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一義性と多義性の岐路 [楽理]

 扨て前回のエンハーモニック・トランスフォーメーションを載せた譜例はG7の構成音であるd音とf音を敢えて「c##(Cダブル・シャープ)、e#」という風にさせて、そこからg音はf#音への勾配、c##はd#へと勾配がつき、e#はf#に勾配が付いている、という事が判るものなのです。つまりそれはG7→Cではなく、G7→Bなのでありますね。
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 コルトレーン・チェンジというのは2全音/4全音を上と下に進行する事での「大きなステップ」が「大きな全音音程」の暗喩である(筈)なので、CがあればEかG#(=A♭)に進みますよ、という事を意味するものですね。

 ※中心軸システムを考慮に入れた2全音/4全音進行を施す場合はオクターヴを短三度ずつ持ち合うかの様にして和声機能を等方に持ち合う物ですが、中心軸システムを考慮に入れた時の二全音/四全音進行を試みる場合、必然的にトライトーン代理(tritone substitution)を経由する必要性が生じます。仮にCからEに進む場合はCからFを経由して、Fを「♭II」として見立ててEを「I」と見立てて着地する。このCからEへの進行はCから2全音上/4全音下の進行であり、同様に、CからG#の進行はCは短三度セパレートしたAが同等機能である事を利用し忍び込み、それ自体を「♭II」と見なして「G#」へと着地する。  無論「トライトーン代理」などという仰々しい語句を注視する必要はなく、ジャズに於いて最も重要な和声的な「裏」の位置(つまり裏コード・裏モード)を逐次意識していれば四度進行がすぐ見えない進行に於いても某か(中心軸システム・トライトーン代理・エンハーモニック・トランスフォーメーション然り)が念頭にあれば如何様にも対応できるのであります。


 こうしたドミナント7thコードの「多義性」を踏まえると、一義的ではない属和音の振る舞いに調性感を見出す事は当然の如く稀薄な物となっている事であります。

 多義性が前提になっていれば、既知の調性感に束縛される事がなく不協和音の振る舞いを捉える事ができます。そうした時にノン・ダイアトニック方面への挙動を見つける事ができて、そちらの世界へ欲求が増すのであります。しかも、不協和な世界が複雑化すると、不思議と対称構造や均齊という等しい構造が見えて来るのであります。勿論、調性社会でもドリアンという旋法が上にも下にも対称形であった対称構造でありましたが、それがもっと多様化している世界をイメージすると理解が進むであろうかと思います。


 加えて、今一度ドミナント7thコードの多義性を念頭に置き乍らメロディック・マイナー・モードを振り返る事にしましょうか。すると次のダイアトニック・コード群の様に表す事ができるのですが、爰にある通り、IV・V度上で生ずるドミナント7thコードは9度音がオルタレーションしない所が最大の特徴です。9度音をオルタレーションさせる事というのは、短音程を連れて来た情緒だった訳ですから本当は調的情緒を使うには非常に手っ取り早かった情緒なのですが、9度のオルタレーションを用いる事をメロディック・マイナー・モードという音組織が許してくれない訳ですね。

 亦、今回のメロディック・マイナー・モードのダイアトニック・コードは四声体を基本にして、五声体・六声体を小さな音符で表しているのはお判りかと思います。四声体のままになってしまっているコードはそれ以上積み上げた所でモードの音組織からは基底和音を阻碍するアヴォイドが先に来る為だというのは自明の事です。Dm7を基底和音にE♭を積むのは基底和音を阻碍するからですが、どうしてもE♭を附与したい響きを得たいのであれば「F7/D」として使えばなんて事はないのです。
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 チック・コリア・エレクトリック・バンドの「Flamingo」を取り上げた事、覚えておられるでしょうか?「メディアント9th」と呼んだ和音で、判り易く謂えばマイナー7thコードに短九度を附与したのと同様の和音です。
 
 マイナー7thコードに短九度を附與するとなると基底和音としてのEマイナー・トライアドの響きを阻碍するので短九度はアヴォイド扱いとなるのですが、それは狭い機能和声での話。嘗ても私がフランツ・リストの「不毛なオッサ(枯れたる骨)」S.55でも取り上げたフリジアン・トータルが包含しているメディアント9thを語っていたのは、メディアント9thは実際にはポリ・コードとして現今社会に於て特に「ブルージィー」な演出の為に使われている、という事を語っていたのでありました。



 頭でっかちにならず、柔軟性をもってポリ・コードの方に視野を広げれば、先のCメロディック・マイナー・モード音組織上のDm7という和音の「出汁」をベース(=基)にするのではなく「F7」という出汁を基にD音をベース(=バス)が奏するという「雰囲気」を獲得することが重要だという事が和音表記から薫って来ることを識るのが重要なのですね。「Flamingo」の場合はキーがDm(ニ短調)なのでCメロディック・マイナー・モードでのそれ(=メディアント9thと同義の和音)とは移高させて確認する必要があります。
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 つまり、先述のCメロディック・マイナー・モード上で形成された「F7/D」というメディアント9thの同義コードを「Flamingo」のニ短調組織に置き換えれば「B♭7/G」として移高可能なものであるという事を意味し、爰に登場するメディアント9thの同義和音となる分数コードが有する上声部のドミナント7thコードは一義的な機能ではない、多義的なドミナント7thコードであり、更に分数コードとして稀釈化がさらに分数コードで稀釈化されていると解釈する事が肝要なのです。


 トライトーン(=トリトヌス)は、半音で隣接する「ダイアトニックの音」に転がり込むのです。ですからG7が有するh音はc音に転がり、f音はe音に転がるという事を覚えるのです。処がこの勾配を必要としない多義的なドミナント7thもあれば、f音と異名同音であるe#音がダイアトニックとして振舞うにはf#に進む事になり、hを掛留させてc##音をd#というダイアトニックな音へと勾配を付けるエンハーモニック・トランスフォーメーションも説明した通りです。こうした多義的なドミナント7thコードの振る舞い(=その振る舞いは能く知る一義的な属和音の振る舞いではない)が多数あるという事も知っておかなくてはならないのです。

 扨て、どれほどのジャズメンがこうした楽理的背景を把握している事でしょうか!?少なくとも濱瀬元彦著の『チャーリー・パーカーの技法』および『ブルーノートと調性』をきちんと理解できる人ではないと先ず無理な事なのです。西洋音楽史に裏打ちされた楽理があれば、濱瀬元彦氏が著した音楽書をオカルト扱いなどは決して出来ないのです。処がジャズやポピュラー界隈での見識しか有しない輩は、西洋音楽側の事が縁遠い物であるため、聞き慣れない事を総じて眉唾扱いしてしまう嫌いがあるのです。それは、ジャズが眼前の利便性を前提に、長・短両音程をオルタレーションとして呼び込んで、ブルースの起源であるブルー3・5・7度とごっちゃにしてしまった近視眼的理解をそのまま引き継いで矛盾を抱えたまま成長せざるを得なかった自分を戒める事ができずに他者を断罪する愚行に等しいのであります。

 ブルー3・5・7度とオルタレーションを同義と考えてしまったという事は、♯11thと♭5thが全く一緒だと考える事と一緒ですからね。そりゃあ、鍵盤では「見かけ」は一緒ですが、音の出自は全く違うのです。こういう矛盾を孕んだまま、ジャズはその矛盾を拡大しない様に、その手の見識に収まる者が多く取り残され成長する事なく時間だけが過ぎて行ったという訳です。バップ・イディオムすら体得していないジャズを名乗る人達、どれだけ出現してきたと思っているんですか!?そんなのが、容姿や凄腕を武器に「なんちゃってジャズ」を奏しているのが現今の日本のジャズであるという事を今一度思い知る必要があります。Twitterで御託並べている程度の似非ジャズ野郎の言など以ての外ですけれどね(笑)。


 そういう訳で「多義的」なドミナント7thコードを視野に入れるという事は、トリトヌスを包含する和音をどれだけ操る事ができるか!?という手腕も問われる様になってきます。トリトヌスを含むタイプの和音は必ずしもドミナント7thコードばかりではないのはヒンデミットが示している通りです。

 とはいえ、ヒンデミットのその体系をエドモン・コステールは自著にて無謀な反駁を繰り広げておりますが、それに関しては以前にも私が述べた事なのでコステールのそれに首肯する必要は全くありません。

 
 結果的に調性社会での「ドミナント」は、それが一義的であろうと多義的であろうと「不協和音」には変わりないのです。「協和」へ移行する為に「不協和」が二元的に存在すると考えれば良いでしょう。ところがこうした二項対立の一方に「不」という文字が表象的に表されているものだから、「不」という文字が付されていない側が音楽的理解の部分でメリットを甘受しているという側面があるのは受け容れ難い一面でもあります。悲しい哉、現実にはそういう側面に端を発して「協和=良、不協和=悪」という風に理解されているのも事実です。

 不協和という物をきちんと理解すればそこに対象的・均齊的な構造を見出す事ができるようになります。投影法というのは結果的に「対称」の構造が現われます。和声二元論に於けるフーゴー・リーマンのそれ(=下方倍音列)という実際には耳に聴こえては来ない虚構をどうしても受け容れない理解にある者としては、鏡像と聞いただけで反吐が出て吐瀉物を撒き散らしかねないかもしれません(笑)。然し乍ら、そこまで調性を遵守し乍らも多くの音楽は結果的に場面変化の為に凡ゆる音脈を求めて調性は崩壊したのでした。

 しかし、写実的でなければ絵画も「虚構」であり「超現実」なのです。その虚構を音で表現しようとした時、協和的な世界だけでどれほどの世界感を構築できるものでしょうか!?(笑)。こうした世界感をより一層強調したくて和声は発展したのでありますが、耳が熟達に無い者は不協和を体得する事で「純真なる感性が損われる」とでも思っているのが厄介なのです。


 例えば、エレクトリックな音やシンササイザーなどは、その電気的な音の質感・量感が持つ独得のキャラクターには、人間の感覚的な線形のそれとは別の線にあるため、多くは己の予想を凌駕する量感が耳に聴こえてしまい、その圧倒感につい自身の主観が侵犯されそうになる為、その様を忌避する人達はとかく電気嫌いになってしまうものです(笑)。

 なぜ、電気的なそれには自身の心が侵犯されそうになったと思ったのでしょう!?それは己の主観が脆弱であるが故に、自身の感情を形成している感覚など、推測の外にある量感にすぐに圧倒されてしまうからですね。すなわち、主観が鍛えられていないから「侵犯」されるのです。これだけの理由です。処が自分可愛さに自身の主観を貶める様な人間は、器楽的に練武する事を是としてストイックに厳しい修練を課す人間とは違い、自身の感覚を自身の尺度だけで形成すれば良いのですから、厳しさを伴って磨き上げられた感覚とは別の所にある物だという自覚すら無い人が多いのも確かです。

 電気的な量感にて即座に自身の判断が侵犯される様な人間がなぜオーディオなど耳にするのでしょうか。彼らがイイと思っている音楽からすればオーディオ装置を通過している事自体音楽を蹂躙しているのではないでしょうか?でも実際はそうではない。おそらくは金と時間をかけて掻き集めたオーディオと音楽ライブラリーこそが宝であり、それを聴く己に価値がある、と心酔しているだけに過ぎないのですよ。そこに電気的な量感など最早関係はなく、自身がオーディオを耳にする事が慣れた事を許容しているが故の選定なのです。ですから、自身の経験の外にある「量感」は「剪定」もされてしまう訳です(笑)。楽理も判らぬこの手の輩がどれだけありったけの言葉を使って人々にレコメンドしているのかと思うと反吐が出る思いです。ですから、私は楽理的な側面を語る譯ですね。


 そんな訳で、先日のバップ・イディオムを例にしたサンプル曲「G Funk」という曲で、想起する和音を実際にリハーモナイゼーションさせた別のサンプル曲を用意したので、想起とは別の角度から音楽をあらためて聴いてみて下さい。リハーモナイズしたコード進行は、先の想起した架空の和音進行を充てたもので、それに伴いベースが少し変わっています。
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