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残響への拘泥 [サウンド解析]

 和声とやらが今日のように体系化されたのはジャン=フィリップ・ラモーに依る貢献というのは疑いの余地のない周知の事実でありますが、抑も和音の複雑化が進んだ素因となる物は、音律の均齊化に依る事と、その後の等分平均律へ時代が進む事に依って作曲の可能性が拡大していく事で調性の崩壊が起き、その果てにある半音階要素が多く使われる様になったという背景に伴う物であることを今一度思い返すことが肝要です。


 加えて、更にそれらの素因に対して目を向けると(耳を澄ますと)、「掛留」とやらが関与しているのであります。この掛留の歴史というのは、なにも旋律の操作や演奏の能動的な操作に依る物だけではなく、単純に音響空間の「残響」が始原なのです。つまり、残響が掛留を発展させ、和声機能はその後発展していくという流れなのであります。

 その残響を和声的に活用する為には、楽曲の持つテンポも加味される要因となります。加えて、残響が余りに長ければ、掛留が長過ぎて後発の和音の響きを損う事にもなるので、残響という成分は非常にデリケートなものでもあるのですが実音に対して「こだま」を感じる程度の音に単純に「カノン」状態になってしまえば「ディレイ」と変りはありません(笑)。ディレイではなく、ここに、残響という物がほしいのですね。ディレイの様に「点」ではなく、まとまった束がスーッと現れる様な残響としての。

 和声が発展して来た背景というのは、こうした残響→掛留という風な変遷を経て、多様化してきた訳であります。先述にある様に、ディレイが「カノン」と同様である事を鑑みれば、ディレイというカノンがいかにして対位法音楽を発展させていき、その後、横の線の誇張だけで、調性の体系や、一般的な和声の体系をも軽々と跳越する様に発展した対位法のそれと、大バッハの耳というのは今更乍ら驚かされることしきりであります。

 カノンというものを最も判り易くイメージでできるシーンというのは、学校教育での「輪唱」などは最たる例であります。しかし、この輪唱とやらも調性音楽を歌っているのは至極当然なのではありますが、和声的に曲全体を俯瞰した場合、先行句はトニックに帰結したのに追行句がまだドミナントを歌っているシーンも有り得るのであります。しかし、この不協和を「混濁」として聴かせない牽引力は、先行句が持っている「横の線」としての牽引力に他なりません。この牽引力があればこそ、トニックに解決しても追行句がまだドミナントを奏している、という事も許容できるワケです。

 ですから、現今のポピュラー/ジャズ界隈で分数コードやらを能く見掛けるかと思いますが、機能的にはポリコードとして捉える事が可能になるような、サブドミナントonドミナントとか遭遇するのは珍しい事ではありません。
 
 それと、音律が平均化したと雖も、残響という〈香辛料〉が、もしかしたら純正八度の他に存する「純正な姿」となる音程を付加する(つまり、平均律に対して純正な香辛料をまぶす)という、数少ないファクターの一つであるとも言えるでしょう。
 付け加えれば、先の「横の線の牽引力」こそが、調的・和声的制約から逃れる事の出来る手段なのでもあります。調的な制約から逃れる事は調性外の音を使うことであり、さらには和声体系からsuppositionとして想起し得る構成音の範疇にも当て嵌らない音を弾くことも出来るワケです。先のユニヴェル・ゼロの記事内PDFにおいて、パット・メセニーの横の線の誇張をアンティシペーションで表す独特のクセというのが、逸脱の示唆と、その後の逸脱を柔和にスムーズに連結させているのは言う迄もありません。その「アンティシペーション」は勿論調性も和声的な制約をも逸脱していたりします。


 扨て、今一度「残響」の話題に戻るとしますが、残響が長ければ長いほど良いというわけでもなく、音楽によってはデッドな音の方が歓迎されたりするシーンもある位ですが、こういうシーンは概ねポピュラー音楽方面の一部のジャンルという限定的な側面にて求められる事であるものの、それを例外として片付けて措く事のない物なので、きちんと視野に入れておかなくてはならないと思います。

 概して、深くて長い残響は不快感を伴なうものです。そういうシーンではおそらく、アンサンブルにおける和声感は既に潤沢、または楽曲の重要なファクターとなっている音色部分を残響成分が阻碍してしまう事を忌避されるシーンであるでしょうし、そうした要素の音は「持続に足る」音であるでしょうから残響を欲さないという状況になるのでしょう。持続に足らない音だとしても、その短い音が楽曲の重要なキャラクターの場合はやはりそれを阻碍しない様に振る舞ってくれる方が聽者としては有り難いのであると言えるでしょう。聽者とて楽理は判らずとも曲の雰囲気は捉えており、残響成分が音をどのように変化させてしまうのか!?という事位は日常的な経験から朧げ、もしくはそれ以上に感じ取っている事の表れです。

 音色や音質すらも変更してしまいかねない残響というのは、実際に「音質」をも変化させます。仮に、無響室でヴァイオリンなどを弾いたら、そのあまりに無味乾燥な音に驚いてしまうのではないかと思います。「空気振動」と「固有物理振動」を要する楽器というのはその振動そのものが音質を決定しているものでもあり、残響などと感じ取れない様なごく短い成分も音色形成をしているのでありまして、その残響成分が全く無くなってしまえばヴァイオリンとて、ペラッペラの音に変容してしまうのが現実なのでありまして、リバーブの残響があまりに当てこすり的な深さを伴わせない様な自然な残響、原音に著しい変化を伴わせない様な残響付加を本当は目指すべきなのでありますね。

 とはいえ、残響が齎す「音脈」は、音色形成然り、カノンや対位法にも発展するというものでもあり、ポジティヴに活用される脈絡となると途端に世界観が拡大するのはあらためて瞠目すべき一例なのではないかと思います。今日の音楽とて、そういう経験の繰り返しがおそらくギリシア時代の頃から脈々と続いているのだと思います。
 
 それと、残響という特に、長いと謂われる方の残響ほど、純正な振動数が持続している状況と言えます。なんらかの振動数というのは結果的にスポイルされて無くなったり、減衰したりして耳に届くワケですから、結果的に純粋な振動数が残って行くのですね。つまり、太陽が傾くと赤みが増して周波数の低い方が際立つ事と同じで、残響とて高音部から減衰するのでありますね。残る低域の成分の残響は純正な振動数の「残り香」でもあるのです。

 この「残響」はリバーブ・テールとも言われますが、音響テクニックとしてこっぴどく言われる事は、短い音がスムーズに長音化していく様な残響の長さというのが理想的と言われるワケです。お風呂場だと長過ぎるし、残響が強すぎるのです。余談ですが2013年の暮れに発売されたサザエさんのCD。テレビのオープニング曲を能く聴くとボーカル部のリバーブ・テールは本当に理想的と呼べるほど教科書通りのテクニックだという事があらためて判ることですね(笑)。

 この機会に少々横道に逸れますが、このサザエさんのオープニング曲『サザエさん』のコンサート・ピッチは他の収録BGMと違って434.2Hz。434Hzの可能性もありますが、概ね440Hzのピッチよりも22〜23セント程低いもので、そんな低いコンサート・ピッチに対して能く434Hz準拠のビブラフォンがあったモンだ、などと考えていると、1859年仏政府はa=435ヘルツを制定。この直前まではパリではa=448Hz、しかもウィーンではa=456.1Hzという異なる標準ピッチが存在していた時代において、先のフランスのものと近いものではあるものの、それとも微妙に異なる。1820年の英国ではジョージ・スマート卿が慫慂するa=433Hzというものであり、19世紀頃の楽器を易々と使ったりするものだろうか!?などと色々考えると、おそらくこのピッチは単なる録再機器に依るバリ・ピッチ(=variable pitch control)に依るモノなのではないかと思うワケですね。

 サザエさん音楽大全のアナログ盤という時代を考えると、LP盤は通常33・1/3rpmでありますが、一般的なレコード・プレーヤーというのは33回転という物もあったのですから驚きです。寧ろ、こうしたピッチのバラつきに拘泥しないという、一般の人々の音楽への思考や音律への概念の希薄さは今更驚くべき事ではなく、その後カセット・テープが普及していき、デッキの固体差によるテープ回転の差異などは、器楽的経験に伴って漸く実感したりしたものでもありました。因みに33・1/3rpmと33rpmのピッチの差は12000°:11880°(120°×100と120°×99)となるので、概ね約17.4セントの違いを生ずる事になるのですが、このピッチ差とも異なる訳ですね。

 ま、こんな寄り道をしても仕方ないのですが、先のサザエさんのオープニング曲がおそらくバリ・ピッチに依る物であるとしても、そのリバーブ機器の特性は録音時の物に最良の設定を行なった結果なのですから、リバーブのフォルマントの可変とかそういう所に注目する事ではなく、録りの段階でのリバーブが良ければその後バリ・ピッチを施しても残響の良さは追従するモノなのだな、と実感させて呉れるワケですね。まあ、こういう機会にサザエさんの話題が出たので『楽しい磯野家』のミニムーグと思しきシンセのリード音のセッティングを載せておきましたので、お試しあれ(笑)。
Tanosii_Isono-kae.jpg


 扨て、残響部の「純正な振動数」という核心部分に触れたいと思います。
 嘗て私が某放送局のスタジオの建設工事中に遭遇した時に許可をもらって覗かせてもらった事があるのですが、スタジオのキャパとしては高さが15メートルで奥行×幅で40メートル×30メートル位のサイズ、日本青年館よりは大きかったか、もしかするともっと大きい位のサイズでしたが、その工事中のハコは密閉状態だったんですね。まだ内装とかも全然のコンクリート剥き出し状態です。但しハコを閉じていないと共鳴が物凄いので密閉されていたワケですが、密閉されたハコに用意されている鉄扉を開けて中に入った途端、足を踏み入れた音が通常ならば「トン」という様な音が…


「トォォォォォオォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!!!」

という様な音になってしまって、一向に減衰しない残響音の波に埋もれていってしまうのです。しかも、その壮絶な状況に、つい声を発しようものなら火に油を注ぐような状態で、何が何やら判らない状態で、しかも発した自分の声よりもさらに大きくなっていくかのような(全然減衰しない)状態でなのであります。
 その壓倒される音に耳がやられそうな感じなので扉から出て閉じたんですね。1分位して鉄扉を開けると、先ほど発した自分の声の残響がまだ鳴り止まずに鳴っているのが判るのですね。とはいえその残響に「声」と判る成分とは異なる、本当に純粋な部分音が残存するだけの残滓という感じの音(実際には私の声の断片)。能く聴けば母音の断片のようなスッキリはしている音。あまりに壮絶な残響の混濁が落ち着いて減衰している時の残響の残滓は別な意味で明澄度の高い音を感じる事ができたものです。そういう極端な一例を挙げた訳でしたが参考になったでしょうか!?

 ともあれ、長い残響が忌避される理由は、純正な響きとやらの図太過ぎる音が原音を完全に蔑ろにしてしまうからだという事を理解しておかねばなりません。音質を形成して呉れるばかりではありません。

 勿論、音楽ホールなどでは残響などきちんと設計されているので、こういう極端なシーンまではなかなか遭遇することは無いでしょう(天地、左右、前後をピッタリと設計しても今度は定在波が生ずるので壁面にはランダムに反射するように工夫があったりします)。天井や壁面に工夫を施しても、生活空間として重要な床面というのは平らに仕上げてしまうので、ここからの間接音(反射音)というのが現実の多くの要素になるので、茲からの反射から態と遠ざけて録音したりもする訳ですね。

 ただ「残響」に伴う音質変化というのは普段の生活環境が少し変化するだけでも違いを実感できるものでもあり、例えば引っ越しなどの転居などは日常生活において実感しやすいのではないかと思います。また、器楽的な意味でも幼少の頃からコンクールなどに出られる際、会場の残響具合が普段の練習と違って残響が付加された音に余計なエネルギーを感じてしまって萎縮してしまったり、残響を思いの外感じてしまう事で拍子のルバートな読みを待ちきれずに、そこに自身の演奏の焦燥感と高調感が災いして演奏を急いてしまったりする経験など、器楽的な経験がある方なら誰もが理解されているかと思います。それ位残響というのは作用するものなのであります。勿論、中には残響にてんで無頓着な人も居て、こういう人の場合には逆に残響に耳を傾けるように助言したりすることも屡々あったりもする事です。

 そうした器楽的な意味で残響を「好意的」に取扱う事の方が圧倒的に多く、残響を不快に感じるシーンというのは実際には少ないと思いますが、トンネルに入った時の反射音というのは日常のそれとは異なる雰囲気を醸し出すので深いとはいかずとも独特な情感を誘うものでありましょう。

 結果的に、直接音(音源)由来の間接音の持つ比類無き揺ぎない振動が純正比であるため、残響成分は長ければ長いほど純正な振動が残る(停留)する事になる訳ですが、実音は色んな音域の音を発していて、残響はそれらの音に対して一様に同じ残響時間を提供する訳でもないのが実際であります。高い周波数ほどスポイルされやすいので高域の周波数が長く鳴り響く状況は非常に少ないと思われますし、低域に溜まって行く音を忌避して、中音域の残響を活用するというのが実際の音響だったりするのです。不快な低域の底流がなく、母音がそのままきれいに伸びていくかのような、音源の持つ主要な音色成分がそのままスーッと伸びていくかのような残響に魅力という物を感じ、時代によっては茲に「霊的」な成分を感じたりもする訳ですね。この霊的という語句は、いわゆる心霊現象の様なものではなく、アブストラクト。つまり人間の叡智では説明し難い現象を表現する時に音楽書界隈では能く使われる語句であるのは言う迄もありませんので誤解のなきようご容赦を。

 残響というものを使いこなす人間たち、原音を損わない形であればそれをポジティヴに使うという事は「装飾」なのでありますが、残響とて先の例の様にややもすれば不快な条件があった訳でして、これを「装飾」としないのは人間のご都合主義の表れだとも言い換えることができるかもしれません。場面が違えば、底流する低域の音を「ドローン」として用いたりする事もあるでしょうし、低域に蠢く音たちが総じて不快なものではないという所は強調しておかなくてはなりません。とはいえここは音のエネルギーが不必要に溜まって来る領域なので、耳で聴いた感じの実音が、ピーキング・タイプのレベルメーターの振れ方が耳の聴こえ方と少々異なる鈍重な振れ方になってしまっている時は往々にして不必要な底流エネルギーが生じてしまっているので、こういう現実に注意を払って収音・録音する現実も視野に入れなくてはならないと思います。不快感というのは何とも主観的なものですが、色んな音楽を聴いて先人達が作り上げた「基準」を聴けば、その基準という顰に倣うのは重要ですし、そこが不快と快楽の大まかな線引きと判断すればよろしいかと思います。

 然し乍ら、次の様な考えもあったりします。抑も音に対して苦痛を伴えばそれは「ノイズ」なのでありましょうか!?律された楽音とて音量如何だけでなく、見事に調的情緒を伴うメロディですらも先が読める程の簡単な脈絡な為に耳障りにしか聴こえない事も珍しくない事でしょう。子供が何を喋ろうとしているのか推察に容易いが故に、子供の声のやり取りは単に煩く聴こえてしまう事も強ち冗談ではない事も。それらをひとたび鑑みれば、一体ノイズ=雑音というのもどこまでを定義すればいいのかという疑問もあります(実際には科学的にノイズという細かい定義はあります)。単に”耳障り”であればそれを「ノイズ」と言い切ってしまえばイイというモノでもありません。先の不必要に長い不快な残響は純正な振動比の成分ですが、純正律にやたらと荘厳な重みを感じていた方は、こうした「耳障り」な残響も凡て受け入れてしまうのでしょうか?(笑)。
 純然たるノイズ成分というのは楽音にあってはならないものなのか!?
というとそれは全く異なることで、寧ろ雑音成分というのは音色に艶やかな表情を演出します。
 フルートをも忌避するのか!?。擦弦楽器の弓で生ずる音やピアノがピアノ線をフェルトの付いたハンマーが叩く事で生じる部分音などはノイズ的成分でありますが、こうした音を際限なく排除していってしまうなら軈ては奏者は楽器を捨て、音叉を手に持ち音色組成の為に多くの奏者が音を制御すればイイのか、というとこれも亦違う事です。

 こうした所と聴覚の不思議な側面を絡めつつ色々語って行く事にする予定ですが、この手の話題ばかりに集中させても今度はあまりに学術的になってしまいかねないので、巧い事鏤め乍ら語っていこうかと思います。