SSブログ

綿菓子みつけた [散歩]

大震災から4ヶ月が経過し、日頃とは違うニュースでお茶の間を騒がせるニュースが飛び込んできました。それは勿論なでしこジャパンのW杯優勝のニュースでありまして、これはもうとんでもない偉業を達成したワケでありまして、決勝戦も左近治は徹夜でTV観戦していたモンでございました。


決勝戦は早朝から開始のため、概ね9時頃に寝付けば6時間ほどすれば起きて見られるだろうとタカをくくっていたのですが、胃の調子が思わしくなくなってからエアコンの冷気がトコトン体にガツン!!と感じるようになり頭痛も伴うってぇんで暑さをどうにかこうにか凌いでいたワケですが、台風も近付いてきて蒸し暑さにヤラれて結局寝付く事ができずに徹夜にならざるを得なかったワケですなー。


まあ6時前に3時間ほど眠れればイイっか!みたいに思っていたら、延長&PK突入でしょ(笑)。こりゃ眠れるワケありませんわ。しかもフテ寝じゃなくて狂喜乱舞できる優勝という御馳走いただいた日にゃあ徹夜くらいしても罰があたるワケはない(笑)。


若い時など暦日3日ほどまばたきオンリーで眠らずとも凌げたモンですが、このトシになると結構堪えて来るモンですわ。でも何かしら力漲る事をいただけると、こうしてパワフルになる事ができるモンですね。


今日本では、老若男女問わずして誰もが身を委ねるコトができるようにもたれかかるコトのできる人や物の存在を欲しているのではなかろうかと思う事しきりなんですな。政治でもそうですが、選挙をやって選出しているにも関わらず、次の選挙すら待つ事ができずにワイドショーこそが真実とばかりに無責任な人が多い(またはそうやって煽動できてしまう事に胡座をかくマスメディア)ために、選挙ですらも責任を持てない有権者。だけれども仮に間違ってあろうとも清々しさを求めているだけではなかろうか!?と左近治自身思うコトがありまして、多少強引であろうが牽引力と清々しさがあれば通用してしまうような雰囲気すら覚えるのがココ最近の日本全体の空気なのではなかろうかと思うんですな。


operacity.jpg

まあ、そんなハナシは扨置き、私がなでしこジャパン見たさに徹夜をしてしまったモノの睡眠を取りたかった理由は、その日18日はオペラシティにて読響を観に行く予定があったからでありまして、クラシックのコンサートとなれば公開録音でなくとも体調を万全にして、咳払いひとつもせずに物音立てずにジックリと聴きたいというキモチがあるので、普段から鼻炎を抱えながら、鼻がグスグスしてきたらどうしよう!?とか(薬で万全の対策済み)、胃腸の蠕動運動で腹がググーッと鳴ったらどうしよう!?とか(この日排便が無ければキャンセルする予定でしたが大丈夫でした)、色んな対策を講じて観に行ったというワケです。

特に今回のヒンデミット・プログラムには多大な興味を抱いていた左近治でしたので、気分も朗らかにヒンデミットを聴くことができれば喜びもひとしおなワケですな。

しかしながら会場内、特にカミテ側(オーディエンス視点の右側)の特にバルコニー2階席の方の咳払いやら物音のけたたましさには参りましたね。もう少し落ち着いて聴けぬモノかと。


operacity18july.jpg
私はシモテ側のバルコニー席で聴いていたんですが、私の場合殆どは季節問わずしてバルコニー席から聴きますが夏場なら絶対バルコニー席で聴く様にしております。レコードの針圧に拘るようなモンですわ。それにしても下野氏のタクトのそれは、演奏者ひとりひとりの力を余すことなく捻り出させるかのように引っ張り出すと言いますか、言い換えるなら例えは悪いかもしれませんが胞状奇胎を残滓なく子宮から抉り出してくるかのようなアンサンブルをごっそり掌握してくるかのように、スタンパーから刻印されたレコードにはホコリひとつも振れさせるコトを許さないような、スタンパー的存在のような指揮だと痛感しました。多くの人は路頭に迷えば行き場を失うかのように方向感覚は鈍く脆くもあります。


綿菓子の機械に放り込まれる砂糖はいわゆる一般的なオーディエンスですよ。糸の様に解き放たれても「棒」というモノにしがみつかなければ綿飴にはならんのですわ。我々一般的な人間が何かにしがみつこうとするそれは、牽引力を欲しながらもどこかで身をもたれるコトのできる物を欲しておりまして、綿飴の場合は棒がその役目なんですな。


綿飴の棒を振って見せたとしても一部の人間を笑わせることができたかもしれませんが、私はどんなに砕けた姿勢でも一挙手一投足あらゆる楽音に耳を澄ませ凝視していたつもりでした。まあ、いずれにしてもああいう音楽(「さまよえるオランダ人への序曲」)を「司って」みたいモノだと感服ですし、管弦楽のための協奏曲作品38の私が最も好む第2&3楽章には結構満足しております。しかし、私には後のブルックナーでもそうなんですが終始シモテ側のオーボエが小さく聴こえておりましてですね、その辺が若干物足りない部分でしたでしょうか。今回のヴィオラの配置はとても参考になりました。木管から遠いヴィオラの妙と言いますか。

私はこの曲の第二楽章が好きでして、どんな演奏においてもフルートのフラジオレットをもっとガッツンガッツンとヒンヒン言わせちゃうくらい鳴らして欲しいと思ってしまうんですな。でもソコで弦も一緒になってちょっと低い所からポルタメントしてきて演っちゃうとイヤラシイ安っぽさが出て来るので(特にモノラル音だとやらしいですよね)あんまりやり過ぎは禁物なんですが、金管がビンビン言ってるだけのオケもちょっと嫌いなのでやっぱり心地良くヒンデミット聴かせていただいた次第でございます。

ブルックナーの楽節は正直しつこい所があるので私はあんまり好きな方ではありません。ただ楽節をどんな人にも懇切丁寧に聴かせるようなそういう情熱の緻密さが長さに取って代わるような感じがブルックナーにはあると思います。いずれにせよワグナリズムからの解放みたいなのが共通テーマだったのでしょうか。弦の絶え間ないクロマチックの上下運動の連動性にはやはり読響というプライドを感じ取る事ができました。

まあでもなんでシモテ側のオーボエは小さく聴こえたのか不思議です。ファゴットだって結構出てましたし、フルートの倉田さんも結構聴こえていたのに・・・。余談ですが、万が一ハットフィールド&ザ・ノースやナショナル・ヘルスをアレンジしたとしたら、倉田さんのフルートと松井亜希さんのヴォーカルでカンタベリーの音を聴きたいなーと思っている左近治です(笑)。


ついつい話題がそれてしまいましたが、いずれにしてもヒンデミットはカンブルランの方でも秋に演奏されるそうなのでこれまた楽しみなトコロでございます。綿飴の棒にしがみつくような身を委ねられるモンを見付けてきちんと向き合うというのが大事なのでしょうが、ついつい我が身可愛さで振り切ろうとすると結局失敗するのが世の常だったりするモンです。些細な所にも気を遣って、自分可愛さに我が道を行き過ぎてしまうとマナーやモラルすら欠いてしまうコトもあるんですな。それでいて秩序やら果ては政治的な動乱やらに批判しているクセして自分は他人の腹の内だけを頼りに一向に動かない人になっちゃったりするんですな(笑)。声挙げりゃ票を動かすなど一票二票どころじゃねえ、とばかりに濫用してしまいいつしか自分を誤解してしまうんですな。自分の足元だけはきちんとみつめてから腰据えて座って音楽聴きたいモンですわ(笑)。