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音程の明澄度とは!? [楽理]

 扨て、前回の記事でも取り上げた様に、単純な整数が隣接し合う音程比というのは本来高い音程の優位性を持っているのですが、そんな単純な音程比の中でも2:3と1:3という2組の音程の優位性を比べると、隣接した方ではなく1:3の方が優位性が高まると述べたのは記憶に新しいかと思います。


 前回の記事で述べた倍音・差音由来抜きにもっと簡単に語ってみようと思うので、今回は次の様に図示する事にしました。
euler.jpg

 扨て、図の上部の音程比「1:3」は、赤色の波形が「1」、黄緑色が「3」の波形を示しております。そこで注意してほしいのが、直ぐ下側に夫々の波形と同色で示されている小さい丸は、夫々の波形の1サイクル事に点を打って示してあるものです。黄緑色の丸は、中央でさらに楕円で囲ってありますが、茲をなぜ態々囲っているのか!?という所が非常に重要な意図でありまして、それは次の音程比を述べる時にお判りになる事でありましょう。


 そこで今度は図の下部にある音程比「2:3」の方を見てもらうことに。こちらの音程比でのやはり下側の丸は黒い楕円で囲ってあるのが判りますが、先の「1:3」の時とどう違うのか!?というと一目瞭然ですが、「2:3」の音程比の方では「1:3」では無かった赤丸が現れております。こればかりは仕方ありません。音程比「2」なのですから1つの周期を終えたら2回目の「相貌」が現れます。


 そうなのです。複合音に伴う音の明澄度というのは、この相貌が多数現れない方が明澄度として高い、つまり優位性が高まるのであり、J. Euler(L.オイラー1707〜83)はこのような事実を指摘していたという訳です。こういう事だから、その辺のロックな兄ちゃん捕まえて、『パワーコードを12度音程で弾きやがれ!』などとは申しません(笑)。ただ、こういう側面を知っているだけでも、楽器編成や各パートが奏している音から、自分自身が音量を上げ下げするべきか、又はどんな音色でもって弾くか、という巧妙なアンサンブルの見渡しが身に付くようになる事でしょう。

 ヘルムホルツの頃から指摘される様になった結合差音というのは、和音というものが3度累積型が多いため、3度や6度音程は特に、「supposition」(=仮想的)な音程にも差音を作る事になります。仮想的な方向ばかりでなく、音楽のアンサンブルが和音組織を使っており、その根幹には、どんなシンプルな和音の体であろうと(例えばトライアド)、そこには5度音が生じて、更には結合音というのは不思議なもので、内声ではなく更なる下方の外声部に物理的な空気の停留を起こし、これが低域の明澄度を下げる要因というのは実際往々にしてある事です。しかも大体は、5度音の下方への重畳が見られるので、重畳しい和音は5度音をオミットしても構わないという根拠はこういう点から生じているのであります。稀薄なアンサンブルで愚直なまでに5度音をオミットする必要はないんですけどね(笑)。パワーコード弾いてるお兄ちゃんに5度オミットさせたらベースより1オクターヴ高く弾いてるのと変わりありませんわ(笑)。

 因みにこうした低域への音波の停留などはやはり、ヒンデミットの『作曲の手引』が非常に参考になると思いますので一読される事をお勧めします。加えて、もういっぺん述べておきますが、5度音を常にオミットせよとか、オルタード・テンション・コードを用いる時でも愚直なまでに5度音をオミットせよ、と言っている訳ではありません。仮に単なる片手の指の数以内に収まるバンド編成であっても、5度音を誰もが使っていないのであれば誰かが使っても良い音脈でもありますが、誰かが使っている時、その音が使われている音域はおそらくテンション・コードの類でアンサンブルの最上声部に来るのは非常に稀でしょう。つまり内声に5度音や5度音由来のオクターヴ違いの差音がある時、その5度が下のベースや低域の音と4度を形成したりすると混濁してしまうのでありますね。なにせ4度音程は「5度の影」とも呼ばれていたワケですから。だからといって金輪際、5度音使うのをやめろ!と言っているワケではありませんからね、しつこいようですが(笑)。


 茲迄こっぴどく語った理由は、単純にこういう事前知識を知っている人の方が圧倒的に少ないからなのであります。もし、こうした知識が既に通俗化されているならば、このような件をネット上やSNSなどで散々見掛ける事に違いありません(笑)。重要なことは、音程が齎す相貌、茲での「相貌」という言葉の意味は、オクターヴで生ずる音の「轍」とも呼べるに等しい「相貌」のもっと狭い音程で起こる相貌という意味でありまして、それを凝視するかのように注視してもらいたいという私の気持ちの現れであります。

 先のSuppositionという語句は、ラモーの時代以降和声体系を語る上では重要な音脈を示す言葉ですし、茲から仮想的に発展し得る音脈が調性組織においてはあまりに縁遠い脈絡であるという論駁もあるのですが、その後調性組織が崩壊し、半音階主義が広汎に普及するようになった時は、和音は重畳しく充実した音を使う世界と変貌を遂げていき、このsuppositionという音脈は、先頃刊行さればかりで記憶に新しい濱瀬元彦著『チャーリー・パーカーの技法』にも通ずる音脈なのであります。

 ジャズで使う和音は甚だしく重畳しい(←良い意味です)、そういう訳で顰に倣って5th音を省略しますよ。んで、私はソロ奏者なんで、もっとインプロヴァイズに励むコトにしますわ。ですんで、私の見付ける音脈はsuppositionの方向に活路見出させてもらいますわ!コード・チェンジが稀薄な個所でも私がその音脈で「勾配」を付けて見せますわ!

 ってな感じでチャーリー・パーカーが挑んでいたと思って、先の著書を読みつつ、私述べているsuppositionがそのまま『チャーリー・パーカーの技法』にて語られているrelative minor & majorに置き換えて読むとイイのではないかな、と思います。


 まあ、ハナシは変りますが、「relative」という英語の発音を私は当初、どうせロクでもねーのが食いついてくるだろうという事も承知で「リレイティヴ」とやったら案の定食いついて来ていたのでご満悦なんですけどね(笑)、誤用とはいえ「relative」という語句の発音は悲しいながら「リレイティヴ」という風に知られている方が多くてですね、こうした語句をカタカナで表記せざるを得ない場合、「リラティヴ」とやちゃっただけだと、ただでさえ馴染みの薄い語句に更に拍車をかけて何を意味する言葉なのかが伝わって来なくなる危険性の方が高まるワケですよ。そこでrelativeと「リレイティヴ」を併せて載せておくと、「どーせ、どこかでツッコミ入れてはそこで彼奴等のストレス発散にでもなるのなら、向こうで集ってくれてた方がありがてーや」ってな事もあって、断腸の思いで使っているワケだったんですね。relativeを「リレイティヴ」と言ってしまう事は。正しくは「リラティヴ」でありましょうが、そこまで拘るのであれば、ネイティヴ発音で「squirrel」やら「chevrolet」やら「lincoln」やら発音してカタカナ表記してみろと言いたいのでありますね。

 巷を昨今賑わせている論文問題。論文とは凡ゆる面で完璧なものを要求されるものです。でも実際に論文を見ると、語句が一貫していなかったりするものも結構あったりします。但し、それは、脆弱な知識を有する読み手が相手であろうとも瞬時にその上から俯瞰するように訂正できる程度のミソの付けどころで収まっているものが望ましく(こういう事すら無ければ論文としてはベター)、本質の重要性はともかく、重箱の隅をつつくだけの事に拘泥してしまう様な輩は、核心部分を理解していようがいまいがミソを付ける事だけが狙いなので、コチラからミソの付けどころを用意しておけばイイだけの事です。少なくとも私の展開しているのは論文ではない戯れ言にすぎませんので、ね(笑)。

 「てめーのブログ読んでたら間違った理解してしまって人生変っちまった!どう責任取るんだ!」と仰る人もいるかもしれませんがね、人生を狂わすほどの岐路に立たされた人間がブログ程度に肖る様じゃ、その時点で終いですよ。人生がどう転ぶかも判らない面談や面接やらの時に時間に間に合いそうではなくなり、タクシーに乗ったら案の定タクシーも時間通りに付かずに、そこで運転手に八つ当たりしても無駄な訳ですよ。明かに到着するような時間や距離や遅滞の無い道路状況であっての事ならタクシーの過失にはなりますが、でも、仮に過失が相手に認められたとしても、非常に重要な時に、そういうピンチを招く状況をみすみす作ってしまう事自体、私から見ればその程度の人間は後々似たような事で機を逸すると思います。体を普段から動かしておけば、30キロメートル程歩くのだってワケない、20キロメートルを2時間切って走るのもワケない。タクシー乗らざるを得なかった状況であれば、そんな苦境をすっぽり覆すような「備え」がなければいけないのでありまして、これらの事を音楽に置き換えるならば「備え」=「素養」なのでありますね。

 濱瀬氏がrelativeの部分を態々訳さずにそのまま英文表記しているのは、カタカナ表記することで、誤用の方が普く知られてしまっている方を選択するか、それとも更に理解の市民権を得ていない類の語句としてカタカナ表記すべきか否か!?というのはあったのだろうと私は推察します。但し、彼の様な人が一歩踏み出してくれる事で「リラティヴ」が一般的になるチャンスがあったかもしれないとはいえ、これを濱瀬氏に責任を転嫁するような事があれば本末転倒な事であるのは自明でありましょう。


 30年程前の映画、『キャノンボール』(キャノンボール・アダレイじゃないですよ)に出演するキャラクターの一人に「Chaos」というのがおりまして、当時の映画館の日本語字幕は現地発音に倣った「ケイオス」でした。奇しくも同年、YMOの「君に、胸キュン」のEP盤のB面に収録されていた曲も「ケイオス・パニック」となっていたんですが、その後有名作家が「カオス」という呼び名の方を広く人口に膾炙されたものにしてしまい、YMOの方もその後「カオス・パニック」と呼んでいた事もあったモンですわ。
 
 得てして、市民権を得ていない類の外来語というのは非常に使いどころが難しいモノでもありますが、誤用が定着してしまうよりも原語を優先するというのは好判断であります。私の場合は、広く膾炙された方を態々使って(どうせツッコミ入れる奴がいるだろうという狙いで)、ツッコミに遭うという違い。そのツッコミとやらをボヤく先があの巨大掲示板ですから、ツッコミ入れてる輩の素性はそれとなく香ぐわしき物を感じ取れるのですが、その手の輩が人間としての高みのある薫陶を受けるとは到底思えないのが正直な所。まあ、こんな事はさておき、音程の優位性でも先ずは知っておいていただきたいと思わんばかりであります。