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2014年音楽関連書籍私的ランキング [書評]

 今年も私的ランキングを語る季節がやってきたのでありますが、2014年度の音楽アルバムのランキングは行わない事にしました(嗤)。

 その理由はあまりにも新譜が少なく、その中で気に入った物は多いものの、買った物を単に列挙する様になってもアレなので、そうすれば「楽曲」ランキングをすればいいのでしょうが、4つ星&5つ星クラスの曲に遭遇しなかったのも事実。3つ星級なら挙げられるのですが、そうすると今度はこれらクラスからの優劣を付け合う事で上位と下位は孰れも3つ星なのに矛盾を来してしまうという事でヤメました。

 今年度は私的音楽関連図書ランキングとさせていただく事にしたという訳です。こっちの方がよっぽど価値が高いと思われますし、そんな訳でランキングをさせていただく事に。


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ポール・ヘガティ著『ノイズ/ミュージック』 若尾裕・嶋田久美訳 みすず書房刊

 全体的に広汎な音楽ジャンルの「ノイズ」たるものを取り上げて、その用いられ方を挙げているが、なるべく主観に染まらない様にして多くの音楽を取扱っている点が大きな特徴として映るかもしれない。それは本書が修辞学的にノイズと音楽との対比という角度から分析しているからであるが、音響心理学面から学究的な分析や対比、または図版を提示して心理学的なグラフやパラメータなどの取り上げ方は皆無ではない物のそれらは総て修辞学的に要約されて語られるので、読み手は哲学と心理学方面の前提知識が無ければ面食らう事だけは確かであろう。多くは数値化・符号化・表象化もなく進められる。惜しむらくは、多くの音楽ジャンルのアーティストや作品を取り上げたにも拘らず、ノイズの取り扱いが多様であるもののノイズという存在が人間の心理にとって一義的なものか否かという所までは述べられていないのが非常に残念。序文からそれを肯定しているのだが、その肯定がなければこうした冗長レコメンドを正当化する事はできなかったであろう(笑)。

 ノイズというのは本来、人間の聴覚に於いて積分的に一様に凡ゆる音が存在していて人間の弁別閾をも塗り潰されている様に存在する物である筈だが、こうした音響方面への理解が前提にあった上でノイズが音楽にどう影響を与えるかという側面を主観に左右される事なく、読み手が雑多な音楽ジャンルに対して本書を手に取る前からノイズを投影(置換)する事が可能な程に取り扱いに成熟していればノイズが齎してくれるであろうレトリックに何らかのヒントを見つける事ができるかもしれないが、思弁・実証両面からの経験がある人からは本書を手にする労力をも無駄にしかねない進め方はメシアンのトゥーランガリラ第6楽章をひとつひとつのインパルス状で聴かされる様な気分に浸らせて呉れる。譜面もなく音楽の聴感エネルギー的なグラフもなく、ノイズの量感などの「匙加減」とやらは全く数値・符号化されていないので書き手のお眼鏡に適った音楽だけを単に掻い摘んでレトリックに語られるだけで欠伸が出てしまう物。

 但し唯一この本の良い点は、ノイズという物を取扱ってきたアーティストの人間性・心理・社会面の側を実に客観的且つ冷静に映し出しているのであり、これらを深く読み取る為には非常に慮った脚注に隈無く目を通される事を私は慫慂するのであります。





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ホアン・G・ローダラー著『新版 音楽の科学』 高野光司、安西四一共訳 音楽之友社刊行


 以前から『音楽の科学』は改訂がありますが、今回はかなり大胆なもので、そこには単なる文章の追加というものではなく編纂が進んだものとなっております。つまり、現今社会の科学に倣って新たな追加や除外された一文があるという事を意味するものです。

 かねてから『音楽の科学』の良い所は、複合音の知覚や「中枢ピッチ処理モデル」について語られる所なのですが、特にこの辺りは編纂が非常に多く行われていて読んでいて気分が昂揚して来る程に面白さを発揮していて、図版もかなり改良が進んで非常に良い。

 有毛細胞はその音そのものを捉えている筈なのに、ある音を聞いた時に隣接する音をも感ずる様なシーンがあるのは何故なのか!?という事に興味がある人は是非手に取っていただきたいと思います。

 生物が5億年前に「歩行」という生活の営みの上で確保して来た運動のそれは、知覚の速度を倍に変えたという記述は非常に興味深い点でありましょう。



 此処から述べる事は『音楽の科学』で述べられている事ではありませんが、聴覚とは本来「触覚」であった事を忘れてはなりません。生物が魚類であった頃の「側線」、これが体の内部に取り込まれるようになって「聴覚」へと発展していったのです。

 皮膚の触覚の弁別閾などで能く知られた方法ですが、例えばコンパスの両側の針の距離を狭めて行くといつしか2点ではなく1点に感じる様になります。聴覚と触覚は嘗ては同じであったにも拘らず、です。処が音の場合、2音の複合音が1音に溶け込む事はあり得ません。アルペジオと和音の違いに異なる雰囲気が付随されるだけで、コンパスの様に2つが1つになってしまう事はありません。これが聴覚の素晴しさであります。また、コンパスの様に1点にならない事を突き詰めていて、さらに差異を見出そうとする所に「音楽の心が宿る」とも云われていたりもするのです。

 これほど鋭い感覚の聴覚でも、有毛細胞は音をそれこそその音波を「一義的」に捉えるにも拘らず、神経がその音に隣接する周波数を緩やかな山の裾野の様にして知覚する事もあれば、聴覚障害や薬物障害に依って音程感の狂い、とくにオクターヴ感が狂う事すらあるのが聴覚の不思議な所なのであります。オクターヴを同一視して和音を転回化とする様に整備できたのはジャン=フィリップ・ラモーに依る貢献でもあるのですが、オクターヴの同一性についてはオイラーが1:3の音程比の方が2:3よりも明澄度が高いのは矛盾する事とも云われていた事で、実は現今社会では「オクターヴの同一性」が実は違うという事を静かに感じ取っている事がひしひしと伝わって来るのであり、こうした面白さを備えていると『音楽の科学』のそれをより興味深く感じ取る事が出来るかと思います。




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柴田南雄著 『音楽史と音楽論』 岩波現代文庫

『音楽史と音楽論』は放送大学テキストとしても刊行されていたのであり、2004年第3版を底本としたという事が明記されておりますが、佐野光司氏の跋文が寄せられている所が本書を更に価値付けているのは疑いのない所でしょう。

 柴田南雄の著書というのは大変慮って上梓されるもので、それは氏が著書を著すに際して縦組み・横組みという性質をとても慮るタイプの人であるからです。

 基本的に音楽を語る上で必要になる「楽譜」は「横組み・左綴じ」が基本であるので、それを「縦組み・右綴じ」で書こうとすると、縦組みに楽譜を90度傾けるのか、それとも横組みを混在させるのかというレイアウトの矛盾を孕むのであります。一方、日本語とは多様性のあるもので、和文の縦組み・横組みはまだしも、英文や欧米の記号も混在するし、数字の縦中横の有無だって混在するという多様な表現をいつしか許容しているのが日本人であります。

 ならば、音楽書の類は横組みとすべし!という動きがあるのも否定できませんが、処が「視角」には優位性があり、殊に横方向の視角は人間は縦よりも広く、その視界の広さ故に惰性が生じ、脳の言語的処理よりも視覚的処理に弾みが付いて理解の先に視覚が優位になる事がある。それを避ける為に縦組みで重しをつけるかの様にして縦組みを意識させる事がある。処が縦組みに徒に譜面があるのも無理が生ずるので、柴田の配慮というのは、縦組みの時には譜面は極力少なくなり文章に横組み以上の配慮が見られる物です。本書でも音符関連はリズムを説明する図版の1つだけである。勿論氏の過去の縦組みの著書に譜例が使われている物は多数ありますが、「より一層配慮される」という意味がどういう事かはお判りでしょう。

 音楽史と音楽論という言葉が表す通り、此処には世界各地の音楽の「香り」が判る様に詳らかに語られているのであって、その香りの違いを読み取るにあたって、旋法的な違いやら社会的な背景などを追う事ができる物なのであります。それがどう重要になるのかは、今回私が列挙している書評の夫々をお読みいただければ意図が更に伝わるかと思います。

 因みに佐野光司は、嘗てはカワイ出版の『コンピューターと音楽』や『現代音楽の記譜』などの訳でも有名でありますが、徳丸吉彦、武田明倫(たけだあきみち)など12音技法の分野ではかなり目にする機会が多いのではないかと思います。音楽の旋律的な構造に加えてヨーゼフ・マティアス・ハウアーにまで達する総音程音列などを語った『音楽と骸骨のはなし』をやはり佐野が跋文にて少し触れているのも、その広汎な音楽への見渡しと必ずしも両極にある物でもないという民族的な音と12音音楽を包括している点にあらためて賛意を以て述べている点は、佐野もやはり読み手に対してそうした部分にまで理解を昇華してもらいたいが故の事でありましょう。

 特に柴田が古代の(古典ではない)音楽史まで語っている事は、哲学方面から見た時の音楽とやらに必要な知識を与えてくれるので非常に重宝する本ではないかと信じてやみません。



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正高信男著 『音楽を愛でるサル』 中公新書2277

 タイトルのキャッチーさに近視眼的に断罪してはならない。先の『音楽の科学』にて私が知覚の側面に関して色々と語っていたのは、本書で語られる所の知覚の側面にも興味を抱いてもらいたかったが故の事であり、特に「絶対音感」について茲迄端的に語る事が出来る様になった事に我々はあらためて喜ばないといけません。それとその感覚が結果的に音楽的な能力ではなく言語的な能力だという事も即座にお判りいただける事でしょう。というより、元々「強固な絶対音感」保有者というのは、調性の面に於てもかなり原初的な感覚で、間違い無くソルミゼーション不適合格者の烙印を付けられてもやむなしの能力がなぜ礼賛されてしまったのか、という事をあらためて思い知る事も出来る本でもある事を強調しておきたいと思います。

 但し、本書はそこに主眼があるのではなく、調性やら音楽の旋律に対する知覚に於て、なぜ音の連なりを楽音→音楽という風に感ずる様になったのかという所について深く語られている所が最も良い点であり、このブレの無い書き進め方は徹頭徹尾、知覚面の深さと音楽という物の深さをあらためて違った側面から見つめ直させてくれる(聴覚面とは異なる方角)非常に素晴しい本である事を声高に語っておく必要があるでしょう。勿論、そこには楽理的な前提知識など無くとも読む愉しさが備わっているからでもあります。

 楽理的な知識があれば、旋律的に音楽を鑑みれば、イェーデ、フックス、エルンスト・フリードリヒ・リヒター、ヤダスゾーン、シュミッツ、ハインリヒ・シェンカー、ヒンデミット、エルンスト・クルト等から「旋律」という物を彼等が詳悉に語って来た事は史実が示して呉れる事ですが、これらの名だたる人達を知っている人はおそらく和声学・対位法やらの素地は備えて居られる様な人達であろう事は言う迄もありませんが、このような素地の有る人々でも興味深く読む事ができ、音楽に耽る事で己の主観が禍いしてしまって時には偏向的に音楽を判断してしまう「癖」すら排除して心理面からも平たく音楽を見つめる事が出来るのが『音楽を愛でるサル』の素晴しい点ではないでしょうか。

 社団法人電子通信学会編『聴覚と音声』第2部「聴覚の心理」における178〜179頁などをひとたび読めば正高氏のそれをさらに興味深く読む事ができると思います。






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細見和之著 『フランクフルト学派』 中公新書2288


 本書は音楽の側面ばかりを語っている訳ではありませんが、殊に音楽を深く知ろうとする場合、音楽を識るに当たって己の主観の「偏向度」を極力避ける狙いで音楽を修辞的・弁証法的に見つめる事で客観視して判断しようとする試みが功を奏する事が往々にしてあります。併し、楽理的な側面も器楽的な側面でも音楽への理解が浅いのに思弁的な姿勢だけで音楽を理解する事が出来るか!?というのはそれは哲学的にも楽理的にも音楽を学ぶ事を冒涜するものです。最早、楽を追求するだけでは何も得られる事はないでしょう。

 本書の醍醐味はやはり第5章辺りからの音楽論の件はやはり音楽に興味を抱く人には興味深い(アドルノなど)ものですが、ミメーシスに関して論及されている点は音楽ファンとしては必読の項であります。

 先述した『ノイズ/ミュージック』から語っていた様に、その修辞学的な重要性とその陥穽という点、あらためて本書『フランクフルト学派』を読む事で、哲学とは、その「生」の社会での成立する物だという事をまざまざと知る訳であります。

 これから音楽を深く学ぼうとする若い人達には、少なくとも音楽(=西洋音楽)が築いて来た歴史が、アリストテレス、プラトンらが構築してきた先の「フランクフルト学派」に述べられている当時から築き上げられた「指針」への理解が必要で、先人の徹底した整備があって音楽がどのように構築されてきたのか、という前提知識があった上で本書を読まれる事を勧めると共に、その理解を以て音楽学に応用すべきであろうと思います。

 例えばギリシャ時代アリストテレスは、技術(=人間に依る)を駆使作品を作る制作術(=ポイエーシス)に芸術を集約させ、そこに付随するドラマ的要素つまり叙情的な創作はミメーシス(=模倣)である、と。

 茲でプラトンは「3段階模倣論」を唱えるという違いを前提に知っておく必要があるのです。

 先のギリシャ時代では、作曲する側の能力よりも演奏する職人の地位が高かったのであります。作曲する側の世界観とやらはプラトンの時代に、既に創られているものを人間の肉体が利用しているだけと理解されていた所に、作曲者の「仮象」に地位を与える事が本筋となり、他の考えが否とされる様に変化した訳です。つまり、これに背くものは国を捨てざるを得なくなる。

 こうした背景を理解されていて「フランクフルト学派」の先の件を読むと、音楽的にどういう事かという事を深く首肯し乍ら読み進める事が出来るだろうと思います。私が此処でレコメンドしているのは音楽に昇華する為に語っている事であり、その他の無関係な人達へのレコメンドではない事は御注意を。


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レオニード・サバネーエフ著 『スクリャービン』 森松皓子訳 音楽之友社刊

 サバネーエフが著したのだから、所謂「神秘和音」の言及に譜例も用意されるだろうという期待は裏切られる事なく満足させてくれたのでありますが、2段組・1段26文字はビッシリと詰まった書量で読み応えよりも「読みやすさ」を感ずるのは、段落ごとに小見出しを振ったそれが功を奏しているのでしょうが、ただ、私個人としては面食らった、小見出しが太すぎて余計な重み付けが与えられるので慣れが必要。しかし内容は書量・質ともに満足。

 この著書が刊行される以前、私が信頼を寄せていたスクリャービン関連の書籍は泰流社刊のフォービオン・バウアーズ著佐藤泰一訳『アレクサンドル・スクリャービン』でありました。アシュケナージも序文を寄せるその泰流社刊の『アレクサンドル・スクリャービン』191頁の和音の詳らかな解説と比べると大人しい感があるのは否めないものの、楽理的側面を不明瞭に語っている訳ではありません。読み易く配慮された物となっていると思います。ただ、フォントそのもの字面が……。おそらく小塚書体だと思いますが、これはどうもギラギラしていて読みにくいのが難点。勿論泰流社の方も独得なフォントの体型なのでそれに合わせた感も無くはないのでしょうが、難点と言えば難点。




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ベン・ワトソン著 『デレク・ベイリー』 木幡和枝訳 工作舎刊

 本書は2013年暮れにアナウンスされていて2014年初頭に発刊となったものなので、この書評からほぼ丸1年経過しているので最早2014年新刊という括りから見ても昔の様に感じると共に時の移り行く早さを実感するのでありますが、楽理的な側面で語れる事はなくともそこに面白さを感ずるのは、デレク・ベイリーの周囲の人間の相関関係がべらぼうに面白いからである。というのも、デレク・ベイリーはその名前こそビッグであるにも関わらずその名が人口に膾炙するギタリストとは到底思えず、言わば知る人ぞ知る、類の人であります。音楽に対して理解を深めれば深めるほどデレク・ベイリーの名に遭遇する様になって来たのではなかろうか!?と思しき所に、あらためて尨大な書量の出ると聞き、非常に楽しみにしていた私で、満腹感この上ない内容でした。

 私が現在ブログ上で繰り広げているジャズ方面の話題というのは、所謂安易なオルタレーションに伴う陥穽を暗喩としても語っているのでありますが、そのオルタレーションの陥穽との対極にある側に私は英国ジャズを置いているのであります。英国ジャズというのは陳腐なオルタレーションよりも、寧ろ9度音なら本位9度を好む傾向があり、オルタレーションよりもポリ・コード!つまり、重畳しい和音の本来の正しい在り方が英国には非常に多いと思われ、そこにデレク・ベイリーやらが居る訳ですが、その周辺を見る限りでも、まさか故グレアム・コリアー(※著書文中ではグラハム・コリアー)やらは出て来るし、英国ジャズ、カンタベリー系、ジャズ・ロック系には周知のロル・コックスヒルも出て来るはフランク・ザッパやIRCAM人脈やらカールハインツ・シュトックハウゼン、マウリシオ・カーゲル、ルチアーノ・ベリオらの話題なども目白押し。

 そんな著名な人達の陰に楽理的背景など論述されていなくとも、彼等の活動プロセスにどういうコンセプトが関与していたのか、という事が詳悉に語られているのが凄い所。それらの名前に逐一ピンと来る人は、時間を忘れて一気に読み度くなってしまうものでしょう。先のノイズ/ミュージックが単なる「主観を排除したレコメンド」に成っている感が、この書を手に取るとその違いが如実に判る事でしょう。段組は2段で縦組み1段27文字でビッシリと詰まった560超の頁数。ベン・ワトソンに次を期待するとしたら、ヘンリー・カウのギタリスト、フレッド・フリスを書いて呉れる事でしょうか。