SSブログ

短二度への収斂 [楽理]

四度音程を累積させた構成の和音はなにゆえ「二度」と見るのか!?という事は先にも述べたコトでもありますが、今回のブログ記事タイトルの通り、コレそのものが「回答」です(笑)。しかしながら左近治はそんな解説にとどまらず、完全四度累積の四声体から短三度音程を応答させたり、他にも四度累積に限らずハイパーな和声を取り上げたりするコトが多々あります(笑)。そんな左近治のハイパーな音楽観の礎となっているモノなどを取り上げてみれば一層触れやすい題材となるのではないかと思いましてあらためて語るコトにしたワケですね。


記事タイトルにある通り、「短二度への収斂」という言葉の意味は、すなわち「半音階への帰結」と受け止めていただいて結構です(笑)。

まぁ、実際には帰結ではなく、半音音程よりも狭い微分音という世界へ飛び込むのでもありまして本当の意味での帰結ではありません。いずれにしてもそうした音の世界への欲求がやまなくなってしまった感覚はもはや神経庭が欲しているようなモンなんでしょうな。


私がこの手のハイパーな音楽観の礎となっている理論書は幾つかあるワケですが、まあ後ほど数冊ほど紹介しますが前もって言っておきますが、それらの著書を隈無く理解しても、左近治のハイパーな音楽観とやらのヒントになる程度のさわりになる位で、回答となるものは載っておりません(笑)。ただ、何処の馬の骨かも判らぬようなハイパーな音楽観というよりも、出自のはっきりとした所の刊行物から得られる知識は、それがかすかなヒントであったとしても充分な助力となるのがその手の理論書だったりするモノです。

しかしながら音楽の理論書の多くは、音楽的・器楽的方面の感性が重要なので、文語的な方角での読みやすさと理解しやすさを備えてくれている本というのも実は非常に少ないのもありまして、あまりに端的な表現をするコトで読み飛ばしてしまっている事もしばしば。音楽的な人間というのは、アーティストのキャラクターとやらを瞬時に理解できるような探りの引き出しや音楽的なボキャブラリーを備えているものの、言葉の方のボキャブラリーを同様に備えている人というのは読み手はおろか、書き手の方も備えていない人もおりまして、理解を深めることだけでも難しくしてしまっている本は沢山あるのが現状です。しかし、学び取りたいものに関しては、どんな「フレーズ」であっても理解を深めなければならないと私は信じてやまない人間なのであります。


どうしても理解したいモノであるならば、怒号を浴びせられようが屈するコトなく私は理解しようとするでしょう。まあ、私のブログが「高飛車」的な文体で匂わせているのはそういう所からでありまして、自分以外の人間を敵視しているがあまりにこういう文体にしているワケではないんですよ(笑)。読んでいて気分が良くなるような文体でない事は重々承知です(笑)。

そういう事に加えて、ネット上での情報の在り方という事にも大衆迎合したくはないという、天の邪鬼な左近治の性格が拍車をかけてしまうためか、ついつい文体そのものは「上から目線」的なモノになってしまっているかもしれません。ただ、こーゆー所に気付いてほしいワケです。


「音楽に気分の善し悪しカンケイあんのか!?」と。


私だって好きな曲語らせたら、たった1曲であってもどーゆーコトになるかは継続してお読みになられている方なら大方想像が付くとは思いますが(笑)、音楽って心地良く聴いていたいですよね、フツーは。でも「気分の善し悪しカンケイあんのか!?」なんて、まさかテメーの口から聞くとは思わなかったよ!!とお思いになられている方は結構いらっしゃるのではないかと思います、無論、私も大抵は気分の善し悪しに左右されて聴いていると思います(笑)。でも、その善し悪しはどうあれ、気分の善し悪しとやらが音楽にどうカンケイあるのか!?というコトはとても重要な事なので、この言葉についてはよ〜く覚えていて欲しいと思います。追々語っていきますので。


扨て、四度音程にて構成させる和音について詳しく述べられている理論書となると筆頭に挙げられるのが、かのシェーンベルク著の「和声法」でありましょう。シェーベルクの和声法で取り扱うハイパーな世界観というのは四度音程の累乗によって得られる半音階だけではなく(完全四度を11回累積させれば半音階を生じる)、和声を構成する各音の音程幅の周期性を説いている所が最も注目すべき所なワケですね。例えば短三度を半音3ヶ、長三度を半音4ヶとすると、いわゆるポピュラー形式の「Cm9」というコードはルートから数えて”3-4-3-4”という規則性を持っており、「CM9」という型だと"4-3-4-3"という風になります。

シェーンベルクの場合、それらの音程関係が先述だけのような規則性とは異なる規則性、つまり長三度-長三度-短三度とか、短三度-短三度-長三度とか他にも多くのバリエーションを謳っている所が最大限に注目すべきハイパーな和声観なのであります。

平たく言えば、通常一般的に用いる和声は、ある一定の調性内のルールに則ってトニック、サブドミナント、ドミナントという機能を得ているワケですが、そういう機能的な束縛から解放された着眼点で、和声を構成する各音の「音程の在り方」という点を多くの例を挙げているのであります。

残念ながらシェーンベルクの各著書は国内では現在「作曲の基礎技法」を除いては絶版となっており、この「和声学」を目にする機会は少ないかもしれません。そういう状況である現在というのは少子化社会で学生も少なく、音楽を志す人間もさらに少ない状況で、これから音楽をひたすら学びたい人にとっては受難の時代とも言えるでしょう。しかし、こういう入手困難の書籍類であっても国立図書館などに足を運べば目にすることはできるワケですし、ネットばかりに目を向けることなく今一度情報の原点を探るコトというのは重要なコトだと思う事しきりです。


書籍や録音物というのは概ね、それそのものへの所有欲が高まって独占しようという強い衝動にかられたりするモノです。ところが音楽的な理論書は先述したように言い回しが独特であって独占的に所有することができたとしても独力で理解することが困難だったりすることなど珍しくもなく、音大やらに身を置いている内に識者からの手解きを受けた方がマシだったりもするもので、決して所有することを是とするワケでもないのではないかと私は思います。勿論持っている事に越したことはないですけどね。

それはレコードやCDについても同様で、持っているにも関わらず楽理的な側面を誰かから手解きを受けない限りは理解することができなかった、という人の方が多くて当たり前なんですよ。音楽の深部、特に楽理的な方面の知識を最大限に得ようとする欲求が強い人であるならば、その音楽のレコードもしくはCDの「所有」そのものにはそれほど頓着する必要はないと思うワケです。どれに対して自分の欲求の力点を置くのか!?という事を最初に感じ取っておかないといけないと思います。


いずれにしても稀少性が高まることで所有欲ばかりが募ってしまうコトもあるかもしれませんが、手に入れることも目にする機会すらも少ない物においては割り切りが必要ではないかと思うワケです。どんなに稀少性の高いモノであってもそれを所有しているからといって楽理的な深部まで熟知している人が全てではないのですから。但し、そのレアな理論書は何かしらのカタチで知っておいた方がイイかな、とは思います。少なくとも私のような出自のハッキリしないヘッポコ野郎の言っているコトよりかは(笑)。


例えば、先のシェーンベルクの「和声法」。四度和音やら三度音程の規則性を伴う和声やら取り上げておりますが、シェーンベルクに留まらずドビュッシーやらバルトークやら、近世の音楽をも対象に色んな用法を例に挙げて客観的に分析しているのが松平頼則著の「近代和声学」でありましょう。客観的な分析という所が良い点であります。また古典的なルールに固執していない角度からの分析として半世紀以上も前にこうした分析ができるのはあらためて凄いことだと思いますし、こういう本と今現在流通する理論書を比較すると、今現在の理論書なんて殆どは古典的な枠組みすらも超越していないようななんちゃってポピュラー形式の「音楽理論(笑)」なんて間違いではないけれどもヒドイなぁ、と思いますね(笑)。


左近治はよく、長七度と短七度(=増六度)が同居した和声を遣いますが、これは私自身がメシアンに影響されている所から端を発しております。例えばメシアン著の「わが音楽語法」には「倍音の和音」という風に紹介されておりまして(accord de la résonance)、左近治が使うタイプとは少々違うものの、長七度と増六度の同居という根拠は実際にはメシアンとハービー・ハンコックから私は影響を受けているのであります。特に、私が過去に紹介してきた独自のハイパーな和声で「Fsus4/Db7」という上声部にFsus4、下声部にDb7という「便宜的な」表記で扱った和声がありましたが、この影響はまさしくメシアンに倣ったモノであります(まんま使っているワケではありません)。メシアン著の「わが音楽語法」においては「虹の音」と形容している和声がありますが、一見すると長七と短七を同居させたようなこの和声は、先の「倍音の和音」と別に「Arc-en-ciel dinnocence」と紹介されているので興味のある方は一度著書を確認してみることをオススメします(左近治の先のハイブリッド・コードとは違います)。

ココで重要なのは、左近治の用いるハイパーな和声とやらは、メシアンやヒンデミットやバルトークに大きな影響を受けながらも全く同じように模倣しているワケではありません。なぜ違うのか!?という事は四度累積構造の和音が二度の和音やがては短二度への収斂、という事を述べないと理解していただけないと思います。ですので今回語るワケですが、こうした真相を今更ながら述べるのは、早々と手の内を明かしたくないというのがまず一つの大きな理由(笑)。加えて、無償にて提供するネット上の情報に実際には目ざとく&あざとくタダ乗りして利用されるのを極力避けたいというのも二つ目の理由ですな(笑)。とはいえ左近治のたわごとなど大した影響力はないので気にかける必要など無いとは思いますし、多くの著書に目を通した方が答を知る手短かな手段であるという事もあらためて申し上げておこうかな、と(笑)。



BTW、メシアンの「わが音楽語法」も残念ながら絶版でありますが、先のふたつの著書と比べると情報量の多さでは「わが音楽語法」は非常に少ない方です。しかしながら、先のふたつでは私のハイパーな和声観のヒントとなるようなモノは載っていたとしても、そこから倣うことのできるような解説など掲載されているワケはなく、「わが音楽語法」を読んでも左近治が用いている根拠を見付けることはできないと思います。但し、その中でも「わが音楽語法」は先のふたつの著書を扨て置いてまで真っ先に目を通して学んでほしい、コレが最もハイパーな和声感覚を学べる名著だという事を断言しておきます。


メシアンもシェーンベルクも現代音楽を代表する作曲家でありまして、それこそシェーンベルクなどは十二音技法を編み出した希代の天才で、皮相的な理解だと小難しい音楽の権化みたいに思われてしまっているワケですが、シェーンベルクの各著書を読んでみると、如何にして厳格なまでの機能和声やら数々のクラシックの流儀を会得した上で構築された世界観を構築しているのだという事を如実に知らされるワケでして、難しく聴こえりゃイイってモンじゃねえんだよ!みたいな所から懇切丁寧に述べられており、まさかシェーンベルクから基礎を叩き込まれるとは思わなかったみたいに面食らう所すらあるかもしれません(特に「作曲の基礎技法」を読めばそのように感じるでしょう)。


メシアンの「わが音楽語法」に載っている驚くべきコトは、氏も亦、いたずらにハイパーな音を選別しているのではなく、普通の調性感覚を有した上で難しい音を構築しているのが多調音楽、特に3つの調性で構築されている音楽のかたどりを述べている所で「逡巡するような響き」という言葉にはとても注目せざるを得ないワケですな。いわゆる「調性がどこにぶら下がればイイのか!?という迷い」を表現した言葉なワケですが、そうしたベーシックな誰もが備えているであろう器楽的な感覚からきちんとハイパーな世界を見つめて解説しているワケですな。こういう判りやすさは、「わが音楽語法」は群を抜いております。


おそらく、左近治の語るハイパーな世界観をひとつのテーブルに全部配置した場合、最も手っ取り早い著書は芥川也寸志著の「音楽の基礎」、オリヴィエ・アラン著の「和声の歴史」、濱瀬元彦著「ブルーノートと調性」を挙げるコトができるでしょうが、これまた3つを読んでも実際には左近治のヒントとなる事は理解できても、根拠を見出すことはできないのではないかと思います(笑)。あくまでも、左近治の言っている事は眉唾モノではないのだという事を補強してくれる著書です。


私が最も影響を受けているのはやはりヒンデミット著の「和声学」でありまして、第13章の「拡大した変化和音」は最も注視すべき点でありまして、過去にも根音バスを求めて和声をノン・ダイアトニック方面へ拡大する例を挙げましたが、こういう所からヒントを見出しているのでありますが、これらの著書を読んだ所で唯読んだだけではハイパーな和声観に昇華できる人は極めて少なくなるのが現実です。私は学生時代にはこういう知識を同輩の連中には決して口にしたりする事はなく、理解の進まぬ人間に手を差し伸べる事は絶対にしなかった卑怯者であったかもしれません(笑)。


その後、レンドヴァイ著の「バルトークの作曲技法」で中心軸システムに遭遇するワケです。皮相的な理解だと楽節やらリズムなどの音群というのはある一定の周期的な規則性をバルトークの作品に見出してその数奇な所に気を惹かせながら色んなエサを用意してくれているのでありますが、実はその数列的な規則性はそれほど重要な事ではなく、中心軸システムそのものが最も重要であるのにも関わらず、皮相的な理解者を炙り出すかのような、敗者切り捨てのために数列関連事項が載っているという実にいやらしい著書となっているのが心憎い所です。皮相的な理解をする輩は概ね数列関連に「食いついて」いる事でありましょう(笑)。これほど見事な選別をする本というものが本来の「本」だと思うんですけどね。


しかし、芥川也寸志著のそれはとても咀嚼された表現を用いて、ある程度ハイパーな和声の存在というものを認識するようになったら是非とも早い段階で目を通していただきたいと思うワケですが、これほど判りやすい楽理的側面の著書はそうそうお目にかかれないと思います。メシアンの「わが音楽語法」というのも実は同じフェーズに位置する、判りやすく高次な側面を扱う名著なワケであります。


最近いただいたブログコメントである程度日数を経過してしまったのでもう削除してしまったのですが、「難しいことを難しく解説していてガッカリ」というご意見をいただいた事がありまして、私はそのコメントに打ちひしがれているワケでもありませんし、コメントの発言者の方を恨んでいるワケでもありませんが、難しい事を簡単に述べるのって本当に難しいモンだぜ、と自問自答していたモンでした(笑)。客観的に読んでも(器楽的な知識のある人が読んだとしても)やはり難しく感じ取っているモンなんだなー、とあらためて痛感しましたけどね(笑)。


例えば子供の抱えるギモンって凄く簡単な言葉なのに要約されていますよね。ああいう端的な疑問というのは、理解が進まぬ前に難しい事を皮相的な理解の蓄積として成立してしまうと絶対にできない「咀嚼」なのです。覚える事が多いからと言って理解を先延ばしにしてしまうと音楽に限らずイイことありません。先日の左近治へのコメント発言者を子供扱いにしているワケではないので誤解のなきようお読みくださいね!


とまあ、そんなワケで四度累積の和音の魅力についても語って行きたいワケなんですが、どういう応用が考えられるのか!?という事は、ジャズを志す方なら間違いなく見付けるコトができるでしょう。そんな根拠とやらを何処の馬の骨か判らぬ左近治ではなく、裏付けのある著書を紹介してからやっていた方が説得力が増すだろ、と思って今回こうして幾つか著書を挙げてみたワケです。いずれにしても入手不可能な著書を追い求めていても始まらないので、本当に重要な著書は今一度お読みになっていただければ入手可能な所に重要なヒントは詰まっているのだという事を実感していただけると思います。それが、完全四度累積の四和音は二度和音という事なのです。