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属七提要 陸 〈基底音および基底和音〉 [楽理]

 扨て今回は、アーサー・イーグルフィールド・ハルが述べていた「Generator」という基底音に着目して、現今のジャズ/ポピュラー和声体系の現実と照らし合わせる事に加え、茲数年蔓延ってしまっている「7sus4 (9)」系の表記の陥穽という点に非難しておかなければならない事と併せてその理由も並記しておく事に。 先のブログ記事に於いて私が例を出していた、ハル著『Modern Harmony』のEx.180を先ずは確認してもらう事にしますが、茲で一寸一言。
ModernHarmony-ex180.jpg


 同著の日本語版である創元社刊小松清訳『近代和聲の説明と應用』の版権は切れていないので譜例を『Modern Harmony』から使わせていただいている次第です。因みに『Modern Harmony』の初版から100年以上過ぎている事に驚きを禁じ得ませんが、100年という年月が音楽に於て如何に「短い」ものであるかという事にもあらためて驚かされるに違いないでしょう。和声の歴史をあらためて振り返り乍ら語る前に少しだけ脇道に逸れ乍ら音楽を語ってみましょうか。

 

 楽音に伴う「響き」そのものは、数世紀経過しようとも色褪せないのは、作曲家がその作品に対して隅々にまで手を施しているが故に、聴き手が音楽をひとたび聴いて某かの「ヘテロフォニー」を伴う様な別の旋律すら映ずる事をも不可能にする位、「間隙を縫う」事をも許さないほど手を施しているが故に、その作品に色付けされている和声は、その旋律の為だけに用意されているかの様に響き、その旋律(=横の線というメロディ)は、誰もが予想し得る様な単純な音程の跳躍ではなくその作品そのものを決定付けさせる独自性と聴き手を傾聴させる牽引力を存分に発揮させているが故にオリジナリティが見事に反映された作品として耳に届くのでありましょう。

 例えば、私は能くインストゥルメンタル音楽、その中でも特に和声の響き「だけ」に助力させられただけでリズムを刻んでいるだけの思慮の浅い類いのフュージョン系の中でも酷いアレンジの音楽を時を経て聴いてみたりすると、それらの多くは和声感”だけ”に頼っているというのが共通する問題でありまして、コードを刻むだけで「リフ」というフレージングを備えていない為、いわば「隙間」だらけの空間に和音がリズムを刻んでいるだけのイントロやブリッジが奏されてしまっているのです。その「味気ない伴奏」を背景に漸く和音構成音に毛が生えた程度の旋律が奏されるという唾棄したくなるフュージョン系の音楽というのを何度も耳にする事があり、特に、私が若い頃に、特定の奏者目当てに聴いていただけの音楽をノスタルジーの念にかられて聴いてみると、その音楽の手の施されていないアレンジにあらためて驚かされる事が多いのです。


 つまり、聴いていて「弄り甲斐」のあるという風なミソの付けどころが満載なので(聴き手が易々と音を脳裡に映ずる程の隙間だらけという意)、聴取者のそれまでの音楽的な経験のノスタルジーに浸る暇〈いとま〉も無く、

「俺ならこういう風なリフを作る」とか
「こういう動機からリズムを拝借してゼクヴェンツを作れないものかね?」

などと、いつの間にか聴いている本人が楽曲の骰子のガリガリ加減に落ち着きを失い脳裡でチマチマ原曲を操作して、リアルタイムにアレンジしてしまっている様に聴く事の出来てしまう音楽を数十年前はさも有り難がって聴いていたのだと歎息混じりになる事も屡々感じる事もあるという私の偽らざる感想をこの様に述べているのでありまして、聴き手の加齢とは別の音楽の「歳の取り方」というのは西洋音楽では全く異なる物なのですね。寧ろ西洋音楽は歳を取っていないと言える程不変的かもしれません。

 それは、細部に亙って配慮された操作で音楽が構築されているからに他ならず、他人の頭の中に易々と他の旋律を映ずるかのような動機すらも許さぬほど構築されているからです。だからといって、音が埋められていればイイという物では決して無い事だけはお判りいただければな、と思います。


 処で、私が能くアップロードする類の簡便的なMP3サンプル音楽は、ヴォイシングやらアレンジ等殆ど配慮せずにやっつけで作って居ります。それは、年数やらが経過した時、「こうすれば良いだろう、ああすれば良いだろう」という読み手の方々の心理を喚起する為に敢てその様にしているのです。別に言い訳ではありません。そうする事で、音楽における陳腐な手法、或いはその逆の慮った手法というのを言葉がどのように説明づけているかを読み取ってもらいたいからこそ、楽音の方はよっぽど生真面目な部分を露呈しようとする場面ではない限り、造りは陳腐なのです。ですから和音だけがやたら仰々しく響くサンプルなどもあるかと思いますが、意図あっての事なのです。そういう事実を踏まえた上で、あらためて、音楽に対して月日を置いて聴いた時の陳腐感や不変感が、どういう手法から起因するものなのか、という事を念頭に置いてもらえればこれ幸いです。

 例えば、楽曲を構築するにあたって色々聞き返してみて「何かが足りない」とか音脈の不足感或いは他の全く別のリフやフレーズなどを脳裡に映じてしまうという事は、西洋音楽的な作曲技法からすると単にまだまだ編曲の余地があるのにその必要性に気付いていない未開拓な領域であるのと同じ事なのです。西洋音楽方面の「作曲」というのは、単にフレーズに和声を付けた程度では作曲とは言わないと表現されるのはこうした理由からです。

 つまり、他者の脳裡に楽音が入り込んだ時に、その人独自の音脈を映ずる事を許さぬ程追究しなくてはならない、という事なのです。単純に音が埋まっていればそれで良いという訳でもないのです。ですから西洋音楽というのはいつ聴いても普遍的に聴こえるのは、楽曲の組み立てが精緻であるので、他の音脈を易々と映ずるような間隙を縫う事すらも許してくれない程緻密に作られているのであります。メッシュ素材と西陣織を較べている様な物かもしれません(笑)。


 抑も現今社会で謂われる「和声」という体系は、ジャン=フィリップ・ラモー以降整備され、西洋音楽方面とジャズ/ポピュラー界隈の和音体系は若干の違いはあるものの、全く異質の物でもなく、双方の世界を知らずとも何となくは和音記号のそれは伝わるモノではないかと思います。この和音記号、つまりコード・シンボルにトコトン拘っているのがジャズ/ポピュラー界隈の特徴でもあり、陥穽を生ずる最大の落とし穴でもあるのです。

 コード表記とやらがどれだけ整備されていようとも、現存する和音の響きを巧みに取り扱う事を知らなければその和音表記というのは単に存在するだけで、扱えない人には無用の長物かもしれません(笑)。特に、和声感覚に乏しい人達が和音体系の知識をどれだけ獲得しようとも、大抵の和音の取り扱いに手を倦ねるのは、和音の取り扱いに重要な和声感を会得していないが故の事でありましょう。


 能く「センイチ」と呼ばれる本がありますね。最近は音楽ビジネスが衰退している事もあって電話帳サイズのそれが本屋にて山積みされているのを見掛ける機会など稀薄になってしまって久しいですが、つまり星野仙一氏ではなく、歌謡曲の歌詞とコード譜程度が「1001曲」用意されておりますよー、っていうのが「センイチ」なワケです。大抵のポピュラー楽曲を網羅しておりますよ、というのが「センイチ」なのですね。

 「センイチ」が暗に語っているのは、人々の楽曲に求めているものは「主旋律と歌詞」という事を突き詰めているが故の体系でしょう。場合に依っては原曲の調性ですら無視していても構わないという位、酷い場合には原曲と移調されている事があったりもします(※ギターで弾きやすく移調されていたり、移調楽器が演奏し易い、あるいは派生音がなるべく生じない幼児向けのピアノの幹音重視の移調など)。

 曲の根幹を司っているリズムやら色々ありますが、結果的には和声の持つ牽引力(響きとしての牽引力)さえあれば、和声があれば伴奏はある程度原曲を模倣せずとも楽曲の性格が充分宿るという体系だからこそ、見ず知らずの曲でもコード譜さえあれば、和音体系さえ知っていれば弾けてしまうのであります。これがコード表記の体系が齎す「メリット」とされている所です。


 ここで、その「メリット」やらが「デメリット」に変わります。つまり、背景にある「伴奏」が単なる和音の単なる「響き」であるならば、主旋律とその歌詞さえ原曲を遵守しているならば、主旋律というメロディの牽引力とメロディに備わる歌詞という言葉の牽引力とやらがどうにか一所懸命曲の姿を変えられぬ様に必死に堪えている様なモノでもあり、それら二つの牽引力が絶対的な不変性を具備していると信ずる者は伴奏の違いが主旋律と歌詞を浸食する事はないという安易な考えを持ってしまっている為に、伴奏の重要性がお座なりになってしまうのです。

 加えて、インストゥルメンタル音楽というのは、その名の通り「歌詞」が無い訳ですから、歌詞の牽引力すら無いのです(笑)。とはいえ、私は歌詞が変わる事で、「和音+主旋律」から生ずる=和声は変わる事は無いので、歌詞そのものはどうでも良いというスタンスで楽音を聴いています。寧ろ歌詞が邪魔に思える程拘泥せずに聴いております(笑)。

 
 つまり、コード体系というのは非常に有難い物であり乍ら一方では、コード体系にドップリ浸かってしまうと、フレージング(伴奏の横の線)が乏しくなり、誰もが和音に乗っかっただけの、リズムだけがほんの少し差異感があるだけのアンサンブルという陥穽に陥ってしまうという側面がある、という事をこうして語っていた譯ですね。「コード譜」なんてぇのはある意味便利であり、曲の構成が簡略化され、重要なブレイク(=トゥッティやらハーモニック・リズムの要素)が符尾だけのリズム譜で表記されていたり、どうしても奏者任せの伴奏を許さない時にきちんと音符が与えてあったりとか、ポピュラー音楽の譜面が在る現場の実際はこういう物です。コード・シンボルというのはその表記そのものにある一定のルールがあり「不文律」もあるのですが、その不文律というのは麻雀のローカル・ルールの様なモノで、根幹のルールを凌駕する程覆す様な物ではなく、表記上のほんの少しの差異でしかなく、大概はそんな不文律も読み手は俯瞰できて理解するのが常であり、その多くの「不文律」を知る人は、多くの表記体系を見て来た経験があるというだけで、決して「コード博士」なワケではありません(笑)。不文律があったとしても、通じる所がある。そうした共通認識でコード・シンボルの表記は成立しているのであります。

 ですから、色んな本を読んでもおそらくは、自身が見聞きして来た「不文律」をも掲載していない本に遭遇する事も不思議ではないでしょう。特にポピュラー音楽というのはコード表記そのものが重要だったりする嫌いがあるので、「ん!? いつものルールと違う」という様な表記に出会す事など何ら不思議は無いのです。それは、共通認識はあれど、不文律は麻雀のローカル・ルールの様に幾多もあるからなのです。不文律の多さを知らないと、自身がコード表記のチョットした差異に不慣れである事を露呈するのと変わりなく、コード表記そのものがそれほど重要であるという前に、原曲の音を採り、それに忠実である方がコード表記のそれよりもずっと慮った行為である事をすっかり忘れてしまっているのと同じになってしまうのです。コード表記さえ追っていれば音楽が出来てしまうならば、和音構成の外にある「和音外音」の音はいつ産出されるのだろう!?という事になります(笑)。

 「和音外音」が創出される時、それはプレイヤー(奏者)が和音を刻む事だけに疲弊して慮った行為、つまり「リフ」の形成の動機を演出したからが故の和音外音に他なりません。それでは、和音外音という動機欲しさに和音を積み上げて行ったらリフは形成されるのか!?というとそれも違います。それでは七声の和音が重畳するだけになってしまうのと同じ事でもあり、和音の重畳は、決して横の線を創出してくれる訳でもないのです(笑)。



 ところで、幾多の和音の持つ「雰囲気」というのは、その響きそのものに心酔し得るものでもあり、横の線がそれほど慮ったものではないのに(リフというものが不明瞭で、その多くは「白玉」)そこに情緒を伴うのは、和音が持つ響きに耽るからであり、「○○メジャー7thの音!」とか「○○マイナー9thの響き良いよなー」とか、和音そのものの響きに酔いしれるというのは、こういう事です。その酔いしれ方というのは実は、和音を認識する熟達度に依って個人差がある為、和音の響きの情緒を精一杯押し付けても、聴取する者にとっては唯の白玉、或いは得体の知れない「硬い音」(≒汚い音)が延々鳴っている様にしか捉えられない者も居る訳です。

 熟達度が増せば、その「硬い和音」に情緒をいつしか見付け出す事が出来る様になるモノです。然し、元来その和音が持つ響きの性格に耽っていた者がひとたび年月を経てその和音を聴くと、硬い和音とやらが持つ音の美しさそのものが在る事に変わりはない事を見抜き乍らも、その一方で横の厳しさ(横の線として現われる旋律的動機)が無い事を見抜いてしまうのです。つまり、四声の和音があったとして、そこにCメジャー7thというコードが白玉で鳴っていると、人によっては4本の糸を竝べただけの音に聴いてしまうのです。「織り」を要求するワケですね。つまり、リフという要素が非常に稀薄だと、白玉は、ある程度慮ったヴォイシング(和音機能は変わらない上でのヴォイシングの充実)や、ほんの少しの装飾などに配慮する必要が生じて来るのであります。


 西洋音楽に於いてはそのような事が無い様に「精緻に」組み立てられているのでありまして、西洋音楽の作曲技法と他の世俗音楽とが大きく異なるのはこういう背景があるからなのです。他の動機の創出を許さない程に組み立てられているからといって、自身が何らかの西洋音楽を耳にして他の動機を脳裡に映ずる事が出来たとして、それを「この曲はまだ入念に施されていない」と断罪するのは滑稽な事です。他者の心の中にやすやすと他の音脈を映ずる事ができない位に手を施している様に組み立てられていると捉えるだけでも西洋音楽への耳の傾け方というのはより註力され尊ぶに相応しいものであるのではないかと思います。

 ジャズの場合はその和音外音の在り方が、西洋音楽とも異なる動機を創出するのが最大の特長なのであります。

 例えば、フィリップ・ボール著『音楽の科学』は見聞が広大に亘り過ぎる所もあり過小評価されている向きがあるものの、逐次引用される文には目を見張る物が多く、その中でも同著154ページのアルバート・S・プレグマンの言を借りてジャズの事を「絶え間ない間違いの訂正」と述べている所は大いに首肯し得る含蓄に富んだ表現である事が判ります。

 「”間違い”とはけしからん!」という声を挙げる人もおそらく居るでしょう。しかし、体系に収まらない許容され得る間違いは、悪意のない誠意を伴った誤りであって、言葉でもそうした「誤用」でも真意が伝わる事はあります。ジャズの場合は調性や和音の体系からも音脈を使おうとするので、更に配慮された表現を私がするならば、ジャズとは衣服着用の「着くずし」なのであります。ムラのある音運び、セロニアス・モンクの横の線、ジョー・サンプルの弾くアコースティック・ピアノなど、西洋音楽に耳慣れた者ならばおそらくオスカー・ピーターソンのピアノの方を好むでありましょう。前者の2人は単に調性や和音体系に準えた順次進行(全音階的な2度音程)を弾くだけでも、歪〈いびつ〉な音で弾く事を体感する事でしょう。

 ”間違い”という言葉が、音楽面における「嘯き」をも逸脱する程の「偽」を示しそうなので、いわんとする事は、「音楽を斜に構えてから襟を正すのがジャズ」という風に私は好意的な拡大解釈を以て先の一文を理解しております。処がこうした「好意的解釈」は原著が記すものではないので、そのまんま「どストレート」に読んでしまえば、「ジャズ=誤り」になってしまいかねません。ブルースやジャズの調性への「嘯き」とはそこまで「誤り」でしょうか!?私は決してそう思いません。ブルースの発生などよりも遥かに太古の時代から長音階をミクソリディアンで嘯く事などもあった訳でして、変格旋法の存在を知っていれば、「ジャズは調性を斜に構え、和音をも斜に構える」という体系であって、決して「誤」でも「偽」でもないのです。処が、和音体系だけに易々と乗っかってしまったジャズのレイト・フォロワーの連中は、「誤」であり「偽」である事には疑いありませんけれども(笑)。

 ジャズ/ポピュラー界隈に於いてこれらの「線引き」が出来ない人は朧げに音楽大系を俯瞰し乍ら、何が良くて何が悪いのかという曖昧模糊である事に忸怩たる思いを抱き乍ら、理解に及ばぬそれにいつかし痺れを利かしてその内自身から愛想を尽かすのが大多数なのが関の山なのです。判る人が判る様になる訳です。コード・ネームをひっきりなしに覚えようが、耳や脳から音楽を判断しない限り、コード・シンボルのたかだか視覚的なそれなど、音感を高める事への助力など皆無に等しい事でしょう(笑)。せいぜい、自身の稚拙な器楽的経験から生じる物理的なフレージングの「惰性」と、ほんの少しの器楽的な「慣れ」が生み出す稚拙なフレージングの数々が、重畳しい和音の助けを借りてうわべだけの「奇癖性」を伴っているだけの事で、その奇癖性はなぜか何処かで耳にした事がある程度の物に収まっているというのが、ジャズ/ポピュラー界隈には能くある「ナンチャッテ」系の人達の共通する物だったりもします(笑)。


 という事で、漸くアーサー・イーグルフィールド・ハル著『近代和聲の説明と應用』Ex.180に於ける「Generator」を今一度確認してもらう事にしますが、以前のブログ記事でも語っている様に、和声的には「E7(♭9)」という短属九の根音を除く3・5・7・9度音(←つまり減七の和音)をペダル(保続音)として掛留されつつ、根音は小節毎に減七の分散を伴い動くわけです。根音の短三度等音程のその動きは和音外音であるのです。こうした自由な動きが、新たな脈略創出の為の「Generator」という風に言葉が充てられ、和訳版である小松清の訳でもその原語を尊重して「Genelator」としているのでありますが、下声部が和音構成音や調性内で生ずる全音階(つまりダイアトニック)に捉われない音を選択するという事は、ジャズに於いてベースが自由にウォーキングするそれと似ているモノであります。ベースは、調性が持つ脈絡と和音構成音から得られるアヴェイラブル・ノートとは別の脈絡で動いているからであります。このような「基底」に備わる音が自由に和音外音、つまり単なる経過音でもない脈絡で動いて来るのが最大の特徴であるのです。


 ジャズ方面から見ればベースが自由に動く事も許容するものですが、その脈絡の得方というのは上声部の楽器の奏者とは捉え方が異なります。例えば、分数コードという捉え方。こうした認識がハナから生じている為、ベースの大いなる逸脱も或る程度は覚悟しているというワケです。

 先のハルの言う所の基底音の動きというのは、和音外音の脈絡なので、茲をしっかりと見抜いておかないといけなくなります。

 その上で、前述にあるジャズの「誤り」とやらを今一度思い出して欲しいのです。つまり、私が「着くずし」と形容したそれです。着崩す為の脈絡を欲している状況において、どういう脈絡を開拓するのか!?という風に考えてもらいたいワケです。常に崩すばかりではなく偶には寄り添う事も重要なワケです。今回のハル著『近代和声の説明と應用』Ex.180に見られる物は、下声部の自由な動きなワケですが、2つの「減七和音」が併存する音脈を使っている訳です。これが、一つの和音体系しか前提理解に無ければ、下声部の動きは単なる短属九の構成音の分散に収まるモノでしょう。

 こうした変貌を、時代の流れに叛いた行為かというと実はそうでもなくて、下記譜例に見られる大バッハの『トッカータとフーガ ニ短調 BWV565』に現れる、基底音がd音の単音、上声部がcis、e、g、b...という風にGdim7である減七の分散を刻むその動きは、分散フレーズが上にあるか下にあるかの違いであり、其処に應用を加えている例なのだという事という風に捉える事も可能なのです。
BWV565fix.jpg


※上記の譜例では減七の分散を能く表す為に、ニ短調で生ずる変ロ音をそのまま使うと短三度等音程が巧く記譜できないので、敢えて異名同音のais=A#音にして記してあります。

 つまり、基底音に更に自由度を持たせたのが、2つの減七の音脈を持たせつつ、下声部にも減七(上声部とは異なる減七の併存)の分散を行なわせるというそれは、上も下も異なる減七の音脈があり、減七の和音というのは解決先を待つ様な音の響きがある為、それらが併存となると調所属を映ずる事よりも充実した不協和音の響きが生じるというワケです。

 亦、先の大バッハのそれが、d音をバスにしてcis(=C#)音からGdim7の分散を始めるのは「減八度」の同義音程である長七度の音脈を駆使して、オクターヴに行きそうで行かない蹂躙で仄めかすのでありますが、ハルの例の方では上と下が減八度ではなく短九度であるという、つまり単音程で見れば半音下か上かの差異が生じている訳なのですが、ハルの譜例では決して旧来の体系をも逸脱したポッと出の奇を衒っただけの様な用法では無いのであるという事が判ります。


 西洋音楽では、通常「基底音」と考えられる様になるのは九の和音の出来を待つ時代にまで遡る事が出来るのですが、つまり、九の和音の5度音をsimilar note(=共通音)として、上と下で三声ずつの和音を形成する複調的な垂直的連結を見る様にもなるのでありまして、基底音というのは和音であったワケです。

 それとは異なる音脈で、更には基から存在する和音の下方3度に「代理的」に挿入されてくる「Supposition」は所謂仮定バスという風にも形成されていく様にもなるのですが、和音が重畳しくなるのであって、その時代に於いては未だバスが完全分離している様な「Generator」という動きではないのです。


 つまり、バスが自由に動く音脈を探る定旋律となる、というのが非常に逸脱したウォーキング・ベースの歴史の発端とも言える訳でありまして、ベースが分離したその動きに対して、ベース自身は己を、上声部の和音から剥離してきただけの音なのか、または独立した音脈を探るのか!?という動きの違いが生じて来る様にもなるワケです。すると、ジャズは更に後者の選択をするワケですから、調性や和音構成音からも逸脱した音脈を研究する様になる必然性が生ずるので、ジャズのウォーキング・ベースの在り方は高度になるのであります。


 茲で、一旦「分数コード」を今一度考えてみる事にしましょう。厳密に言えば複調的な脈は九の和音の登場時であるのですが、此れに対して上の音を下方に転回させるという手法はまだまだ当初では存在しなかったのであります。そこで本格的に分数コードの時代となったのはドビュッシーが発端とも謂われております。


 斯くして分数コードは当初、下声部も上声部も和音であったのでありますが、現今社会では分数コードは単音として使われる事の方が多いです。とはいえ、分数コードは単音でなくてはならない!という規則があるワケではなく、上声部の和音で生ずる差音が下方にある基底音と大概不協和的にぶつかるのを避けるために、どうせぶつかるなら下声部は単音でシンプルに済ますというのが現今のジャズ/ポピュラーに見られる分数コードの実例の一つとも言えるでしょう。


 茲で、分数コードの分母が単音になる事を注視する事にしましょう。ジャズ/ポピュラー音楽に於いて分数コードの分母が「和音」である時というのは、分母にコード・サフィックスをシンボル化させるのが特徴です。それは分母が単音でない事の喚起を促す為ですが、つまり「基底」となる分母は単音になるGenerativeな状況と、下声部にも和音としての骨格を持たせて分母も和音を与える状況が在るというシーンを考える事ができます。また、「分数コードのそれまた分数」という風にして表れる特殊な例もありますが、それらの多くは上声部の和音に対して下方3度の堆積として代理的に単音程内で現われない(つまりSupposition的にすぐに現われない音程)物が、中声部の単音或いは和音の根音(=根音ではない上音で概ね5度音が多いが例外もある)が更に中声部の下に存するシーンであると言えるでしょう。
 
 例えばE△/D/Aとすれば(※中声部を表わす部分はコード・サフィックスが附与されていない為この場合、中声部及び下声部は単音を示す表記)Eメジャー・トライアドの下に単音のd音があり、そのさらに下方に単音のa音がある状況という風に考えられるのです。仮に中声部もDメジャー・トライアドだとしたら、最下声部のA音は、中声部D△の5度音という事になります。

 因みに私のブログ上では、「ハイブリッド・コード」「ポリ・コード」の夫々をどの様にして使い分けているのか!?という事を過去の『混乱を避けるために』でも語って居りまして今一度述べますが、双方どちらも上声部と下声部共に和音の体を成している事は共通している事であり、その上で非チャーチ・モードの旋法から生じるダイアトニック・コード内での複合和音を「ハイブリッド・コード」と私は区別しております。ポリ・コードというのは同一の旋法から生ずる組み合わせから生ずる、という事なのですが「同一の旋法」というのもミソでして、実際には異なる調域の旋法であろうと和音の体そのものがsimilar chordというのは能くある事です。例えばハ長調のサブドミナントのF△とヘ長調のトニックのF△は、夫々機能は違っても和音そのものは同じです。このsimilar chordを忍ばせて結果的に複調を齎すので、ポリ・コードは易々と「ハイブリッド・コード」に変化する事なども往々にして有り得るのですが、これは私が区別しているだけの事で広く知られたモノではありませんし私個人が区別しているだけの事なのであらためて御注意いただけたらと思います。適用範囲が広い「ポリ・コード」という呼称の方が誤解は少ないかと思いますし、実情でもそこまで区別する事無くポリ・コードもハイブリッド・コードも同じ様に使っている人も居らっしゃるかと思います。この辺りの整備は特段急ぐ必要性など無いでしょうし、言葉に頼る前に音を捉える事の方がなによりも重要であると思いますので(笑)、重畳しい和音を眼前にして、「これはハイブリッド・コードだ!」とか「いや、これはポリ・コードだ!」だのと信念の対立で衝突してしまっても愚かな事であると思うのでその辺りは御承知おきを。


 そうした例を換言すれば、ハ長調域で生ずるダイアトニック・コード群のポリ・コードの一例「F△/G△」というのは、属11の和音という、11度音が本位十一度である六声の属和音とも言える訳ですが、本位十一度を包含しているという事は、トニックへの解決という勾配は非常に弱いのであります。ある意味では六声の和音は、三声同士で上下に割譲される様に楔を打たれ、「G11」は「F△/G△」に分断されたという解釈も出来る訳です。

 こうした處のヒントは奇しくも山下邦彦著『坂本龍一・音楽史』ではドビュッシーを始原として同様の例を出しております。

 
 更に興味深い事に、著書『坂本龍一・音楽史』にて坂本氏は、sus4系統の和音について非常に興味深い発言をしているものがあり、元々はリットーミュージック刊『キーボード・マガジン』誌上でのモノらしいのですが、sus4関連の「新たな」類の和音の例を幾つか出しているのですね。そこで私は感じたのです。その後、ジャズ方面の雑誌やらで「○○7sus4 (9)」というワケの判らない表記(実際にはコチラもその構成音そのものはどういう風に成り立っているのか!?という事は伝わっており判ってはおります)が横行するのは、先の坂本龍一のそれを発端に「曲解」されていったのではないか!?と私は思ったワケです。坂本龍一の真意を見抜けないまま、膾炙されていってしまったのではないか!?という疑問が浮かび上がって来るのであります。

 坂本龍一は、例えばc、f、b(=英名B♭)音の和音を「C4ths」と表記したり(※私の過去のブログ記事では「Cp4」としていたりもしますしsus4同士のハイブリッド・コードもドナルド・フェイゲンの「I'm Not The Same Without You」を題材に語っていたりもしております)、c、f、dの和音を「C4 (9)」(※実表記ではカギ括弧内の小カッコは無いC6 (9)系の表記と同様)として分類していたりします。

 氏の分類は、新たなコード表記の体系を整備しようとしているのではなく寧ろ逆でありまして、コード表記として括ってしまう体系を憂いつつ、現実に使われている「体系外」の類を例に出して、そうした体系外の和音そのものにも魅力ある響きを、規定のコードでしか把握しない人達がどのようにして「響き」として体得するか!?という問題を提起し乍ら語っているのであります(坂本龍一・音楽史299ページ)。


 そうして、次は坂本龍一のその「真意」を更に掘り下げて、その上で、ジャズ/ポピュラー界隈で「○○7sus4 (9)」という酷い表記を生んでしまったのか!?という事を詳悉に語る必要があるでしょう。無論そこでは「なんで先の表記がいけないのか?」という事を徹底的に論述するのでありまして、あらためて「和音」という体系を詳らかに語る事にもなります。