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属七提要 柒 〈基底和音に見るオクターヴ・レンジ〉 [楽理]

 扨て、引き続き分数コードの実例を引き合いに出し乍ら「基底和音」の在り方というのを語ってみようかと思います。


 殊ジャズ/ポピュラー界隈の分数コードの解釈の殆どは、下声部が単音という分数コードばかりを多く見掛けるものだから、分数コードの分母(=下声部)は単音であるべき!という風に誤解している人も少なからず存在してしまう様になったのはコード・ネーム体系化が招いた功罪の一つのシーンと言えるでしょう。メリット多き体系化であった筈なのに形骸化してしまうというのは何も音楽シーンだけに限らない事ではありますが、後続の人々の為に整備した体系を何も考えずに使い出してしまうと、その普遍性に埋没して神経を尖らせる事をやめてしまうが故に、音楽上の体系をもその後の使い手が「惰性」に変えてしまうからに他ならない事が原因であると私は感じております。総じて後続の人々に責任があるワケではありませんし、後続の人々の中には真摯に体系を学ぶ人も少なくないのは事実です。ですが、体系に有り難がる人間の惰性が生み出すパワーの方が圧倒的に強いのは事実で、そうした潮流は時に正しいポジションの地位をも脅かす位であったりもするので質〈たち〉が悪いのです。


 分数コードの分母は和音の体もある。そうした例が稀薄になってしまうからこそ、分母が和音に成る時の注意喚起として分母にコード・サフィックスを配したりする様になったのでありましょう。体系に有り難がる人で分数コードの分母に尻込みする人の類は短調での偽終止形に於ける「♭VII△/♭VI△」の用法を知らないのでしょうか!?イ短調(=Am)で言うならば「G△/F△」ですよ。短調の上主音を主旋律(※トニック・マイナー上ならば9thの音。つまり新東京音頭のような9thがマイナー3rdに寄り付かない音が出来する様なシーン)にしてこの和音を背景に与えるだけでも暗喩に富んだ曲の終止感を体得する事が出来る筈なのに、こうした事すらも知らない様では、先の6声の和音を次の様な単なる「G (on F)」と奏してしまう様では、なんとも味気ない、それこそカルピスを5倍薄めた様なハーモニーにすら感じてしまいます(笑)。


 深みのある情緒を加える為に、それならば下声部が単音ではありますが他にも短調に於けるV7(on ♭VI)の用法なんていうのは、イ短調で例えるならば「E7 (on F)」も好例となるでしょう。

 こうした「深み」は例えば、昔北島三郎が出演していた永谷園のCM「すし太郎」のCMソング、冒頭の属和音の箇所にて敢て「V7(on ♭VI)→V7」とか「V7(on ♭VI)→V7(♭9, ♭13)」とやると、グンと深い情感の弾みが附くワケです。後者の進行だと、最下声部にあった♭6thが、次のV7和音上での短九度音である「♭9thに倒置」される(=上と下が逆)のでありますね。こういうのは短調のそれに深みを与える訳です。

 因みに、新東京音頭やらサブちゃんを引き合いに出しているのは私のおフザケ感が出ておりますが、例としてふざけているワケではなく、寧ろ「短調臭さ」を判り易くする為に敢えてこうして例を出した訳です。


 とまあそんな例は扨置き、分数コードの分母部分という基底和音に短和音はあまり見掛けないものではありますが、短和音が下声部にあっても構いません。亦、分母に四声体という「七の和音」をあまり見掛けないのはどうなのか?という事に於いても存在する事なのであります。

 特に後者の、分母が七の和音という風になっているのはストラヴィンスキーの『春の祭典』では顕著なのであります。茲で重要なのは、基底和音は三度音程累積の形で単音程に収まる体である事が重要であるという事です。通常はメジャー・トライアドというのが基底和音になるのが多いのですが、マイナー・トライアドも在っても構わず、加えて、単音程(=1オクターヴに収まるオクターヴ・レンジ)に収まるのであれば基底和音が七の和音でも構わないワケです。

 然し、実際には分数コードの基底和音部分に短和音が配される例は非常に少ないのが実際です。これはメシアン以降になって顕著であると思いますが、マイナー・トライアドというのはメジャー・トライアドと比較して基本形の音程比が逆行する様に配されるので、差音とは異なる下方の音脈とする「不可視」の領域への牽引力はSuppositionを探る様にして短和音は仮定バスにある長和音の体を探す、という風にして安定を求める状況にあると考える事が出来る為に、基底和音にある短和音の姿とはそれ自体がまだ「仮の姿」であるのではないか!?という風に見られ、脈絡の先がまだ在るという風になる處に起因して、その後目にする機会が少なくなったのではないかと思います。とはいえ、複調的な解釈であれば、上声部と下声部それぞれにある音や和音がたすき掛けの様に配置を入れ替わる「倒置」があったりする事など珍しくもないので、そうした和音連結の交換で下声部に短和音が生じても、それが稀なケースであるからと言って回避すべき事では決してありません。

 メシアン以降という風に述べた理由は、所謂「移調の限られた旋法」のそれらが包含しているのは、長音階の断片と半オクターヴ(トリトヌス)と長和音を主和音とする事というそれら3つが含まれている事が最大の特徴なのであり、これはメシアンが、均斉と安定の為にこのようにして作ったモノなのであります。下声部に短和音が在る場合、その下方三度がダイアトニックであろうがノン・ダイアトニックであろうが双方の下方三度を「Supposition」として長和音の為の音脈を探るようにして音脈が出来するというのはこうした事に依拠するからであります。


 和音進行が動的でなくなれば、基本的に和音は一発モノと言われるコード進行か、モードといわれるいわば調性社会でのカデンツを利用せずに「トニックとその代理関係 or それら以外」というI類とII類のコード進行を作る事で動的進行を行なわず、旋法性を出す様に工夫されているのが「モード」の最たる世界観なのであります。つまりトニック、サブドミナント、ドミナントではなく、「トニック類かそれ以外」というのモードの世界観を演出する為の仕来りなのです。「それ以外」というのは旧来の調的社会でのサブドミナントとドミナントの和音の何れかを選択すればイイという意味ではなく、トニック以外ならナンデモ、という状態である事が重要です。

 そこで、モード社会では背景にある和音を既知の、カデンツを要求してしまう類の和音を重畳しく奏してしまうと、調的勾配を生む流れを産み易い状況になるため、和音を稀釈化する事が歓迎されるのです。仮にそれが3度累積型の既知の和音体系であったとしても分数コードにして稀釈化したり、あるいは3度音程累積に拘らない和音の積み上げなどが歓迎される様になるワケです。


 例えばDドリアンというモードにおいて、まんま愚直に旧来の3度累積型のダイアトニック要素を匂わせるコードを選択して「Dm7」を充てるばかりではなく、I類の和音として「1・4・5・7度=(d、g、a、c)」を選択したとしたら非常にモード体系らしくなりますし、その和音の次に進行させるII類の和音を先の度数以外の音「2・3・6度=e、fis、h」を積み上げても立派にモードは成立しますし、I類の和音とのsimilar note(=共通音)をII類の和音に持たせて「e、fis、h、d」としてもモードは成立するのです。其処にカデンツはありません。
 
 モードとはこういう事であり、背景に調性を匂わせない程度の在り方の方がモードらしく振る舞えるのであります。但し、コード進行という「勾配」を消極的にして、仮に属和音であろうとも本位11度音を視野に入れた類の和音を挿入するのであれば、それも亦立派な「モード」的要素を齎すのです。つまり、本位11度を示唆しているという事はそれ自体で「分数コード」の出来と同様なので、調的要素が稀釈化する、という言葉の意味はこうしてあらためてお判りいただけるかと思います。

 そうした和音構成音を調性社会と鑑みれば、カデンツにおける3コードというのは、「1・3・5度」「4・6・1度」「5・7・2・4」を一通り使って初めて「1〜7度」全ての音を使うからこその「全音階」(=ダイアトニック)なワケでもあります。旧来の和音体系とは異なる視点で全音階を見つめる。つまり旋法性を生むという事と調性社会との差異はこういう風に表わされるのであります。

 とまあ、こうしてモード体系における和音構築の「自由度」も語った訳ですが、その「自由度」とは調的情緒を回避させる為の工夫なのであります。起承転結を表わす四コマ漫画が調性社会だとすれば、モードのそれは二コマで表わす終わりの無い様な物であるとも言えるでしょう。

 
 処で、オクターヴ・レンジを示す先述の「単音程」ですが、複音程というのもあります。和音というのは複音程の範疇にある音を「テンション」とするのであります。これはポピュラー音楽界隈ではとても誤謬が蔓延している事でもあるのであらためて念を押して置きたい所です。以前私がポピュラー界隈の音楽用語事典を知人の息子さんから拝借した時に知った事ですが、リットーミュージック刊『音楽用語事典』でのテンションの扱いというのは、和音のトライアド以外の音をテンションとしてしまっており、少なくともリットーミュージック以外に於てもこういう風にして括っている体系があるのだろうと思いますが、歴史からしてそれは誤った解釈であります。私はこの点だけ(=テンション・ノート)に於いてもドレミ出版の『実用音楽事典』をお勧めしたいと思います。テンション・ノートについてドレミ出版の方は何の誤りもありません。

 この「単音程」に収まるという事は、3度堆積型の和音であるなら「七の和音」という7th音を伴う音までの事を包含するので、「複音程」という単オクターヴには収まらないオクターヴ・レンジが必要と成る和音がテンション・ノートを附加させる事である、という意味になるのです。

 ストラヴィンスキーが『春の祭典』で使用した和音で基底和音に属七を配するのは、単音程に収まる和音を基底和音に用いているに他ありません。ですから、基底和音がトライアドでなければならないという事など単なる遭遇する頻度の差異でしかないのです。

 テンション・ノートを視野に入れる際、5度音を基軸として上と下に「1・3・5度」と「5・7・9度」という組み合わせの複調性が生じるというのも必要な知識であります。尤も、四和音の時点で例えばC△7という和音があれば、其処には「ドミソ」というメジャー・トライアドと「ミソシ」というマイナー・トライアドというのが同居している世界観でもあるのですが、Cメジャー7thという和音の性格を把握しようとする現今社会の大半では、そうした異なる和音が同居した音の様に聴こうとせずに一気に一つの和音として聴こうとしてしてしまう様になるのは、横の線の現われが稀薄だからこそ和音に頼ろうとする聴き方が蔓延したが故の弊害とも言えるかもしれません。少なくともジャズではCメジャー7thという和音の響きをC△とEmが同居する様な聴き方等まずしない事でしょう。


 東京書籍刊山下邦彦著『坂本龍一の音楽』では、先の四和音のメジャー&マイナー・トライアドが同居する様な聴き方のそれを、小室哲哉が過去にキーボード・マガジン誌上にて連載していた事を例に、「和音の捉え方としてTKの様な聴き方はしない」と批判めいて繰り広げている部分があります。私自身、小室哲哉の音楽性は好きではなく、陳腐な曲想だという事を自分自身が気付いてい乍らその陳腐さを排除する為に唐突な転調を行なったりする程度で、重畳しい和音の響きに依拠する方の唐突さが稀薄なので私は小室サウンドとやらはとても馴染めない物があったりします。そんな私でも、山下邦彦のそのスタンスには「違う!」と指摘する必要があるでしょう。その点に於いては(※C△7という和音にはC△とEmが同居するという教え方)小室哲哉の方の教え方の方が正しいという事を。

 2014年正月でのテレビ朝日系列で、林修「今でしょ講座」にて葉加瀬太郎氏を講師にして音楽史を語っていた時でも、葉加瀬氏はドビュッシーの和音の時にやはり小室哲哉と同様の教え方をしていたモノです。つまり、CM7というサウンドがどことなく哀しげであるという性格を伴うのはCメジャー・トライアドとEマイナー・トライアドがあるからなのだ、という事ですね。この教え方が正しいのは、日本ではステファン(シュテファン)・クレール著『和聲學』ではこのようにして教えられている訳です。つまり、クレールの時代の頃の和声学ではトライアドよりも重畳しい四和音以降の音はこういう風にキッチリ教えられていたのは、七の和音が齎す「音の硬さ」をきちんと体得出来るようにする為の狙いがあったのだという事は想像に難くなく、単音程に収まる和音の扱い、つまり、基本的なダイアトニック・コード群を三和音ではなく四和音を基にする様に変化していくのも、その和音が単音程に収まるが故の事である事に何の疑いも無い事なのです。

 仮に七度音をテンションとしてしまうならば、なにゆえダイアトニック・コードをテンションありきで語ろうとするのか!?という非常に許し難い撞着が透けて見える訳ですね。一般的に音楽関連出版会社を比較してみた場合リットーミュージックとドレミ出版の両者では広く若者の間で支持されているのは恐らく前者であろうと思う訳です(失礼!)。それ故に前者を支持する者はその社会的地位という「支持」を根拠にするのでしょうが、一方、広くは知られていない立場が弱かろうが正答を述べているドレミ出版さんがそれで若者の方から支持されない様な社会であってはいけません。ネットが普及しているにも拘らず、こうした誤った理解がきちんと是正される事を期待するならば、それこそドレミ出版の正しい姿をネットの伝播力がきちんと伝える事が正しいネット文化の在り方である筈なのに、大概のどうでもイイ類のネットの情報など結局多勢に無勢とする所に安堵するのが関の山なんですね。誤りを見抜くには誤りの方面からは学び取れない訳です。ですから一冊の本だけで満足してしまってはいけないのです。一冊の本で「これ一冊でゼッタイ判る!」とか「サルでも判る」だのとヤられて、猿にも劣る音楽観を養っている様ではいけないんですよ(笑)。ゾウさんだって人間よりも高い精度の絶対音感があるんですぜ。象に負けたかぁねーだろうよ、フツー(笑)。口惜しかったらゾウさんに運指叩き込んで来いと言いたい。


 和音構築に於いて単音程と複音程の在り方が判れば、分数コードに於いて、例えば上声部の9th音に匹敵する音が下声部に来た場合、それが9度ベースではなく2度ベースという風に「複→単」という転回の置換が起こるというのは、そうした面からもお判りいただける事でしょう。つまり、上声部にC△があり、C△から見た9th音=d音が下声部に単音としてある場合、このコード表記は

C/D または C (on D) または C△ (on D)

 という風になるワケです。これらを総じて「2ndベース」と呼ぶのは「9thベース」ではないからです。9thは複音程なのです。2ndは単音程なのです。単音程への置換が必要だからこそ複音程は変化するのです。同様に7thベースという分数コードがあれば、それは単音程であるので単音程が維持していればいいだけの事です(続)。