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音名と階名 [楽理]

 固定ド唱法と移動ド唱法、最相葉月の著書『絶対音感』では、諸外国は固定ドを採用している事を引き合いに出し乍ら「強固」な絶対音感を有する人達の声を根拠にして、日本の音楽教育も固定ド唱法に倣うべき、といわんばかりに文章に力瘤を蓄える部分があり、しかも東川清一の名は移動ド唱法を礼賛する側の立場として対照させているのだから、引き合いに出された東川清一の声をまるで無効化してしまうかの様にすら映る部分があり、私が『絶対音感』を読んで最も非難したくなる部分でもあります。


 音名というのは突き詰めれば本来、嬰変のような変化記号も不要な筈です。ド#とレ♭は平均律が蔓延る現今社会、これに対応する「音名」は両方同じで良いではないか。つまり異名同音の存在すら消し去り平等に扱う事の方が音名を指し示す際に簡便性がより高くなるではないかという意見があります。勿論これは音楽が調性感を消失し12音技法が騒がれる様になってからは顕著になりましたが、我々は音楽的素養を脆弱乍らも自然と身に付ける際には「調性」の獲得から始まる事を忘れてはなりません。


 調性が伴う音楽というのは7音列、つまりヘプタトニックが基となっているのであります。恣意的に操作されて抜萃された特殊な5音の抜萃は別として、ペンタトニックとして知られる5音音階は、完全五度音程の累乗から生まれるモノでして、7音列からの抜萃という風にもなり、調性を確定するための音が無いのもペンタトニックの特徴です。ところがペンタトニックに「調性」は無くとも「情緒」は残るのであります。このような音の情緒を自然と人は覚えているのでありまして、小さな頃から楽理を学ばなくとも健常であれば誰しもが獲得し得る感覚であり、自転車の乗り方をマスターするよりも遥かに簡単に身に着けた事でありましょう。


 私は、移動ド唱法の重要性を説く側ですが、それと並行して固定ドをも学ぶことも必要だと思っている側の立場を取ります。私からすれば、音名を覚える事よりも音階という情緒が齎して呉れる「階名」を先に獲得して、その階名というのは音階固有音として表れる主音、上主音、上中音、下属音、属音、下中音、導音などの性格を体得する方が先にあるべきだと信じてやまないからです。その後に絶対・相対音感問わずして育まれた音感を駆使して音当てクイズをやる様な時に、「音名」当てとして子供の好奇心を利用して音楽を愉しむという事はあっても良いとは思います。私が教育者の側であるならば、例えば、gis(=G#音)を奏した時に、音名ならば嬰トでもgisでもasでも由とした上で、「今、君(達)は、此のgis音がどのような音として聴こますか!?(音階固有音または準・非音階固有の音かを探る為)という風にして教える事でしょう。それくらい私は重視しているという事です。

 ハ音=C音を聴かせても、常にハ長調の主音である「ド」に聴こえる事があったとしたらその人の調性感覚はまだまだ脆弱と言わざるを得ないでしょう。仮にロ音をハ長調の導音としてではなく平行短調であるイ短調の上主音として聴く事だって在って然るべきなのです。耳が鋭い子であればイ短調の主和音を背景に9度音というイ短調の上主音として聴いている事を表現しようとしたり、或いは変ニ長調がD♭ミクソリディアンとして変格下した旋法ににおける「シ♭」つまり変ト長調の下属音の変格化として聴いている可能性もあるかもしれません。

 つまり、あらゆる音階固有音を感覚として備えつつ、音名と階名を別に体得して行く方が教育的にはよろしかろうと思っているのであります。とはいえ、音楽教育とは、誰しも平等に教えていかなかければならないのか!?というとそれは違うと思います。他の学問と比較して、音楽というのは学び手を厳しく選ぶ事の方が現実として存在している側面でありましょう。音楽観にトコトン乏しい子をもどうにかあらゆる調性での音感を備えさせて理解させるというのは徒労に終る事もあるでしょう。他の学問とてこうした厳しい現実はあるでしょうが、音楽の場合は教え手が学び手をより厳しく選んで良い側面があるのは声高には言えない厳しい現実でありましょう。この不平等さが、音楽教育が蔑ろとして扱われ易い事でもあるかもしれません。


 短調という調性の情緒が齎すのは、短音階の第7音が半音上がって主音への導音化する事が重要なのでありますが、この半音上がった音を短調でのトニック、サブドミナント、ドミナントでも総じて使われれば短調でのカデンツの体系を満たした事になり、それを満たした上で、今度は短調の第7音を半音上げずに用いた時というのは平行長調の副三和音の組織を使う事を意味し、平行調同士とて行き交いをする程度では実際にそれを「平行調の転調」とは呼ばないのであります。平行長調のカデンツを使い果たし、平行短調のトニック、サブドミナント、ドミナント各機能で短調の第七音を使えばその場合は漸く平行調の転調と言えるものとなりますが、現実には短調では短調の第7音はドミナント出現時に変化音として出現している事が大半でありましょう。そういう実際の中で短調での情緒を真の意味で身に付けるのは意外にも難しいものであります。

 とはいえ短音階の第六度が半音上がるドリア調、短音階での第二音が半音下がるフリギア調、短音階の第四音が半音上がるジプシー調など、基となる短調の情緒を利用して結果的に旋法が変化する事を体現して別の情緒を獲得していきやすいという好意的な側面があり、このような経験が軈ては、旋法に内在するテトラコルドが変化する事を理解し、テトラコルドを変化させる操作を覚えるようになり、テトラコルド同士がどのように連結し合っているのかというコンジャンクトとディスジャンクトも覚える様になる訳です。コンジャンクトとディスジャンクトを理解する様になる時が、音楽書に喩えればパーシケッティの20世紀の和声法に学ぶようになっている事でありましょう。また同時に小泉文夫や柴田南雄の名を知るようにもなっている筈でありましょう。


 そうした短調の情緒を利用した変化というのは半音階的全音階という情緒であり、半音階を駆使してはいるけれども調性が曖昧になっている訳ではない世界であり、この世界での和声感の熟達がその後の半音階主義の音楽観を形成する様になるのでありますが、この時点でおそらく自身に備わる和声感や音楽感というのは周囲に居る同じ事を学んでいる同世代の人達と比較してもかなり感覚にバラつきがある事を知るでしょうし、また、共感し合える感覚というのも顕著に理解する事でありましょう。この時点でこっぴどく養う必要のある和声感というのは、ほぼあらゆる和声の体系を体得する事でありまして、この世界におけるさらなる和声感の磨きがかからなければ、その後の必要な和声感覚を養われる事はないでしょう。おそらく、大半の人はここまでの感覚の磨かれ方に自己満足してしまっている筈です。然し乍らこの時点の和声感覚の熟達度というのは漸く五合目を過ぎた所に位置する程度ではなかろうかとも思います(笑)。


 扨て、音楽観の変遷を自分なりに体得して来て漸く「音」に対して調性という性格を与えずに半音階的要素として見る事が必要に成って来るのでありますが、この時点で必要なのは前述にも例として述べた様に、「ド#もレ♭も同一」という風に異名同音として考えることすら煩わしい、という風に音を捉えている事に等しいモノです。

 人に依っては嬰変の変化記号ですら、♯を好み♭を嫌うまたはその逆も然りという風に、偏向度を備えている人もあったりします。嬰種調号の調性を好んだりまたはその逆の変種調号の調性を好んだりする様な偏向度も同様です。つまり、そうした偏向を備えているとド#という表記の方をレ♭という表記よりも好んだり(またはその逆も然り)というのがあったりするのです。恐らくはこうした事がよく起こり得るのは、〈嬰ヘを好み変トを嫌う〉とか〈嬰イを嫌い変ロを好む〉などに現れるのではないかと思います。


 然し乍ら読譜に対して得手不得手があってはならない(総じて得手とする学び方が必要)のでありますが、カッコ内の「総じて得手とする学び方が必要」というのは重要な事であり、音楽でなくとも誰もが皆熟達を目指して練武するのは「得手とする為」の訓練です。その訓練の反復から得られた「惰性」を消失させる必要性が更に生じるのです。ですから、得意となった技を幾多も獲得した時に、それらの会得に偏りが生じないように更に均すのは慣す事とは違います。「慣れ」とは惰性ですので、惰性を殺す為の技を得なければならないのであります。得意技とした後には出来て当然、という風に咀嚼されていなければならないのが音楽に必要な訓練と反復なのであります。


 さて、ここで漸く「音」を平たく見ようとすると、それまで調性感覚を身に着け乍ら体得して来た見渡しとあらゆる局面を打開して平たく見据える事の出来る感覚を以てして音を捉える事が出来ている筈です。そういう状況でド#とレ♭という風に文字で表わされているそれらは、ド#という文字の方は黒部分が多く、レ♭よりも投影面積が多い様に映る筈です(笑)。また、ドという音は濁点が打たれていてレよりも音圧として感触が重く、こうした側面を考慮に入れると、音名というものも偏向が備わっている事を実感します(笑)。その上でこれらを「等しいものだ」という風に自身に備わる偏向観を均した時に得た音名に、果たして言葉が必要なのだろうか!?という疑問も沸く様になるかもしれません。単なる図示、しかも半音階12音に対して互いに図形的にも全く等しい線と点の数で12個作れば良いのではなかろうか!?と。

 しかし外部が自分自身の為にそうした記号化を用意してくれるのを待つよりも、このようなゲシュタルトや心理的な置換を自分自身の脳内で処理した方がよっぽど早いという事を獲得している筈なので、大概は音に対して平たく見られる様になっている筈であり、こうした感覚を備えていて初めて音を「平たく」捉える前提となっている事を理解した上で音名とやらを今一度考える事にしましょうか。


 扨て、日本での音楽教育における音名とは、幹音が「ハニホヘトイロ」であり、嬰音が「パナマサタヤラ」、変音が「ポノモソドヨル」などという名称は最相葉月著『絶対音感』の文中にも出て来ますが、日本国内では嘗て、それら意外に重嬰・重変音の音名があったという事も知られており、これは東京藝術大学音楽学部紀要第38号に見られる橋本久美子さんの論文『乗杉嘉壽校長時代の東京音楽学校』の文中に詳しく、現今社会に於て貴重な資料でありましょう。

 ex.1が終戦直前の昭和20年6月に文部省新音名採択実施通牒として国内音楽学校に通達があったとの事ですが、確かに幹音・嬰変・重嬰変の5種が用意されております。現今社会に於ては変音の「ポノモソドヨル」など、まるでハングルかの様にすら思えてしまう所も時代変遷が成せる業なのでありましょうか(笑)。
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 まあそんな冗談は扨て置き、これらは「音名」ですから階名ではないのです。階名は「ドレミファソラシ」なのでありまして、「ドレミファソラシ」は各長調に対応し、それらの長調の各々の平行短調の階名は「ラシドレミファソ」と対応しているのが通常の階名です。そんな理解の後におそらくは重嬰変の用途などあるのか!?と思う人があるかと思います。この手の人達は自身の器楽的経験の中で調性の得手不得手を備えてしまっている方に多い疑問かと思われます。

 例えば嬰ト短調があったとしましょうか(gis-moll=G#マイナー)。この調性で生ずる「短調のIII度」という四和音は、h、dis、fisis、aisという構成音であります。fisis=F##ですからGと異名同音ではありますが決してg音由来の音ではない考えが重要です。このような変化が短調ではエオリアンの世界観を堅持しない限り出現して来る為、このような特徴的な音を階名ではなく「音名」で答える際には決して「ト音」と答えてはならないワケですね。すなわち先の終戦直前の文部省の通達に倣うならば「重嬰ヘ」音は「セ」と呼ばなければならないのでありますな。「セ」≠「ト」なのでありますね。


 音楽的素養がある程度あれば、調性社会においても音階固有音に対してどの音に嬰変が表れ易いかという事は理解できておりますし、派生して来た変化音の由来の源となる事を探らせることは、調性を深く理解するために必要な事であるため、嬰変のみではなく重嬰変も用意されている事は容易に推察に及ぶ所です。



 先の様な5種の音名は恐らくex.2に見られる様なシュトゥンプフのそれに依拠したモノと思われますが、以前に私がシュトゥンプフ(過去にはシュトゥンプあるいはシュトゥンプとも述べておりますのでブログ内検索をかけてみて下さい。
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 以後私のブログではシュトゥンプフで統一)を出した時には、溝部國光著「正しい音階 音楽音響学」における増四度と減五度の音程比のそれで引き合いに出した事もありますが、シュトゥンプフの純正完全12度という1:3の音程比の優位性が2:3よりも上位にあるのはビートが少ないからだという事を取り上げたばかりなので記憶に新しいかと思います。しかし、それらの音程とは異なる方面での協和性においてシュトゥンプフはフーゴー・リーマンと信念を対立させ合っていたというのも興味深い所であります。先人達の見聞の良い所を掻い摘んで理解できる我々は存分に有り難がる事ができるモノですが、見聞に甘いと一方ばかりを是としてしまいがちになるため気を付けなくてはならない部分です。特に知識が浅い内は、ひと掬いの作業で得られた物だけをいつまでも吟味して咀嚼しようとするものですから知識の源が矮小で、自身の見解を狭量とさせてしまうので注意が必要なのであります。


 扨て、諸外国での音名対応はどうなのかというと、現今の図書ではエルネ・レンドヴァイ著『音のシンメトリー』では、まえがきにおいて半音階的社会を表現するに当たって例えばex.3の様に例を挙げております。こういうシンプルな体系で階名も歌えればイイというのが固定ド唱法礼賛の声です。私は固定ドも移動ドも備えるべきという立場ですけどね(笑)。
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 扨て、こうした音名対応は過去の記録を探ればおそらく際限なく出て来るでありましょう。なにせ20世紀初頭前後には不等分由来ではない等分に依る微分音も流行して来ますので、多くの用法があったのだと思いますが、12音主義という半音階を無調という性格の為に均一に活用しようとする延長に等分に分割された微分音というものも、それに音を与える場合は最早どこどこの音からの変化してきた音などという記譜は煩わしくなってしまうものです。

 例えば最小単位が50セント=四分音という音社会を前提とした場合において、そこで150セントという音程幅が要求される時、C音(ハ音)から150セント高い音をどのように表わした方が適切であるのか?という事に戸惑いが生ずるかと思います。つまり、D音から1四分音低いのか?それともC音から3四分音高いのか?というジレンマです。

 これまで私は微分音表記を形容する際、英数字と漢数字の組み合わせで複数単位の微分音を表記しましたが、ブログの進捗具合に依って使用語句を多少変化させて行く狙いがある事に加えて、溝部國光にあらためて倣う意味で以後、150セントの場合は3単位四分音と表現する事にします。「単位」は最小ユニットという事を指し、それが3単位であるという事です。5単位八分音であれば125セント幅という事になります。

 つまりは、調性が稀薄な社会での無調やら総音程音列なども視野に入れた時などは、ドから3単位四分音高い音とのエンハーモニック(=異名同音)であるレから1単位四分音低い音を言い表す分には区別する必要はないのですが、楽譜を書いていると、そうした微分音が単発的に既知の調性感覚に委ねられた音脈で現れる微分音の場合と、既知の音からの更なる「誇張」「収縮」を伴うような孰れの表記をもしたくなる物でもあるのです。つまり、ド♯から更に1単位四分音「誇張」させたい時の記譜上の図示は、レ♭から1単位四分音低い音として表記してしまう事にもどかしさを感じる事があり、単純に四分音を唯一無二の音名を与えたとしても、やはり記譜上の配慮は既知の体系からの演奏の仕来りを完全に無視してしまう事は無理があるので、結果的に3単位四分音も欲してしまうようになる事もあるのです。


 例えば次のex.4では、音楽心理学者の権威でもある矢田部達郎が昭和19年8月に刊行した自著『言葉と心』の中で音名を試案として取り上げていて大変興味深いのでありますが、非常に興味深いのは1単位四分音の高低を音名として与えている事であります。四分音に音名を与えてはいても、異名同音を排除した唯一無二の音名の与え方としてではないという所が特徴ですが、音名を与えている事には大変興味深い事であります。
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 ex.4からもお判りになる様に、C音=「サ」音から1単位四分音低い音の場合は「ス」音となり、H音=「カ」音から1単位四分音高い音は「ケ」音であるという、いずれも異名同音なのですが、四分音という、音律が不等分であった時代に生じた微分音というのは言うなればfis音とges音は今でこそ(平均律社会での)異名同音ですが、両者は異なるピッチで異名同音的な四分音として扱いを受けていた時代を経て現今社会があるという事を忘れてはなりません。

 無論、ギリシャ時代の大完全音列=シュステーマ・テレイオンの時代という紀元前1300年の頃から四分音は存在していたわけでして、それが16世紀に芽生え、19世紀末から第二次世界大戦勃発前が四分音の流行でもあったワケでして、偉大な先人の存在を見過ごす訳にはいきません。


 扨て、先の矢田部達郎試案の図例ex.4を今一度見れば、C音である「サ」音から3単位四分音高い音は「ツ」に対応しますが、異名同音を排除しない時のメリットして挙げる事の出来る事例はというのは次の様な事です。それは、C音である「サ」音から上方に見た「ツ」の場合は狭い二度音程ですが重減の三度音程としての記譜上の流れとして要求される場面も出現します。その場合が「ツ」以外の異名同音を欲する時なのです。とはいえ、微分音を細かく要求する時の記譜上の音の並びは、それに対峙する為の心得が出来ている筈なので、歪曲した形の異名同音はあまり使われる事はないと思いますが、既知の体系の調性との複調・多調においては記譜が絡み合うことも予想されるため、そうした状況を一つのパートが複調という複数の調性を奏している時に、必要になってくる事もあろうだろうという事での微分音を伴う二度or三度音程を意味する事を述べているのです。


 この手の類似した事柄にてポピュラー音楽界隈では能く誤解に及んでいる人を見掛けたりしますが、例えばオルタード・スケールをC音をスケール・トニックとして書かせた場合、第2音をC#で書いたり、第4音を本位三度(=メジャー3rd)と捉えてE音を充てたりと全く無頓着な書き方をする人が意外に多かったりするものですが、オルタード・スケールの第2音はCからの派生音のC#ではありませんし第四音は決して長三度ではありません。減四度であるべき音です。つまり、度数に無頓着である様な人ならば、先の誇張を伴う四分音表記にそれほど拘泥する事はないかもしれませんが、前後の流れに依って1単位四分音低い音を書けばよいのか、または3単位四分音高く記譜した方がいいのか!?という両方のパターンがあり、こうした所を無視できないので、異名同音を一切排除した音名の与え方というのは四分音でなくとも半音階の世界でも、そうしたジレンマを生ずるシーンが多々ある、という事をあらためて知ってほしい側面でもあるのです。


 これらの方法、どれが一番簡便的なのか!?というのは人夫々となるのでして、共通理解として、あるグルーピング内にてローカル・ルールを用いて余計な不文律を回避しようと企図して取扱う事もあるでしょうが、音楽家としてはやはり何らかのささくれ立った不文律に遭遇した時は往々にしてそれを克服せねばならない時なのでありまして、これには集団としての共通理解の為の許容と、個人の音楽観を高めるための克服とは相反する事もあったりします。


 微分音においてこうした事を鑑みれば、アロイス・ハーバの12分音の記譜法や果てはフリアン・カリジョの16分音まで考えを及ぼす事ができます。余談ですがフリアン・カリジョは最近ではこうして呼ばれているのでありますが、入野義朗著『電気技術時代の音楽』の頃だとジュリアン・カリヨと呼ばれてもおります。私も過去にはカリヨと呼んでおりましたが、それは前述の入野義朗著由来の事を語っていたが故の事であり、私のブログは進捗具合で呼び方を変える事があり、変更がある際は混同を避けるためにこのようにアナウンスしております。アナウンスしていない件においてはネット上での嫌がらせ対策のための仕掛けだったりもすることは以前にも述べた通りです(笑)。

 現今のストレス社会、脆弱な知識に及ぶ者は結果的に平均場近似といえるかのような、言わば綿菓子の棒に群がって収束をどこかで心待ちにしているのでしょうが、自分可愛さのために自身の知識の幅と基準こそが真理と思い込み源泉で居たいと強く欲する為に、競争心や煽動を伴って誇示しようとしたり足を引っ張ろうとするものです(笑)。競争心理が働くという事は、正答を求める探究心が欠如している事が考えられ、知識獲得の為に自身が常にトップであろうとする悲哀な自己愛がどうしても超越できない真理への挑戦が、結果的に他者との信念の対立を生む物なのです。ですから某掲示板というのは信念の対立が顕著ですし、運営側からすれば遅々として答えが出ない所にクリック数が稼げればイイだけの事でして、歩行者の振動から電力を得ようとする好意的な科学とは全く別物の、まるでハムスターが回転車に載せられているかの様な物であり実に滑稽なものなのです。そうした所から何年も前から嫌がらせを受けて来た私がどれだけ辟易しつつブログをマイペースで展開している事だけは、特に新参の方にはあらためてご理解いただきたいな、と。


 扨々、さらに話題を続けるとしますが、音名においてニュートラルな志向を以てして考えた先人はまだおりましてですね、例えばC・アイツのトーンヴォルト(=音語)というのはex.5に見られる通りの音名対応をしております。
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 五線上声部は嬰記号で幹音と共に変化音を図示しており、五線下声部は上声部の異名同音を並記した物です。それらの五線延長上に下部の薄い透過で鍵盤を対応させているのが、トーンヴォルト最大の特徴である音名であります。

 このトーンヴォルトのメリットは、幹音夫々の隣接する半音上下の調域(例えばハ長調ならロ長調と変ニ長調)の音名はそれぞれ母音が同一となる所が最大の特長です。

 つまり、ハ長調である幹音は[Bi To Gu Su La Fe Ni]でありロ長調は[Ni Ro Mu Pa De Ki Ni]、変ニ長調は[Ri Mo Su Pu Da Ke Bi]という風に母音の配列は全く同じ並びになるという事です。

 仮にヘ長調に隣接するホ長調と変ト長調を見れば母音の並びは「i・o・u・a・e」に沿って開始位置が変わるだけの事で、元の幹音からの母音の順序が隣接する半音上下の調域にきちんと対応するというのが非常に理に適ったモノなのですが、あまりに適確すぎて既知の音楽面の不文律を均し過ぎて受け入れられなかったという悲哀な側面もあったりします。均齊には実に近しいのでありますが、均齊という社会において音名を与える事は結果的に既知の体系と乖離し過ぎてしまう事の暗喩でもあるかもしれません。


 完全なる均齊を手にしたいのであれば12平均律とて12進数を充てても特定の英数字の「表意」が文語的な意味を連れて来てしまいかねないので非常に厄介な問題がつきまとうでしょう。


 例えば、英語圏のアルファベット26字にしたって出現頻度はex.6に見られるように示す事ができます。ある意味では13・14番目のアルファベットが中立な立場の文字でありますが、これらを巧く均等に抜萃したとしても、言語体系によって文字の出現頻度は変化することは推察に容易い事でありますし、そもそもラテン文字というものが総じて夫々が視覚的に文字部分の投影面積やスキーマという性格を完全に消失した物体ではないので、何を選んだ所で本当の均齊は得られないのが実際でありましょう。
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 そこで、C・アイツはドイツ語圏の人であるため、先の「音語」がどういう体系になっているかという事をあらためて見ると、幹音での半音が隣接する所の母音は2つ置いているのです。つまりシとドは「i」という母音を双方に充てていて、ミとファの部分には「u」という母音を双方に充てて5つの母音で対応させていて、そこに「B・R・T・M・G・S・P・L・D・F・K・N」という子音を充てて半音階を対応させようとしているのですが、この子音の列はどのような根拠からアイツ本人が選択しているのかは私は知りません。

 ドイツ語圏ではQWERTY配列キーボードで見ても「Z」の位置などが英語圏と違いますしウムラウトも頻発します。つまり、英語圏では先のアルファベットの出現頻度では最低の出現頻度が「Z」であってもドイツ語圏では意外にポピュラーな物になるのも念頭に置かなくてはならない側面。

 しかしアイツが並べた子音列は、アルファベット総数26字に対して12個の音名対応の分布は意外と偏りが少ないものだという事がわかります。これがもし完全にシンメトカルで平均化された構造として見られるとしたらそうした対称形が見て取れる筈ですが、先のex.6の右側の円形でアルファベットを並べたのは、偏向度を見やすくするための物です。赤文字が実際に使われている子音列です。

 とはいえ、出現頻度とて母音列は偏向度が大きいので、結果的にこれらから音名を組み合わせようとも言葉の意味での均齊と中性化を図る事は非常に困難な事が判りますし、微分音社会というのは旧くは純正音程を組み入れた際に生じる微分音と、新しくは平均律に依拠する等分の微分音というのがあり、現今社会にて発展している微分音社会というのは間違い無く後者であります。仮に前者を用いたとしても、旧来の音律から誇張しただけの微分音であるので、元の調性に凭れる微分音の立ち居振る舞いとなってしまう為、半音階的音群優位になってしまうのです。

 その上で現今社会において微分音に音名を与えるに当たって適切だとするならば、あらゆる国の言語を視野に入れつつその出現頻度において中立的で、あらゆる語句をも想起しにくい心理尺度という基準から見ても中立的である事が望ましく、最近ツイッター上でドイツで四分音の音名が決定しただのと何の根拠もなく喧伝している輩がどれほどの愚挙を繰り広げているか、という事がこういう事からもお判りになる事でしょう。少なくとも微分音にきちんと音名を与えるとしたら現在では16分音を最大に、それと交わる事のない5分音や9分音にもどのように対応するというのか!?そうした偏向度を消失するためにはもはや文字を与えることがどれだけ馬鹿らしいかという事を先人達は判っているので、あえて微分音表記に音名が与えられていないのは当然の事であるので、そこで現在の何処の「ドイツ」が悲愴浅薄な知識を持ち出して音名を決定したというのか!?(笑)。そんな根拠も薄い喧伝に対して私はきちんとした所の史実から「アイツ」を持ち出しているのは決してダジャレの偶然ではありませんよ。きちんと茲まで考えて馬鹿者共を罵っているのであります(笑)。


 今回はこうして、色んな「音名」について述べてきました。音はたった一つであるが故に音名も唯一無二として対応させるべき、という声があるのは確かに判ります。とはいえ人が本名ばかりでなくニックネームで呼ばれる事もある様にして習得を「克服」すればいいだけの事で、楽音は無調や調性そっちのけの唯一無二の音高から覚える事が先にあるワケではありませんし、絶対音高感を養った人間が音当てクイズの為の簡便さの為に唯一無二の音名が与えられるのは余りに馬鹿げた事であります。というのも調性を覚えるに当たって結局は調性に依拠する音階固有音がどのように配されている音なのかをも考慮に入れざるを得ない背景を考えれば、音名と階名が併存している状況は決して足枷ではないのです。

 私がこうして挙げた例を知らなかった人は、その例の多さに辟易して音楽が嫌いになってしまう人はおそらくごく少数で、音楽に対する知的好奇心を高めればこそ寧ろこういう事に興味を抱く人が多い事を私は信じてやみません。

 音に対してのゲシュタルト化。例えばこうして私がネット上で披露している以上、御覧になっている方々も勿論おそらくはQWERTYキーボードのインターフェースという物を体得されているかと思います。このQWERTYキーボードの配列を覚えるだけでも最初は難儀したのではないでしょうか!?(笑)。

QWERTY配列は抑も、タイプライターの入力ミスが起こらないように確実に入力出来るように態と配列されているモノであります。つまり入力し易さという物とは対極にある狙いがあってのインターフェースなのであります。タイプライターで誤入力があればその刻印を消すために、全く同じ印字のインクのない活字が誤入力の文字を紙の打刻して消されるのであります。これすら回避したいがためのQWERTY配列なのでありますね。

 処がどうでしょう。QWERTY配列とて一旦身に付いてしまえば途端に慣れは更に弾みが付いて何時の間にかストレス無く入力できてしまうようにも体得する事が出来、いつしか惰性を伴わせ喋るかのように入力できてしまうモノです。

 音楽において音を図示したり記譜された音を読むという事も、苦労を克服する事から始まります。QWERTYキーボードを習得するかのように、最初の苦難はいつしか慣れが生じて、惰性を伴わせ乍ら読む事などキーボード入力よりも遥かに楽な作業であると私は思います。音楽的に難儀した事も軈ては惰性を生むという事は、均齊を当たられた設計も奏者は惰性という慣れをいつしか必ず生むのです。それは技能を磨くが故の事です。運指などの技術的な磨きもあれば心理面での熟達度の高さにも表れます。

 慣れを克服するためにはそれ以上の熟達を必要とします。自分自身に厳しく鞭打つ状況に等しい訳です。そんな所に嬰変またはそれに準拠する微分音記号が与えられた所で、幹音はやはり優位性が高いですし、周囲との視覚的な混乱を避けるためにも今度は幹音にも本位記号が常につきまとう様にもなります。すると、多数用意される事になる微分音記号は、その記号たちの視覚的な図形そのものが、ある記号は読みやすく一方でそれと比較すると若干判読しづらい記号的な偏りというのも必ず存在します。

 そういう背景が考えられる所に、言語的な偏向が与えられかねないのを21世紀の音楽社会が態々四分音のために音名を新たに整備したというのは、どこのドイツがそんな馬鹿げた事を喧伝しようとするのか!?という呆れるばかりのそれに対して一笑に付す事の出来る人間として音楽を理解されたいと私は心の底から願っております。