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半音の分かち合い (4) [楽理]

前回の記事の冒頭部分、ソコは特に重要な点だったのですが取りこぼすコトなくご理解していただけたでしょうか?「短和音の構造」が鏡像うんぬんかんぬんという部分ですね。


嘗て私の周囲には、その意味を捉えきれない者が居たのでありました。勿論私の話題というのはソコから突然話題を開始したモノではなく、このブログと同じように昔から継続して話していたので、私としては過去の話題を端折っても理解出来ているだろうな、という思いで話題を進めていたのでありますが、私の周囲にもそういう人間が存在したワケなので、ブログの方でも少々配慮する必要があるかな、と思い、万が一の事も考えて「短和音の構造が鏡像」という意味を今一度語るコトにしましょう。ココに拘るのは非常に大事な事だからです(笑)。


過去に私がミラー・モードについて語り始めた時のコトです。当該ブログをお読みいただければお判りになるかと思うんですが、もう1年半経過しているんですね(笑)。まあ、あの時点で特徴的な話題というのは複合的なスケール(モード)を用いて、つまりミクソリディアン+エオリアンを合体させて作った音階は、あるマイナー・コード上において「IIb -> Vb -> I」という相互的な変換のアプローチをひとり行うことでも得られるモノだという事をチック・コリア作曲の「King Cockroach」を引き合いに出して語っていたワケですね。









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例えばトニック・マイナーのコード状で自分だけ「IIb -> Vb -> I」と、このプロセスならドコから始めてもイイんですが、このプロセスは九度(=二度)違いであるミクソリディアンとエオリアンを複合化させることで得られるモノなのだ、という事を当時説明していたワケですな。そして、ミラー・モードを視野に入れるにあたって、ドリアンを中心に考えてみると、ドリアンから上下に離れて行く構造になる所(チャーチ・モード内)の両端に、その複合化された世界には大きな意味があるという事を述べていたワケですな。

勿論、それだけではなくドリアン基準であることがミラー・モードを語る上で重要なのは当時でも既に述べているのでお判りだとは思うんですが今一度語っておくことにしますが、まずは前回の「短和音の構造が鏡像」という所を語らなくてはいけませんかね、と。


長和音という基本形の構造はルートから数えて長三度を累積させ、さらにそこから短三度を積み上げるコトで3つの構成音で長三和音という構造を成します。

一方、短三和音はルートから上方に三度を累積させると、短三度 -> 長三度という風に、長三和音の構造と逆になっているワケです。


この逆の構造が「鏡像」であるワケですが、この鏡像であるという事は非常に古い時代においてはそれほど影響を及ぼさずに混じりっ気の無い音空間で埋没していたのでありましょう。やがてココの鏡像という事が呼び水となってありとあらゆる方角に影響を及ぼす牽引力になるとは知らずに(笑)。


ちょっとミステリアスに感じて来ましたか?(笑)。まあ、古い時代、それこそ音律がまだまだ純正律で許容できていた時代だとそれほどではなかったんでしょうが、音律が純正律であろうと旋法的なオプションの技法が増えてフレージングが多様になってきて、一時的にも調性を逸脱するようなフレージングはとても流行するようになったワケです。そんな旋律が多声部で起こってカノン(輪唱のように)のようにズラされたりして、ある局所的な部分を垂直的な和声として抜粋すると単一の調性ですら逸脱するシーンが続発するようになった、と。

さらにそういう世界観を拡大するために音律が足枷となってしまい、やがては皆は音の拡大の方を選択して平均律を選ぶようになるワケです。純水が欲しいのではなく、ミネラルたっぷりの真水が欲しかったのでありましょう(笑)。そうすることで音の世界がさらなる飛躍的な拡大をすることになったワケです。しかしまだまだ旋法的な部分での発展だったのでありますが、やがてはアンサンブルを奏でるにあたって和声的な部分での体系化が進むと、今で言う所の「伴奏+メロディ」みたいにある程度体系化することも可能になったワケですね。ここで和声というものが確立されていくと、途端にその和声の世界でも色んな音が試されるようになるワケです。


音律が平均律となると、それまで混じりっ気の無い世界で隠されていた部分から光が漏れ出すかのように、その光のある方角から色んな牽引力が持ち込まれるようになったワケですな。それが高次な方向の自然倍音列もそうですし、ノン・ダイアトニック方面への根音バスの追究、下方倍音列、結合差音など。


よく宇宙空間の起源を図式化する時に用いられる円錐形を模した図、ありますよね!?実際には指数曲線的に拡大しているのでしょうからスピーカーによくあるファンネル構造とかキャブレターとか、エキスポネンシャルな形の方が実際には近いのかもしれませんが、今回は比例的なただ単に円錐形の方で例を出すことにしましょう。

その円錐形の構造的なアウトライン(輪郭)を音の世界に置き換えた場合、比率的な側面から見れば底の部分を見ようが先端側の方を見ようが比率的には相似形であるので違いはありません。違いは大小なだけで比率に変化はありません。


ごく単純な整数次の比率、これは自然倍音列に見るコトができます。この倍音列の鏡像形がミラー・モードでありますが、純正律という音律が支配している頃、光が漏れ出すコトはなかったのでそんな世界には気付くことがなかったのでありましょう。しかし純正律というごくごく単純な音律が崩壊すると、本来ならごくごく単純な比率を追い求めていても実像の世界には矛盾が生じて耳や頭がカンタンな比率を探し求めるかのように補正しようとやたらと働きまくるワケですわ。音律がどうあれ人間には終始感を伴っておりますので、カンタンな比率を追究したくなりますわね、そりゃ。

そしたら漏れ出した光の中から「見ぃ付けた!」んですわ。コンパクトに収まっていたんでしょうな。原子を構成する素粒子みたいなモンかもしれませんわ。それが下方倍音列による「比率」ですわ。ココを求めるんですよ、誰もが。


元々はエッティンゲンは二元論(マイナー・メジャー・システム)という事で述べていた理論なのでありますが、純正律によってベールに隠されていた世界が一気にこちらへ影響を及ぼすようになったモノをお考えになっていただければ判りやすいんですが、まあつまり、アイオニアンのミラー・モードはフリジアンという鏡像形を成し、これがミラー・モード。

しかしながらトニック・メジャーにおいてフリジアンをスーパー・インポーズするようでは愚の骨頂ですわ(笑)。だからまずドリアン基準で見てみろ、と。

鏡像前の姿のアイオニアンから見たドリアンは長二度「上方」にあるワケですな。

鏡像後のドリアンというのは鏡像前となる元の姿の世界のアイオニアンから見たら長二度「下方」にあるワケですな。アイオニアンの位置がフリジアンになっている以上そうなるワケですな(鏡像後のアイオニアンの音程的な位置は後述します)。故にこの鏡像化の前後の姿の音程幅は「鏡像」であり、過去のミラー・モードのブログ記事をなにゆえドリアン基準に語っているかというと、こういう事なワケですね。勿論当時から語っているコトなんで今更語る必要も無いんですけど(笑)。


で、アイオニアンと共に、平行短調方向にも目を向けてもらいたいワケですね。つまるところCメジャーがあったとしたらAの方ですな。


我々はトニック・マイナーに彩りを持たせるためにドリアンを用いるコトがあります。トニック・マイナーの代用先がDドリアンではなく鏡像後のBbドリアンだったらどういう音程関係になるでしょうか!?半音違いを呼び込むコトとなりますね。

で、アイオニアンが鏡像前の姿だと鏡像後というミラー・モードの姿はフリジアンとなります。鏡像後のアイオニアンはGis/As(G#/A♭)の位置にあるワケです。こうして鏡像前後の音程関係が齎すものが当時の記事にも書いている通りであります。


扨て、長調と比べて短調というのは結構ワイドにオプションがありますね。自然短音階だけでなく和声的&旋律的短音階。そこにドリアンというオプションに加えジプシー系音階など。短調というのはとても柔軟且つ多様に発展して来たのでありますね。そこには「予期せぬ所の導音」という事が既に広く普及していたからでもありましょう。人々はエオリアンだけではなく、短音階に導音を持たせるコトとなったワケですな。短音階にて主音への解決感をより強固にするためには第7音に導音を生じさせる必要性が生じて来るようになったワケです。これが短調を発展させるひとつの足がかりでもあるワケですが、実は属七のために生ずるだけではなく次の様な例があります。


ポピュラー音楽界隈にならってスケール・ディグリーを表記しますので、短調で生じるスケール・ディグリーの3度はAから数えればCなので短三度音程幅となります。ポピュラー音楽界隈ではメジャー・スケールの音の配列を基準にスケール・ディグリーを生じさせるので短調の3度はAマイナーというトニックを生じている時にはIIIb△となります。クラシック畑ではそのままIIIと表記するのでありましょうが、この辺りは私はポピュラー音楽の流儀に則って表記しますので混同せぬようお願いしますね。つーか過去にも同様のこと書いてたコトがあるんですけどね(笑)。

で、短調におけるIIIbはですね、増三和音を使うコトへの牽引力をこの時点で既に高めているんですね。つまり今で言えばAマイナー・キーにおいてC△7(+5)の誕生なのでありますな。

現在ではAマイナー・キーにおいてもAドリアンを強く示唆する2コード進行パターンとしてIm7 -> IV7というつまりAm7 -> D7という、D7は決してGに解決しない独特のツー・ファイヴ・パターンがあるのはご存知でしょう。その流れのオプションとして、Im7 -> IIIb△7(+5) on IVという、つまるところAm7 -> C△7(+5)/Dというコード進行が存在することも忘れてはなりません。


この時点で重要なのはオーギュメンテッドな世界観を呼び起こしている事が重要で、さらにそこから生じる独特の音程がさらに和声を飛躍的に発展させる助力となっている点が見逃せない点なのでありまして、いくら古典的な音楽様式の世界であっても既にこういう様式は存在していたのであります。


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ところで先の「Im7 -> IIIb△7(+5) on IV」というパターンは、近日来日が予定されているアジムスの「A Presa」の典型的なコード進行である事も以前に触れたコトがありますね。

ここで生じている 「IIIb△7(+5) on IV」というコードをドミナント7thのカタチ、すなわちIVをルートとするドミナント7thの型に置き換えるとすると、Aマイナー基準であればサブドミナントで生じる「D7 (9,#11,13)」のM3rd音とP5th音をオミットしたモノとも考えることができますが、ドミナント・モーションをなるべく避けつつ、さらに短調側の世界をより拡大するには一時的な転調を用いることなく多様な和声感の世界のままで動いていた方が良かったりすることがあるワケですね。

左近治はドミナント・モーションはあまり積極的に使うタイプの人間ではないので、こういう事を語っているワケなので、あらためて念を押してこういう事例を再度述べているワケでありますが、いずれにしても重要なのは、音楽の歴史から見ても数百年前を遡ることができるような事例からも既に音の世界の飛躍の現実と裏付けを垣間みるコトができるワケであります。


ではココで増三和音というモノはフツーの音楽の世界観においても非常に近い所に位置する和声である事に加え、鏡像前後の特徴的な音の「方角」とやらをもう一度見てみましょうか。


鏡像前のCアイオニアン(Cメジャー・スケール)が鏡像後にはCフリジアンというモノを導きます。鏡像後とCフリジアンのアイオニアンは何処に在るのか!?というと自ずとAbの所に位置します。

今度は鏡像は関係なく短調の世界に目を向けます。短調に属七の機能を与えるコトでGis(=G#音)の音を得ます。ココで生じたG#音は主音のための導音、第7音に位置します。これが半音の開きで主音に解決しようとするワケです。


扨て、短調に導音を与えた「変化」。平均律の世界ではAbもG#も異名同音ですが全く同じ音です。私がつい先ほどの2つの例をAbとG#と書き分けている理由がココにあります。平均律を導入した事で両者の音は全く同じコトとなりまして、一方では主音、一方では導音という「半音違い」の世界を導くこととなったワケですな。コレは調的な矛盾ではなく多調性のための音の発展の現れがココに生じたと考えるコトもできます。


つまるところ、旋法的なオプションとして発展してきた世界と、より高次の音に向かうであろう指向性の世界が遭遇することにより、更に音楽的な世界観が拡大したのだという事を述べているワケであります。


で、半音違いの世界が寄り添う、という事は過去にも述べたように属二十三の和音は半音階全ての音を網羅した音ではありますが半音違いの属和音を包含しています。属二十三の和音の7thから生じる全音下の属和音も包含していると考えるコトができますが、7thから生じるコレは低次側から生じているコトに加え、7th音から生じる属和音を敢えて忌避することでより一層半音階の世界(倍音列を呼び込むため)を強化するコトで過去の属二十三の和音に包含される属和音はGをルートとする場合「G7とGb7を包含しつつ、F7は無視」しているワケなのであります。

こうして半音違いの世界を呼び込むという事は、結果的に半音階の世界に一層近付くコトを意味するのであります。


この辺でとりあえず語っておきたい事は、半音というものを使うことで調的な彩りを完全に失うのか!?それとも調的な偏りを何処かに残しながら半音を導入するのか!?という2タイプの世界に別れるのもやはり概ね200年前の出来事なんですね。そうしてセリーの世界に行った人もいれば、セリーを用いずに半音を用いる世界観を利用する人も出て来た、と。音楽の歴史はこういうモノですが実際には今現在は後者が多いのではないかと思います。さらには音響的な世界を利用して楽音を構築しようとする方向に強化されているのが現実ではないかと思います。「音色旋律」なんていうのも最たるモノでしょう。例えば旋律というモチーフを作る際に、ドから他の音へ「動く」ことが普通の旋律だとすると、音色旋律の場合は楽音のスペクトラムの変化が「動機」だという考えですね。これをシンセなど無い時代から予見・実践していたのがシェーンベルクです。

今ではこういう音色旋律「的」なコトというのはシンセに身近になった現在ではほぼ無意識レベルでグラニュラー系の音やらNIサウンドに代表されるようなAbsynth系のような音を使えば、ワンフィンガー鳴らしっぱなしの音でも音色的な変化で音楽を作っている人も居るのではないかと思いますが、こういう実際に行っている音を今一度詳しく掘り下げてみると興味深い事実が隠されているという事を知るだけでも音楽の面白さが浮き彫りになるのではないかな、と思う事しきりであります。

まあしかし言えることは、先人達の耳は本当に凄いモノである事に感心させられるワケで、この手の耳に匹敵するような耳を持っていないと音楽について語るコトはおこがましいのではないかとも痛感させられます(笑)。


イマドキの音楽制作なんて、それこそ数十万円程度あれば四半世紀前には「億」という金を積んでも手にするコトができなかったような音に触れるコトができるようになりました。細かいコト抜きにして音楽作るコトがカンタンになったワケですね。そこには楽理的な知識など無くとも「なんとなく」出来てしまうというのが現在です。


まあ音楽に限らずパソコンが普及してネット環境も行き渡りました。で、どうです!?誰もがPCを手にしてオフィス・アプリケーション習得するコトで仕事にあぶれるコトもなくスキルを身につけるコトができるなどと謳われたモノでしたが、言葉は悪いですがスキルが必要とされないような環境でもいたずらにPCが導入され、その操作にテンパった連中が皮相的な理解で操作している業種が増えた程度なのが現実ではないでしょうか。

ネットを探れば間違いがあったとしても比較参考してみることで確度の高い情報を選別することができる、と。まあ確かにうわべだけでも情報を得ることができるようになったモンです。


他者とのコミュニケーションというのは時には簡便的であることもベターなのかもしれません。漢字1つにしたってその文字から得られる情報は多いモノで、そこから生まれる熟語や言葉にはもっと色んな情報や暗喩が詰まっているモノです。

まあしかし、それが一般的なモノとして行き渡り、鼻クソほじりながら楽理など学ぶ必要もなくDAWやっているように鼻クソほじりながら丁寧語や謙譲語喋ったとしたらどうでしょう?面と向かってそれやったら失礼極まりないのは当たり前(笑)。でももしかすると電話口なら有り得るコトかもしれません(笑)。いやいや、今の世の中面と向かっている人同士の話の中にも鼻クソほじるに等しい対応はいくらでもありますよ(笑)。

例えば敬語ひとつにしても通り一遍の言葉を杓子定規に覚えるコトで「とりあえず」は使うコトはできますわ。マニュアル本やらマニュアル読んで商談やら接客に応じるとか。でも、それらを杓子定規に覚えるだけで本来必要な「真心」を備えていないモンだから逆に悪化させてしまうコトが多いのが今の世の中の現実ではないでしょうかね。真心ひとつ備えていれば敬語が使えなくとも伝わる温かみがあるかもしれない。口の悪いオバちゃんだってホントは優しいビッグママだった、という存在すらこの世には不必要になっちまったモンでしょうかね?

真心を備えていなければ、使って悪い訳ではなかろう丁寧語や敬語をこれでもか、と並べても全く説得力に欠けるモンですよ。被災地に丁寧な言葉使って謝罪に行っても真心なくては靴舐めようが足の裏のオイニー嗅ごうが、一時の恥をガマンして訪れればイイのでしょうか。地べた這い蹲って謝ってもココロが無ければ許してもらえないモンなんですよ。真心一つ備えていれば準備など必要のないくらい言葉ってぇのはいくらでも出て来るもんですわ。無論、ココロが全く無ければそんなコトすら行動には起こせないのでしょうが、加害者と被害者の立場が余りにも乖離しているモノだからこういう風になってしまう。裁判でもそうじゃないですか。あまりに乖離し過ぎて反省の弁すら通り一遍の言葉しか出ないのは概ねココロを備えていないからなんですわ。


音楽ってぇのも一緒で、幾多の語法を皮相的にかき集めて覚えても意味ないんですわ(笑)。耳鍛えなければいけないのに自分自身がそれほど鍛えられていないことを実感している。そしてネットや本に頼る?頼る所間違ってるんですよ、ホントはね。そこで悩み抜いて耳鍛えるための指南書でも買った日にゃあ世も末ですわ(笑)。


嘗て私がギター・マガジンの読者だった頃(ベース・マガジンなど創刊しておりません)、高橋信博氏のパーフェクト・セミナーってコーナーがありまして、当初は私、そこに何が書いてあるのかスケール名とかそういうのはきちんと判っているはずなのに何を語っているのか理解できない事があったモンでした(笑)。決して難しい文章でもありませんし独特の言い回しがあって読みにくいモノではない。自身の皮相的な見識が災いして、自分以外の言葉の綾に付いて行くことができないマージンの無さに文脈を読み取ることができないワケですよ。そのマージンを作るためには、それに必要な世界においての知識や理解を高めなくてはならないのでありますが、今となってはカンタンに理解できることでも自分が追いついていない時というのは得てしてそんなモンです。311というバンドの「Life in the Mergin」という曲は奇しくも311が3月11日を連想させるようになっちまったし、そこで闇雲に「Life in the Mergin」などと言うことが心苦しいコトにすら繋がりかねない人だって被災地には沢山存在するワケですな。あまりにも甚大な被害のそれに一言二言で形容するにはおこがましいほど凄まじい災害の前に言葉を失うことが最も適切な表現なのでありましょうが、他者とのコミュニケーションをするにあたって被災地をいざ形容するとなると言葉を選んで短い言葉に集約せねばならないメディアの皮肉な側面ってあったりすると思います。

メディアの側が考え抜いて端折った表現と、皮相的な連中が使う杓子定規的な浅はかな語法とは全く異質であることはお判りでしょうが、ことカルチャー面となるとなぜか人それぞれが自分の哲学を重視してしまうんですな。大した学識どころか音楽的な知識すら浅いクセに(笑)。こういう世の中だからこそ言葉であろうと真心であろうと音楽であろうと、今一度考えて行動する必要があるってぇコトですよ。理解したければじっくりと学ぶ必要があるワケですよ。私のブログ読み終わった時に耳鍛えられているワケでもなかろうに。ただ、音楽の聴き方や耳の狙いの定めどころ、そーゆーのは逐一例に出して少しは役に立てればとは思っております(笑)。まあ、じっくりと学んで行きましょうや、と(笑)。




そういや先日、とある工事現場のショベルカーの音が丁度半音でシフトしながらエグゾースト・ノートを奏でていたので(笑)、それを録音してインスタントな形式でデモを作ってみました。とってもやっつけ感のあるデモですが、和声的にも結構タイムリーなモノを2種類ほどばかり使ってますんでお聴きいただければな、と(笑)。

次回は和声的な発展のためのハイブリッドな和声について色々語ってみるコトにしましょうか。