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副和音を取り上げる事のねらい [楽理]

 扨て、前回は複数本のブログ記事に分けた6万7000字強となる物でしたが、長さをどうにか感じない様に書き手としては考慮したのですがどうでしたでしょうか。PDFとしてもアップしているのでアクセスの方はそちらの方も順調である為、読み手の方々がWebではなくPDFで読むという方面を許容されている表れと受け止め一先ずは安堵している所であります。


 今回取り上げる「副和音」。それが属和音以外の和音を指す総称である事は前回も詳らかに語ったのでお判りかと思うのですが、単に属和音・副和音という二義的に括られる体系を語るだけでは物足りないので、その後に語るべく私の真のねらいという物を今回は語る事になるので、ジャズ/ポピュラー音楽界隈に於て副和音という物への理解がどのようにして功を奏するのか!? という事も含めて語っていこうかと思います。


 前回の記事にて協和/不協和の源泉という側面も語った為、アヴォイドという立ち居振る舞いという事も同時にお判りいただけたかと思うのですが、今回は「アッパー・ストラクチャー」という事を踏まえて語ります。実は国内で通俗的に知られる方面でのアッパー・ストラクチャーの説明と、ジャズ界隈での標準的な教本としても知られるマーク・レヴィンの述べるアッパー・ストラクチャーの説明は少々異なる物があるため、其処に齟齬が生じない為に今一度詳らかに語る事で、副和音という事があらためて浮き彫りになるという事が私の真の狙いなのであります。

 例えば、シンコー・ミュージック『実用 音楽事典』やリットーミュージック『最新音楽用語事典』に於て「アッパー・ストラクチャー」の扱いというのはいずれも副和音を取扱い、その上で副和音のアヴォイドを含まない物から生ずるアッパー・ストラクチャー・トライアド(以下UST)の例証を挙げているのでありますが、どちらも基の和音の機能を疏外せずに基の和音の上部にテンション・ノートと和音構成音にて形成される物とあるのですが肝心の要領を得ない説明になっているのがいただけない所です。

 何故なら、USTを考える時に最も重要視すべき観点がスポイルされているからなのでありますが、その重要視すべき観点が「三全音」の位置なのです。


 副十三の和音というのは前回でも詳悉に語って来たので既にお判りかと思いますが、約言すれば

「属和音でもないクセにトライトーンを含んだ副和音とする13度の和音」

の事なのであります。属和音以外の和音であっても副和音いずれもが「全音階の総合」という姿である以上、副和音であっても自ずと三全音は含んでしまうのは致し方ありません。茲で注目すべきなのが副十三の和音に於ける三全音の位置なのであります。


 長調の下属音および上主音を根音とする時に作られる副十三の和音が包含する三全音は複音程に跨がるという事は前回でも語って来た通り。リディアン・トータルやドリアン・トータルと称したそれら以外の副十三和音にて三全音の位置というのをあらためて確認してみれば良いのです。そうすると、アヴォイド・ノートを含んでしまうUSTというのは作る事を避けなければ「UST」たる前提となり得ない為、アヴォイド・ノートを巧妙に回避し乍ら形成される副和音に於けるアッパー・ストラクチャーというのは限定される訳であります。これらの例についてはシンコー・ミュージック『実用 音楽事典』に詳しいのでそちらを確認していただこうと思います。

 扨て、国内での通俗的なUSTというのは「副和音」におけるUSTという物をシンコーさんリットーさん問わずどちらもそのポジションを取っているのであります。


 処が、マーク・レヴィンは非常に端的にUSTという物の在り方を説明します。それは、ドミナント7thコードを基底として、その上でUSTが生ずるという事を「大前提」としているのであります。つまり、副和音のトライトーンという和音の存在を考慮に入れていないが故の方法論で語る訳です。その上で、マーク・レヴィンが語るUSTの大前提として重要な事を述べている訳ですが、「トライトーンの上部に作られる」事が大前提である為、属七和音の第3・7音が基底の三全音なのですから、その上部というのは自ずと7度音より高い音にてアッパー・ストラクチャーが形成される事になるという訳です。更には、トライトーンの上部に生ずる事となるトライアドは「普遍和音」である事が重要な訳で、USTは「メジャー or マイナー」トライアドの何れかになるのであり、変化三和音ではないというのがその考え方です。

 無論、アッパー・ストラクチャー的(※基底の和音の立ち居振る舞いを壊さずに粉飾する)な振る舞いとは異なり、上位・下位にある和音を凡ゆる形態に変ずる体系というのはポリ・コードの類に収束する事になる訳です。こうした世界感は概ね複調感を伴う事になるか、単一のモードであっても非チャーチ・モード系列の色彩を纏った世界感になる訳です。

 
 話を戻して、国内での副和音に於けるUSTの分類では、三全音の位置という物を例示せずに説明してしまう為、その大前提は読者の目に届く事なく幾多の例が列挙されるだけにすぎなくなってしまうのであります。これは、三全音の位置やアヴォイド・ノートに配慮しつつも、複音程側に生ずるテンションとしての音ばかりではなく、「他の普遍和音の内含」を主眼に置いています。「他の普遍和音」というのは、基底に取る和音とは別に存在(内含)して成立するメジャー or マイナー・トライアドという事を示す事になります。

 国内で広く瀰漫している解釈に於ける、Fリディアンから得られるFメジャー・トライアドを基底とした場合はG△を生ずる事もあればAm、C△、Dm、Emを得るという事になります(シンコーさんとリットーさんとの先の例示の両事典では夫々列挙しているUSTは少々異なります。本文での例はリットーミュージックの『最新音楽事典』の物)。

 モードの特性音が基底とアヴォイドという関係にならない場合、アヴォイドを避け乍ら特性音を好意的に取り込んで基底とは別の普遍和音を得る様に企図する方法論である訳ですが、「Em」では三全音を為す1つの音「h音」を含むのであるのですが(三全音を含む事でUSTを確認するという遣り方は後述の別方法で意図がお判りになるでしょう)、国内でのこうした解釈に於て最も説明が親切なのはリットーミュージックさんからの北川祐氏関連の書籍が溜飲を下げてくれる物となるでしょうが、北川氏のそれでも、マーク・レヴィンの様に「属七和音の三全音の上部に生ずる他の普遍和音」という風な説明を見つける事ができない物です。

 国内のこれは西洋音楽の史実を鑑みても重要な事です。なぜなら、例えば四和音での「C△7」というコードは「C△」という普遍和音と「Em」という普遍和音の組合せと見る事が出来る訳ですが、こうした見方というのが史実にも体系にも則った重要な和音の捉え方であるからです。

 マーク・レヴィンの解釈は、重畳しい和音が結果的にトライトーンを含むものならばそれらを総じて属和音へと集約するという体系になっているのはお判りでしょう。そうした配慮も、バークリー側すなわちシリンガー・システムと謂うべき体系に則った物であるからでしょう。とはいえ、先にも挙げた第13次倍音の取扱いというのは、長六度に等しい取り方だとマイナー13thの時の三全音として見る事になり副十三として強固に見立てる事と属十三とのジレンマが生じますし、かといってそれを看過できぬが故に短六度に均す事で上方倍音列としての立ち居振る舞いを優先させ、基底和音からの短二度というアヴォイドの側面を忘却の彼方に葬るかのようなダブル・スタンダードがこうして生じている側面がある事を決して見逃してはならないのです。処が、非常に多くの人達はこうした両義性を見抜く事がないまま、使い手に依って都合が良い解釈を是認しては、他の解釈を知らず識らずの内に否定的にしてしまったりという、知識の脆弱が齎している偏見を伴わせている事に自身が気付いていないというスタンスに陥っている訳でして、こうした陥穽に嵌る事に細心の注意を払わねばなりません。

 今回私は、マーク・レヴィンの解釈と国内での他の解釈に依るUSTの両方に足らない部分を補足している訳です。然し乍らあらためて理解して欲しいのは、USTの解釈がこれらの例証の様に決して一義的ではない点なのです。これらの解釈で統一した見解(目的)は、基底とする和音を疏外せずに粉飾する和音が他の普遍和音の体を持っている事、だという点を理解すれば良いのです。つまり、突き詰めればこれはポリ・コードに集約される物でもある訳ですが、仰々しくポリ・コードとして用いる物でもないというのがUSTの捉え方と謂えるでしょう。言葉の割にはそれほど大袈裟な物でもない訳ですが、「基底の和音を壊さず」に他の普遍和音の装飾を伴うという事は、セクショナル・ハーモニーを形成した時でも生ずる訳ですから、和音の機能は変わらずに粉飾した音に他の普遍和音の響きが伴うという事は、こうした例にも通ずる所がある訳です。総じてセクショナル・ハーモニーがUSTとして生ずる訳では決してありませんけれどもね。断片的なそうした側面が生ずる、という意味です。


 島岡譲は嘗て〈1:3〉の振動比の事を「クィントゥス」と称した物でした。クィントゥスの重畳は完全十二度ですが転回すれば完全五度である為、軈ては五度圏を一周し半音階を組成する、という訳です。《クィントゥスの距離でつぎつぎに新しい音(異類音)を作り出す〜》(『音楽の理論と実習 I』)という風に述べております。


 和音形成という物も、上方倍音列の奇数次の重畳として捉えて形成されている物なので、先述の様にバークリーの体系整備に於てシリンガー楽派が、属十一和音を形成する時に本位十一度ではなく増十一度を和音形成の体系化に組み入れたのは上方倍音列の第11次倍音を考慮しての事というのは容易に推察に及びます。すると第13次倍音も近似的な短六度となる(長六度よりも短六度に近しい)為、マイナー・コードに於ける長十三度よりも短六度の方をアヴォイドとしない体系を選択したというのも容易に推察に及ぶ物です。

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 何故なら、和音を「協和的」に堆積するのであるならば上方倍音列に靡いて形成する事が、音響的に犇めき合う複合音であっても不協和の度を強めない為の策であるとも謂える訳です。とはいえ、上方倍音列とて近似的な微小音程を伴っているので、結果的には半音階を伴わせた12等分平均律に均す為の「方便」とも言い換える事も可能なのですが、少なくとも上方倍音列組織に靡いた配し方であるという事は読み取れるかと思います。

 然し乍ら前回述べた様に、アヴォイド・ノートという物が不協和に立脚している限り、基底の和音に短二度を形成する事が最も不協和を強く示す訳ですからジレンマが生ずる訳ですね。とはいえマイナー・コード上にて長六度相当を選べばマイナー・コードの第3音とでトライトーンを形成してしまう。不協和の強度を鑑みれば短二度の方を棄却すべきでしょうが、上方倍音列には準えているというこうした側面が、アヴォイド解釈のダブル・スタンダードとなるという事も今回あらためて附言するには、私なりの説明順序に考えがあっての事なので、その辺りはご容赦願いたいなと思います。


 学び手に少なくないのは、音楽の多くの体系を学ぶに際して1冊の音楽書やひとまとめの体系の方を是認してしまう傾向が強く表れてしまう例であります。ひとまとめであれば便利でしょうが、音楽の場合、根幹と為す側面で無い限りは一義的な解答となる側面は多くはないので、対照させ合い乍ら学び取る事がとても重要となる物です。処が、ひとまとめとする事を是とする方面の人達は、自身が手に取っている物しか信じようとしてしまいかねないのです。一つの体系ばかりに拘泥して狭隘なる知識にて、己の理解の埒外となる物に遭遇してしまった時、多くは、「判り易さ」の度合で選別してしまい、もはやそれは学び手の主観による「好き嫌い」で選別してしまっている事に等しく、そうした偏見に依って選択されてしまった物は「宗教」観に等しい選択になってしまう訳ですね。それを「宗教」などと自覚する人も少ないでしょうから、己の偏見と謬見で凝り固まってしまった知識を融解するのは後々骨が折れる事になる事でしょう。偏見に充ちた主観ほど払拭しづらい物はありませんからね。


 この様な体系のジレンマという物がジャズ/ポピュラー音楽界隈に於いては存在する訳です。但し、機能和声的な方面だと和音の重畳しい響きは用いられない物でもあるので、こうしたジレンマが存在する側面になかなかアクセスする事がないので看過してしまっているという状況を生んでいる訳です。違いも明確に判らないままに黙認している状況に等しい訳です。USTの捉え方については、マーク・レヴィンのそれよりも日本国内で通俗的に理解されている所の方法論の方がよりアカデミックな要素を捉えていると思います。他方、マーク・レヴィンのそれは属七由来からの和音の粉飾に的を絞っているのは、結果的に重畳しい和音=不協和音であり、不協和音という体系が聳え立つ支配的な和音→ドミナントという解釈故の事であります。

 これまでも私のブログでは幾度となく取り上げて来ているのでお判りかと思いますが、副和音にて三全音を形成するコードなどありますし、短和音を基底として持ち乍ら「♯11」を持つ《=○m7(9、♯11)》などは、決してハーフ・ディミニッシュとは違う訳でして、こうした和音はA・イーグルフィールド・ハル著『近代和声の説明と応用』の頃から紹介されている物で、今やもう100年前の近代的な和声すら体系の埒外としてしまっているのも、所謂シリンガー・システムに倣う体系の弊害と謂えるかもしれません。シリンガー・システムに倣う事が覆轍を踏むという事では決してありません。それは単に体系の一つでしかない、という事を述べているのです。

 
 三全音を含むのがドミナント7thコードばかりではなく、短二度や長七度を含んだ三全音という和音体系もヒンデミット著『作曲の手引』では紹介されている位なので、「ド・ファ♯・ソ・レ♭」という四和音をバークリーの体系ではどのように表現する事でしょうか!?(笑)


 音楽の体系を学ぶ上で最初にアクセスする部分というのは協和的で機能的な枠組みが厳格化された所から学ぶ物です。それ故に、体系の体得と同時に、非機能的な世界を色眼鏡で見てしまい自身の習熟能力の甘さと相俟って蔑視してしまうという人が居るのも珍しくはありません。こういう状況下に於て早期の段階から生硬な響きを好む人というのは憂き目に遭う事も決して少なくはない事でしょう。

 ジャズ/ポピュラー音楽界隈というのは謬見が多く存在するものの、生硬な響きを体得している人は多い物です。この体得故に感覚を優先してしまい、生硬な響きの世界感を語る際に憶説や謬見を伴わせてしまう嫌いがあるのも確かです。生硬な響きを忌避して非機能的和声の社会を断罪されるよりも、生硬な響きを体得している者が説明する和声感覚の方が表現力に於ては説得力が加わる訳ですから、確かな裏付けがないと憶説と謬見を伴わせてしまうという訳です。ダブル・スタンダードも蔓延ってしまうのは、本来なら多義的である音楽観をひとまとめにしてしまって齟齬を生ずる側面にきちんと正視していないからでもあります。理論体系の整備に於いて多くの体系が折衷状態となっている所に、体系が追いついていないという負の側面も実際にはある訳です。


 とはいえジャズ界でもそうした例外をどうにかこうにか取り込んで来て対応して来た側面があります。見慣れぬコード表記があっても、基の表記の流儀を知っているからこそコード表記のそれから類推する事ができるのは体系が整備されている有り難さにあらためて気付く訳です。但し、「理論」という体系というのは、真に有り難みを伴う部分を考察したりする事よりも、体系が築いているレールに乗っかっただけで朧げにしか捉えていないという様な側面があったりする物で、多くの場合は後者の側に甘んじてしまう物でもあります。


 音楽というジャンルからは全く異なる論理学の分野にてJ・S・ミルの遺した『論理学体系』の中に次の様な言葉があります。この文章の後半部分は特に重く響く物でありましょう。


 〈しばしば、曖昧の虚偽の担い手となるもう一つの言葉は、理論という言葉である。本来の意味では、理論とは経験に基づく哲学的帰納の完結した成果を意味する。この意味では真である理論と、誤った理論がある。何となれば帰納は不当に遂行されることがあるからである。しかしある種の理論は、主題について何ものかを知って、その知識を実践の指導のための一般命題の形に改めた成果である。いずれにしても、言葉の本来の意味であるこの意味では、理論は、実践の説明である。ところがもう一つのもっと通俗的な意味では、理論とは想像力の単なる虚構である。事物がどういうふうにして生じたかを検討するのではなく、事物がどういうふうにして生ずることができるであろうかについて考察しようと努めるものである。理論と理論家とが安心のできない案内者であるとされるのは、この意味のときだけである。しかしこのために本来の意味の理論、すなわちあらゆる哲学の目的と目標である正当な一般化に嘲笑や不信が浴せられる。このため、正しく行われれば、実践を指導する原理がもちうる最大の価値を形成するところのもの、すなわち、現象の基づく実在的法則、または、現象に普遍的に妥当する特性又は関係を、数語で包括すること、が行われる、というまさにその理由によって、ある一つの結論が価値なきものとされるのである〉
(春秋社刊 J. S. ミル著 大関将一訳『論理学体系』第5巻 304〜305頁 第7章【混同の虚偽】より)

 「想像力の単なる虚構」。確かなる知識として体系化されずに漠然と語られる所に「虚構」が生まれる物です。この虚構というのは形容し難いパワーを秘める物です。「なんとなく凄そう」という様な物も茲に集約されますし、哲学的な言葉を使えば形而上学的な力を宿す事もあれば、よもや神通力にも似たパワーを秘めてしまう場合があるのですが、概してこうした虚構にパワーを観ずる時は学び手や受けてが無知であればあるほど効果は高いのです。つまり、答など何も無いのに虚構を凄い物だと信じ込められてしまう訳です。

 「理論書」と思っている本に答が詳密に書かれていない事など、通俗的な方面では往々にしてある事です。その上で多義的な側面がスポイルされる事も多い。学び手の側が一つのテーマを比較考察しないという悪しき側面も誤った理解を加速させてしまうのであります。学び手の中には学究的な思考が煩わしいと陥りがちです。この煩わしさを解放と考えるのが音楽を奏する事だと思い込み、音を出している方が楽だとばかりに学ぶ事を遠ざけてしまう訳です。こうした部分を是正出来ない限りは、音楽に限らずあらゆる分野から学び取るという事を難しくしてしまう訳です。