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和声的解釈と対位的解釈によるペレアスの和声 [楽理]

元来、「ペレアスの和声」という垂直レベルで生じる和声的な響きというものはそもそも二つの異なる調性(=半音違い)の旋律が対位的に併存した事で生じる和声だったワケでありまして、和声から先に生じたモノではないのでありますが、こうして生じた和声を「好意的に」用いることで、ペレアスの和声としての構造を優先させて、そこから生じる「音列」というものは、先のふたつの異なる調性を併存させたモノとは異なる解釈もある、という事を言いたいワケです。


端的に例として「B△/C△」というハイブリッド・コードがあったとします。これこそがペレアスの和声そのものですが、「対位的な解釈」の場合だと上声部にロ長調と下声部にハ長調という認識で推進させるという事で、それらの異なる調性が併存している時、偶々垂直レベルで半音違いとなる二つの長和音が生じたシーンであります。


ところが、先日のマイケル・フランクスの新譜「Time Together」収録の「Summer in New York」の場合だと、左近治がEハンガリアン・マイナー・スケールを提示しているように、このような場合だと「和声が先にありき」という解釈によって、ペレアスの和声を構成している音を頼りに和声を構築して、それを包含するヘプタトニック(=7音音階)を求めている、というワケです。


コチラの「和声が先にありき」という手法を例に採ると、「B△/C△」の上声部であるB△は、仮に対位的解釈であるならばCis(=C#音)が出現しても不思議はないワケです。「H、Cis、Dis、E、Fis、Gis、Ais」(=B、C#、D#、E、F#、G#、A#)という音列になればイイのですから。同様に対位的解釈であるならばそれと併存して「C、D、E、F、G、A、B」という音列が出現しても何ら支障はありませんが、和声的解釈ならば「Cis音」が出現するコトはなく、最も近似的であろうEハンガリアン・マイナーを想起するコトとなったワケです。


過去にも左近治の手前味噌なデモにおいて、ベース・パートは「対位的解釈」の方として注釈を付けている譜例を用意したコトがありましたが、そういう意図があるという事です。勿論左近治のデモのそれは、和声的には徹底的に「和声ありき」としての姿を用いているワケですが、ベース・パートにおいては対位的解釈によって和声から生じている音以外の音を使うコトとなるワケです。

私がそれをベース・パートに限定した理由は、例えばベースの場合だとウォーキング・ベースという「特殊な解釈」が必要とされる技法がありますが、ベース弾きが総じてウォーキング・ベースを学ぶ必要があるのかと言えばそうでもありません(笑)。しかし、他のパートとも一線を画すほど異なる解釈が要求されるのがウォーキング・ベースの在り方ですので、敢えて私は以前にそういうデモを用いたワケであります。


このようなウォーキング・ベース的なアプローチを前提としておらず、且つペレアスの和声の「和声ありき」という事を最大限に優先させたカタチというのが、今日の音楽では最も使われやすい手法だと思いますし、勿論マイケル・フランクスのそれも「和声ありき」としてのカタチで使っているのは明白であります。但し、ペレアスの和声の発生プロセスというものはきちんと整理して区別して理解しておく必要があると思いますし、両者を使い分けるコトでアプローチも多様な可能性がありますし、こうしてあらためてふたつの可能性を述べているワケであります。


というワケで、「ペレアスの和声」としてのカタチが垂直レベルに存在した時、そこで和声ありきの姿としてのアプローチを採る or 上声部/下声部それぞれに別のモードを想起してペレアスの和声の起源そのものの対位的なアプローチを採るのか!?という事を明確にして理解した方が良いという意味です。


以前に左近治が譜例に注釈を付けたペレアスの和声の取り扱いとしては、ベース以外のパートでは「和声ありき」としてのカタチを使わせておいて、ベースは「対位的」な方を選択するというモノです。こうした異なるアプローチの併存はアリなのか!?と迷う方もいるかもしれませんが、もはやこの手の世界では左手で三角形を描きながら右手で四角形を描いているようなモノだと理解していただきたいワケです。そこでベースが円を描こうとも、それはそれで充分アリなワケです。

※リンク先の譜例のベース・パートに「not C#」という注釈を付けている所です

ハイパーな音楽観を伴う世界においては誰もが皆同じ目の粗さの紙ヤスリを使うワケではなく、皆が違うのはある意味当然だと言えるでしょう。音を「ザックリ」と砕く(=オクターヴを分割)役目の人もいるんですが、大きく砕いたとしても不思議なことに対蹠点と遭遇する所が興味深い所であります。


ハイパーな世界観を伴う音楽はみなペレアスの和声を包含しているのか!?というとソレも全然違います。ペレアスの和声から読み取れるコトというのは、ペレアスの和声からもさらに和声は発展させるコトは可能でありますし、ペレアスの和声を生じたのはそもそもマイナー・メジャー9thの完全五度を基軸とした鏡像音程から金平糖のように根音バスで発展させていったモノだという風に見ると、あらためて和声が形成されている妙とやらを再確認することができると思います。

マイナー・メジャー9thから更に根音バスを求めて6つ目の音を生じたら、その鏡像形が最高音に7つ目の音を生じたとすると、マイケル・フランクスの先の「Summer in New York」についての現実がさらによく見えるかもしれません。

「Summer in New York」でのペレアスの和声は「B△/C△」で、マイケル・フランクス本人が「A#」を唄っているワケですな。カタチとしては下声部がCメジャー・トライアドで上声部がB△7とも言えるんですが、これは「Eマイナー・メジャー9th」から生じている鏡像音程なのだという事にあらためて気付いていただけると助かるワケですな。


でまあ、あらためて「半音のぶつかり合い」などと、それこそ半音が汚い&濁るかのように音を捉えてしまっている人も居るワケですが、実は別に濁ったり汚く響いているワケではないのでありますが、音が密集してくると、耳が習熟されていない人にしてみればその音の「波動」を読み取るのはとても困難だとは思います。しかしですね、対蹠点となる増四度/減五度の音程関係というものは二重導音によってすぐに導くことのできる音でもありまして、対蹠点に完全四度/完全五度で共鳴する音程は最初の基準から見れば短二度/長七度に位置するコトとなります。

さらには完全四度を3つ累積してみれば、例えばAから積み上げればA、D、G、Cとなりますね。つまり、CとD & GとAという響きは「2度に収斂」しているのでありまして、四度累積は実は四度コードではなく「二度コード」なワケです。完全四度を11回積み上げれば半音階を得られますのでゆくゆくは「短二度に収斂」つまりは長短無関係に「2度コード」なワケでして、これはペレアスの和声よろしくドビュッシーの音世界の最たるモノでもあるんですな。


短三度という音程は完全四度累積に置換させて応答させる事もできますし、すると二度を短三度に置換している事にも等しくなりますし、音のベクトルが短三度か短二度のいずれかへ指向しているのならば、それらの音程を足した「長三度」の累積は増和音構造を生むこととなり、こうしてオクターヴを最も最小の「多角形」として、まるでケプラーの法則であるかのように律することにもなっているワケですな。

増音程のモチーフが顕著なリストのファウスト交響曲についても過去にチラッと語りましたが、なにゆえその辺の特徴的な音を声高に語っていたのか!?という事をご理解いただけると助かるワケですな。今年はリスト生誕200周年なんですが、昨年のF.ショパン生誕200周年と比較すると、その扱いの差は歴然としているのが残念な所です(笑)。人によってはバルトークよりもリストの作品に高次な和声の貢献を語る人もおりますし、あらためてリストを知るのはイイ機会なのかもしれません。


そういう人達から200年経過しているワケですが、ドビュッシーの最盛期辺りからちょうど100年くらいなワケですな現在は。CDメディアが誕生して30年経ったワケですが、ショパンやリストから200年経過している事を思えば30年というスパンはとても重要であるはずなのに、その30年とやらはやたらと商業面ばかりがクローズアップされてしまって音楽の本質が見失われている感すら覚えます。

というのも、今や「机上で」ある種の方法論を繰り広げさえすれば皮相的な理解だけでも音楽は作れてしまうようになったワケですが、まだ見ぬ音楽の深さに対しては目をつむり、出来合いの方法論で作ってしまった音に酔いしれてしまい、方法論に頼り切りの感性はいつしか自身の根拠の無い崇高な自身に支えられて自身の感性とやらを高めようとしてしまう(笑)。そんな感性の範疇などあらゆる手段を講じても飛び越えてしまい、あまりあるほどの感性が溢れ出して来るような人にはなかなか遭遇しないのも事実です。

そのような天才的な感性を手に入れる事を目標とするのは早計でして、音楽を知れば知るほど狷介になってしまい、いつしかガッチガチのこってこてなポピュラーな方法論に雁字搦めになってしまっているだけの音楽しか作り出せないような感性しか手に入れることなんて経験者からすればすぐに察知できてしまうんですな。


車の教習所とかだったらいかに事故を起こさないようにするかという事を前提に運転技術習得に注力するワケですが、音楽というものはヤケドさせたりケガさせたりしないと判らない部分も往々にしてあるんですな。経験者からすれば「それ見た事か」と思うことしきりだったりするんですが、先ずは本人が経験しない事には先に進まないと言いますか(笑)。音を頭で浮かべられない者というのは実際にやらないと理解できないのでありまして、「机上の」方法論に雁字搦めになっているタイプの人間は往々にしてこの辺でつまずく事となるワケですな。


まあ、重力に逆らうコトなく身を委ねて自転車で坂道をスイスイと下る程度ならまだまだ下っても戻って来れる範囲で留まるコトができるかもしれませんが、下に居るべき者は底知れぬほど低い場所を見付けて転落していくものでもあります。ビチアス海淵に行き着いてもまだ足りぬくらい(笑)。山だってほんの少し滑落した程度で命を落とすこともあるワケです。

ヘドロの中に居ようとも、少なくともそこから必死に這いつくばって求愛するヨシノボリのようにアピールできるようになりたいモノですな。音楽という干潟を見付けてハーモニーを鳴らしてみたり。