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マイク・マイニエリに学ぶ投影法(4) [楽理]

 前回の続きを語る上で今一度重要な点を述べておきますが、背景にFm7という和音が在り乍らもそこにF音から見た長七度上に存するe音を与える事になるFメロディック・マイナーを充てる事の妥当性はあらためて念頭に置いてもらいたい所です。


「恰も」短七度音と長七度音が同居している訳です。この部分が理解できるだけでも濱瀬元彦著『ブルー・ノートと調性』の6.4.2.3(246頁)で語られている事が、著書とは異なるマイニエリの実例にてあらためて深く理解できる事でありましょう。


 扨て、次はサンプルの4番ですが、茲では敢えてFエオリアンにモード・チェンジという解釈にしております。Fエオリアンへモード・チェンジの直後に、クロマティック・フレーズに依るes - d - des音という下行フレーズがありますが、茲で経過音として生じさせているd音は、cis音の方が強勢にあるため、d音は単なるFエオリアンで半音階的に生じた経過音として解釈させつつFエオリアンという存在を強固に示す事で、エオリアンの鏡像として現われるミクソリディアンとの非常に取り扱う事が容易であるエオリアン+ミクソリディアンという両性具有的な処理を想起する事も出来る為にこの様に呈示しているのであります。
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 マイニエリ本人が移旋を示唆つまり早々とエオリアンというモードを「準備」しているかの様にモード・チェンジの素振りを醸すのが聴いている側も判るので、私はこうして解釈しているのであります。

 マイニエリの茲でのプレイは単にエオリアンに準拠する音を使っているに過ぎないものの、プレイ全体に於いて投影法を前提としている為、エオリアンを想起する事はその後の投影法に依って出来する対称的な音組織のモードをも想起する事こそが重要な事であり、それ故エオリアンの鏡像であるミクソリディアンを次の譜例の様に図示している訳であります。
 
 亦、エオリアン+ミクソリディアンという投影の型は、投影法の中でも非常に取り扱い易い(両性具有に依る差異感がブルージィーという明確な形)タイプであり且つ、短和音を脈に投影法の音脈を呼び込みやすい事もあり、こうして重要視して取り上げているのであります。また、エオリアン+ミクソリディアンが混淆とするタイプの投影法の魅力はあらためて後述します。


 次は5番のFフリジアン・モードに移旋しますが、茲から非常に高次なプレイが表れて来る様になります。次の譜例の様にFフリジアンを基にすれば、投影法を用いて鏡像音程を形成するとFアイオニアンを生じます。亦、この譜例の上段に示しているFフリジアンの第4音を根音とする所にB♭マイナー・トライアドを図示しているのはどういう意図があっての事なのか!? という事を先ずは説明する事に。
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 Fフリジアンのスケール・トニックというI度上から「エオリアンを探す」とスケール・ディグリーは第4音に現れます。つまり、「取り扱いのし易い」エオリアン+ミクソリディアンの両旋法を混淆とさせた投影法に依るアプローチは、B♭マイナー・トライアドを誘引材料として用いると非常に取り扱い易いモノとなります。こうした例からも判る様に、チャーチ・モードを取り扱っているならば、スケール・トニックから何処にエオリアンが在るか!?という見渡しはとても重要な事でありまして、ジョージ・ラッセルのリディアン・クロマティック・コンセプトというのはこうした見渡しを単に利用しているに過ぎず、リディアンの位置を常にスケール・ディグリー=I度と見渡す様に置き換えているだけに過ぎず、リディアンから見た他のスケール・ディグリーが何処に在るのか!? という視点はそれ程褒められた物ではありません(笑)。

 そんなジョージ・ラッセルのそれを自身の音楽観で最初に遭遇した理論であるならばそれに依拠したくなる気持ちも判らなくもありませんが、コード進行が静的で稀薄な曲想や和音一発系のタイプというのは、それそのものが全音階の総和音状態として見る事が可能であり(和音進行が稀薄なのだから)、そういう状況では調性を逸脱する音脈方向への、和音が平行に動こうとする音脈が生ずるのは当然の事なのです。そうした調性を逸脱する音脈は、楽音を俯瞰した時に対称形を生じさせており、その対称形から次の和音へ「紋様」を変えようとする脈が生ずるモノなのです。ですから「投影法」という脈を使う事が可能になる訳でありまして、こうした状況だからこそ、どんなモードを使おうとも基本としているモードがチャーチ・モードであるならば、エオリアンの位置は何処にあるのか!? という風にジョージ・ラッセルの言う「リディアン・トニック」として基準を置いた場合、リディアンから数えた時のIII度上とVI度下にエオリアンがあると見渡す事と何等変わりはなく、自身が常にリディアンを中心に於かなければエオリアンの位置というのはチャーチ・モードを使っている限り常に変わる見方でモードを想起した方が柔軟性に富むのであります。

 その理由に、エオリアンというのはドリアンにも「嘯く」事が可能でもあります。とはいえドリアンに投影法は通用しませんが、投影法に基づく事に依ってエオリアンと対称形であったミクソリディアンの音脈を使いつつミクソリディアンからドリアンに嘯いたとしたら、其の差異感は非常に強烈な物となるでありましょう。亦、ドリアンというのはメロディック・マイナーの第7音が半音下がったとも言える近似的なモードなのであり、メロディック・マイナーというモードがどういう短和音・長和音をダイアトニック・コードとして持っているのか!?という事を手掛かりにその和音を誘引材料にして使う事で、ドリアンを充てて対処していただけの曲想にメロディック・マイナーを充てるという事も可能になってくるのであります。

 加えてメロディック・マイナー・モードの音組織は例えばトニック・マイナーを五声体とした時のマイナー・メジャー9thコードというそれも鏡像という対称形を持ったモノであり、投影法としてドリアン♭2というモードを充てる事も出来れば和声的にもっと多様な和音を構成する可能性を持っているのであります。

 濱瀬元彦はメロディック・マイナーの第五音を中心にして生ずる上方の第3・5・7倍音と同じく第五音を中心として下方に1/3・1/5・1/7の倍音からは、夫々第七倍音が微分音的にズレてはいるものの、それらが結果的にメロディック・マイナーの音組織と合致しているモノであり、両性具有の音脈としても非常に重要で強固な物であると『ブルー・ノートと調性』にて語っている部分は非常に深く首肯したくなる部分でもあるのです。


 漸く本題に戻りますが(笑)、5番目のFフリジアンの音脈では単にFフリジアン・モードを使っただけでは現れる筈の無い音をマイニエリが奏しているのはお判りでしょう。特にa音というのはFフリジアンとは克ち合ってしまいます。なにせ、c、des、f、ges、aという音群を中心にして次はges、f、es音という所を使っている訳ですが、今一度注目していただきたいのは背景にFm7という和音が奏されている状況なのにマイニエリは何故こうしたアプローチが出来るのか!?という所に先ずは注目してもらいたいのです。それともう一つ注目すべきは、Fm7上でa音が現われているにも拘らず違和感など全く伴わずに聴く事が出来る筈であろう、という所にも注目していただきたい所なのです。初歩的なモード奏法の理解にしか及んでいない人には、この様なアプローチを楽理的に説明できる者は非常に少ないでしょう。

 但し、投影法を知っている人間ならば容易に説明が付けられるのです。つまり、投影法にて生ずるFフリジアンの鏡像こそがFアイオニアンであり、そのFアイオニアンの音組織を夫々の旋法を混淆とさせているからなのです。両性具有化させた社会の中で自分自身が和音進行させてしまっても宜しいのです。

 例えば元々はFm7を生じている訳ですからFフリジアンのI度上でもFマイナー・トライアドは形成し得るので、それを誘引材料にしてFアイオニアン側のIV度上の和音つまりF△へ進行させる。Fm7 -> F△ -> B♭mという風に自分自身のフレーズに「勾配」を掛ける事も可能なのです。静的な状況で自分自身のフレーズに和音進行的揺さぶりを掛けるのはビバップの最たる手法ですが、そうした動的な処理を私は常々「勾配」と言っております。勿論、今回のマイニエリのアプローチも投影法のみならず「勾配」をも掛けて使って来ます。

 つまり、5番のFフリジアンを呈示しておき乍ら実際のプレイにはa音を生じているのは通常のモード解釈なら有り得ない想起である為、人に依っては「左近治、とうとうイッちまったか!?」と思われる方も少なくはないでしょう(笑)。私がそこでFフリジアン+Fアイオニアンとしなかったのは、近視眼的理解に及ぶ輩を排除する為でもあります。抑も初歩的なモード奏法程度の楽理的見聞の理解にしか収まっていない者など、こうした所の音楽を堪能出来る程の耳や脳は未熟な物である筈です。ですから、Fm7という和音が背景にある状況でFフリジアンとした所でマイニエリは苦もなくa音を奏するという状況を全く説明出来なくなるのです。もう一度念を押しておきます。このマイニエリの5番でのプレイはFm7上でFフリジアンとFアイオニアンを混淆とさせた投影法を用いたアプローチであるという事を。その手法がどれほど奇異に映ろうとも、この音を聴いて耳に拒絶し得る程酷い状況なのか!?という事を問うてみたい所です。私自身はこの曲を30年を超える程耳にしておりますが、今も昔も私にはこのプレイでの音使いが極上に聴こえております。故に私がこうして今回引き合いに出しているのですが(笑)。

 Fm7から見ればa音は長三度音。しかしそれをF7を基とする和音解釈ではなく、複調的な解釈が必要となり、結果的にはその見かけ上の長三度音は自身の脳内では「減四度」と扱う事で従来の和音体系を遥かに超越する響きと実例を知る事に依って和音認識が強化されるのである筈なのです。こうした所まで感覚が及ぶ様になると、ジャズ/ポピュラー界隈でのコード・ネーム体系での和音の在り方に耳が均されてしまう事を防ぐ事も出来る訳です。和音体系に均されてしまう耳、というのは例えばe、g、h、d、fという五声体の和音を恰もEm7(♭9)と聴いてしまう様な状況であります。短和音に短九度は御法度(アヴォイド)ですからこのような和音形式は有り得ません。しかしG7 (on E)という、カッコ内がIV度であると解釈した「♭VI7/IV」の型と解釈するのは非常に少数です。現に私は過去にチック・コリアがエレクトリック・バンドの「Flamingo」にてこの和音を使っているのを例に出した事がありますが、既知の体系ばかりに頭デッカチになって耳が均されてしまうと、こうした状況をも受け止める事ができない音楽的素養を露呈する事になる訳です。音楽的素養に薄弱な者は短和音上で現れる減四度も、フレージングに依っては非常に良く決まるのに、素養の薄さが音楽的感覚すら均され拒絶する様になるのですね。それこそ楽理嫌いで純粋な感性だけで熟達を試みるのであれば、こうした異端とする体系をも肥やしにしていく筈でありましょうが、楽理嫌いの人間ほどなぜか初歩的な部分に収まる輩ばかりなのは今も昔も変わらないのは何故なのだろうか!? と疑問に思う事頻りです。(つづく)