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ドミナント7thからの脱却 (特別編) [楽理]

過去にもジプシー系音階について語った時に幾つか列挙してみましたが、今回はさらにそれを補足するように特異な音階の近似性を語ってみようかな、と企てております(笑)。



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今回列挙する音階の冒頭にあるのは「ハンガリアン・スケール」です。元々ジプシー系音階というのは呼称そのものがそれほど広く認知されているワケでもないのですが、その中でも比較的広く知られる音形の「R 2 b3 #4 5 b6 M7」または「ド・レ・ミ♭・ファ#・ソ・ラ♭・シ・ド」という形は「ハンガリアン・マイナー・スケール」として知られています(しかし確立されたモノでもありません)。


しかしながらこの音階の名称は、例えばDAWソフトのDPで有名なMOTUは、トランスポーズ・メニュー内ではコレを「ハンガリアン」だと呼んでいたりもするワケですな。MOTUに限ったコトではないのですが、このような広く認知されていないモノを機能として取り込んでしまわざるを得ないソフト・メーカーの妥協の産物を、それを盲目的に使い手が「メーカーがこういう呼び名を与えているのだからコレこそが真理だ!」みたいな安直に考えてしまう使い手が実に増えて来ているのが嘆かわしいんですな(笑)。妥協の産物としてメーカー側が名付けているだけの事例の方が多いのにも関わらず、その手の裏地上を全く考慮せずに使い手側は自身の知識の浅さは認めずに妄信してしまうようなコトというのは、何も音楽シーン限定ではなく、PCというデバイスが広く普及してしまったコトで非常に増えた嘆かわしい事実があります(笑)。

Finaleにしたって「短調に転調」などというメニューがあるモンだから平行調を「転調」などと疑いも無く誤って理解してしまう人が出て来てしまうかもしれません(笑)。


本当に知っておかなくてはならないのは、それらの名称のどちらが正しいか!?というコトではなくハンガリアン・マイナー・スケールとして知られている音階はそもそも「変格の姿」なのだ、というコトが重要なワケであります。では、「正格の姿」とは!?


それが、今回列挙した音階の冒頭にある「ハンガリアン・スケール」なのでありますよ。これについてはエドモン・コステールの引用ではありますが、そもそもジプシー音階というのはこの「ハンガリアン」として載せた音列が元々の姿、つまるところ「正格」の姿なのでありまして、このハンガリアン・スケールという「正格」の姿の第4音を主音として開始したモード・スケールというのが「ハンガリアン・マイナー・スケール」でありまして、この変格の方の情緒を好んで使われるように変化していったのがそもそもジプシー系音階にある背景なワケですな。


その「変格」としての姿である「ハンガリアン・マイナー・スケール」というのはその後色んな方面で、ある音に「変化」が加わり、その変化系が幾種類か存在する「ジプシー系音階」となっているワケであります。元々はフリジアンから生じた流れで「正格としての」ハンガリアンが生じたという説もありますが、その辺は今回語るコトとはチト違いますので割愛します(笑)。


でまあ、列挙した音階の内、上から下に向かってジプシー系の音階のスパニッシュ・ジプシーやらジプシー・マイナーやら、更には左近治が便宜的に呼んでいるハーモニック・スパニッシュ・ジプシーやらを載せているワケであります。


ちなみに、非常にポピュラーな「変格としての姿」として有名な「ハーモニック・マイナー完全五度下」というのは最近ではにわかに「フリジアン・ドミナント」とも称されたりするワケですが、これの「正格としての姿」は無粋ではございますが「ハーモニック・マイナー」なワケですね。この正格の姿の第5音を主音とするモード・スケールが「ハーモニック・マイナー完全五度下」というのは今更語る必要はないかもしれませんが(笑)、その正格というカタチでのハーモニック・マイナー・スケールの第4音を主音としたモード・スケールに注目してもらいたい、というのも過去に語ったコトがありますね(笑)。

コチラは「ハーモニック・マイナー完全四度下」というワケで、以前にもジプシー系音階を語った時に一緒に提示しましたが、この「ハーモニック・マイナー完全四度下」の第7音をフラットさせずに長七度で用いると、それはリディアン・ディミニッシュト・スケールとなりまして、コチラはハーモニック・メジャー・スケールから生じるモード・スケールだというコトも今回付け加えるコトにいたしましょう(笑)。


この時点でも相当「類似性」とやらがお判りになってきているとは思います(笑)。


その「類似性」というモノをどれを基準にすればイイのか!?というコトは無意味です。その基準選定というのは自身の嗜好を抜きにした上でその都度臨機応変に対応していればイイわけで、別に常に一定の基準を与える必要はないワケで、常に変化すればイイだけのコトなのでありますが、基準を決めないからと言っても無秩序にスケールを選定して類似性だけを頼りにスケールを選択しただけではフレージングも何もあったモンじゃない(笑)。スケールの数さえ知っていればフレージングのボキャブラリーが増すと思ってしまう愚か者を増やしてしまうだけです(笑)。

類似性を鋭敏に感じ取りながら、ある程度「唄心」を備えようとフレージングするならば、その類似性というのは、ある基準としたスケールの2度と5度、3度と6度、4度と7度の部分に相当する音の「変化」を操るのがまず先決だと思うワケですな。ただ単にスケールを羅列したスケール・ライクなフレージングというのは、ある度数に対しての応答が非常に希薄でありまして、名の知られたジャズ界隈の人達でも実は結構こういう情緒の無いフレージングで逃げたりすることも実際にはあります(笑)。


有名どころがそういうプレイをしているからと言って、それを頼りに自分もスケール・ライクにただ単に弾いてしまったら、これからキッチリ情緒を身に付けなければならないのにそれを等閑にして、そんなコトはすっかり飛び越して有名どころの「真似しなくてもイイ部分」をやたらと信じきってしまって覚えようとしてしまう人が結構多かったりするモノです。でも、こういう姿勢というのはハッキリ言って先述のブ厚い辞書に魅了されて本来の語彙とやらを会得しないようなモノと等しい愚かな行為なんですよ(笑)。


ある程度名の知られたジャズメンにも「逃げのフレーズ」はあります(笑)。しかしアーティストそのものを妄信するがあまりに音そのものに対して聴き手が区別も出来なければ、真の「異端な音」とやらに気付いたりアナライズしたりするコトはまず無理でしょう。

その違いを判らずにコレクター魂だけが高ぶってしまうのか、数だけは聴いてはいても耳が全く習熟しきれていない「なんちゃってジャズファン」というのも非常に多いのが事実なんですな。雰囲気だけでしか音楽を捉えていない方々いらっしゃいますね。別に悪いとは言いませんが器楽的な習熟という視点で見れば音楽を真に語るにはかなり遠い所にあるフェーズの人達ですな。こんな人達が音の違いに気付かずに自身の好き嫌いだけで判断されちゃっている作品の方が実に多かったりするのも実情なんですわ。ジャズに限らずあらゆる音楽シーンだって同様のコトが言えますけどね(笑)。判りもしねークセして自身の好き嫌いだけで判断されてしまう人達が可哀想なモンです。


しかしながら、その手の「判りもしねー」人達が「理解するために」耳を傾ける行為自体はよしとしなければなりません。自分の立ち位置がポピュラー・ミュージックに収まる範疇のモノであれば、無理して奇異な世界を理解する必要はないでしょう。問題なのは理解もせずに自分の立ち位置基準で良し悪しを判断して断罪してしまう輩の存在ですな。


Messiaen_and_others.jpg


少なくとも私の形容している世界というのは、無理解のまま無秩序に半音階を想起して「メジャーもマイナーも関係ねぇ!」とばかりにフレージングしてしまったり、ただ単純に「マイナー・コードでメジャーのフレーズをスーパー・インポーズ!」なんていうアホな人をサポートするためにあるのではないというコトだけはご理解いただきたいんですな(笑)。少なくとも目指すべき所は、アホと同じ音弾いたけどアホの音には聴こえないとでも形容すれば宜しいでしょうか。

絵心にしたって絵画の世界にしてみれば、一般的に写実的な絵の方が一般的にも理解されやすい世界なんですが、その写実的な絵に魅了される方々はダリをどう感じるのか、非常に興味があるってぇモンです。抽象画を描く人もその殆どは写実的な絵心からキャリアをスタートさせていたりするモンです。今日のメシを食うために宗教画を描いたりなど。

音楽の世界というのも実はそういうモノと似たような背景がありまして、写実的な絵画をドミナント・モーションがクッキリハッキリ東芝さんのような世界と例えるとしたら、そこから逸脱する世界をそちらと同列にしちゃうようじゃダメだろ、みたいなコトなんですな(笑)。だからといって基本すら根底から覆してしまうようなアホな世界は成立しないと言いたいワケですね。つまりは、アホになるために異端な世界をわざわざ知るのは無意味であるものの、学んで行く過程でアホになるようでは更に無意味なのであります。


ある程度「異端な世界」というのも狭い世界という意味では理論化されていたりするものですが、実際にはそれが「異端な」世界であるがゆえに明文化されているにも関わらずそちらの「情緒」やらを全く理解できぬまま理解の進まぬモノを完全否定してしまうような愚かな人もおります。この手のタイプで厄介なのは楽理的側面においてはソコソコの知識を有しているが故に、ある一定の自分自身の「常識」というスタンスから当てはめてしまうので懐疑的なスタンスから解放されないというトコロ。また、理論書の多くは文学的に語られているモノではないので(笑)、著者や訳者のあまりに咀嚼された端的な解説のそれに漠然と読んでしまうという落とし穴があります。

それらの解説は「一般的な世界との比較」を取り上げながら語られているものは少ないため、読み手が「一般的な解釈」として無意識に解説を読んでしまう、つまり熟考せずに読んでしまうということが結果的に異端な世界の理解をおざなりにしてしまうという落とし穴がある、というコトを意味します。「バルトークの作曲技法」という本にしてもページ数や文章量からすれば比較的少ないモノであるにも関わらず、あまりに端的に解説されているため、読み手がかなり意識的に比較と熟考を重ねないと取りこぼす可能性が高い典型的な例のひとつと言えるかもしれません。


つまりは、あまりに一般的な世界観とやらに「均された」我々のアタマと耳というのを常にそちらの基準だけではなく、広い視野で比較と実践を重ねない限り真の理解は得られにくいと言いたいワケですな。


ある音楽のワンシーンでは、ややもするとドミナント7thコードを母体とする和声で、そこにはメジャー3rd、シャープ9th、ナチュラル11th音の3つが同居していたとしましょうか。ドミナント7th基準で見れば、これらの構成音においてナチュラル11thという音はかなり「異端」なワケですが、そこに本当のドミナント感とやらはあるのか否か!?という部分で自身が頭や耳で理解しないと、真の情緒を理解することは難しいでしょう。

そうして一般的な世界観という強固な基準ばかりが足かせとなってしまい、そのコードが実は下声部にメジャー・トライアド、上声部に4th音をルートとする7th sus4というハイブリッドな和声というコトを読み取れずに理解をおざなりにしてしまう可能性が高くなる、と。わざわざ出版社の編集者がその「異端な和声」に対して作者の意図する和声をきちんと把握して記載していれば読み手の理解はスムーズなのかもしれませんが、実際にはこういうケースは非常に少ないモノであります(笑)。音符さえきちんと拾えているのならコード・ネームなど記載する必要はないのだし、わざわざそこにコード・ネームを与えるよりも五線譜に誤りが無ければ問題がないはずなのに、読み手というのはソコをきちんと理解せずに取りこぼす人が実に多いのが実際なんですな。

Cを基準にすれば前述のコードなど「Bbsus4/C△」という便宜的な表記になります。このコードの構成音で特徴的なのはシャープ9th、メジャー3rd、ナチュラル11thと半音音程が連続するコトとなるワケで、過去にも左近治が例に挙げたウェイン・ショーター御大の某曲の特徴的な和声でもあるんですが、こういう情緒をショーター御大に対してどれほど理解されている人がいるだろうか!?というコトを考えた場合、おそらく非常に少ないのではないかと思うんですな(笑)。

また「Bbsus4/C△」というコードの情緒は「F7sus4/C△」という風にすれば、より情緒が理解しやすくなると思います。老婆心ながら語っておきますが、この和声の上声部を見れば「Bb→F」という風に「下方に」四度累積となっている点をココでは決して見過ごしてはならない部分です。もっと飛躍して考えればこのような「四度累積」を下方にさらに拡張して行けば(F→C→G→D・・・という風に上声部のsus4の主音を下方に推移)、自ずとCメジャーという「本来の姿」への情緒へ近付く構成音になるのは明白でありましょう。四度累積の持つ「牽引力」みたいなモノをこういう所からもお判りになっていただけると幸いです(笑)。


誰かが噛み砕いてくれたモノを理解するのはスムーズだけれども、それを本当に身に付ける所まで理解をするのは年月も苦労もつきまとうモノだと言いたいんですな。こうしてブログで展開しても実際には理解が進まない人の方が多いはずでしょうし、重要なのは自身の手元や耳元だというコトなんですな。まあひとつ言えるコトは肉屋に魚買いに来ても売ってねーぞ、と。そっち基準の客なら他行ってくんな!みたいな姿勢が左近治という店主のスタンスなんですわ(笑)。

ま、そーゆーワケで今回あらためて紹介した様々な音階の「近似性」とやらをきちんと把握していただきながら、これまでの記事を参照していただければ幸いです。今回敢えて載せていないオーギュメンテッド・スケールというのは別の情緒というコトで過去に振れていますのでその辺りもご容赦を(笑)。