来ます。そうして三度音程堆積のコードは巧い事、旋律の目指すべき極点や着地点を示して繋ぎ止める役割を果しておりますが、この「制限された」状況こそが調性を一元的に向く事を苛烈に強化し、調性感という物を堅牢にしている源泉として喩える事が出来るでありましょう。

 和声に耳馴れた現今社会の人々は、和声に随伴する旋律を追う事で、感得に難儀する事なく楽に捉える事が強化され、ほんの僅かな旋律の断片の呈示だけで、音楽の実際が手招きして呉れている協和感に依って、予見の容易い世界観を幼児期からですら見出す事の出来る程に音楽体系は咀嚼された訳です。

 但し、音楽観の予見としての世界観のそれが余りに甚だしいとなると、耳は更なる高次な世界観を求めるものです。故に音楽的素養が高まれば、複調という状況もいずれは遭遇する事になる訳です。但し、その感得の善し悪しは聴き手個々人の音楽的素養に委ねられる物なので、音楽的素養に雲泥の差がある人同士の間で音楽の善し悪しを語り合っても、それが実り有る話し合いになる事は極めて少ない事ではなかろうかと思います。

 音楽的素養を高める為には、機能和声社会に於けるカデンツに耳馴れ、半音階の音脈を悉く欲する様になり、プラガルな世界観を好む様になり、和声感を高めて半音階を網羅する様なまでに音楽的素養が醸成され、半音階はおろか微分音を自身の耳で発掘する様にして聴く事が出来る様になった時、半音階的社会観はより強化され、そうした時に複調の状況をじっくりと堪能出来る様に感性が醸成されるのではないかと思います。

 処が現今社会ではネットの情報アクセスが容易な事もあり、感覚が醸成していないのに方法論だけを頭でっかちになって知ってしまうという状況が皮肉な事に「悪い方に」磨かれていってしまう物でもあります。ややもすれば、ネットの無い頃の未熟な者よりも現代の半可通の方が質(たち)が悪いとも謂えるでしょう。

 半音階すらまともに感得出来ぬ者がツーファイヴ程度の理論を振りかざす様な物で、そのツーファイヴの方法論に一切の誤謬がなかろうとも、それを受け取る側は嘸し「似非な半可通」に屈伏させられている事を識れば途端に掌を返して外方を向く事でありましょう。それは半音階どころか微分音とて同じであり、まともに感得できる様になるには方法論だけを知ってもどうにもならないのであり、それこそが「感性」なのであります。

 正しい事を知って己の感性(センス)がダメになるという感性の持ち主は己の感覚の醸成が不充分であるという状況をあからさまに示しているのであり、側から見れば憐憫の情を禁じ得ないのでありますが、得てして半可通と呼ばれる程度の者のボヤキとは所詮その程度の物であるに過ぎません。

 附言すれば、理論体系というのは再現する為の方法論である事を指すので、実現し得ない理論というのは存在せず、そうした論述は単なる「仮説」に過ぎません。

 音楽に於ける「理論」とは仮説を学ぶ事なのではなく、再現の為に必要な事項を顰に倣って実現する為の方策の事を指す言葉なので、音楽理論を覚える事により学び手の感性をダメにしてしまうと嘆く人というのは残念乍ら自然の摂理に準えればそれは「淘汰」と呼ぶべき状況を見事に反映しているのであり、淘汰或いは排斥されてしまう自分自身の存在を自分で認めたくないがあまりに理論体系に叛く姿勢を他者に目立つ様に振る舞う事で己の存在をどうにか正当化しようとするだけの強弁が「音楽理論クソ喰らえ」の類の論を生んでしまうのであり、悲しい哉それに「共鳴」する淘汰されるべき者がそうした言葉を盾に「我が意を得たり」とばかりに共感してしまうのですから目も当てられません。

 そうした半可通の感性とやらは遅かれ早かれ何れ消えてしまうのが世の常でもあるという事をも肝に銘じて感性を磨く必要があろうかと思います。

 正当な体系などクソくらえ的な発言をするアーティストは決して少なくありません。然し乍らそういう発言を繰り広げるアーティストは単に、戦略的な意味から正当な立場に対して反抗的な姿勢でありたいというスタンスを振舞っている所でインタビュアー等から唐突なまでにまともに音楽と向き合わせる様な状況に身を置かれてしまおうとする事の小恥ずかしい感情が沸き起こる側面が手伝ってしまっていたり、途端にエリートぶる様なそぶりを見せたくないというプロモーションの為の戦略がそうさせている事が殆どなので、その言葉を真に受けてしまうのもどうかと思います。

 本当にそうした理論体系も知らないのであれば、チューニングやキーなどもメチャクチャで、ライヴでの再現すら覚束ない事でしょう。

 再現が出来る、という事は理論体系を知っているから成せる技だという事を念頭に置けば、憧憬の念を抱くアーティストが理論など不要だと言っていたからそれに倣おうとするのは莫迦げた行為であるのであらためて注意が必要だと思います。 

 ジェイコブ・コリアーを見てご覧為さい。彼の若さと感性の前に、どれほどの若者が忸怩たる思いを抱いている事か(嗤)。


 扨て、特段複調という世界観を見ずとも、卑近な世界観とは異なるsus4の使い方は可能であります。例えば次の譜例動画では、先行するsus4の4th音が後続の長三度音へと進行した直後に、その長三度音を後続和音へ「掛留」させつつ、その掛留された音は新たなる後続和音となるsus4の4th音へと「転義」している進行でありまして、これはスティーヴィー・ワンダーの「Don't You Worry 'bout A Thing」と同等の使い方となる用例となります。




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「Don't You Worry 'bout A Thing」はカヴァー作品も多くあり、少し前はインコグニート、最近ではジェイコブ・コリアーのアレンジも巷間を賑わせたものですが、私は矢張りオリジナルでの二声の絡みが好きです。主旋律はG♭sus4→G△での4th→M3rd音という風に下行して、その後順次

Fsus4→F△→Esus4→E△→E♭sus4→E♭△→Dsus4→D△→D♭sus4→D♭△

という風に、和音本体のルートが属音に着地する「D♭sus4→D♭△」の時にあらためて原調へ戻るという過程での主旋律の半音下行フレーズに置いて、その上方で各コードの5th音を歌っている時とで主旋律と複旋律とで生ずる二度の響きが主旋律への下行の推進力となっているのが非常に素晴らしく、互いの二声は平行進行であるものの非常に綺麗に「着地点」を目指すので華麗な響きとして顕著なのだろうと私は信じて已みません。


 私の譜例動画の場合は短七度音を附与しているので、sus4がサスペンデッドではなく長三度音へと「戻る」時のコードは結果的にドミナント7thコードとなります。そのドミナント7thコードは既に「トライトーン・サブスティテューション(三全音代理)」としての所作を振舞う様にされているので、半音下方のコードへ進行する様になるという状況になるのです。

 この、三全音代理をハナからさせられているという状況を翻して、三全音代理を「逆用」させれば、「F7sus4 -> F7 -> E7sus4」というコード進行に於て「E7sus4」の先行和音に対して「B7」某しというB♮音をルートとするドミナント7thコードを充てる事も可能でありますし、この三全音代理の「逆用」こそが却って奇を衒う程に効果的な演出となり、更にオルタード・テンションを纏わせる事も可能となる訳です。

 そうして転嫁されたオルタード・テンションは先行和音の余薫と後続の遠隔的な調域の音組織の両方を巧く跨いで橋渡しとしても機能する様に彩る事が可能となるのです。次の譜例動画は、先のsus4とadd4の変形バージョンであり、過程に三全音代理とそれに伴う迂回進行を伴わせております。5小節目以降、5小節目4拍目からはそうした変形をあらためて確認する事が出来ます。




 ご覧の通り、5小節目4拍目では「B7(♯9、♭13)」というオルタード・テンションを伴ったドミナント7thコードに三全音代理に置換し、本来ならば「E7sus4」と進もうとする後続和音が三全音移高しつつ「add4」というアヴォイド・ノートを伴わせたコード=「B♭7add4」へ進行し、その後、元々の「E7」に着地するのでありますが、これらの過程は結果的に、ジャズではツーファイブ進行として細分化させる様にして仕組まれる迂回進行である常套句のそれと同様の進行を忍ばせているという訳です。

 本来ならばアヴォイド・ノートを忍ばせている「B♭7add4」というコードの響きはどうでしょうか。決しておかしい響きではなかろうかと思います。これはドミナント7thコード上の本位十一度音=♮11th音であるので、あらためて念頭に置いていただければ、私が口角泡を飛ばして語っている事の真意がお判りいただけるであろうと思います。

※初稿時には敢えて述べなかったのでありますが、「B♭7add4」というコードを同義音程和音として恣意的に見た時、B♭音をベースに置かずにE♭音を優勢に響かせれば「E♭△9sus4」という風にも見る事が出来ます。そうしたコードを選択した時、先行和音としての迂回進行の開始となる「B7(♯9、♭13)から跳躍進行となるベースのフレージングとしてから後続の「E7」への順次上行進行を選択するのか、それとも本文の例示のままにするのか!? という事については斯様なコードを用いる人の感性次第であります。加えて「B♭7add4」を「E♭△9sus4/B♭」という仰々しい解釈をする方も居られるかもしれません。こうした多義的な状況を敢えて見抜いて欲しかったからこそ初稿時にはこの件を述べませんでしたのでご容赦のほどを。

 とはいえ「E♭△9sus4」というコード表記はあくまでも「同義音程」和音として見立てた際に生じてしまう別種のコードの可能性という側面から導き出したコードであるに過ぎず、少なくとも私の立場としてはこれまでも、sus4コード上に於て7th音および複音程に備わる9度音が併存する様な時というのは基底部分に普遍和音(=長三和音 or 短三和音)を生じていないにも拘らず、その不完全な状態の基底部の上音(=この場合、5th、7th、9th音)に普遍和音を生じてしまうコード表記という物に対しては専ら主客転倒を起こしている物だとして存在を否定しております。  そのコードの構成音は本来あるべき和音の存在意義としての主従関係が入れ替わってしまっているので、sus4コードの上音に普遍和音を形成してまでコードの一種として私は是認する立場を採らないという意味です。  今回、sus4コードを取り扱う際に「便宜的に」9th音を生じさせてしまう例がありますが、それは同義音程和音として恣意的に見る事で偶々生じてしまうだけの事に過ぎず、決して「●7sus4(9)」という様な、上音の5・7・9th音で普遍和音を形成(※和音の基底部は普遍和音でないにも拘らず上音に普遍和音が形成されるという意)してしまうコードを是認している訳ではないので、その点だけはあらためてご注意下さい。


 この迂回進行と同様な状況として更に変形を加えるのが7小節目4拍目での「D♭7(♭9、♭13)」の登場なのですが、これは8小節目拍頭で生ずる「D7sus4」に対して「下から」半音上へと進行する物であり、三全音代理からトニックという「♭Ⅱ -> Ⅰ」というそれとは全く逆の動きです。

 これは過去にも取り上げた事がありますが、エンハーモニック・トランスフォームの応用でもありまして、仮にこの和音をエンハーモニック置換して「C♯7(♭9、♭13)」と仮想的に想起する事にしましょう。これが下方五度進行するとすれば後続和音には「G♯」某しのコードへ進行する筈なのです。

 それが実際には三全音転義して「D7sus4」に進行しているという訳で、結果的には三全音忒いとなる音脈を用いて欺いている進行であり、元の単純な半音下行進行に弾みを付けているという訳であります。

 そうして終止和音として「Fadd2, 4」という半ば見馴れぬ和音表記に面食らうかもしれませんが、元のバージョンは「Fadd4」だった所に更に揺さぶりをかけているのですが、トップノートに忍ばせた9th音が倍音に溶け込んで聴き辛いかもしれませんがご容赦のほどを。



 まあしかし何と言ってもドミナント7thコードを母体とせずにメジャー7thコードにて本位十一度音を附与するadd4の使い方として私が最も好む例は、ジェントル・ジャイアントのアルバム『The Power and The Glory』収録の「No God's A Man」の当該部分に使われる「E△7add4」であり、遉ケリー・ミネアーとあらためて感服頻りであります。本当に佼しいです。




 扨て、「sus4△7」というコードについて語る事にしましょう。先の譜例動画でも用いましたし、何より信頼に足るビアト氏の『THE BEAT BOOK 3.0』に於ても用例まできちんと載せてあるのは冒頭でも触れた通りです。ではなぜ、このコード表記をあまり見かける事がないのか!? という事を語る事にしますが、正直な所、目に触れにくい理由の最たる物は「無知」ゆえの事であります(笑)。とはいえ、そこまで無知・無理解を責めても仕方がないので次点の理由を述べるならば、それは結果的に、属和音の和音構成音に似るからであります。

 例として「C△7sus4」というコードを想定する事としましょう。和音構成音は「ド・ファ・ソ・シ」となる訳です。

 この和音は [c] をルートとしているも、和音構成音のそれは「G7」の第5音のみをオミットした上でベースが [c] を採る分数コード的な状況にも等しい訳です。つまり「G7 omit5(on C)」という状況であり、いずれにせよこちらも同義音程和音という風にはなります。恐らく、「C△7sus4」と表記するよりも「G7 omit5(on C)」の方が伝わりやすいかもしれません。オミットなんたらという表記の方が仰々しいにも拘らず。

 とはいえ、[c] を優位に聴かせつつ「G7 omit5(on C)」という「G7なにがし」という表記の方を優勢としない書き方というのは、それ相応の深い示唆があって然るべきであります。なにしろ、[c] を優勢に聴かせつつ、母体としては「C△7」から長三度音が完全四度に上ずっているという可能性があるのですから。

 一方で次の譜例1に見られる様に、「C△7sus4」とやらを譜例2の様に「C△9sus4」として九度音を充塡させれば、益々「主音上の属七」という状況となり、結果的には譜例3の「G7/C」と同等の同義音程和音ではないか、という事になるのも皮肉な物です。

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 ただ換言すれば、よく見る「G7/C」の様な状況を、あまり見る事のないsus4メジャー7thに置換した上で、そのsus4をも増完全三和音へと同義音程和音として見立てるのは、とても応用の利く見渡しと、音楽の欺きを能く利用している見立てであると私は思いますので、好意的に解釈する必要もあろうかと思います。

 それに加えて、これが [c] を根音とする増完全三和音を「便宜的」にsus4として表記していたとしたらどうでしょう。私ならば三度音をどうやっても四度として表記する事は罷り成らん! として否認して使いませんが、増完全和音というコード表記体系が無いのも事実であります。忸怩たる思いで「sus4」として見て呉れ給えよ、とする人も中には居られるかもしれません。

 私は、sus4というコードを単一の調性に於て一義的な捉え方をしないスタンスを採る者です。ですのでsus4というコードを凡ゆる方面から見立てて、時には恣意的な判断をする事もあります。故に複調の世界観に近付く事も容易になるのでありますが、手垢の付きまくったsus4の使い方程度で収まる様な曲調であるか、非凡なsus4の使い方かどうかという判断くらいは、どんなに卑近な楽曲しか堪能出来ない未熟な音楽的素養しか備えていない者でも感ずる事は可能だと思います。それを堪能できるかできないかの違いに過ぎない事でありましょう。

 そういう意味でもsus4を恣意的に捉える事から、同義音程和音という存在をあらためて深く知りつつ、一義的な解釈に収斂する事なく多様な音楽観を磨き上げる事の方が重要なのではないかな、と私は常々思っているのであります。

 とはいえ、sus4メジャー7thコードのそれが実質的には属七の和音構成音に似るという指摘はその通りであり、実質的には属十一和音の転回とも謂える物でもあります。

 畢竟するに、メジャー7thコードに於てsus4ばかりでなくadd4という孰れも本位四度(=♮4th)の存在が同コードの長七度音と三全音(トライトーン)を形成してしまう以上、形成されたトライトーンの2音を全音階的に用いられる事になり、機能和声的社会での三全音の「強い重力」に靡いてしまいかねず(C△7sus4ならば [f・h] が三全音を形成する為F音とB♮音を三全音として持つ全音階組織=ハ長調、またはF音とC♭音との変ト長調に靡こうとしてしまう機能和声社会という意)、和音のそれが属和音に似るというのは斯様な音楽的底意を含む訳です。但し、「恣意的に」機能和声的状況を叛く事が可能な音楽的素養があれば、機能和声的な枠組みに靡かぬ操作が可能だとも謂えるのです。

 かねてより属十一和音や属十三和音を引き合いに出し乍ら根音の採り方次第で和音の調的機能を暈滃させる事は取り上げて来ましたし、何よりアルフレッド・デイの論文(リンク先PDFの90ページ)の援用にもあった様に、和音が重畳しく積み上がっていく事によって調的な機能は何れ希釈化してしまうのでもあり、そこでトニック以外での主音の包含、或いはドミナントでの主音の包含などの実際が多様化していった事で和声体系は近現代の方へと拡大していった歴史がある訳です。無論、こうした和声の変遷に大きく寄与したのは等分平均律であるのも亦確かな所なのでもあるので、あらためて念頭に置いてもらいたい所です。


 扨て、次の譜例動画は複調ではないものの非常にモーダルな雰囲気を醸し出しているデモです。私自身はこのデモを制作する際、ザヴィヌルやショーターを脳裡に浮かべ乍ら触発されて作ったものですが、敬愛する彼等も亦、本位十一度音を忌憚なく用いる特徴的な人達でもあるという事もあらためて知っておいて欲しい所です。では譜例動画の方を先ず確認する事にしましょう。




 冒頭のコードは「Am7(on D)」であり、局所的な調所属を想定するならばハ長調音組織を想定する事が可能であり、ハ長調音組織での上主音優勢のAm7という状況は「Ⅵm7 on Ⅱ」という風に見る事も可能ですし、上主音 [d] を根音とする11thコードの不完全和音(断片)とも見る事が可能でもあります。

 後続和音が懸案の「F△7sus4」であります。構成音から勘案すれば「C7(on F)」の断片としても見立てる事は可能ですが、[f] 音優勢の「F△7sus4」として使う事が肝要なのです。

 モーダルな状況であるにも拘らず3つ目のコードではドミナント・コードとして「E♭9(13)」を用いて来ます。何故このコードを用いているのかというと、4つ目のコード「A♭△7aug(on B♭)」への進行感に弾みをつける狙いがあっての事なのですが、私の思い描くのは「E♭9(13)」というコードという物を《E♭メジャー・トライアド上にあるD♭△7というコードからの [as] という本位十一度音のオミット》という状況を見越しているのです。

 属十三和音に包含される筈の本位十一度音は、コードをアヴォイドとして聴かせないのであれば「♯11」というオルタード・テンションを纏いますが、私はそちらの世界観を避ける狙いで敢えて本位十一度音=「♮11」を使わずにオミットとしている訳です。聴き手が脳裡に映ずるのはこれにて二義的で曖昧な状況となる訳です。

 その二義的な状況とは [as] なのか [a] なのか!? 本位十一度に耳馴れぬ人の場合は卑近なオルタード・テンションの使い方に留まっている人なので、多くの場合は [a] に誘引される事でしょう。世界観の確定とは行かずとも、茲で [as] という本位十一度音を想定する事はとても重要であり、ソリストや他の旋律を歌い上げるパートがこのコードで [a] を弾こう物なら、その人の感性を私は「凡庸な感覚だなあ」と判定するでしょうし、[as] を使ってくれれば「私の意図に近しい人だなあ」となる事でありましょう。そういう違いを生む訳です。

 そうして [as] を暗々裡に感じているのを明示化させる為に、4つ目のコードで [as] を呈示して「A♭△7aug(on B♭)」というコードを響かせるのです。このコードは、Fメロディック・マイナー・モードでの「Ⅲaug/Ⅳ」を想定しているので、先行和音として「F△7sus4」が和音外音として示唆する増二度の [gis] をエンハーモニック置換させて一旦の完結とさせつつ、「F△7sus4」が和音構成音として有していた [e] に応答させる為に、「A♭△7aug(on B♭)」でのaug化している増五度 [e] で受けているのです。そうする事で相互の和音の連携が取れる状況にして循環を生む様にしているのです。

 その「循環」が意味しているのは、半音階を如何様にして循環させているのか!? という事です。

 先の譜例動画デモの冒頭のコードは「Am7(on D)」というハ長調音組織の物でありましたが、その音組織から形成される筈のダイアトニック・コードとは全く異なる、冒頭のコードが下中音(=Ⅵ度=a)をルートするコードと対照させた時の関係となる減五度(半オクターヴ)である音脈の「E♭9(13)」を平然と呼び込み、更には、下方倍音列の音脈でもあるヘ短調の音組織がFメロディック・マイナーへと変化したモードでのダイアトニック・コード=「A♭△7aug(on B♭)」をも用いる事で全体としては「メビウスの輪」の様に《調域の裏表》を繋ぎ止めて「循環」させているという事こそが私の狙いなのです。

 下方倍音列やらメジャー7th sus4など、一笑に付す事は簡単な事です。唯、それなりの意図を伴って用いている者もおりまして、先の譜例動画で現れる「F△7sus4」なんてぇのも、そこで生ずる和音構成音 [b] (=B♭)音がヘ短調での下属音であり、同時にルート(根音)の [f] がハ長調の下属音であり、2つの調性を繋ぎ止めている事でもあるコードだと見立てていただければ、私の狙いが更にお判りになっていただけるのではなかろうかと思います。

 なかなかこうした世界観に馴染めない方も少なくはないかと思います。否、寧ろ大多数である事でしょう。とはいえ、高次なハーモニーとて、シンプルでどんな状況でも取り敢えずは溶け込んでしまう様なsus4を恣意的な同義音程を見る事で、多様な可能性を孕んでいるという事はお判りいただければ幸いです。

 また、ビアト氏は自著『THE BEATO BOOK』において「リディアン・メジャー7th」や「sus4♭5th」という類のコードも列挙して掲載しており、それらと併せて、sus4がどういう同義音程和音に変化するのか!? という事もきちんと例示しておりますので、あらためて確認されると好いかと思います。

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add4コードを用いた楽曲例(※埋込当該箇所)