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知の源泉とは [楽理]

 先の音名対応からは色々とあらためて理解できたと思いますが、先にテオドール・ヤコビの言葉を載せておきましょう。


 ヤコビ著『総譜奏法』の一文には〈いかなる場合でも楽譜からすぐに移調して弾くことができなければならない〉という、とても重く響く文章があります。


 この前提を知っていれば、最相葉月が著書『絶対音感』にてパステルナークがスクリャービンの移調の対応を絶対音感が無いという風に感じてしまった自分自身の事を器楽的才能に熟達したものではないと気付かされる暗喩めいた部分に対して、これは著書冒頭の巻末にまで引っ張るトリックであろうという事が容易に推察に及びます。私は当時冒頭を読んだだけで胡散臭いと感じたものです。移調に伴う相対音感の強化と自身の調性感の固執の消失、それ等に伴う読譜という点に於てだけでも、就中音楽を志す者はどれだけ克服しなくてはならない点があるかという事を痛感させられるものです。最相葉月本人とて『絶対音感』ではそうした克服しなければならない点を挙げてはいても決して読み手に慫慂する事はない。それは音楽に対して自発的理解と克服をする者だけにその後の音楽の厳しさを実感させる上での示唆という事はすぐに読み取る事はできても、結果的に絶対音感の「特殊な能力」として誤謬となっている部分を最大限、文章の牽引力に用いている所があざとく、そのあざとさを近視眼的理解におよぶ者が見付けにくい高潮点を伴わせている点が私は到底好きになれないのであります。とはいえ、皮相浅薄な人間に手厚くしろなどとは私とて毛頭思ってはおりませんけれども(笑)。


 絶対音高感には色々な分類があるものの最相葉月はそれらを箇条書きにでも纏め上げている訳ではありません。勿論氏が提示している参考文献の中にはそれらをきちんと分類しております。バッヘム(広くはバッチェムと呼ばれる)の研究に依る分類はとても参考になるのではないかと思いますし、私も過去にバッチェムの絶対音高感保有者の図版をツイートした事もあります。

 そのような前提理解がある上で、加齢によって絶対音高感の移調が起こり得てしまう「音調」という実例も把握していたため、私は何処か胡散臭さを覚え乍らその後『絶対音感』に目を通したものです。つまり、移調の対応というのは少なくとも12種類のキーに移調可能な読譜能力を身につけなければならないという事までも含んでのヤコビの言葉であると私は捉えていたので、少なくとも移調楽器の類のキーに読譜力を対応させるのは至極当然の事であるという事も痛切に感じた過去があったものでした。そこでパステルナークのその安っぽい言葉の引用が、読む気力を萎縮させたのは間違いありませんが、だからといって皮相浅薄な者が私のこの立場を盾に使って最相葉月をこき下ろすなどという様な事など到底許し難い行為であります。この手の人間というのは自己愛だけは人一倍なので自分自身は傷付きたくないワケです。ですから他人の言葉を掻い摘んで代弁してくれているかの様に引用して、軋轢が生じたり信念が対立し合う構造は源泉同士のモノとなってしまう為、火付け役が放火したかのように逃避するという、近年ネットの炎上というのはまさしくこういう責任回避と対立構造に持ち込む為に他人の発言を着火点にさせるという、そうした事で生じた軋轢を傍観するという例が甚だしく実に不愉快です。


 着火した本人が隠匿できてしまうが故に責任回避が容易。こんな事、実はお役所の常套手段だったりもするのですが、音楽関連の話題からは乖離してしまうのでこの辺で留めておきましょう。まあ、ひとつ付け加えれるならば、皮相浅薄な人間というのは、学習するという事の大半が苦痛なので大概の事では覚えようとしないのです。己の矮小な知的能力の範囲にて好奇の揺さぶりが起きた時、その着火具合の大きさに初めて喜ぶワケですね。但しその着火は引火力が極めて強いものではないと着火しないため、人生の大半は燻っているだけにしか過ぎないのです。偶々遭遇した引火力の強い物は決して空っぽの知識の棚を埋めてくれる程の量には程遠いものなのですが、ひとたび着火するとどうしてもそれ対して自分自身の咀嚼で以て理解したり喧伝してみたくなるという風に、自身が知の源泉で居ようとする行動が禍いして先のドイツでの四分音の音名などを喧伝したりする様になるワケです。

 無論、私のブログなど論文と比較しようとは毛頭思ってもおりません。権威などそれこそ雲泥の差でありましょう(笑)。但し、権威というのは過去の確かなる実績の積み重ね、その実績とは知の蓄積と行動の蓄積に依る経験の賜物です。そうした蓄積があるにも拘らず従来微分音はなぜ音名まで与えられる事が極めて少なかったのか!?という音楽史の背景を鑑みれば、音律が不揃いの音程だった時代の頃も、等分の音律となった社会での事も全く理解に及んでいない事を示すものであり、現今社会において微分音というものをこれから、少なくとも体得は出来なくとも実感せざるを得ない状況において、皮相浅薄な輩にも微分音の解釈を少しでも判り易く体系的に説明しようとして、ローカルな方面で適宜音名を与えるというシーンでというのなら、それはまだ許容できるとしても、これがドイツ国内全土はおろか欧州、広くは全世界を牽引すべき四分音の呼称を用いたなどと理解している様では飛んだお笑い種であります(笑)。従来、なにゆえ敢えて微分音の音名を与えようとしなかったのか!?というのは、特定の音程の「表意」「表音」の偏重を避ける事にこそ意義があったからだという事も判らずに馬鹿共はまだ喧伝しているのですから哀れなものです。


 このように、脆弱な知識というのは自身の狭量さが禍いして他を受け入れようとしない様な視野の狭さも露呈する様になります。ジャズやポピュラー界隈の世俗音楽界隈などもっと顕著でしょう。例えばジョージ・ラッセルのリディアン・クロマティック・コンセプトを有り難がる様な輩は西洋音楽に依拠した楽理の知識が非常に薄く、よくもまああんな本を有り難がるモンだとあらためて思うことしきりなのですが、西洋音楽に身を置く方は、お暇があったら一度図書館でもリディアン・クロマティック・コンセプトに目を通してあげてみてください。失笑が漏れますから。あれで知った気になる人と著者へ「神のご加護を」と慈悲深く祈りを捧げたくなる事は間違いないでしょう(笑)。まあ、こういう風に話が及べば今一度、メタ・トーナリティーも含めて、少なくともブルース、ジャズはどういう風にして発展を遂げて来たのかという事を詳らかに語らないといけませんかね。そうするとジョージ・ラッセルさんが如何に眉唾なものかあらためて白日の下に晒してしまう事になるかもしれませんが、まあ私もリディアン・クロマティック・コンセプトという著書は所有している読者の一人ですので、目を通さずに批判している訳ではありませんので(笑)。


 微分音の音名対応やら世俗音楽、特にジャズ、ポピュラー音楽ばかりに拘泥してしまう人達が陥り易いのは、神経着火という物が、自身の偏愛する所由来だと総じて結び付けてしまいたくなるという、独占欲に依拠する短絡的な欲求である事に己が気付かないというのが共通する部分かと思います。関連する対象物には目を向けても簡単に紐付けできない類の物は総じて断罪する(理解に邪魔)という風になるんですね。ですから、ジャズに拘る多くの人は、ジャズこそが最前線であり、そのインプロヴァイズに依るスリリングなフレージングは最先端そのものだ、と。では言わせてもらいます。なにゆえ私は聴いた事のあるようなフレージングに遭遇するのか!?と(笑)。

 それはおそらく、現存する楽器で運指に伴う物理的な惰性やフレージングのためのモチーフの音形が既知の物として存する類の延長でしかなく、どんなに逸脱しようとも他のパートからモードが読み取れ、または和音が強く意識されていれば、その和音にぶら下がる線として、仮に和音外音であろうとも容易に推察に及んだりして、既知の物となんら変わり無い物に遭遇してしまっているのが関の山でしょう。

 以前にもブログで述べた様に、「旋律は和音を欲しがり、和音は旋律を欲しがる」という言葉でお判りになる様に、ジャズはまずシンプルな編成が故に和音の重畳しい豊かな和声感を欲します。その上で和声感の強固な彩りに加え、予定調和とは異なる調的勾配(転調感を伴う和声連結という動的な進行)を欲し、重畳しい和声感を背景に、豊富な和音外音を用いたインプロヴィゼーション、というのがジャズのそれですが、悲しいかな、現今のジャズというのは先人達が築いた「体系」に乗っかるばかりのジャズが蔓延って、小手先だけの難解なフレージングは決して既知の音形を超越する事はないのが悲哀な部分でありましょう。

  抑もジャズは和声感に拘り進化する時、和声の「体」の為に結果的に変格的に調性を捉える事になったのが始まりです。これらについては孰れ語る事があると思いますのでお楽しみに。


 ジャズが始まるもっと以前の西洋音楽というのは、平均律は浸透していたものの不均等な音律というのは決して捨てていたワケではありません。それはなぜかというと、調性感という基軸を維持しつつも半音階を駆使した音楽として発展している楽音を、ピアノやオルガン以外の楽器で奏してみればすぐに判る事ですが、相対的な音程の協和度ばかりを求めて律しようとすると半音階が際限なくずれていってしまうワケです(笑)。ですからこうしたジレンマを埋める為に奏者は実は臨機応変にピッチを都度変え乍ら奏しているのであります。そこに管楽器類が入って来ます。温度が摂氏1℃変化するだけで3セント以上も変化します。これにも臨機応変に対応します。

 こういう社会が前提となり、実音こそ同じ音程幅であるのに記譜上で異なる音程として出現するのは「同義音程」と呼ばれ、同義音程の異なる音同士は「異名同音」として取扱われますが、本来はいびつな音律を遵守して区別していたので「四分音的」という取扱い方が残っていたのが歴史として背景にあるのです。しかもこの四分音的操作は減七の和音上で「恣意的」に操作される事になり、結果的に多様な転調と多様な不協和音を生んだという事実を先ず前提に知っておかなくてはなりません(シャルル・ケクラン『和声の変遷』)。

 また、不協和音というのは以前から詳悉に語っている様に、そこには対称・均齊的構造が現れます。特に属七の和音というのはその属九・属十一・属十三と重畳させても判るように、減和音という等音程和音を枝葉として持ち、軈てトリトヌスを自身の3度と7度音だけではなく、ジャズ/ポピュラー界隈ではオルタード・テンションとして知られている音を附随させて行くとともに幾多のトリトヌスという半オクターヴ(=これも亦等音程)を枝葉に付けていきます。シャープ9thとして知られる属七に短10度を附加させるという同義音程で表記すれば「○7(#9)」という和音の増九度音が、本位13度音とトリトヌスを作るものの、これが比較的あまり用いられないのは母体のトリトヌス(3度音と7度音)と半音でぶつかるので、ジャズの世界とてついつい避けてしまい、次のコードへの半音階的勾配が阻碍されかねず静的な和音の振る舞いに近しくなるので複調的な響きになるのであまり多くは見掛けないのです。こうした「静的」なトリトヌスの類のドミナント7thを強く意識して使う人は、ドミナント7th上で本位11度音も静的な和音としての複調的振る舞いを好意的に利用している筈でしょうが、実際にこうしたジャズメンはとても限られた人(ウェイン・ショーターを筆頭)になるのは言うまでもありません。

 まあ、エンハーモニック・トランスフォーメーションという例を出しただけでも恐らくジャズメンならばコルトレーンのジャイアント・ステップスによる四全音の前進と後退(二全音の後退と前進とも呼べる)事にも繋がるので、皮相浅薄なジャズ野郎に向けてこっぴどく語って行く事にもなりまさぁね(笑)。

 この辺のトリトヌスの枝葉やブルース/ジャズの起源とメタ・トーナリティー等は近々こっぴどくやる事になるでしょう。それに伴い、トリスタン和音をハーフ・ディミニッシュとしてだけ見ない幾多もの見方というものも含めて、不等四度和音としての見渡し等、テトラコルドのコンジャンクト、ディスジャンクトなども語って行く様になるかと思います。これらの知識が前提にあれば、先の様なエセな物に唾棄したくなる物なんですよ。ゴミに等しい事なので(笑)。その前に、折角ここの所話題に出していた溝部國光をきちんと語っておかないといけませんね。どうも過小評価されている嫌いがありますが、著書『正しい音階 音楽音響学』の素晴しさを今一度きちんと語っておかないといけませんかね。


 先の溝部國光著『正しい音階 音楽音響学』は現今社会に於ても素晴しい本であり、オクターヴ観を螺旋構造に図示して判り易く説明していたり、純正音程準拠の音律また幾多の平均律、それらに加わる様にして純正音程を等分平均律にするという例を実に分り易く説明していたり、差音とうなり、絶対音感教育への非難など実に多岐に渡るもので、特に田中正平の純正律オルガンの批判は実に腑に落ちる所があり、どこを読んでも深く首肯せざるを得ない内容に感服することしきりです。21世紀を生きる若い人は特に目を通して欲しいと思わんばかりです。

 特に私が『正しい音階〜』を高く評価している部分は、ジェイムズ・ヘファーナン提唱の19等分平均律の件です。実は、19等分平均律を強く慫慂していた希代の作曲家がヒンデミットであります。ヒンデミットの自著『作曲家の世界』にて述べられているので、著書を知る方ならお判りの事でしょう。

 が、しかし、私は溝部の先の著書『正しい〜』を読むまでは、19等分平均律というのは単にオクターヴを19等分しているものなのだと「誤解」していたのでありますが、19等分平均律というのが一体どういうものだったのか、という事が溝部の深く首肯し得る文章に目から鱗が落ちた時の感動を私は決して忘れた事がありません。

 氏曰く、ジェイムズ・ヘファーナンの19等分平均律の実際は『12度30等分平均律』なのだ、と。しかもこの12度音程は純正完全十二度=純正完全八度+純正完全五度を30等分しているという事であり、正確に言えばオクターヴの相貌を繰り返す事のない、厳密には異名同音に近しい音も実は僅かにずれているという、オクターヴ相によって音程が微妙に異なるという組織のため、シュトックハウゼン『習作II』での音律は、なるほど溝部流に倣えば「純正長17度25等分平均律」(=2オクターヴ+純正長三度)だったのかという事を氏の使用する言葉に依って、著書とは直接無関係の音楽的知識すらをも更に理解を深めさせて呉れる表現の深さに畏れ入るばかりであるのです。

 しかも浅学菲才な私であるのがお恥ずかしい限りではありますが、そうしたオクターヴ相貌を繰り返さないという音律は結果的に矢田部達郎や田辺尚男、日本音響学会、近年では小方厚、岩宮眞一郎らが取り上げる位なもので、詳悉に直線平均律法を述べて呉れる方は田辺尚雄を始め現今では岩宮眞一郎と日本音響学会位なものではないでしょうか。こうした専門知を要する類の知識がストンと入って来る溝部の文章と理解のし易さと広さと深さは本当に筆舌に尽し難い素晴しい内容であるのに、アマゾンなどでは読者レビューすら付いていない(2014年6月現在)というのが、現在のネットという好意的なメディアの側面が全く活かされていないのは、大半の読者が手繰り寄せる見聞というのは結局ポピュラーな物しかアテにしていないのだなとあらためて気付かされます。


 純正音程というのは、その音程を累乗すればオクターヴ相が合わずコンマを発生してしまう以上、これは、各音程間の総体的な動きの方の聴き方を鍛えなくてはならず、こうした音律は直線平均律法と呼ばれます。通常のオクターヴ相を繰り返すのは循環平均律法という事も以前から私がブログで述べている通りです。


 すると、ヒンデミットがしきりに慫慂していた19等分平均律というのは、なるほどこういう事を含んだ上での音社会の事だったのかという事が改めて理解する事が出来る訳です。悲しいかなヒンデミット著『作曲家の世界』にて19等分平均律とやらはそこまで詳しく触れられておりません。ところがこの書籍は40万字はある大著であり、200数十ページの新書が14〜5万文字だという実際が平均モデルだという事実をひとたび知れば、その文章量の多さにどれだけの知があるかという事に感謝するモノでして、そんな厖大な情報量の書籍でも19等分平均律が詳しく書かれていないという事を咎めてしまう様では罰当たりとなってしまうでしょう。

 「知」の探求とは、良著に出会う事と知の蓄積で繙かれ、血肉となるのです。とはいえ先人が到達し得なかった類の物を新発見したという様な見聞でない限り、既知の体系や知を自分色に染めようとするのは避けるべきなんですね。

 奇しくも西洋音楽史というのは過去をとても重んじているので、手前勝手に知識を自分色に染めようとしないのですが、ポピュラー/ジャズ界隈というのは途端に自分色に染めようとする嫌いがあり、単なる言葉の違いでしかない様な不必要な語句の嵌当が目に余るものでありまして、正直な所リディアン・クロマティック・コンセプトやらも真相などその程度の蠢きから生じただけのモノに過ぎません。ダブル・クロマティックとか、リラティヴとか(笑)、ディレイド・リゾルヴとか、言葉だけ耳にすると「なんか凄そう」という感じになるでしょう。しかもこの手の言葉の重み付けというのは、自身の手前勝手な自分色に染める事ばかりが先行している為、聞き慣れない言葉ほど、人々(←近視眼的理解に及ぶ脆弱な知識の者)に対して重み付けとしてへの効果が高まってしまうというのが現実です。ですから、「そちら」方面というのはやたら言葉を重視する様な嫌いがあるでしょう!?(笑)。そんな所に拘泥する類の人間というのは、自身の重み付けの為に市民権を得ていない専門知由来の言葉や横文字を我が物顔で使ってしたり顔になっている様な人間と対して変りないワケですね。概してその手の横文字を使う人に牽引力は伴わないので遅々としてその手の言葉は人口に膾炙する事が無く(笑)、一所懸命己の価値付けの為に使っているのです。市民権を得ていないような横文字すらそれらの専門知を振りかざす人等に真の牽引力があれば、現今社会において「クレーム」などという間違った横文字が苦情という風に誤解されている訳がなかろうに(笑)。苦情は「complaint」です。また、こうした現実を知らずにその手の言葉ばかりに拘泥している様な愚か者は「naive」なのであります。ナイーヴが繊細?ナイーヴが真に意味する物は「世間知らず」だ、馬鹿者が(笑)。


 扨て、溝部國光の興味深い点は他にもあり、例えば記譜法に関してアーヴィン・ウィルソンの31等分平均律にてウィルソンの用いている記譜法の興味深さに触れているのが実に心憎いのですな。実はこれ、クラヴァールスクリボを水平に読んだ記譜法と同様なのでありますが、敢えて溝部はクラヴァールスクリボという名称については触れません。その上で試案として加えている事に四分音の記載法があり、つまり、クラヴァールスクリボは白鍵と黒鍵の12音はすべて特殊な五線上の「間」と「線」が対応し、変化記号を与えるだけでそれは四分音という風にすれば良いという事を書いておりますし、その文中に「いずれ将来は24音時代がやってくるが」という所が心憎い表現ですな。

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 つまり、今回こうして載せたそれは、四分音記号は必ずしもこればかりに則るだけではなく、図の四分音表記の上下にさらに微小音程用の嬰変記号を付け加えれば更なる微分音程を示す事ができるワケです。これらの音に態々音名を充てないのは、結局の所、充てる語句が仰々しくなりかねないのです。微分音も従来の半音階も平等に扱う為には、特定の音名にやたらと文字数やら出現順位の高い音を与える事で偏向度が生ずるので、それを回避するために先人達は与えていないという事をあらためて知るべきなのです。

 微分音の体得もままならない様な者が学校でのローカルな場所で覚える必要があるため、そこで便宜的に与えられた音名を一体どこが今後採用されていくようになるのか!?こういう事を吹聴するだけで満足する輩というのは結果的に音楽を心底探求しようとする事よりも、SNSを使って人々の反応を見る方に興味を抱いている愚かな連中であるという事も同時にお判りになる事でありましょう(笑)。