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新百合の転轍機たちよ [散歩]

扨て、今夏のヒンデミット関連のひとつで今回は7月31日、川崎麻生区にある新百合ケ丘のテアトロ・ジーリオ・ショウワにて開催されるプログラムは下記の通り。


新日本フィルハーモニー交響楽団
指揮:クリスティアン・アルミンク
ヴァイオリン:イザベル・ファウスト

ウォルトン:ヒンデミットの主題による変奏曲
ブリテン:ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品15
ヒンデミット:ウェーバーの主題による交響的変容


自由席とはいえ全席2500円と格安の内容。まあ川崎はお金持ちの街とも云われるのでありますが(道路も綺麗に整備されてたり広かったり)、行政サイドも結構クラシック関連にはかなり注力しているのは有名な話ですね。このように格安で聴けるのも行政サイドが予算を計上しているからと推察するに難くないワケでして、そんな恩恵にあずかってきたというワケです。まあ左近治も幸区出身ですし(笑)。同じプログラムがサントリー・ホールのそれとはかなり差があるのも頷ける所でありましょう。


今回の演目、もちろん私はヒンデミットを追いかけているのでありますが、「ウェーバーの主題による交響的変容」は、カノンを重厚に四至牓示のように構築して楽節を最大限に構築させるそれがヒンデミットの最大限の醍醐味ではありますが、曲想そのものは多くのヒンデミット作品とは違って柔和(にゅうわ)な曲想でありまして、それこそウォルトンのそれがヒンデミットのそれを用いている以上、音楽的な厳しさのある響きは意外にもウォルトンの方がヒンデミットの厳しさを備えているように聴こえると思いますが、ウォルトンの方はそこにラヴェル的な優しい彩りを和声的に変えて来るような曲想に仕立て上げてきます。


ウォルトンの「ヒンデミットの主題による変奏曲」は、ヒンデミットの没年に作られている事から、おそらくは師弟関係という近しい間柄でもあったであろう(詳しい相関関係は判りません)というリスペクトの念をビシビシ感じ取ることが曲にも表れているように思えます。特に第6楽章最後の厳しい「短二度」から第7楽章のスケルツォの対比は素晴らしいモノで、新日本フィルもこの曲では第3楽章と第7楽章は特に際立っているように思えました。


普段よりも気温が低く、会場の空調も結構冷えております。暑がり左近治が帰りに頭痛を伴うほど冷房にヤられた事を思えば、このペンギン獣人の権化と宣う左近治が如何に冷えきった体になったかという事は過去のブログをお読みの方なら推察するに容易いのではないかと思います。ただ湿度が高いため、温度が冷えた時って指板への汗のかき方や付着具合が少々違って来るので、弦の音も普段より「ツンツン」しちゃう(あくまでも左近治の経験談)であろうと思うのであります。いずれにしてもオーボエの人やら弦の人達は楽器のコンディションは結構大変だったのではないかなと思います。


ファゴットとコントラファゴットが少しピッチがズレた所がありましたし、イザベル・ファウストの演目ではトロンボーンがひとり立ち上がりが遅くなってズレてしまった所がありました。ただ、全体としてはややもするとヴァイオリンが全体的に音を稼ぐのが難しそうなコンディションだったであろうなと思いますが、全体的な音のバランスとしては変に浮き立つ所は少なく、ウォルトンの第4、5楽章辺りが最も難しかったのではないかなーと私は感じましたが、全体的にはかなりバランスは良かったと思いますね。


観客のマナーも先のオペラシティとは雲泥の差と言えるほど良く(全体で演奏中1回のクシャミと2回ほど咳払いがあり、あとは足や背中のthumpingは気にならない程度)、アルミンクもそんなマナーの良さに更に厳しさを観客に求めるように静寂をコントロールしながら終始、尻上がりに演奏が良くなっていきまして、ヒンデミットに関してはほぼパーフェクト!と言えるくらいの演奏だったと思います。音のバランスもフルートがクラリネットの上を滑るようなかき消されてほしくない「のどかさ」を保つような、安定的なバランスには感動です。

特にウォルトンの木管アレンジはカンタベリー系で言うならナショナル・ヘルスやヘンリー・カウ(中期〜後期)辺りが好きな人にはドンピシャ系の楽節が用意されているんで、興味をお持ちの方はウォルトンのそれと共にカンタベリー系の方のそれもお聴きになられてみたら如何かな、と思います。


それと、テアトロ・ジーリオ・ショウワは今回初めてだったのですが、地明かり(じあかり=客席の照明を落として舞台の素の明かりだけにすること)にしてから演奏までのいたずらに長くない、客の静寂を備える緊張とそれほど長くない苦痛を伴わないそれは、観客も結構スムーズに「緊張に」入り込めて、とてもイイ地明かりのタイミングで、照明さんもGood Jobです。

地明かりに慣れさせてしまうと、その暗さに順応してしまった客って地明かりのままという時間が長く続くと五月蝿さが解消されにくいので、できれば地明かりから演奏はいたずらに長いとよろしくないと思います。なにせ指揮者というのは客の拍手の特徴(=部分音の違い)すら聞き分けているとすら言われておりますからね。下手すりゃ「あ、またあの拍手の客来てるわ」位判っておられると言われておりますからね(笑)。そーゆー人に対してコンシデレートが必要なのでありますよ。

余談ですが私、開演90分ほど前にバス乗り場周辺でアルミンクを見かけたのですが、急いでいる様子だったので声を掛けることができなかったのが残念でなりません。