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純正律と純正調の違いとは!? [楽理]

 扨て今回は、純正音程に対してあらためて誤解を抱く事が無く話を進めて行きたい事もあり、ブログタイトルにある様に、純正律と純正調の違いを把握しておく必要があります。処が、界隈に依ってはこれらの言葉を同じ意味で語っていたり、一方では使い分けていたりとする所があります。とはいえ、両者のそれは皮相的理解に陥らなければ、「純正ナンタラ」をどの様に語ろうとしているのか!?という差異は必ずしや理解できるものであるのですが、自転車を一旦漕ぎ始めると、止まる事や一寸のスロープすら忌避して滞り無く操作したくなるのと似た様なモノで、一つの理解にて文章を読み進めたいという人や、それらの言葉を厳密に使い分ける事を是とする方々も多く存在するのも確かで、それらのほんの一寸の信念対立が高じて不毛な議論を招いたりもするものです。


 微分音体系や螺旋系(=直線平均律法)の音律など、それらの体系に対して溝部國光先生はいみじくも巧みな語句を当て乍ら音楽の物理的側面を語って居られるのですが、田中正平の純正調オルガンの調的近親性に見事な欠点を論究し、更には溝部先生自体が田中正平先生一派の純正律・純正調の使い分けに準える事なく純正律と純正調を等しく語っていたりする歴史もあり、こうした所で後のフォロワーは先の両者のどちらかに靡きつつ他方を敵視したりするのが常でありまして、こうした不毛な対立に読み手の理解が惑わされてはいけないのであらためて語るのです。とはいえ、溝部國光が純正律と純正調という2つの言葉に拘ってはおらずとも、その直後に傍証される数多くの音律の研究などを鑑みれば、語句の使い分けに拘泥する事があまりに矮小な事柄にすら思えるほどの博引旁証を繰り広げているので、その深い追究には深く首肯する事しきりで音律面の社会だけでも溝部國光著『正しい音階 音楽音響学』を非常に深く理解出来るのであります。


 とはいえ音楽を語る上で、溝部先生の様な傍証や依拠する物の呈示も無いままに純正律と純正調を全く同列に考えて語ってしまうのは是亦回避せねばならない所であります。

 仮に語句に拘泥しないのであらば、それらをきちんと誤解無く理解し得る證據無くしてはいけないのです。

 ですから私は、余り市民権を得ていない類のカタカナ言葉には厳しいのであり、殊に音楽面では西洋音楽以外の分野では言葉の重み付けに依る価値付けばかりが重要視されてしまう傾向があるので、市民権を得そうな言葉が附与されると誰かが興味を惹かせる程度の重み付けで利用する為に亦別の言葉を嵌当したりなど目に余るものです。

 それらの多くは出版社方面の利益的な部分や体系を重んじない界隈の、手前勝手な重み付けが禍いして西洋音楽以外のそれらは結局まとめる事ができぬ様に陥り、頼みの綱の知識の体系は閉塞感を伴うように錆び付きます。

 その後、陳腐化された旧い体系ばかりが何時迄も残るようになり、新しさは新奇性だけが浮彫りになり、自分達を苦しめる様にもなるという事を念頭に置いた上で言葉を重んじる事と、拘泥する必要が無い時は依拠する物をきちんと指し示してから、音楽の源泉に触れるという姿勢が無いと音楽の理解を決して深める事はできないと私は信じているからこそこのように辛辣に語る訳です。とはいえスタンスが辛辣であっても音楽の体系や歴史を重んじるのは、音楽に対して純粋にひたむきであるというのは自分自身信じてやまない所であり、こうした自身の姿勢と大きく異なる輩を見た場合、克服すべき点を極力スポイルしてきたエセな側面が臭って来るようでもあります。

 そういった、体系や歴史を重んじるという前提を有耶無耶にしてしまっている連中が多いからこそ、純正律と純正調をも区別できていない輩が生産されて行くのであります。こうして語れば、溝部國光は、双方を区別して言葉の上では同列に語る、というスタンスであるのが理解できます。田中正平等の純正律・純正調という使い分けに対して完全に準えないのは、田中正平のひとつの純正調の問題が孕んでいるからでありましょう。


 抑も私が茲の處こうした純正音程に対して重点的に語る理由は、純正音程は何も純正完全五度や完全八度の様な普遍的な物だけではなく、オクターヴの相貌を繰り返さない直線的平均律法(螺旋的)音律などを視野に入れた上で語ろうとしているからであります。何も、平均律の長3度よりも純正律の純正長3度の方を是とするスタンスという訳では全くありません(笑)。純正律というのはオクターヴを「歪〈いびつ〉に」割譲している物ですが、その純正な音程から既知の体系とは異なる音の数に依る平均律なども見通す事ができる側面も持つという事をあらためて知って欲しい狙いがあるのでこのように例を出している訳です。


 音律というのは幾多の種類がありますが、基本的には絶対完全音程=完全八度に従順な訳です。ですから言い換えれば12等分平均律とて、完全八度という純正音程を慮った音律であるのです。但し殆どの音律というのは、完全五度音程を慮るのか!?それとも長三度音程を慮るのか!?という處に端を発していて、特定の音だけを配慮すると、他の音のいびつさが露になるという、これを均等に均したのが平均律という訳です。

 抑も、オクターヴという完全八度を純正音程で割譲すると、歪〈いびつ〉に分け合い、純正完全五度/純正完全四度は「702/498」(※小数点を四捨五入しなければ実際はもっと細かな数値)という風に、稍いびつに分け合う所から端を発しているとも言えるでしょう。

 扨て、茲で豆知識を語っておきますが、完全五度音程は半音7つ分の音程ですが音自体は8音あります。上行形に見る事を順行とするのが慣例でして、オクターヴから五度/四度を分け合った時、上行に完全五度音程を「順八」と呼ぶのであります。その「端切れ」となった完全四度音程は逆行形に6音(=五つの半音音程)を見るという事で「逆六」と呼ばれるというのも知っておいて欲しい處です。

 ピアノの調律というのは一見、順八と逆六を繰り返している様に思われがちですが、実際は違います。基本的には純正三度と平均律の三度の違いを把握していないと無理なのです。

 ギターやベース楽器などでチューニングに無頓着な人というのは、隣接弦の5フレットと7フレットで合わせようとしますが、教則本にもこういう教え方をしてしまっているからこれが正当だと誤解されている方も多いと思いますが、順八と逆六を合わせているかの様で実際はどんどんズレていってしまうのです。ですから4度チューニングによる5&7フレットに依る自然ハーモニクス同士の調弦というのは、隣接する完全四度音程である平均律の完全五度と第3次倍音が微妙にずれている(1:2:4に相当する基の弦長でのハーモニクスと隣接弦の第3次倍音とは微妙にズレる)ので、ハーモニクスで合わせて行ってしますと始めに調弦した弦から物理的に遠い弦ほどズレが大きい事になるのでやめた方がイイのです。ですからクロマティック・チューナーで調弦する方がハーモニクスで合わせて行くより断然に良い手段なのです。もしもあなたが純正完全五度と平均律の完全五度を楽器無しで耳で(頭で)映ずる事が出来るほど差異感を持っていれば、強く勧めはしませんが、そういう人でない限りはチューナーは必要となるでしょう。


 まあ、そんな訳で純正律と純正調はどう違うのか!?という事を説明することにしますが、それでは次の表を見て貰う事にしましょう。茲では幹音に相当するハ長調域のみを示しているのですが、純正律というのは純正律長調と、その平行短調である純正律短調とが存在し、夫々微妙に音律が異なります。ですので表の中央に「純正律(純正長調)」と括弧で示しているのはその為です。
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 そういう訳で、茲で語る純正律は厳密には純正律長調を語ることになります。そこであらためて確認していただきたいのは、純正長調にて生ずる各完全五度音程であります。

 例えばハ音─ト音(c - g間)の完全五度はホ音─ロ音(e - h音)と等しい「順八」であるのが解ります。同様に、ト音の下方四度である「逆六」のニ音(g - d間)の完全四度音程は498セントなので是も亦純正完全四度というのが判ります。

 そこで今度は赤色で示したニ音─イ音(d - a間)で生ずる完全五度を見て貰いましょう。もうお判りですね!?長音階の上主音と下中音間の五度は他の完全五度と違うのが純正律長調なのです。そこで、この五度も他の純正五度と同様に存する音律はピタゴリアンというピタゴラス音律があるのですが、実はこれも純正調とは異なるのです。

 抑も純正調とは、先のニ音─イ音間の五度を他の五度にも配慮して同等にした物ではありますが、ピタゴリアンとは違います。純正調とは田中正平がドイツでも勲章を貰った53平均律に伴う純正調オルガンに伴う音律でありまして、田中正平のその「功績」は、自然七度をも含む事のできる細かな音律を以てして整えられたというモノなのです。

 つまり、ニ音─イ音間を慮っただけではピタゴリアンと同等になってしまいますが、抑もは純正律というのは五度音程に重きを置く音律で、ピタゴリアンは三度音程に重きを置いている上で生じている純正五度という事をも理解しておく必要があります。


 これらを知ると、田中正平の純正調とはさぞかし凄いものだったのだという事として理解されるでしょうが、実は近親的な調性への転調で大層な問題があるのを溝部國光は自著『正しい音階 音楽音響学』にて詳悉に傍証を挙げて語っております。

 処が、平島達司著『ゼロ・ビートの再発見』では同著63ページでは伊藤完夫氏の言葉を借りて、田中正平の純正調に就いて端的に述べている為に田中のそれが礼賛されかねぬ文章になっているので注意が必要なのでありまして、茲の文章では「自然七度も含む」という事が其れ以上詳らかに語られていない事もあり、さも純正調とやらが自然七度たる純正音程をも含んだ金科玉条の音律の様に思えてしまい、背景を全く素知らぬ者からすれば純正調を実態以上の魅力を伴わせるかの様に思えてしまいかねないので注意する必要があるのです。

 他方、伊藤完夫著『田中正平と純正調』内では自然七度について、225/224という音程比、つまりコンマ(=シントニック・コンマ)の1/3に収まる微小音程、という風に述べられているのが正確な記述であり、決して自然七度をも包含する53平均律とて実際はシントニック・コンマの1/3ほど純正音程の自然七度からズレた音である事を示しているので、その七度は真の意味での「純正」では無いのであります。

 シントニック・コンマの1/3とはいえ、12弦ギターにて8セント近くもズレたら相当狂った感が強くなるのが実際でしょう。使う和音によっては甘美に響くかもしれませんが、「硬い」和音を多用する音楽では2セントのズレでも大きい位です。とはいえ、そんな硬い和音を多用する音楽でも、和音体系にドップリ浸かって甘えてしまっているのが現状なんですけどね(笑)。

 そういう訳で、田中正平の53平均律のそれは、先のイ音(a音)が、a音より1コンマ低い音も網羅しているので、ニ音─イ音の五度も整合性を保つ事が可能になりますよ、というのが現実なのであります。とはいえ、それが「純正律」とは全く異なるのは明々白々でさぁね(笑)。


 これらをきちんと理解したければ、溝部國光著『正しい音階 音楽音響学』を読むべきです。そして同著に田中正平の問題点も詳らかに語られております。その上で「純正調」とやらをきちんと純正律と区別して呼ぼうとも、純正調とやらを生んでしまった側に近親性のある調性に対する転調に問題を抱えているので、溝部氏はその問題のある所を発端とする名称の区別を敢えて回避して、同著では純正律=純正調という風に同じ括りをしているのですが、純正調とやらを純正律と一緒にしてしまおうとする魂胆ではなく、傍証を読めば解るだろうという意図は解りますし、語句の区別に拘泥していない事も併せて判ります。


 とはいえ、そんじょそこいらの皮相浅薄な知識しか有しない輩が純正律と純正調を全く同列に語っているのは別物です。抑も純正律は横の線としては歪〈いびつ〉です。しかし、和音を響かせる時のビートを極力忌避して澄明度を上げる事に躍起になって生じた体系と言えるのであります。

 ではあらためて問うてみます。ビートをそこまで忌避したいのであれば、不協和音程でもビートのない純正音程は幾らでもありますよ、と(笑)。現今社会において微分音も巧みに使われる様になれば、それこそこうした音にきちんとした理解がなければ、純正であるから純正律を是とせよ!とか、平均律はやっぱり使えねー!とか馬鹿共が喧伝する様になるのが関の山なんですよ(笑)。字義が純正で真正であるから、ついつい原理主義に向いてしまうというワケですね(笑)。考えの浅はかなのは、音楽でなかろうと政治や社会的な事もで、自身でどうにでも歪曲してしまいたいが為に真正の強さを何処かに求めて動かざる原理主義を求めてしまって陥穽に嵌るのと同様でして、この様な理解もなく、純正律と純正調の違いも判らずに楽音を耳にしているならば、完全八度だけ聴いてやめちまえ!と罵ってあげるべきでありましょう。その手の連中が音楽を繙くなど50世紀は早いかもしれません。

 ま、あらためて溝部國光先生は凄いなと、今になってあらためてつくづく驚かされる事しきりです。というのも、ネットメディアが整備されてからは特に顕著なのですが、間違っていたり無理解であっても鉄面皮のままにネットという安易なコミュニケーション上にて喧伝したり挙げ句の果てには嘘すら助言してしまうかの様な輩がのさばっているというのが非常に残念であると私は思うからです。

 己の言葉に間違いはあろうとも、悪びれる事もせずに誰かが正答でも用意してツッコミでも入れてくれればしめたモノ、とでも思い込んでいる所が更に痛々しい所。このように正しい知識を獲得するプロセスが全く歪曲しているならば、正答を得た所で、正答を得る事で自身を高めようとしたりする正しい知識の獲得のプロセスと知識の源泉に対して冒涜している事なので、結果的に、自身の満足を得られれば良いだけの連中というのは、虚構を獲得しても一時は大層満足するのでありますね。己の脆弱さの対立項として強かで居ようとするのは、自分自身が可愛いが故の逃げの行為だからであります。故にネット上であらば嘯き乍ら泳いでいられると思い込んでしまっている様な輩が喧伝してしまう様になるんですな。あらためてネットの在り方というのを考えさせられてしまいます。