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ブルーノートの可動的変化を再考する [楽理]

 扨て、折角マイケル・ブレッカーの四分音運指やらジャズ方面の事を語っているので、パーシケッティの「投影法」を語るのは、まだまだ唐突な印象を抱きかねないだろうという配慮から、ハービー・ハンコック、ミシェル・ンデゲオチェロ、チック・コリア等の投影法についてはもう少し順を追ってから語る事に。無論今回の話題も無関係ではなく、ヒンデミット、箕作秋吉、小泉文夫、柴田南雄諸氏も絡んで来ます。とはいえそれ以前に、もう少しジャズの側面を掘り下げてからではないといけないので今回はブルーノートとやらを今一度確認しつつ話題を進める事に。


 以前の私のブログでも語った様に、ブルーノートはまず3度と7度(つまり長音階での長三度と長七度)が「可動的変化」(=微分音的変化に伴う)が起り、それらの音は現今の音律に均されていき、5度も亦可動性を伴う様になったというのがブルーノートの特徴的な史実でありますが、そういう側面をもう少し掘り下げ乍ら、現今のジャズ界にて体系化してゆくビバップ以降のツー・ファイヴ進行やその後のモード・ジャズなどを語って行きつつ、モードが齎した世界観の真実を繙いて行こうと思います。


 因みに、茲の所私が継続して語っていた事は(マイク・マイニエリやマイケル・ブレッカー)、動的な機能和声社会に依拠する和声進行での四度進行ではなく、静的な非機能和声社会の旋法性を伴う和声感の事を語っているという事だけは念頭に置いていただきたいと思います。モード社会や投影法までも視野に入れた時のジャズの世界観は、機能和声(つまり調性感のある)の枠組みのそれとは和音の振る舞いや和音進行の在り方も大きく異なるので、その辺りを混同してしまうとモードや投影法の枠組みが胡散臭く感じてしまいかねない所があるかもしれませんが、次の様に考えれば逆に腑に落ちるかもしれません。


 「調性音楽の枠組みと異なる体系が在るのは何故なのか!?」


 とまあ、こういう理解です。とはいえ、そうした調性音楽の体系を軽んじてしまう様であってはならず、シェーンベルクはそうした体系を無視して出て来た訳でもありません。ではジャズはどうなのか!?

 ジャズの場合は黒人の民族的で鋭敏な感覚が西洋音楽に均される前に融合していったのでありますが、和声的に「安堵」する場所もない朴訥とする音楽的空間に於てそうした民族的な声(=歌)の拠り所とするのは、点描の様にその都度出現する垂直的な音程であり、それが単なる音程の羅列という事を今一度肝に命じて理解しなくてはならないのです。その「音程の羅列」は教会旋法や調性体系に則ったヘプタトニックの列である必要はないのです。次に、もうすこし判り易い例で説明しましょう。


 例えば、ある黒人の、民族性を伴った独得の音程感覚というものが、単に調性など無関係にある音に対して完全五度という音程だけを重視するとした感覚であったとした場合を例に挙げるとするならばそれは、偶々中心音としての一つに「ド」があって、そこに「ソ」が更にハーモニーを形成し得る状況という例でもあります。では「ド」が「シ」に下行した時、和声的にも調性機能も何等考える事なく前後の横の線など無関係に次の音に於ても「完全五度を遵守する」という感覚が強い場合、先の「シ」の時には「ファ#」という完全五度を固守するという事が、西洋音楽史におけるオルガヌムと少々違う所なのであります。


 法政大学出版局刊ガンサー・シューラー著『初期のジャズ』にてアフリカ音楽について研究したA・M・ジョーンズの言葉を冒頭から特に詳細にレコメンドしておりますが、ジャズに於けるブルーノート出現の正体を繙いておりましてそれは、当時、黒人が奴隷として連れて来られ、彼等の歌には四度のオルガヌムの感覚を持つ種族や、更に驚くべき事に平行三度のオルガヌム(!)の感覚を持つ種族等が存在していたという事。

 四度のオルガヌムは、ある主旋律に対しての対旋律なので四度でハモる訳ですが、下属音を歌う必要がある時、これを「高め」(=微分音的に高くファよりも若干高く採る)に採り結果的に異名同音的に完全五度より低い減五度の出来となり、また一方では導音を歌う必要がある時は導音を「低め」(=微分音的にシより低く採る)に採る事で結果的に長七度音が短七度へと低く採られるという事が最大の特徴であります。

 前出のA・M・ジョーンズに依れば「平行3・4・5・8度のオルガヌム」というのが黒人奴隷の民族的な「香り付け」が最たる特徴となって表われたのがブルーノートであり、特に「ブルー五度(=平均律的に減五度に均される)」は、長三度上のシ♭音と平行関係および短三度下のミ♭と「平行三度」を作る事から生まれた音であるという言及が素晴しいものであり、それが西洋音楽にも奇異に映らなくなっていったのは、西洋音楽とてエオリア調がドリア調に嘯けば、フラット・サブメディアントがシャープ・サブメディアントに変化し、長音階(ハ調)から見た時の主音から数えた第4音が半音上がる事になり、長音階をミクソリディアとして嘯けば7度音が半音下がるという旋法性の素地から受容されやすいものでもあったのは確かでありましょう。



 ジャズの場合、特に「平行三度」というのは長短三度がそれぞれモードを維持するものではなく、短三度なら短三度のまま平行 or 長三度なら長三度のままの平行、という平行三度オルガヌムというのが最大の特徴であると云えるでしょう。つまり、これは云うなれば、基の旋律がハ長調組織とした場合上に「ホ長調か変ホ長調」下に「イ長調か変イ長調」が併存するという複調となる訳でありますね。つまり、当初の黒人のある種族にしてみたら前後の音の流れが産む調性感には無頓着で、都度生じる音に対して当初の三度を固守するという感覚が凄いのであります。

 例えば長音階というヘプタトニック組織は、下属音から上行に完全五度音程を累積していけば、協和音程である完全五度音程の6回の累積で長音階を生む訳でありまして、先の平行三度に依るオルガヌムという音はこうした「協和」状態から生まれる音脈からは逸脱している旋律を生み、長音階が協和音程の重畳から成立しているにも関わらず、彼ら(=黒人奴隷の或る種族)の器楽的感覚のそれは、音階の成立を超越する「相対的協和感覚」という風にも映る訳ですが、彼等のそんな感覚が調性に惑わされずに固守できる音脈への感覚の鋭さは、やはり都度発生する音に対する垂直的な音程維持。これは結果的に鏡像や均齊を生むのであります。

 亦、平行三度オルガヌムばかりでなく、平行五度/四度・八度オルガヌムもある時点で調性社会での連続五度/八度が忌憚無く行なわれている事を意味します。調性社会では平行五度・八度はその音程の連続が「際立つ」から避けるのでありますが、平行をずっと維持してしまうと調性社会では避けて通れぬ三全音の各音に対して完全五度音程でハモる事を固守できないジレンマを生ずるのは自明です。それが忌憚無く行なわれている状況というのは、本来この時点で和音進行は四度進行を遵守せずとも良い下地が出来上っていたとも云えるのです。

 しかしビバップの時代にもツー・ファイヴという四度進行は、和声の動的進行の為に利用されていたのでありますが、四度進行を遵守しないというそれは、つまりその後のモード・ジャズにて開花するのでありますね。

 四度進行に依拠しない「旋法性」を重視する仕組みでは和音進行は「二度進行」的な動機が顕著になるというのが最大の特徴です。つまり、ジャズはビバップ以降、四度進行を捨て、二度進行の方へ進化したのであります。


 ジャズが二度進行に目覚めたというのは大袈裟でありまして、他のジャンル、西洋音楽においても四度進行、つまり調性社会はほぼ死んだも同然であったのです。和声の重畳化が動的な和声進行を閉塞させ、旋法的な差異がゆさぶり、彩りを与えたのでありますが、これを日本の音楽社会に投影すると、逆に日本の独得な(カデンツの無い)旋法的なそれが海の向こうの音楽へ投影し得る旋法性に寄り添って来ている様になっているとも考える事は可能です。

 いわゆる日本的な楽曲に西洋的和声を付けようとする時、トニックはまだしもサブドミナント、ドミナントという機能の和音がやたらと仰々しく響く様に感じるのは、ひとたび西洋音楽的な和音を付けようと試みた者ならば誰しもがその「あからさま」な響きに赤面しそうなくらい赤裸々に響く事を実感すると思います。特にドミナント和音が小憎たらしいほどに響くかと思います(笑)。

 その小恥ずかしさを中和しようとする事を試みると、特にトニックやサブドミナントの和音(個々ではトライアドにしておきます)の各和音構成音に対して2度で群がる様に「房」を付けて暈した方が日本的な響きに成る事を日本人の健常者であらば誰もがそれを実感するかと思います。

 この、「二度で群がる」という在り方というのは、四度和音の重畳の過程と見る事も出来るのです。例えば完全四度音程を累乗していけば、それらを単音程へ転回させると自ずと二度音程のペアが幾つも生じて来るようになります。例えば「ミ──ラ──レ──ソ──ド……」という風に積み上げていけば、それらをオクターヴ内に転回させれば二度で犇めき合うように房を形成するのはお判りでありましょう。

 こうした四度和音への音脈、またはそこに新たな調性感覚としての語法として見出したのはヒンデミットであり、日本では箕作秋吉が1929年の「日本的和声」に《日本の和声は五度和声から生じている》と述べており、五度の重畳を協和的な音程つまり「ポジティヴ」とした場合のそれと、五度の重畳を逆行にして重畳させればそれは四度音程の不協和的な音程の重畳つまり「ネガティヴ」とする重畳という二通りを見通す事ができます。

 五度音程の重畳はペンタトニックはおろかヘプタトニックを生み、ネガティヴ音程(=四度音程の重畳)は四度和音の集積と同様に考える事ができます。つまり、私がこれまで述べていた四度和音の重畳も実は箕作秋吉やチェレプニン等に依拠した物であった訳でして、更に付け加えれば、そうした旋法的な社会性での和音の動きが二度進行としての脈を生ずるという風に第二次大戦前にアナウンスしたのであります。勿論、その背景にはリーマンやヒンデミットやチェレプニンの影響もあるのですが、箕作秋吉が先の「日本的和声」を寄稿した背景にはクラウス・プリングスハイムの来日後、プリングスハイムに依る日本的和声の捉え方というのが日本の多くの音楽家に受け入れられないアナウンスをした為に大論争となったのを契機にした物であったのです。これについては桐朋学園大学研究紀要にて西原稔さんが詳細に論述されているので、興味のある方は是非手に取って読んで戴きたい小論です。小論ですので数10分もあれば読める内容ですので、ジャズ方面に興味はあっても西洋音楽には興味を示さない人に、特に慫慂したい小論です。


 そんな訳で、文中の「二度進行」という点が、その後のジャズのモード体系を暗示するモノなのですが、なぜ二度進行なのか?その言葉にピンと来ない方が居られるかと思いますので、軽く例を挙げてみましょうか。

 今回私がこうして述べている一連の流れは『投影法』を深く理解する為のモノです。投影法という音脈が発生し得る状況として前提理解に及ぶ為の条件としては前にも述べましたね。和音進行が動的でなく、重畳しく調的には動的進行が閉塞している、またはコード一発モノや、単なるモードを示唆した状況という前提を。

 ハ調に於て次の様な分数コードがあったとしましょうか。「F△/G△」という、六声の和音として成立している分母も和音の型のコード。然し乍ら基底和音G△の根音g音から見れば属11の和音(本位十一度を含む型)とも見る事は出来る訳です。

 それら二つの和音解釈としても、もはや調的社会での音の間隙《かんげき》はe音が無いだけの事であり、分数コード側の世界観からすれば別段「FM7/G△」の体で決して単一の調性社会だけでなく「複調の断片」として考えても良いのですし、更には調性社会の側から見ても「属十三」の和音としての総和音という状況なのですね。総和音というのは、和音そのものが調性社会でのトニック、サブドミナント、ドミナントの全てを包含しておりますが、和音の体としてそれが強烈な印象を与える「不協和音」である事だけは確かなのでありますから、協和音へ解決するための脈として使う事だって許容されるのであります。総和音という状況を多く使わないだけの事で。

 しかし、態々総和音の状況を作らずとも「FM7 (on G)」や「Dm7/G」などで非常に似た世界観を共有する事は可能なんですね。上声部の和音が四声体で無くとも、です。こうした「静的」な和音の状況下では、旋法性が非常に際立って来るのです。つまり、状況が一発コードのそれに近くなると思っていただいても構いません。一発コードの状況下では、和音外音も立派な音脈の要素です。つまり、調性社会のそれよりも、和音外音が「強勢」に置かれる様な状況でも許容し得る状況とも言えます。あからさまなのは少々異和があるとしても、です。強勢は移勢されていなければ「拍頭」と考えて宜しいですし、弱勢は「裏拍」と置き換えて差し支えありません。が、旋法性が顕著になると、こうした強勢、弱勢への和音外音の在り方というのは稀薄になります。だからといって何でもアリという訳でもありませんが、前後の線の流れがそれを比較的許容しやすい状況になるというのは音を出して演奏してみれば直ぐに判ります。


 さらに、和声の重畳しい社会に於ては、弱勢にある和音外音ですら「和音構成音」として判断される時もあります。それは、ひとたび重畳しい和音の体得に慣れ親しんだ者が挙って和音構成音として吝嗇の度を強めてしまう欲求では決して無く、ジャズのみならず西洋音楽に於てもこうした和声分析をする作曲家は決して少なくはありません。

 その上で、旋法性という状況が調性社会での「全音階」(=ダイアトニック)を総じて使う(使える)状況であるとするならば、ジャズを志す者ならばノン・ダイアトニックの空間にも食指が動くのは至極当然の事でありましょう。また、先述にある様にジャズは平行五度オルガヌムも忌憚無く表われ、これが和音重畳にも一役買い調的には長短の調性感である両性具有の芳香を醸す様になり、ドミナント7thコードでは、その基底和音(=属七)の機能を阻碍するの避ける為に本位十一度が回避され増11度が使われ、長属・短属での長音程、短音程が折衷して「オルタード・テンション」が生ずる音脈が現われます。次回は興味深いテトラコルドなどを見乍ら(今回は図示しなかったので)更に判り易い内容になるかと思いますが、特徴的な音脈のそれは決してジャズのみならず西洋音楽にしたってジャズよりも古くからこうした音脈は大家達が挙って用いたのであります(続く)。