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半音の分かち合い (3) [クダ巻き]

扨て、前回の続きです。


「隠れた鏡像システム」が意味するものは、「小さい」鏡像と「大きい」鏡像という関係が楽音には潜んでいる、というコトを述べたいワケでありまして、例えば、以前にも左近治が例に挙げたペレアスの和声(半音違いの2つの異なる長三和音による和音)が包含するマイナー・メジャー9thというコード。このマイナー・メジャー9thの構成音である完全五度音を基軸とした鏡像システムは「小さい」鏡像の世界であります。

これよりも「小さな」鏡像システムというのは短和音の音程構造が持つモノとして私は位置付けておりますが、では「大きい」鏡像システムというのはドコにあるのか!?というコトを語らなくてはなりませんが、その前にこれらの「小さい」鏡像システムが招いた世界の魅力というモノを今一度語るコトとしましょう。


先にも語ったように、短和音の下方への牽引力というのはノン・ダイアトニック方面に音をさらに求める時により一層強化されるのは以前にも語った通りです。これは和声の拡大を意味するもので、和声観の欲求の拡大と言えるでありましょう。勿論和声というのはこういう所から力を得て発展していくワケです。

で、旋律という横軸方面の拡大はというと、単一的な調性から逸脱するように予期せぬ所への導音(半音)の導入があります。これは近親的な調関係へと体系化することにもなりますが、平均律の導入を一層強化することとなるワケですが平均律への強化というのは、「低次の倍音は協和のため」に「高次の倍音は和声の更なる発展のため」という風に一層強化されます。

無論、平均律以前から低次の倍音は協和のために存在するワケですが、この力が「暈される」コトで低次の倍音は調律の時の調和のために牽引力は強化され、高次倍音がここぞとばかりに和声の拡大とともに産声をあげてくるようになると考えていただければよろしいでしょう。この時点で極論すれば、低次の倍音は調律の為に、高次の倍音は和声のために、と考えていただいても差し支えありません。


平均律導入によって転調がダイナミックになってくるとですね、ドミナントモーションそのものがそれまでと違って希薄になりまして、「旋法的」な、いわゆる旋律の持つパワーという牽引力任せ的な語法が好まれるようになることで、先取り音やら掛留音も大流行してくるようになったワケです。それに加え異なる声部が異なる調性でうごめくように高度な対位的な技法が発達して、多様な響きを生むようになったワケですね。


古くは、楽音において「鏡像形」は意識されることは無かったのでありましょう。自然倍音列というものが発見されなかった時から調的に言う所の「ミラー・モード」を生ずる形というのは一般的に「二元論」として知られているコトであります。その後その二元論は平均律が登場する事で更に強化されていくワケであります。

倍音列というのはそもそも管や弦の整数次で生じる「音の振る舞い」側の整列具合でありまして、「和声」の中にはこの倍音列をコンパクトに閉じ込めたような世界があるワケです。この閉じ込められた形を紐解いていくと結果的に弦や管の整数次で生じていたものが1/2、1/3・・・という風に存在していたワケであります。コレが下方倍音列なワケです。協和性の高さありきの世界だと高次な倍音の呼び込み(忌避されるべき音)と下方倍音列への牽引力は弱まります。協和度が弱まったために不協和度も弱まった。そこで一挙に下方倍音列側にあった世界はビッグバンのように弾けとんで「和声」の世界へ使われるべく音となって出現したと言っても過言ではないでしょう。コレが下方倍音列の本当の意味なのです。


我々人間が「音楽」というものを嗜むようになってから、その分野は年を経て色々な形で国や地方では趣きの異なるものが存在するものの、少なくともその「楽音」とやらをきちんと把握して聴くというコトに発展した点においては世界の何処へ行こうが概ね大差ないことでありましょう。少なくとも音を知覚するにしても楽音の場合は他の雑多な音との聞き取りの姿勢が違うようです。

耳の鋭い人の場合、半音階はおろか微分音にまで音への知覚能力が研ぎ澄まされるのでありますが、これには普段からその知覚に対してどのような情報処理を行っているのか!?というコトの違いで耳の習熟度が大きく変わって来ます。例えばよく「受け流す」とか「聞き流す」という言葉がありますが、少なくとも楽音に対してあらゆる音に厳格に訓練レベルに達するほど楽音に触れ合って来た人というのは耳の習熟度が極端に増すようです。

クジラというのは人間のようにある音と音の間をステップ状にせず「リニア」な音でやり取りしているようであります。弦楽器に例えるならヴァイオリンを常にポルタメントしているようなモノです。ヴァイオリンのそれがフレットレスであるように、人間の知覚能力の部分はリニアなのではないのか!?と疑問を抱く人がいるかもしれませんが、「音律」としてとりあえず十二平均律として分けて知覚している(微分音であろうともそこを基準にしている)のでありまして、やはり人間にはステップ状に音律を分けている方が都合が宜しいのでありましょう、というのが現在の音楽分野での回答であります。

耳の習熟度というのは、非常に不協和な和声であってもそれを「知覚」可能なほどに研ぎ澄まされるコトでありまして、あまりに無垢な響きに慣れ親しみ過ぎて興味が薄らいでしまうのはその響きから得られることで刺激される脳への情報が乏しくなってしまっているからでありまして、より脳を満足させるために人は「厳しい」モノをさらに得ようとするワケであります。これが耳の習熟度の高みなのであります。


普段仕事などで忙しい人が、それこそ今やiPodあっての音楽の視聴スタイルが確立されているからといっても、音楽をどっしりと聴く以前に日常からの疲れで眠りについてしまうコトだって多いワケですな。そういう人達が高次な楽曲の持つ「厳しい響き」の和声を奏でる楽音を耳にしていても、日常の疲れや音楽への触れ合いが少なくなることでどうしても鍛えられぬという回避することの難しい現実があったりするものです。全ての人々が日頃から疲れきっているというワケでもありませんし、ヒマがあるからイイというワケでもありませんよ(笑)。

そんな限られた時間の中で普段とは聞き慣れた音楽ばかり耳にしていれば、耳の習熟度を高めるチャンスというのは少なくなってしまうのではないかと思います。

色んなジャンルで「名曲」というのは存在するものでありますが、希代の名曲というのは向こうからやって来てくれるワケではなく、自発的にその名曲に遭遇しようとしていなくとも名曲からアナタを選んでの到来、というワケではありませんし、聴き手も「この手のジャンル聴き込んでいりゃあ、いつしかイイ曲に出会えるだろ」みたいな人もおりますが、名曲とはそういう人の下へおめおめ訪れるモノでもないんですな(笑)。

そもそも、耳の習熟度が乏しい人が感じ得る「名曲」なんていうのは、よっぽどキャッチーでその人にとっての何かがドンピシャ!ではないと、そうそうストライクと言えるモノではないかと思うんですな。ただ、今現在はメロディだけが独り歩き出来るほどの希代の名曲を醸し出すメロディとか少ないので、ある一線をクリアすればソコソコの名曲として選別しているのかもしれませんが、耳の習熟度が浅い所に自身のスレッショルドまで下げてしまったら高次な楽音に遭遇する機会をわざわざ逸してしまっているのと同じコトです(笑)。そこで悩み抜いて本屋のとあるコーナーにて耳鍛えようとするような指南書なんか読んでもまず役に立つワケがないのは自明ですな(笑)。


希代の名盤と言われる音楽を聴いているにも関わらず自分の耳が一向に鍛えられていると感じない。折角ジャズに興味を抱いていたのにやっぱり判らないから聴くのをやめてしまった、という方は多いのではないかと思うのですが、ジャズの名盤だの、CDショップ行っても必ずどこの店にも店頭に在庫があるタイトル、確かに名盤もありますが、例えばよ~く再発されるブルーノートのタイトルで50タイトルあるとしたら私が興味を示すモノって3タイトルくらいのモンです(笑)。まあそんな話は扨置き、少なくとも左近治ブログに興味を抱いてある程度長くお付き合いいただければ、それまでとは違った側面でより高次なレベルでジャズを聴く事ができたりするように力を貸すことができるかもしれません(笑)。ジャズのタイトルのディスク・レビューとかそんなの大概は無視しちゃってイイですから、音楽の根本部分を語れればな、と。



でまあハナシを元に戻しますが、実は、今日ポピュラー界隈でごくごく一般的に用いられている和声の体系化された手法というのは、音楽の「狭い部分」の体系化された部分で確立されたモノであります。ところが左近治はそこに収まらない方の世界を語るコトが多いワケでありますな(笑)。


クラシックの世界でも、対位法の体系化や和声の体系化など厳格なまでの世界観が存在しました。それらの体系化が収束した時に、この両者の世界観は一挙に集約してしまうかのように更なる発展の為に遭遇してしまうのでありますな。


色んな意見があるかと思いますが、ジプシー系の音階を呼び起こす例などは左近治もこれまで散々語って来ました。それらの独特の世界観と類似性などを利用して多様な世界観を導く手法を得るための道具としてですね。無論クラシック界でもこういう例は当然のようにありましたが、ジプシー音階そのものはあってもそれを採用されるコトはなかったのでありますが、それを導入するようになったのはショパンとリストとバルトークに端を発すると言われておりまして、旋律的なモチーフとしての先駆者がショパンだとすると、和声的に発展させていったのがリストとバルトークだと認知されているワケであります(ジプシー的語法)。


まあこの辺を端折って語って一言で言いますと、特徴的なのは対極点(主音から増四度/減五度の音程関係)を向き、倍音列の更なる高次の方角への足取り(短七度→長七度方向)へ向かうワケであります。

それまでの古典的な世界で流行していた減七のフレーズや減三和音の反行形であるかのように増三和音が頻発するようになり、増三和音を包含する音並びと、そこから引き連れて来る倍音列の妙味というものがより一層ドミナントモーションの働きを希釈化させ、やがては属二十三の和音に表されるように半音階の集約が起こるワケです。無論、この属二十三の和音が出現する間にドビュッシーの四声の四度累積和音を語る必要があるんですが、つまり三度累積型の和声の崩壊であるとも言えるワケですな。で、四度累積和音で最も重要視しなくてはいけないのは三度の崩壊によって起こる「二度」の到来でありまして、半音は短二度なワケですから短二度はすぐそこにあるかのように長二度が出現してくるワケですね。

しかし、「なぜ四度が二度なの!?」と矛盾を感じている人が多いと思いますが(笑)、その辺をじっくり次回語るとしましょうか(笑)。