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マイク・マイニエリに学ぶ投影法(5) [楽理]

 そうしてマイニエリのプレイは6番のFドリアンに一旦収束します。ドリアンは御存知の通り、其のモードの音並びは上からも弾いても下から弾いても音程は対称構造にあるので、投影法を用いても異なる音脈となるモードを創出する事はできません。マイニエリ自身も茲でのFドリアン上では半音階的変化も付けずに一旦収束を見るかの様にしております。





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 扨々重要なのは次の7〜8番でのプレイです。茲からは今回のシリーズ冒頭でも語っていた様に、各小節3・4拍目は特に注意して耳にして欲しいと思います。今回のシリーズに於ても最も重視すべきは茲でのアプローチなので更に密度を高くして語って行こうと思います。茲の7〜8番となる部分はソロ冒頭(弱起1/4拍子分除く)から数えて9小節目となる所ですが、9小節目1〜2拍はFドリアンと考えて差し支えないのですが、その直後3拍・4拍で1拍子ずつ四度進行を与えるフレージングをしてきます。つまり、自身のフレージングに和音進行的である動的な弾みを付けるために「恰も」自分自身がコード進行を行なうかの様なフレージングをするという事を意味しているので、ジャズではビバップ以降非常に能く使われる手法であります。本来なら和音一発物系の響きに対して和音進行的アプローチを採る事でフレージングをするとどういう風になるのか!? という素晴しい実例をあらためて思い知る事になるでありましょう。

 ジャズというのは本来テンポも非常に早く、コード進行のそれも非常に速いものです。西洋音楽ならばアラ・ブレーヴェ表記にて倍テンポ化する様な表記でもジャズ界でアラ・ブレーヴェ表記はあまり浸透しておらず、四分音符=310なんていう表記があっても珍しくもありません。単純にアラ・ブレーヴェならば二分音符=155という風になる訳ですが、一般的な4/4拍子の四分音符=120のテンポがアラ・ブレーヴェに置き換えれば二分音符=60に等しい訳ですから、そのテンポの速さは自ずとお判りになるかと思います。つまり、ジャズの世界でのコード・チェンジというのはそうした速いテンポの中で目紛しく変化していく事も往々にしてあるため、特にジャズでの和声的な変化というのは敏感に捉えていただきたい事もあり、今回の3・4拍目は特に注意して貰いたい訳です。

 そこで先ず7番では「Fロクリアン (A♭m7 ->)」と解釈しており同様に8番では「Fロクリアン(D♭7 ->)」という風に解釈しているのが顕著なのです。単純にマイニエリのフレーズを線的に追っているだけに過ぎない聴き方だとついついそのフレージングをやり過ごしてしまいかねませんが、茲で現れるツー・ファイヴ進行的なフレージングがやたらと進行感のある弾みが付いているのは何となく実感はしていただけるかと思います。勿論背景にあるFm7は変わってはいないのですが、フレージングに弾みが付いているというその意味を理解していただけるかと思います。とはいえ各拍に注意を払わなくてはならない所がジャズ的アプローチの心憎い所ではありますが、この様にして注意を払うだけでも音の捉え方は鋭敏になる筈です。

 7〜8番というのはフレージングに動的なツー・ファイヴ・パターンとして弾みを付けて来ます。それも「A♭m7 -> D♭7」という形です。つまり、Fロクリアンが意味するものは、そのスケールトニックの短二度上にはG♭アイオニアンがあり、更にその二度上にはA♭ドリアンが方角として見えて来るのであります。つまりそうしたFロクリアンという音組織でのツー・ファイヴを示しているが故に、Fロクリアンを単純にスケール・ライクに弾き切ってしまう様な安直なフレージングではなく、Fロクリアン、換言すればG♭メジャー・スケールという長音階の音組織における「II - V進行」を行なって、フレージングに弾みを付けている、つまりアプローチ的にはII - V進行という勾配を掛けている物なのだという所を最大限に注目してもらいたいのです。こうした動的なツーファイヴの充て方を知ってから、本来は静的な状態であるモーダルな音空間や和音一発系の物に対して投影法を知っていく事が高次なモード奏法の獲得の手順なのでありますが、今回は投影法の方から語っている為敢えて注意を促す意味でも、こうしてあらためて注意を促しているのであります。


 処が悲哀なる側面として能く遭遇するのは、こうしたツーファイヴの嵌当や投影法を知らずして初歩的なモード奏法だけで「なんちゃてジャズ」を繰り広げる連中が実に多く増大してしまって、それでも何となくジャズっぽいフレージングを忍ばせたり非チャーチ・モードを忍ばせる事によって何処となくメリハリを付けられる物だからそうした初歩的体系に甘んじてしまうだけの唾棄すべきジャズ・アプローチが夥しい程蔓延る様になっているのが現今のレイト・フォロワー達に依るエセなジャズ屋達に依る演奏なのでありまして、おそらくや彼奴等の殆どは濱瀬元彦の『ブルー・ノートと調性』はトンデモ扱いしているでありましょうし、その一方でリディアン・クロマティック・コンセプトは礼賛していると思います(笑)。素養に薄い輩は少なくとも『ブルー・ノートと調性』刊行以後、「なんちゃってジャズ屋」を幾多も遭遇してきたものであります。


 而して投影法を会得していない物は、マイナー7thコード上でロクリアンを当て嵌めれば「II - V進行」をさせる事が出来るのだという風に盲信してしまう物でもあります。彼奴等のフレージングは常に「惰性」であるため、自分自身のプレイですらも「勾配」を持たせる事ができずにスケール・ライクになるのが関の山なのです。とはいえ動的な勾配を意識するがあまりにフレージングが単なる分散和音化してしまうのもいただけません(笑)。勾配を与え、敏感に認識しつつフレージングをするという状況は、何もインプロヴァイズを前提にしなくとも前もって考える事すらも人に依っては難しい物かもしれません。最初は誰もがそうでしょう。それをリアルタイムにその場でフレージングをしてしまう、という事がジャズメンの海千山千で培った語法の素晴しさな訳でして、これを「体系に胡座をかいただけのアプローチ」としてインプロヴァイズ扱いしない人間ほどジャズはおろか音楽を思弁的にしか知らぬ唾棄すべき愚か者と言えるでしょう。


 私が投影法シリーズで語っていたそれも、そのアプローチの根幹となっている体系は「硬減長七」の音形の分散を鏤めているだけに過ぎませんが、その体系が単に分散和音的な解釈として安直な物だとしても、それすら体得する事もできずにFm7上で愚直なまでにFドリアンやFエオリアンを嵌当するだけの様な連中のそれと一緒にしてもらっては困りますし、果ては硬減長七という体系に胡座をかいただけのアプローチと捉えられてしまうのはこちらとしても黙っては居れません。

 硬減長七という音形の一部に均齊的な構造を持っている事を足掛かりにして、硬減長七という分子構造が音楽的「味蕾」に分子的構造の枝葉がレセプターに嵌当する様な物と捉えていただきたかったのであり、ですから私は硬減長七の音形に固執して例にしたのであります。加えて私はそれと併せてチック・コリアのエレクトリック・バンドでの「King Cockroach」でのプレイをも参考にすべくレコメンドしていたのであります。まあどんなに言っても素養の薄い人には言葉が届かない物でしょうが、ジャズというアプローチを少なくともこの辺りまで読み取れない輩が非常に多いのは本当に悲哀なる現実であります。CD出している連中ですらこういうアプローチすら知らないのが現今のジャズ・シーンですからね。大江千里!?ありゃあ初歩的モード奏法を獲得しても自身が熟達しておらず間違った音を出すだけの輩で、真摯に初歩のモード奏法を学ぶ連中の方がよっぽどジャズっぽい音を奏する筈です。










 そんな訳で本題に戻って先の7〜8番の解説に続きますが、「A♭m7 -> D♭7 ->」とした時に2 - 5 - 1とする際の解決先つまり「1」に取り敢えず解決させる事でフレージングの弾みは一層付くのであります。つまり、次の譜例を見ていただければ判るのですが、D♭7の解決先として最も簡便的であるのは四度進行先の「G♭」であり、その次に「C」であるのが通常でして、D♭7からFに戻るのは些か閉塞感を伴うのではないか!?と思われるかもしれません。

 しかし、嘗て私がブログで述べている様に、エンハーモニック・トランスフォーメーションという手法があります。つまり先の譜例にはエンハーモニック・トランスフォーメーションも最初の小節のカッコ内に括ってあるのですが、D♭7の構成音「des、f、as、ces」を恰も「des、eis、gis、his」として見立てるとeis=fという掛留と他の音がF△への3・5度音へ並進行させてF△に解決させる事ができます。

 更にF△のそれをモーダル・インターチェンジとして見越すと、和音はFmへ置換させる事ができるため、「A♭m7 -> D♭7 -> Fm7」という解決は、エンハーモニック・トランスフォーメーションとモーダル・インターチェンジを併せた解決であり、その解決で得たFm7に対してFフリジアンを嵌当するのが9番のアプローチであり、10番が示す小節の4拍目で、Fm7上で得られる減四度の音=a音の響きを忘れられずに弱拍(つまり弱勢)にて使うのは、各拍に於いてモード・チェンジを意識しているのではなく、移旋を行ない乍ら都度得られた良き音を今一度使う、という風にして用いている物と思われ、それを第三者が楽理的にアナライズすると、茲の10番ではFフリジアンからFロクリアンという変化をスルリと行なった、という風に解釈するのが自然であろうという意味でこの様に私は解釈しているのであります。

 古典的なチャーチ・モードの取り扱いでもフリギアを変格旋法として「嘯いた」姿がヒポフリギア=ロクリアですからね。すると、FフリジアンからFロクリアンの移旋はどの音に変化が現われるのか!? と問えば明々白々であります。つまり、譜例の2小節目はF△に解決してはいるもののカッコ内に示すFmへのモーダル・インターチェンジとして実際にはFmへ飛び移る様に解決しているという事を意味しているのであるという事をマイニエリのプレイから窺い知れるという事になるのです。

 加えてYouTubeサンプルの11番の表示が消える直前の12小節目を示す部分でのマイニエリのプレイは「勾配」を掛けているのは明白です。つまり和音進行的なゆさぶりをかけているのですが、動的ではない和音進行のタイプのフレージング、つまりIIm7(on V)またはIV△/V的フレージングをさせて弾みを付けているのも併せて理解されたい所です。

 マイニエリのプレイのそれは、モード・チェンジ、ミラー・モード(投影法)、エンハーモニック・トランスフォーメーション、モーダル・インターチェンジという手法が特徴となっているのであります。無論こうした仰々しい呼称など無粋なモノで、単にマイニエリのプレイを耳にした時に、このプレイの素晴しさをどれほど実感出来るか!? という風に自身の音楽観を認識する事が最も重要な事なのであり、希代のこうした素晴しいプレイを前に単なるクロスオーバー/フュージョン類という風に片付けて卑下してしまってはいまいか!?という事を痛切に感じ取ってもらいたいのであります。

 単なる音楽評論家などこうした希代のプレイを楽理的にレコメンドなどして呉れはしませんよ。楽理に頭デッカチになりたくがないあまりに単に第三者が嗜好する音楽に対して一言二言自身の主観を織り交ぜる程度など誰にも迷惑がかかるものでもなかろうにと居直る輩は、誰にも迷惑が掛りさえしなければ何をやってもイイと宣う馬鹿共と変わりありません。

 何をやっても良いという状況を創出するならば、音楽がどうであっても構わない筈であり、自身の好む音楽は何であろうと構わない筈なのに、自身の好む源泉すら判らない事を露呈しているに過ぎません。楽理的側面を知る事に苦難を強いられる事を拒絶する者は、自身の嗜好に合致しない物など自身の主観の尺度に合わせて断罪するのが関の山なのであります。

 ですから、投影法などもこうした呼称を附与される事なく『ブルー・ノートと調性』ではそうした方面が詳述されているにも拘らず、己の素養に薄くて甘い智力が理解を妨げている事にも気付かずにオカルト扱いしてしまったりもするのです。

 まあ、下方倍音列など実際には物理的に現われないのですからそれを近視眼的理解に嵌ってしまいオカルト扱いするのはなんとなくは判ります。但し、我々が楽音を会得する際に幹音しか附与されていないピアノを与えられた時、我々は未来永劫派生音となる黒鍵部分の音の存在を脳裡に映ずる事すらも不可能な事になってしまうのでしょうか!?

 私は決してそう思いません。幹音以外の音の脈がどのような形で現われようともそれは歓迎すべき事であり、それが半音階の出来でもあり、半音階を堪能する為の理解に必要な音楽観でもある筈です。

 処が熟達に甘い人間など、実際には調性のコントラストの強い性格の物を、単に調性に寄り掛かる様にして聴いているだけの事で、予期せぬ音の遭遇に理解が追従するそれに聴き疲れしてしまっているそれを、自身の耽溺の源泉を蹂躙されてしまう様に感じてしまうからこそ調性の稀薄な物を拒絶していたりするだけの事であり、こんな程度の素養しか持たぬ物が音楽に対して物申すこと自体が間違っているのであります。(つづく)