SSブログ

短和音上の減四度 [スティーリー・ダン]

 扨て今回のブログ記事タイトルは実に暗喩めいておりますが、簡単に言えばマイナー・コード上でメジャー3rdに等しい音が鳴っている状況と同じではあります。とはいえ通常はそういう事は避ける物ですし、マイナー・コードが鳴らされている所で、メジャー3rd音と異名同音である減四度音を和声的にではなくとも線的に使おうとしても、かなり無理があるんじゃないか!? と思われる人は少なくないでしょう。


 実は、私がブログにて今回の様にマイナー・コード上に於て減四度を使うという事に関して述べるのは初めての事ではありません。とはいえその時の話題というのは突飛な世界から語って来た流れであったので、能くある一般的な音楽的情景に投影する事が難しかった人も少なくはなかったでしょう。然し乍ら今回は、一般的な用例として耳にする事が出来る楽曲の用例を取り上げ乍ら解説するので、その現実に大いに首肯し得る人は相当増える事でありましょうし理解も進む事であると信じてやみません。


 結論から言えば、短和音上で減四度を取扱う最も手っ取り早い一例というのは、ハーモニック・メジャー・スケールをモードとした時の、その第3音をスケール・トニックとした時の第4音が減四度になる訳です。換言すれば、ハーモニック・メジャー・スケールのモードの第3音をスケール・トニックとして現れる4番目の音は減四度、という事です。ハーモニック・メジャー(=旋律的長音階)な訳ですから、階名で言えば「ドレミファソラシド」の内「ラ♭」という風になっているのがハーモニック・メジャーな訳です。それをミから数えてミで終れば自ずと4番目の階名は「ラ♭」になる訳です。

2021年3月30日追記
下記に例示するYouTube動画はミシェル・ンデゲオチェロのアルバム『Comet, Come To Me』収録の「Friends」は楽曲冒頭からⅡ度調の複調を採るアプローチで度肝を抜きますが、動画内埋め込み箇所となる3:28〜以降から出現するシンセパッド音は減四度 [eses] の音であり異名同音 [d] と採ると長三度に等しい物ですが、実際には平均律長三度のそれよりも11セント高く採られた減四度である音としてより一層微分音で寄せている所が心憎いアプローチであろうと思います。





 冒頭にも諧謔的に述べた様に、減四度というのは長三度との異名同音ですので音程的にはメジャー3rd音と物理的な音程幅は同じ訳です。しかし度数は異なるのであります。だからこそ減四度な訳ですが、背景にマイナー3rd音としての音が存在し乍ら、線的に、且つそれが僅かな経過音的であったとしても音楽的素養の浅い人はそうした和音外音は、能く在る機能和声的情緒とは異なる音脈である為、なかなか身に付けにくい毒気の強い世界観ではあろうかと思います。

 とはいえ、それを仰々しく見せ付ける様な物ではなく、元の調性の余薫を利用しつつノン・ダイアトニックのサウンドが鼻先を掠める様な時に生じたノン・ダイアトニックのマイナー・コード上での減四度が、原調のダイアトニックとしてのコモン・トーン(=共通音)として響くと、その減四度は原調の「余薫」として呼び起こされて、違和を感じるどころか郷愁にも似た味わいを感ずるのであります。しかも郷愁の念が起る時にはノン・ダイアトニックなコード上にて生ずる唐突的な音の出来《しゅつらい》でもある為、一寸した複調感を脳裡に映ずる事が出来るのです。

 複調感という音楽観を全く知らなかった人がそうした音を聴けば瞬時に脳裡に「複調だ!」と映ずる訳ではありません。しかし、どことなく他とは全く異なる「風合い」を感じ取る事は可能ですし、その風合いが忌避感とは全く趣を異にする類の音として耳に残る事と為すのは間違いの無い所でありましょう。


 唐突な和声感というのも色々ありますが、そこに共通する音楽観というのは「原調の彷徨い」「調性感の移ろい」「残り香のもう一手間」などに集約されるかと思います。

 例えば、原調という調性感に備わるダイアトニック組織に全く背いていなくとも、例えばハ調域でDm7(on G)と遣ればこれだけでも和音機能は彷徨って居りますので、「彷徨い」とでも云える様な浮遊感にも似た描写を齎す事があるでしょう。即ち、全音階の音組織を使っていても和音機能が稀薄になる事でそうした彷徨った中立的な感覚は生まれる物です。ですからこれまでも色々な分数コードを話題にして来た訳です。

 調性感の移ろいというのは、局所的であろうとも転調感があれば生じる訳で、遠隔的な調性に転じるほど唐突な印象を受ける物です。通常和音進行(コード進行)という物の素直な感じというのは、前後の音組織が共通した音組織で且つ先行和音の根音を後続和音の上音に取り込む事が「素直」な進行な訳ですから、そうした和音進行に於てコモントーン(=共通音)があれども他調由来のコモントーンを利用した掛留の進行や、前後の調性に脈絡の薄い音組織の調性間を転じたとか、色々な方法がある訳です。

 「残り香のもう一手間」というのは、原調に合った残り香を忘れさせない様な施しがされてある場合、そこにほんの少しの「衒い」があると更に花開くかの様な情感がある訳ですね。Aパターンは短調、Bパターンは同主長調、サビは同主短調に戻りピカルディ終止など最たる物でしょう。

 同主調同士の音組織が併存して視野に入っている状況での和音組織というのは、畢竟するにこれが「同位和音」という物を一挙に見ている事と同じなのです。同位和音に就いては松本民之助著『作曲技法』に学ぶと良いと思いますが似た書名で同氏に依る『作曲法』というのもありますが此方の方は初歩的な側面を詳細に解説しているだけの物で、高次な世界は『作曲技法』を参考にすると良いかと思います。ジャズ的知識が少しでもある方が『作曲技法』を読めば、智識の泉に更なる情緒を涵養する事が可能になるかと思われます。

KatyLied-eceb9.jpg
 扨て本題に入りますが、今回「減四度」を用いる材料はスティーリー・ダン(以下SD)のアルバム『うそつきケイティ』収録の「Black Friday」であります。これこそが短和音上で減四度を用いる楽曲でありますが、誤解してはならないのは、この曲がブルージィーであるからといって、単にマイナー・ブルース系統のトニック・マイナー上でメジャー3rd音を生じてしまったかの様なそんな安易な世界観ではありません。その程度の安易な世界観であればこの様に取り上げる事すらしませんので(嗤)。

 
 前述した通り、ブルースな世界観にはブルース・メジャー及びブルース・マイナーという二つの世界観があります。前者は長和音を背景にしてマイナー3rd音が其処彼処に線としてフレージングするかの様に入って来たりする世界観で、他方後者は短和音を基調とするブルージィーな世界観(概ねブルー5度が入る)に於て、時折、同位和音の類(トニック・メジャーなど)が入って来る世界観があります。

 SDの「Black Friday」は「ほぼ」マイナー・ブルースという理解で良いものの、3rd音をオミットした世界観に於て、各声部のパートが同位和音で生ずるマイナー&メジャー3rdを巧緻に使い分けたブルージィーな世界観なのですが、基本とするのは「ホ調」ではあっても「ホ長調」のミクソリディアン的なブルースではなく、「ホ調」ではあれば「ホ短調」を基本体としつつも背景に生ずる和音はE7(#9)であり、この和音のメジャー3rd音を極力和声的にオミットする世界観であるブルージィーな世界観であるのです。

 仮にホ短調という状態で同位和音として同主調(同主長調)の第3音を使っているのならば、この世界観でも一応はホ短調側から俯瞰した時の見かけ上の減四度と見る事も出来ますが今回語るのはこうした安易な世界観ではないのだという事を先述した通り。


 Twitter上では私は何度も呟いておりますが、『うそつきケイティ』というアルバムはSDのアルバムに於て私が最も好きなアルバムなんですね。普通なら『Aja』とか『ガウチョ』辺りでしょうが、私にとってSDとは『うそつきケイティ』でありまして、次点で『幻想の摩天楼』その次に『Aja』『エクスタシー』『Two Against Nature』という感じであり、能く変わり者扱いされる物ですが、今回のブログを読み終わった頃に今一度「Black Friday」のコードを思い返していただければ、何故私がこのアルバムを好むのか!? という理由がお判りになっていただけるかと思います。それ位素晴しく、異端なのです。


 私が「Black Friday」のサビのコード進行に面食らった時の衝撃たるや、今もその脳内に生じた閃光は蘇る程でありますが、何しろ強い衝撃を受けた物でした。何より分数コードの世界観が自然で、そこに行き着く迄の世界観が絶妙でして、今でも鳥肌が立つ程です。勿論このアルバムには他にも「Your Gold Teeth II」や「Any World」とか「Chain Lightning」など佳曲揃いな訳でして、マイケル・オマーティアン、マイケル・マクドナルド、ジェフ・ポーカロ、リック・デリンジャーなどが参加する、実に「バランスの取れた」アルバムとなっていて私は大変好きなアルバムとなっている訳ですが、やはり「Black Friday」の世界観は素晴しいと言わざるを得ません。

 「ブラック・フライデー」のサビ部分のコード進行は次の通りです。

A△ -> G△ -> F#△ -> G△ -> D#m7 -> D△9 -> A△ (on B)

 という風に、パラレル・モーション中に一箇所だけマイナー7thコード=D#m7が出て来る所がありますね!? 茲が絶妙なのですよ。コレがあるからこそ「Black Friday」のサビは凄いのです。

 世に出ている「Black Friday」の楽譜の採譜は酷い物ばかりですが、中でもこの当該サビ部分のコードD#m7を「E♭m7」としている所もあり、これはヘッポコに更に拍車をかけている莫迦な理解でありますので注意をして欲しいと思います。つまり茲は「D#m7」である可きで、調所属的にはロ調(=ロ長調=B△)のIII度である可きコードなのです。

 ロ長調のIII度である可き、という事は茲のD#m7はD#フリジアンを想起するのが良いのか!? というとそれもまだ間違いでありまして、前述に於て「ロ調」とした理由はそこに有りまして、実際には下記譜例の様にBハーモニック・メジャーを想起して欲しい訳です。

image-b3494.jpeg


 つまり、D#m7部分にてフェイゲンはfis音を歌いつつg音との半音を移ろう様に唄い上げており、茲で生ずるg音というのはD#m7という和音から見たら減四度となる、忌憚無く使おうにも縁遠いであろう音脈をさりげなく使い、しかもこのg音が功を奏するのは原調の余薫として持っている音(=ホ短調の音組織で持つg音)として感ずるが故に、原調の余薫が全く別個の調所属の和音(=D#m7)で蘇るので、その様は「複調的」な覚醒を起させるかの様に響くのであります。和声的にD#m7に奏されている訳でないものの、D#m7という和音を背景にしてg音が忌憚無く通り過ぎて行くその素晴しさに卒倒しそうな程の美しさを覚えるのであります。

 この世界観があるからこそ、私は「Black Friday」を愛してやまないのであります。そのD#m7から続いてD△9 -> A△(on B)と続くこの分数コードのさりげなさが是亦絶妙!

 ※ブログ初稿時は先の「D△9」の部分を「A△/D」という風にしていたのですが検める事にしました。

 その第一の理由として、ブリッジ当該部分のコード進行は原曲で3回出現しますが、ヴォイシングが3回それぞれ、各様の様相を来しており一義的な解釈ができないので、中庸の解釈とした訳です。その中庸となる解釈に依って最も影響を受けるのは「D△9」のコード構成音の第3音である [fis] なのでありますが、この [fis] および近傍の音がハーモニー形成として希薄な置き方をされているので当初は中庸の解釈として「A△/D」という風に表記していたのであります。

 その懸案となる [fis] は、1&2回目のブリッジでは中央ハ音より三全音高いピッチ・ハイトに在り、3回目のブリッジではその丁度1オクターヴ下に移置【いち】されます。

 1&2回目ともハーモニーとしては「D△9」を奏しているのは当然ではあるのですが、2回目のブリッジでのフェイゲンの声のメロディーは、先行和音「D♯m7」の第3音の [fis] を掛留させながら後続の「D△9」での [e] へポルタメントさせる際に [f] を長前打音よりも歴然と振る舞う様にして入って来る事で「D△9」上で [f] が鳴らされているハーモニーとして耳に付くのであります。

 これが実に絶妙で、バックの2つ鳴らされるローズとウーリッツァーがハーモニー形成をするも、ウーリッツァーが奏している筈の [fis] は非常に存在感が弱いのです(これは2回目に限らず1回目でも同様)。それにより [fis] の存在感としての薄さが却って際立つ事になり、あろうことか3度目のブリッジでは「D△9」ではなく「D△9(♯11)」として [gis] まで加わり、その結果 [fis] は1オクターヴ下に移置されたヴォイシングとなるものの、是亦ハーモニー形成として希薄なバランスなのです。

 こうした [fis] を蹂躙するプレイおよびミキシングから、各様のヴォイシングを3パターン用意するのは冗漫な事であると思い、中庸を取って当初は「A△/D」という風にしたのであります。特に2回目の [f] が混ざり込んで来る多様なハーモニーは、耳を凝らして聴いていただければ私の言葉の意味が理解できるかと思います。




 なんと言っても私が本当に分数コードに目覚めたのはBlood, Sweat & Tearsの「God, Bless The Child」とこの「Black Friday」とUKの「Night After Night」というのが若き日の頃の私の感覚でした。然し乍らこの「Black Friday」の減四度という音脈を使うというこの感覚は今猶色褪せない物なのであるのは、この用法がやはり他にはそうそう見掛ける事の無い用法だからでありましょう。

 ウォルター・ベッカー曰く
《あるキーからキーへ移る時、他の人たちとはほんのちょっと違う方法論をとっていたり…》(ブライアン・スィート著『スティーリー・ダン リーリン・イン・ジ・イヤーズ』より)

と語られている所に、あらためて大いに深く首肯し得る物を感じさせて呉れるのであります。当時、このアルバムは不評だったらしく、加えて、ポーカロ本人がレコーディング時のdbxのせいでシンバル類が徒にリリースがカットされて、オーバーヘッド類との音との整合性が取れず位相がおかしくなってしまっている事を匂わせた発言をしている所から、一部ではこのアルバムは音質が悪いなどと囁かれている始末ですが、実際はどうあれ、私は作品の質こそが総てであり、どういう状況で残された音であろうと美しい作品に変わりは無いというのが私の持論である為、たかだかその程度の事で曲の良し悪しを判断する程度の音楽観と同列に語って貰い度くなどありませんわ。

 こうした高次な作品だと、分数コードの4度ベースや2度ベースですらも矮小に見えかねないのですから、彼等のさりげない音の忍ばせ方と造詣の深さと、それを巧緻に操って唄モノに化けさせてしまう毒の忍ばせ方の見事さにあらためて感服する事頻りなのであります。