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悪魔の音程 [楽理]

 前回の話題は潜在倍音がメインでもあった訳ですが、文中ではヒンデミットのシュテムトンを引き合いに出しつつ三全音について語っていたのも記憶に新しい事かと思います。私は三全音とやらを単純に挙げていた訳ではなく、「狭い三全音」「広い三全音」という風に語っていた事を読み飛ばしてもらっては困るので、今一度その辺について私の意図していた色々な事を語ろうかと思います。

 なにしろ私のブログは概ね文章が長いモンですから(笑)、読み手の方は己の焦燥感を募らせてしまうと途端に読み飛ばしてしまいかねない個所など多々有るかと思う事頻りです。そうした己の焦燥感を募らせて自身の欲求のままに知ろうとする人は概して、他者の文脈に対して受入れない様な心理を働かせる所があるので、肝心の理解を伴わせにくくしてしまう向きがあるのですが、私はそれを敢えて蹂躙するかの様に行っている所があるのは今に始まった事ではないのでお気を付け下さい(笑)。


 扨て、私は前回のブログ記事にて三全音の話題を出す迄「確信犯」的に、三全音を「増四度/減五度」という風に取扱って話題にしておりました。此の度こうしてヒンデミット著『作曲の手引』に基づいた例示をするので今回を以て改めなくてはならない部分があります。ヒンデミット自身も詳らかに論究しておりますが、三全音に増四度はあっても減五度はない、という所をあらためてこの機会に語る必要がある、という事を改めようとしている訳です。


 確かに三全音は「3つの全音音程」なのですから、その音程の幅は長短増減関係無く、音度は、2全音で三度音程、3全音で四度音程となる訳で、その四度音程は増四度となる訳です。減五度の三全音というのは矛盾している訳でヒンデミット自身もその様な語句は(ドイツ語でも)存在しないと述べている訳です。

 ですが、これは私だけではなくジャズ/ポピュラーの世界に於ても三全音を増四度のみならず減五度も含めた転回音程を等しく三全音とする書籍も珍しくはありません。

 例えばトライトーン・サブスティテューション(代理)という、すなわち三全音を共有し得る代理コード(=裏コード)という存在が主音に隣接する「異度」由来の音からの解決を示唆する音度で示さなくてはならないため、G7の代理を決してC#7という風には表記出来ない訳です(Gから見れば増四度の三全音であっても)。

 ですのでこうしたシーンではGという音から見たD♭は減五度となる訳ですから、殆どのジャズ/ポピュラー系の理論書でも増四度よりも寧ろ減五度として教えている所が多い筈です。


 こうした矛盾を孕んでいるが為に、私はこれまで手順を踏みつつ今回この様な話題を取り上げるまでは、ヒンデミットが語る「本当の三全音音程の在り方」という事について論述するのを避けて来た訳です。

 但し、中にはヒンデミットの『作曲の手引』を初めとする基礎理解にある人も存在する訳ですから、それらの人に対して非難されない様にする為にも、私は嘗てジョン・コルトレーンのジャイアント・ステップスにてそれを仄めかしていた事も勿論あります。

 ジャイアント・ステップスの後続和音の行き先は、先行する調所属の長三度/短六度に進む訳ですから「2全音/4全音上下の何れか」になる訳です。この「2全音/4全音」から今回の「三全音は増四度であるのは当然」という事まで導出出来る方こそが、きちんと楽理を理解されている訳でして、私が話題にする度にトライトーンが増四度だったり減五度だったりすると跳んだ誹りを受けかねないのもあって、敢えて語るべき時が来る迄語っていなかった訳です。

 それを踏まえて今一度前回の記事を振り返ると、前回でも三全音を増四度/減五度と語っているのは、それまで私が徹頭徹尾ジャズ/ポピュラー社会に敢えて靡いていた事だったのです。

 だからといって「三全音は兎に角増四度である」という風に頑固に一義的理解に及んでしまうと、先のドミナント7thコードの代理(=裏コード)に於いて矛盾を来してしまうので、双方の理解として多義的に捉える必要があるのですが混乱を防ぐ為に敢えて今日まで語らなかった訳ですね。

 とかくジャズ/ポピュラー界隈の多くの人達というのは自己の欲求の趣く侭に急いて、焦燥感が持つ牽引力を頼りに自身の探究心に着火する為の燃料とする人が非常に多いのですが、自身の「使い慣れた」一義的理解レギュレーション(※狭義の音楽界隈や集まりでしか通用しない語句嵌当規則)から少しでも外れた呼称があると途端に興味を失い自身の探究心を掘り下げようとする人は少なくなる物です。しかもこの手の人達は西洋音楽をリスペクトしていない人に非常に多く見受けられる物でもあります。

 
 扨て次に掲げる3種の三全音の譜例は、ヒンデミット著『作曲の手引』の表記に倣いつつ、更に詳しく加筆した物です。三全音左側の音程比「5:7」は狭い三全音であり、中央「600セント」を意味するのは12平均律に依る物です。ヒンデミットは同著で三全音は増四度としてい乍ら茲で減五度音程を態々充てて表記しているのは、左右の狭い・広い三全音と区別させる為の狙いがあっての事であるのは明白であります。右側の音程比「7:10」の三全音は「広い三全音」を意味するものであります。

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 それらの狭い・広い三全音の表記はヒンデミットのそれに倣った物で、現今で広く知られている微分音表記と若干異なりますし、亦、今回私が多少それらの微小音程にて見易さを伴わせる為に、広い三全音の下段(ヘ音記号)部の音程は微小音程用の記号を加筆しております。

 下段ヘ音記号部分は上声部の結合差音で得られる物です。ヒンデミットの言いたい事は、上声部三全音の差音が属七の機能を強める事で、三全音が属七の機能を示す事に加え、狭い三全音の第1・2次結合差音は「五度音程」を生ずる一方、広い三全音の第1・2次結合差音は先の物よりも狭い音程の四度を生むという所を強調している訳です。

 山口庄司は自著『四和声理論』に於いて「べき倍音列」を紹介しており、半音を90セント、全音を204セントとする事で舊來の歪つな旋法性と和声的調和の為の整合性として音律として取り上げており、導音性を持つ半音音程幅を90セントであるにも拘らず2半音が180セントと為さないヘプタトニックとしての情緒の在り方に変化が齎されるのは注目に値する物でもあります。隠れた良著で、嘗てのアルキュタスやエラストテネス等の四分音的テトラコルド等についても冒頭から取り上げられている隠れた良著なので一度手に取って読まれる事を推奨します。


 純正律の場合、基となる調性の主軸に依って各音の音程というのは微妙に異なります。例えば以前にも例示した「純正長調」の純正律はハ長調の物である為、その図の「ヘ─ロ音」は、今回例示したヒンデミット『作曲の手引』で例示される「ハ─嬰ヘ」に置き換えた音程と微妙に異なる物でもありますが、ご覧の様に純正律とピタゴラス律でも「ヘ─ロ音」間の三全音での狭い・広いが生ずるのはお判りいただける事でしょう。

 
 余談ですが、次の表記は先の譜例をヴィシネグラツキー風の十二分音表記にて示した微分音記号に依る物です。以前にもアロイス・ハーバ流の十二分音表記を例示した事がありましたが、そちらは伊福部昭著『管絃楽法』でも見られるので、今回はそれとは異なる表記にて示してみる事に。あらためて音高の推移が判り易いかと思います。

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 導音的性質にも実際には「広い・狭い」が生じていたにも拘らず、その不協和を後続の協和の為に使っていた訳で、三全音の広い・狭い如何でドミナント→トニックという進行がそれこそ天地がひっくり返るかの様に別物の異なる世界に変貌を遂げてしまつという訳ではありません。無論、それらの情感を敢えて使いこなす人は勿論おりますけどね。古楽や舊來の情感を表現したい時に平均律的な音程で楽音を操作してしまってはいけない場面もあるでしょうし、その逆が求められるシーンも必要な訳です。


 「悪魔の音程」と言われた三全音はシーンに依ってその表情は異なるのですが、その音楽的表情の差異は≠強度なのであります。悪魔的情感の強度が微小音程の差に依って生ずる訳ではありません。三全音音程の「広い・狭い」が「怖い・怖くない」という風には置換されない訳です。

 加えて、三全音を聴いて誰もが「怖い」という風になる訳ではないのは言う迄もありません(笑)。以前にもナティエ著『音楽記号学』にて語られる希代の音楽家33人に依る33様のトリスタン和音解釈の話題を出した様に、ワーグナーが一石を投じた事は言うまでもありません。ジャズ/ポピュラー界隈で言えば、ジェフ・ベックのアルバム『There And Back』収録の「El Becko」冒頭のピアノ(←これは市販のバンドスコアがハーフ・ディミニッシュとして誤った表記が広く知れ渡っている物で、原曲の実際はハーフ・ディミニッシュではない)、スティーリー・ダンのアルバム『幻想の摩天楼』収録の「The Fez(邦題「トルコ帽もないのに」)」將又ドナルド・フェイゲンの「Maxine」の歌メロ冒頭のコードなど暗喩めいたハーフ・ディミニッシュとしての姿で聴く事が出来るのも以前から語っている通り。









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 そんなハーフ・ディミニッシュ(半導七)としての和音に長九度音を附与するとなるとジャズ界隈ではかなり乙な物となって来ますが、私が慫慂したいのはゲイリー・バートン&フレンズ(パット・メセニー他)の『リユニオン』収録の「House on the Hill」「Wasn't Always Easy」が好例となる事でしょう。

 畢竟するに、ハーフ・ディミニッシュに長九度が附与される様な情感が持て囃されるには、ハーフ・ディミニッシュが持つ後続和音に対する協和への帰結という導音性の揺り戻しよりも、その響きを維持して不協和音としての色彩と味わいを求めている響きである事は明白でありまして、例えばマイナー・メジャー7thというコードの第7音が導音として主音へ解決せずにその体を保ったり、或いはその「宙ぶらりん」とした導音を放っておくよりも長九度を附与する事で導音が主音へ解決しようとするそれを緩和する為のアンカーとして使われているそれと同様の九度音の置き方でもある訳です。

 一般的な和声の取扱いからすれば異端かもしれませんが、和音の響きとは字義通りの情感を齎す程ではなく、ある音程をひとたび聴けば絶命したり服毒するかのような辛苦を伴ってまで味わう程の物に変容する物では決してありません。卑近な響きばかりを是としてしまう人は蹂躙される事を好まず、それは言い換えれば卑近な響きに耽る事で別の情感が宿る様にして強化されてしまったからこそ不協和方面の情感が強化されなかったタイプに括られるかと思います。衒いの無い響きを耳にして、それに浸る「安堵感」こそが自身が寛ぐ為の至福の一時なのだ、という情感。

 それは、至福の時に浸る→私はその価値がある人間だ・それに相応しい人間だ・自分の為の時間を己の為に時間を費やす私は時間の使い方が巧緻である、かの様な、音楽の聴き方に依って自身の価値付けをしているので、実際には音楽の情感そのものを傾聴しているのではないのです。音楽の情感にアシストされて起る「別の動機」に寛ぎや価値を見出しているのが現実なのですが、別の情感が齎している事にも自覚はしていないのが殆どだと思います。そういう人が偶々自身の好む音楽に対して訥《くちべた》だったりすると、それに対して重み付けをしたいが為に誇張した言葉の表現を借りて凡ゆる言葉を駆使して表現しようとする訳です。そうなると、端的に表す事の難しい楽理的側面に依拠する言葉は無視され易く、いくらでも誇張が可能な形容詞や比喩的表現で音楽はデコレーションされてしまう事になりかねず、音楽は直視されぬままそんな人達の間で歪められてしまうのです。

 悪魔の音程を聴いて、それを悪魔と認識する事が「悪魔」なのではなく、自身の偏向した楽音の聴き方こそが「悪」を生じてしまっている事は何とも不幸な事です。

 不協和な音を聴いたり、純正ではない音律を聴いて命を落とす様な事はないのだから、もう少し自身の音楽観を熟成する為に不協和な音に耽る事が良いのではないかと思う事頻りです(笑)。