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マーク・キングに学ぶ──ジャズ/ブルースの6度 [楽理]

 では最後に、13thではなく付加六度たる6th音の、本来「あるべき姿」として取り上げるべく例を挙げておきましょう。それがLevel 42のライヴ・アルバム『Physical Presence』という2枚組CDに収録されている「Love Games」の本題前のベース・ソロです。こちらのデモは早々とYouTubeの方にアップしていたので、ブログ連動用と称しておき乍らなかなかブログの方がアップされないと思っていた方もいらっしゃるとは思うのですが、今こうして漸く解説が出来るのであるので、口角泡を飛ばすかの様に慫慂して語って行きたいかと思います。





 扨て、機能和声的用法での厳格な付加六度の在り方というのは上行限定進行音ばかりでなく内声に配する事は無理ですし、色々と禁則がありますが、6thを根音に転回して「●m7」という風にリラティヴ側として聴かせない意図がある以上、6thたる音というのは、6thの低位にある5th音のある位置に進行しようとすればそれは他の和音構成音の音を後続で「掛留」する事に等しいので、5th音の場所の無い所に進むには上行にベクトルが向くというのも至極当然とも言える訳です。

 但しジャズ/ブルースなどその後の世俗音楽界隈というのは6thコードのヴォイシングは自由度は高いですし、況してや西洋音楽界隈でのそれの多くは、ⅣからⅠに進行する為のいささか「方便」でもある訳でして、世俗音楽の場合はそれが6th音という七度のない世界であっても、暗々裡に七度の存在を認め乍ら七度を使わぬ様にしているケースが多々有るというのは冒頭から述べて来た通り。

 故に、トニックにて付加六を附与したり(基底がメジャー/マイナー問わず)、大胆な部分転調的な借用和音として用いる時に6th音を附与されたりする例外的な使用も実はある物です。とはいえ、前述の「5thの無い所に音を進める」という推進力は、6thコードを如何様に転回しても5thの直喩的な響きと、極めて強固な余薫が掛留として強い示唆を生む事になりかねないのですから、6th音という振る舞いはやはり上行に強いベクトルがあって然るべきという風に私は口角泡を飛ばす様にあらためて強調したい所であります。


 2016年の秋口だったでしょうか。ジャズ・ピアニストの上原ひろみがCMにて「きらきら星」を変奏(リハーモナイズ)してトニックに解決する際に6th音を附与していた例を確認したのは。トニックとして一旦解決しているそれは何も誹りを受ける事はありませんし、付加六から始まる作品とて実際にはある位です。
そこでLevel 42の「Love Games」のベース・ソロを取り上げる事の最大の意味は、六度進行を伴わせ且つ6thコードの6th音の上行のベクトルを鞏固に感じ取る事の出来る例であるからなのです。


美しいⅤ→Ⅳ進行

 このベース・ソロの過程にて2箇所ほど非凡な部分があるのでそれらを取り上げたいのですが、基本的にはこのベース・ソロの冒頭というのはEのブルース・メジャー系統で遊んでいる訳ですが、要所要所ではEのワン・コードでは収める事が出来ず、基本的にはメジャー・コードの平行進行を忍ばせつつ、「E音」というフィナリスを感じさせつつ巧みに線を運んでいる訳です。


 例えばデモの冒頭はトニックE△から直ぐに♭Ⅶ(D△)に平行進行しますが、単にEのブルース・メジャーからマトリクスに和音を巧みに「メジャー・コード」を手繰り寄せて、ベースの線に対して単純にE音のドローン(=保続低音)とならぬ様に巧みに粉飾している訳です。そこで非凡なのはデモ0:07〜0:08にて「Ⅴ→Ⅳ」(B△→A△)という偽終止が現われます。つまり、ドミナントからサブドミナントへ「強行」させる進行ですが、そのサブドミナントから再度Ⅴを経由せずにフィナリス(=主音)たるE音へ着地する様に線を巧緻に運んでいるのがお判りいただける事でしょう。


華麗なる6th

 更に非凡な点がもう一つ。茲が6thコードの使い方の巧みなポイントなのですが、デモの方でも譜例に変わる所での0:27秒に相当する「F6」というコードの部分が非常に良く出来た物なのです。

 特筆すべきは、コード・サフィックスとしては充てられない先行和音「A△」から見た時の6th音=F♯音から順次下行してF6の6th音に「着地」している部分。つまり、先行するA△上でのF♯音が直ぐにF♮という「F△」という和音上にて自身は付加六を奏し、上行限定進行たる脈を示唆するかの様にして、線が3連符として示す箇所にて [e - f - e] という風にプラルトリラーとして装飾されD音に加工してから、本位のE音へと順次進行する様にしてD音まで装飾をさせているという線運びのそれというのが実に理に適った物でもあるのです。

 F6というコードはEのキーで見た時の「♭Ⅵ」で生ずる「♭Ⅵ6」と見做しうる物です。しかしその直前に、マーク・キングはA△(=下屬和音)上でその和音の6th音=F♯音を奏しているのですからG音に行ってもおかしくはないでしょう。

 しかしそれは、E音を軸としての「ターン」という装飾的な音で生じさせているので、茲で唐突に「F6」が現われ、この唐突な遠隔的な方で「正視」する。つまり上行させる訳ですね。これが、ジャズ/クロスオーバーに耳慣れた者からするととても溜飲を下げざるを得ない物でもあり同時に耽溺に浸る事もできる、実に能く練られた進行だと思う訳です。こうした巧みな6th音の使い方という側面を、単にベース・ソロという風にして看過してしまうのは余りに勿体無い例だと思う訳です。私がベースを弾くからベースを慫慂しているのではなく、どんな楽器の演奏にせよこのアプローチは見事なお手本と言える例でありましょう。


ブルースの果てに

 今回は、ジャズ/ブルースの6度の使い方のそれが、根音と五度音を暈滃する物として生じている事に加え、11度音以外の音は下方変位というオルタレーションとしての体系がジャズでは整備されているという事をあらためて知る事になろうかと思います(ブルー三度、ブルー五度、ブルー七度、短九度、増十一度、短十三度)。


 つまり、これらの体系に該当しない物として減四度、減八度などを挙げる事が出来るのですが、減四度は実際にはSDのアルバム『うそつきケイティ』収録の「Black Friday」にて用いられる事は以前にも触れましたし、あらためて解説する事は避けますが、減八度=減十五度とも見做し得る音脈というのは可能性を秘めている物ですが、短七度と根音とで「克ち合う」それを如何使いこなすか、実際には使われている物でもありますが、こうした事を踏まえて「暈滃」とは何か!?「不協和」とは何か!?という事をあらためて念頭に置いた上で、協和感という物はどうして生じているのかという問題を払拭できると思うのです。

 そうした上では協和という物を痛切に感ずるには、協和感だけに甘んじてしまってはいけない訳です。しかも「不協和」の捉え方とて、アヴォイドの立ち居振る舞いが示す様に、マイナー・コードにおける13thのそれが実際にはアヴォイドではないのにシーンに依ってはアヴォイドとして括る所もまだある訳です。

 SDの名曲のひとつ「Deacon Blues」のイントロには♭6th付与が出て来るという事は基底和音に対して短二度を形成している音程を持っている事であるというのにも拘らず、ある体系ではこれを是認していたりとする矛盾もある訳です。





Black Friday 当該部解説
当該部は0:44〜


参照ブログ記事

 更には、短六度の付与ではなく普遍和音の五度音の上方変位として(つまり増五度となる増音程)となる変位三和音として括る体系もある訳です。諸井三郎の変化三和音では、長三度と短三度を持ちつつ五度音が増五度という和音は夫々、前者は自ずと「増三和音」であり、後者は「短増三和音」と括られるのですが、パーシケッティ著『20世紀の和声法」ではマイナー3rdを基底にした完全五度の和音を体系化していなかったりしていて、西洋音楽界隈でも実はこうしたジレンマはある物なのです。

 現状でも、アヴォイドの取扱いのデファクト・スタンダードが併存している状況を鑑みれば、アヴォイドを一義的な物として「マイナー・コードの13thはアヴォイドではない」と声高に語っても、一部の体系ではそれを認めようとはしないでしょう。それは「協和」感に強く立脚しているポジションである事は容易に推察できる事です。

 とはいえ「不協和感」から対照すると、マイナー・コード上の13th音というのはそれほど強く疏外している物でもなく、寧ろ他の方面では是認されているマイナー・コードの短六度付与の方がよっぽどアヴォイドだったりするのです。


 そもそも、ゲイリー・バートンが便宜的に読んだ「エオリアン・マイナー」たるマイナー・トライアドに短六度が付与されている型という物を是認しようとしているのは、短六度というのは決して、ドリアン6th(=長六度)の付与が短三度音とで三全音を生じないという事にも立脚しているのですが、このポジションは「協和感」や「機能和声」的な体系に強く準える類の感覚でありますから、それならば実際には♭Ⅵ度を根音とする和音の四和音の第三転回形の読み替えであるからこそ協和的に響いているだけであり、マイナー・コードに対して短六度を付与しようとすればそれは基底和音に対して短二度を形成している状況として看做せばそれこそがアヴォイドであるのは当然なのです。


 すなわち、アヴォイドと拘っている側面にて「どちらでもない」という状況が生まれているにも拘らず、解釈のジレンマから、本来共有しうる「安全地帯」を共有しようとせずに尻込みしている様な状況が、そうしたジレンマを生んでいるという訳です。


 分数コードも多く蔓延る現今社会にて、ドミナント・コードの扱いは暈滃されている事が多々有る状況であると言えます。

 属音として聴く判り易い不協和が避けられ易い状況である訳です。他方、副和音の不協和が進化している訳です。協和感がそのままで良いのならば協和の世界はそのままであれば良いのですが、副和音の不協和の発達はいずれ主和音の立ち居振る舞いも不協和の粉飾を受けるでしょうから(現にジャズ/ブルースのⅠ7など最たる例)、不協和の取扱いという物に事細かく対応すべきだと私は感じます。つまり、短二度が最も鋭い不協和なのだと。


 協和の世界でも2:3の振動比よりも1:3という低次の整数比が隣接していない方がより協和であるという事をオイラーが証明している様に、協和の世界でも実際にはジレンマがあるのです。

 それならば、5:7という隣接していない低次の整数比、これは三全音であり、12等分平均律社会の三全音としてそれらの整数比の近傍値にすぎないからこそ、これらの整数比を標榜として基準として見做す事が可能な訳ですが、5:7とは、それほど不協和なのでしょうか。結局は整数比なのです。おそらくこれとてかなり「低次」に位置する整数比です。


 しかも、リディアン・トータル、ドリアン・トータルは5:14であり7:20です。これらの音程比の中には多くの音程比が存在しうる示唆に富んでいます。複音程に跨がった三全音、果して短二度よりも不協和として簡単に扱ってしまって良いのだろうか、と私はあらためて疑問に感ずるのであります。


音楽のダブル・スタンダード

 シーンに依って取扱いの違う和音種やアヴォイドの取扱いなど、それらは決して一義的ではない。音楽とは一冊の理論書で理解を完結してしまう様な事はあってはありませんし、任意の対象に比較考察を重ねて検討していくのが研究の基本ですから、音楽の便利帳の様にしてひとつの理論書などに甘んじてしまうのは大変危険な事です。物理の法則や数学の公式の様に、答えは一義的な社会ではないのですから、学び手はある程度柔軟に構えなくてはなりません。

 その上で、「不協和」という物をもう少し柔軟に捉える必要があるかと思う事頻りです。


ドリアンはジャズの物ではない

 例えば、短調とて本来はドリアンが正当な使われ方だったのです。それが自然短音階として使われる様になったのは和声概念が成立してからの事であります。

 それは何故か!?カデンツを形成する際に和音進行が「属和音」に向う時、属音に対する下行導音として短六度を形成したかったが故の事です。これがドリアン6th→短六度を持つ自然短音階への変遷なのでして、ジャズはマイナーをドリアンとして嘯く新しい音楽だと錯誤してはいけないのです。太古の昔から西洋音楽での短調はドリアこそが短調だったのですから。

 こうした側面に謬見を備えてしまっていると、自然短音階こそが字義からも始原的に感じてしまいかねない訳ですね。すると、短六度という物がより旧い物として錯誤する事になり、より旧い方が「協和感」が鞏固であると判断しかねない危険性すら孕んでいる訳です。


 ドリアンの方が古くて正当性がある!?と疑念を持つ人は、少なくとも渡鏡子先生の名を探して調べてみれば直ぐにお判りになる事でしょう。または山根銀二と共訳のトゥイレ著『和声学』にも多くのヒントがある事でしょう。

 ドリアは男性的であり、リディアは女性的である、という体系も西洋音楽界にはあります。ドリアやリディアの音の何處に雌雄関係があるのか!?と文句を付ける者があるとすれば、それは音楽の何處に感情の源泉があるのだと楯突く者と変りありません。音楽を聴いた上で情念が作用するのは、その当人の協和/不協和感覚のメリハリこそが源泉です。

 短和音を聴いて「悲しい」「暗い」と感ずるのは長調や長和音の世界からの対比が齎しているだけの事であり、その言葉は多くの体系がこれまで生んで来た「共通認識」にしか過ぎず、短調の曲で短和音ばかり聴いていれば誰もが涙するというスイッチを楽音が持っている訳ではないでしょうに(笑)。


 「短音程」というのは、その意味でも不協和を作り出す事に寄与していると言えるでしょう。短二度・短三度・短六度・短七度という音程が全ての短音階ですが、これを全て網羅する音列はフリジアンです。幹音を列挙しホ音をフィナリスとする際、それはEフリジアンでありますが、完全音度たる完全八度/五度/四度を除けば総じて他は短音程なのです。


 では、E音を基にハ長調の調域にて三度堆積の和音を形成した場合、三和音の場合はEm、四和音の場合はEm7を得る事になります。この和音構成音に対する和音外音 [2・4・6] 度のうち、「4」=完全四度になるのでこれを除外すると、基底とする和音に対して「短二度」を形成する事になるのでこれらが「アヴォイド」なのです。


 とはいえ短六度に関してはフリジアンでなくともナチュラル・マイナー・スケール(=エオリアン)での第6音で生ずる物で、転回してしまえば長三度という不完全「協和」音程。そこに謬見が伴って♭6thをアヴォイドとしない処がある、と言いたい訳です。

 こうした「ダブル・スタンダード」が罷り通っているのが現実なので、ドリアン6thばかりがアヴォイドというのも本当なら一義的に否定は出来ないものなのです。寧ろ三全音よりも短二度の方がアヴォイドたる誹りを受けて已む無しなのですから。


 こうした事を踏まえようとも、ごくごく一般的な世俗音楽界隈の「なんちゃって」系の理論書を目にした所で到底理解に及ばぬ様な事を私は書いて来ております。

 つまり、それらの本を何冊買っても得られない様な必要な事を出来る限り列挙できる様にして述べて来ております。その手の本を何冊買っても溜飲を下げる事のできない輩が瞑想してよもやネット掲示板やらしか行き場が無くなり烏合の衆がどれほど集ろうが、無知無能が三本の矢とはならぬ事など彼等がかねてより証明しているのでありますが、それに気付かぬまま、旨味のある餌を求めてネットばかりに頼っている様では愚の骨頂なのでもあります。アヴォイドひとつ取っても、今回の私のブログ位の事を知っておくのは最低限の知識であるという事を述べておきましょう。
Jazz-Blues6th.pdf