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吾(おれ)と卿(おまえ)とドミナント [楽理]

 こうした表現は、岩波新書の「百年前の日本語」に載っていた物だったでしょうか!?ちょっと記憶が曖昧なのですが、こうした日本語の「揺さぶり」というのは私はとても好きです。
 
 音樂を形容する場合、背景の樂理的側面の知識が無い場合、主に文語的な表現と主観が入り交じるやり取りになる事が一般的です。音樂という根幹部分という物は主観で片付けられる様な組織社会ではなく、各人の感想の違いに依って性格が決まるものではありません。調性を司る主要三和音の機能(=通称:3コード)が一体どう役割なのか?という事は、音樂理論方面に知識が無い人でも判る位、今回はきっちりとそうした方面を語り乍らいつもよりも遥かに長い文章にお付き合いいただく事になるのはご容赦を。

 念のため申しておきますが、「詭弁」の類の言葉の揺さぶりや、無理解から生じる自身が抱える知識のひび割れを音樂とは無関係の文語的表現で勝手に喩える様な真似はしないで欲しいと思うことしきりです。


 先日、ツイッター上にて音楽理論に於いて詭弁を弄する者の発言に遭遇し、そんな詭弁が罷り通るのは聞き捨て成らんと思い、私は当人にツイートし激しくやり合ったのでありますが、当の発言者は私の指摘を誤摩化すだけで遂には倫理破綻を招く始末となったのでありました。

 公開処刑のつもりは毛頭無く、先の発言者個人への憎悪など全くありません。「ホントかよ!?」なんて思われる方もおられると思いますが、私の過去のブログ記事をお読みいただければ私が音楽にどういう姿勢で向き合っているのかはお判りいただけると思います。そこであらためて強調しておきたいのは、私という人間は、音樂への正しい理解に對してたかだか自身の感情に左右されて歪曲するようには陥らないという事だけは断言しておきます。

 私が先の発言者で殘念に思うのは、当の発言者はバークリーにてジャズ理論を学んだそうなのですが、私には彼の学歴などどうでも良い事でありまして、音楽に於いて正しい理解があればそれで良いと思っている一人であります。言い換えれば小学生でもきちんと音楽の根幹を正しく理解さえしていれば、名門校を出ていようが出ていまいが無関係なのです。

 
 抑も、私は彼の発言のどこに食いついたのか!?それを挙げる事にしましょう。ツイッターの先の発言者は斜体で示し、私はやや小さめの太文字で示す事にします。


《その後はセカンダリードミナントしか(non-diatonicは)出て来ない。後は問題は最初のEb7。これは先述と同じでSDMだが、Gmに転調した、と考えても良い。「え、EbM7じゃなく7thなのに?」という人は、枯葉を思い出せばok。マイナーキーのbVIは往々にして7th化する。》 2013年4月26日金曜日 18:53:34 http://twitter.com/neajazz/status/327722110829096960



 前もって語っておくと、この4/26という日付から其れ以前の他の音樂面の発言(=ツイート)を語っていたようですが、私が目を通す限り、私が指摘した部分以外でのトンデモ発言は見当たりませんでした(その後の私の指摘に答えられぬままとなって以降は支離滅裂と変化)。

 殘念乍ら彼のはらわたは煮えくり返っていたのか、その後感情を露にし、翌日には更に支離滅裂となり破綻を来してしまい私はブロックをかけてしまいましたが(笑)、彼のツイートは私への罵倒発言を除けば殆どは物腰の柔らかい文体です。コレがミソなのですが、私からすれば、どんなに人格が良くとも音楽に於いて詭弁を弄する人間はとてもタチが悪いと思っております。

 「人格的に問題があっても音樂面で正当な理解を得られる人間というのも少々・・・」という人も居られる事でしょう。私からすれば、こうした理解者も私には不必要なタイプの愚か者であります。音樂への正しい理解というのは自身の感情面で左右されていい譯ではありません。漠然とした物に對して共通理解を伴う程度なら、この問題を私は此処迄固執しませんが、「調性」という物は漠然とした共通理解ではなく、音樂の根幹部分の誰しもが得る共通理解であります。それを歪曲するのは言語道断なのであります。


 『枯葉』という希代の名曲の現實をどうこうケチを付けているのではありません。♭VI7という和音に對しての調性の与え方は本当にそれでイイのか!?という事が私の指摘なのです。


 場合に依っては先の発言者以外の方でも、

「だって、ジャズって調性が希薄でしょ!?」

 と言われる人もいるかもしれませんが、私の意見を言わせてもらえれば、「それならツー・ファイヴやトライトーンも用いる必要ないでしょ!?」とあらためて私から念押ししたくもなる譯ですが(笑)、それらも引っ括めて音樂に対する酷い理解を、私がバッサリ斬ってみましょう、というのが今回の企画です。



 でまあ、先の彼に依るツイートの、


 『マイナーキーのbVIは往々にして7th化する』


 私が彼に対して、間違いと指摘するのはこの部分だけであり、私はここにしか指摘しておりませんが、彼はなぜか不必要で曖昧な着地点を探ろうとするばかりで、それが正しかったとも間違いだったとも言及する事はなく狼狽するかのように私の指摘から逃れては、ありとあらゆる「不必要な」事を持ち出して仕舞には罵倒し始めます。

 
 私の彼へ對しての指摘は再度コピペしますが、



 『マイナーキーのbVIは往々にして7th化する』



 これの何処が間違いがあるか、皆さんはお判りでしょうか?判りやすく言えば

「短調に於いてダイアトニック・コードが♭VI7となっている体系(しかもVもある)など存在しない(これが正しい見解)」
「往々にして♭VIの七度が短七度に変化するマイナーキー(こんなマイナーキーは存在し得ません)」


 という事です。存在しないだけで見つかってないんじゃないの!?という事じゃないですよ(笑)。存在し得ないのです。

 他方、こうした事への正しい判断をする際によく知られた必要な判断材料というのがあります。「演繹」が成立しないという事は矛盾を来すものだという理解が無ければいけません。仮に、AはBである、BはCである。それならばAはCである、という論理が成立しますか?彼の発言にそれらは全く成立しないのが理解できるのでそれは追々判るでしょう。
 但し世の中には演繹を求める前に「言葉の置き換え」に酔う類の人が沢山おりまして、要はアタマをあんまり使いたくないんですね。スイッチの様に判断出来る動機が欲しいので悩む判断が苦痛なのです。ですから他人の言葉に對して腑に落ちる様な表現を待ち、詭弁にも気付かず受け入れる事になるのです。

 さらに喩えるならば、数学の世界に「二角形」などありませんよね。それ程馬鹿げた物を探す様な事に等しいのです(笑)。なぜノン・ダイアトニック・コードを生じた時に前の調性に固執する必要がある!?これに對して彼は後ほど、ノン・ダイアトニックな音はブルーノートなので前のキーを維持してイイという(コレは間違いです)。こんなマイナーキー(=短調)は存在し得ません。それは何故か!?



 私の指摘したツイートは次の通りです。
 

 短調での♭VIの属七化はジャズの寛容的な部分でもありますが、短調に於けるフラットサブメディアントの説明となると言葉不足です。短調でのフラットサブメディアントに生ずる四聲体の和音は♭VIM7が望ましく、属七の体の出現はやはり一時的な他調由来の引用でしかありません。 2013年4月26日金曜日 21:33:17 http://twitter.com/sakonosamu/status/327762303716061184


 
 ここで私が彼へ配慮している言葉に隠された「意図」は、前の調性という短調を維持するのであれば♭VIで生ずる四聲体和音は♭VIM7であるべきですよー♪と言っているのです。そうじゃなければ♭IV7では元の調の「マイナーキー」だなんて言えませんよー♪という二つのメッセージ(=意図)があるのです。ところが彼はそれを読み取れない(笑)。

 短調での「サブメディアント」という言葉は、この場合だと「頭痛が痛い」と言っている様なモノなのでもあり(笑)、元々が♭VIの事を指すので短調で「フラット・サブメディアント」と態々こじつける必要はないのですが、相手がジャズ系の人でもあるため、敢えてコチラも門外漢ではないという事と文章への注視の為に使っています(余談ですが、長調のサブメディアントは本位6度=ナチュラル6thです)。



 彼はおそらく、「短調で♭VIのダイアトニック・コードの四聲体なら♭VIM7が当たり前だろーよ」という理解にしか及んでおらず、そんなトコに食って掛かって来た私という風に誤解しているのが後述のツイートからも判るのですね。

 まあ、それは扨て置き、更に私は次の様に彼の間違いを指摘するのですが、私の指摘の意図を全く理解していないと私自身が感じた為、言葉を変えてを次の様に問いつめます。彼の私へのツイートはもっと後ろの方で徹底的に列挙します(笑)。とりあえずは私の大局的な流れからお読み下さい。


 ではあなたはIm9→♭IV7の♭VI7上で、前の調を堅持した短調の属音(アヴォイドです)をも視野にいれてしまうのですか。あなたも少し理解できるなら文脈位はご理解いただかないと。私も貴方の文は理解しているのだから。 2013年4月26日金曜日 22:21:52 http://twitter.com/sakonosamu/status/327774529910890496



 皆さんはご理解できたでしょうか!?彼は、私が今回列挙しているツイート群以外の私へのツイートで、♭VI7で発生する短七度の音は、前の調の全音階(=ダイアトニック・ノート)に加えてブルーノートという解釈というのがバークリーを始めとするジャズの定説だと述べているのです。

 私は何も、短調の♭VIをルートとするコードは「♭VIM7」で無ければならないなどと述べているのではない事は即座に理解出来ると思うのですが、♭VI7として出現する事自体は現實としてある事を私は一切否定などしてはおりません。♭VI7というノン・ダイアトニックなコードが登場している時点でも前の調性を堅持するという宣う先の発言者に對してその見解で本当に正しいモノなのか!?と指摘している譯です。私は勿論答を知っているので、彼が正しい事を言えばそれでハナシは収まるはずなのですが、彼の言葉から正答が出る事はありませんでした。それどころか酷い状況に及んで行く事が判ります(笑)。


 といういきさつだったので、『ならば、ノン・ダイアトニック(=調性外)の♭VI7という和音上でも、それは一時的な他調でもなく、♭VI7上で発生した「調性外の音」である短七度の音は、元の調のVの音をスッ飛ばしてまで調性を「堅持」するのなら、Vという音の存在はどこへ行って調性を求めるのか!?』

 と私は問いつめているのであります。



 これで、最初から私が一貫して指摘している理由がお判りかと思いますが、ノン・ダイアトニックである♭VI7というのは一時的な他調由来の和音との理解ではなくてイイのか!?と態々コチラから助け舟を出しているにも関わらず、彼は否定して「ブルーノート」を加えて、調性を堅持すると答えるのであります。


 その間に無関係な属七の解決なき音樂の例やら私は散々アホ呼ばわりされていたので仏の顔も三度迄という事で(笑)、私もとうとうブチ切れまして、次の様にツイートするのです。なにせ次の様なツイートが飛び込むワケで(笑)。



《調性の完全な解釈が在る、と思ってる時点で、まずあなたはアホなのよ。》 2013年4月27日土曜日 10:53:39 http://twitter.com/neajazz/status/327963723971047425



 ご立派に音樂理論のツイートされていたのは彼であったのに、まるで自分自身のツイートにすら完全な解釈など要らないと言っている事に等しい(笑)。天に唾棄する様な凄い解釈ですね(笑)。気違いに詭弁とはまさにナントカとハサミです(笑)。そこで私が次の様に指摘するのであります。



 短調の♭VI7としたら、元のVの音スッ飛ばすならそこに元の調ねーよな、ってハナシ。憶えてる? 2013年4月26日金曜日 22:57:15 http://twitter.com/sakonosamu/status/327783433893994496



 本当は、ここで終えても良かったのでしょうが(一旦終えました)、彼は翌日も怒りが収まらなかったのがブツブツ呟いていたので私も再度問いつめる事に。当時のその時点でも、彼からの明確な回答は返って来ないのですが、当初から私の指摘していた箇所



 「マイナーキーのbVIは往々にして7th化する」



 ジャズには實際にこういう曲は多数ありますが、その曲での♭VI7はその時点で別の調由来のドミナント7thというのが正しい理解です。


 加えて、今回私が指摘している事と他のそうした現實は全く別物です。ノン・ダイアトニックが現れていない時の元の調を「堅持」して、ブルーノートと解釈できる音なのだから元の音にブルーノートを付加したという解釈、というのが彼の理解であり、バークリーはそう教えると豪語していたのであります。



 後ほど説明しますが、「テトラコルド」に於いて正しい理解があれば、彼の様な理解に陥る事はまずありません(笑)。テトラコルドとは「四音列」のため、二組合わせれば8音ではあるものの、ひとつの音はそれぞれのテトラコルドが共有している音が一般的なヘプタトニック社会での規則である為、C/Am調では「C - F、 G - C」という二組のテトラコルドはC音を共有したテトラコルドなので實際には7音が全体の姿となるという事を意味します。

 ところが、先の様にブルーノートをたった1音付加した8音の音列状態になっている仕来りを想起するとなると、テトラコルドは二組の組成では足りなくなるのです。ですから私は「複調を視野に入れた解釈ではないのか!?」と、私は敢えて判っていてカマをかけてまで彼がこれ以上恥をかかずとも済む様に誘い水を向けているのですが、頑として認めないのですね(笑)。そりゃそうでしょう。調性の「所属」という事がまずは二組のテトラコルドの組成であるという根幹の理解が無いのであれば当然とも言えるでしょう。



 ex.1の様な事が今回の例となります。
twex01.jpg


 調は私の方で「恰も」Aマイナーに便宜上移調させていただきましたが、♭6thから始めてディグリー表記やらを与えているのはお判りいただけるでしょうか。♭6thを根音とする四聲体のダイアトニック・コードはこの譜例に当て嵌めれば「F、A、C、E」が本来現れる和音ですが、彼が冒頭言っているように、「マイナー・キーでは往々にして♭VIは7th化する」と。

 さらに私の指摘から、♭VI7上でも調は前のキーを残して、ラシドレミファソラの音列にブルーノートとしてE♭を付加してAマイナーというキーを堅持すれば良い、というのが彼曰くバークリーの教えなのだそうだ。

 私から言わせて貰えば、樂理も知らぬ人間だってバークリーの門を叩く事はあるでしょうし、そんな中でテトラコルドすら教えない事はないと思うのです。但し順序としてその辺も(=単一の調性)も理解に脆弱な人間にいきなり複調の概念を教える事はしないと私は思います。
 それでも、以降バークリーに習った事がないという事は、バークリーにそうしたカリキュラムが無かったとしてもバークリーには何の落ち度もありませんし、複調・多調という世界観は履修者全てが学ぶモノではなくどちらかといえばゼミで学ぶ性格の物であると思えます(バークリーの教育現場の實際までは私は知りませんし知る必要もありません)。
 ましてやその学校に習う人間がなぜそれよりも先の学問的知識を得る事などせずにそんな理解に収まってしまった事を責めないのでしょう?そこがそもそも責任逃れと言われてやむなしでしょう。授業中に寝てばかり居た奴にまで「授業料払ってんだから卒業させろ!」と言われても、誰に責任があるのか!?と問われる以前に理解しておかなくてはならない事ですよね(笑)。



 バークリーはこの際扨て置き、♭VI7という風にすると和音の構成は「F、A、C、E♭」となり、元の調性を堅持していたら元の調のVの音(=本位E)をスッ飛ばしてるけど、それでも元の調堅持するのか!?というのが私の指摘なのはお判りだと思いますが、それでイイというのです。


 では、私がその矛盾を今白日の下に晒しましょう。



 調を堅持するというのならば、前の調のVの音はアヴォイドとして使わずとも「視野」には入る事になりますね。そうした音列として存在する空間を「堅持」する事になるのですから。ex.1の譜例の一番下に数字が振ってあるのは、矛盾を判りやすくするための数字です。
twex01.jpg


 ♭VI7で使われる短七度の音(=E♭)は、Fから数えて7音目です。調を堅持するとなると、8番目の音を視野に入らざるを得なくなります。この7音を超えた音列の「調的社会」とやらに生じている矛盾を答えられる者は居るか!?


 というのが私の「隠された意図」であり、指摘の先の本意なのです。


 意地が悪いと思われるかもしれませんが、間違った情報をえびす顔で吹聴する方こそが私から言わせればよっぽどペテンですけどね。ところが世の中というのは、私のこうしたキャラクターに馴染めず嫌悪感を示す輩も居るもので、嫌悪感という感情から真の理解を歪曲して、私からの理解など正当に取り扱おうとしない厄介者というのはどこにでも存在するモノです。でも、そうした輩というのは、自分自身にきちんとした理解が及ばない為に色んな言葉を使って、さも判りやすく受け止められそうな言葉に騙されてしまう事が大半です。そうした「罠」という現實は後述でもすぐにお判りいただけるかと思います。当の本人は罠のつもりは無くとも、自分の立ち居振る舞いの為に自ずとそうなるモノというのがお判りいただけるかと思います。


 8音で構成される、知られた「音階」の存在は確かにあります。スパニッシュやらコンビネーション・オブ・ディミニッシュ・スケールやらディミニッシュトやら。これらを「音階」と一括りしているだけで、これらをきちんと「テトラコルド」に解体した時、これらの音列からは二組のテトラコルドに収まりきらず別のテトラコルドが必要という大前提の理解、きちんと備えているか!?と私が問うたらどれだけの人が備えているでしょうか!?おそらく先のツイート発言者はもとより、この時点でも相当少なくなるのではないかと思います。

 加えて、完全音程をシンメトリカルな構造(=音程)で砕くと調的な牽引力が弱まる、という前提もどれだけの方がご存知でしょうかね。

 さらに、協和的な音程や和音にシンメトリカルな構造を加えた和音の色彩やら、どれだけ説明できる方がいるでしょうか?こうした理解には単一の調性内では語ることのできない体系がありまして、本来、ブルーノートというのもテトラコルドで括った時に、二組のテトラコルドでまとめきれない時点で単一の調性では語ることのできない世界観を利用しているのです。

 複調・多調という世界観は、調性社会という「非対称性」の世界を砕く事で「均質性」が高まり、「対称性」の構造が姿を現す、という事を知っている人は、相当少なくなるのが現實でありましょう。だから、先の様に8音亦はそれ以上で構成される音組織では、複調側を世界観として視野に入れる事になるので、「対称性」という姿が自ずと視野に入るので、先の様な表現を間に挟む必要があるのです。何も徒にコチラが複調・多調の世界観を押し付けよう等としている譯じゃないんですよ。そもそもこーゆー社会は樂理のイロハも判らぬ様なのが獲得する知識じゃないんです(笑)。


 ところが、愚かな所に収まる連中というのはダイアトニック亦はチャーチ・モードというヘプタトニック+ブルーノートという音群が、目新しい空間として投影されてしまうのでしょう。もはやそれは従来の音体系を逸脱したかのような拡大された「調的」(=實際には調性ではないです)な社会だと思い込んでしまうのであり、ブルーノートを加えた音の体系を「調性」と呼ぶ様な愚かな理解を繰り広げる様になってしまうのです(笑)。



 扨て、ジャズではドミナント7thコード上で「便宜的な」長七の音が使われる事は珍しい事ではありません。組み入れて考える体系すらあります。ジャズ畑ばかりでもなくそれどころか1949年のヒンデミットの做品であるダブルベース・ソナタ第三楽章で、そうした理解に収める事のできる特異な和音を聴く事ができます。これをあからさまに引用した最初のジャズマンは私の知る限りはハービー・ハンコックでありましょう。しかしこんな事を私は今回述べたい譯ではありません。要所々々でこういう小ネタを挟まないと、読み手は飽きてしまって、読みやすくしてやらないと私が悪者扱いされたりするモンなんですよ、特にネットというのは(笑)。


 ハナシを本題に戻して、先のドミナント7th上での「長七」の音は何度も言う様に、それは「あたかも」の音であり、M7thの音として現れているのは便宜的なモノに過ぎないのです。コレについては後ほど詳しく語りますが、この調を堅持していたVの音が本当の他調由来の音にすり替わっているのが本質であり、E♭として生じている「F、G、A、B、C、D、E♭」というヘプタトニックへ「一時的に」他調の拝借として変貌を遂げているという事が正しい解釈なのであります。

 つまり、Cメロディック・マイナーをスケール・モードとするFリディアン・ドミナントの音列 「プラス」他調由来のE音


 この解釈だけがオンリー・ワンの解釈ではありませんがその理由は後ほどすぐにお判りになるでしょう。
 E♭が前の調を堅持して付加された音なのでもなく、複調由来でもない、と言い切った彼は、彼なりの独自の解釈でしかないのです。しかし、この解釈ばかりが全てではありません。それはあらためてきちんと後述します。


 「他調由来のE音」とした音についてはじっくり語ります。このジャズのイロハも判らぬ者が理解に及ぶ音ではないです。こうした体系を語ってくれる所など、ネット上ではそうそう無いでしょう。金払って教育機関に学ぶべきモノです。


 先の解釈に加えて、「C/Am調域のダイアトニック+E♭音」というのは、實際には「C/Am調域のダイアトニック+D#音」という理解で複調を視野に入れる事も可能であり、解釈は先ほどから申しているようにひとつではありませんし、これらばかりでもありません。但し、「D#音」を想起した場合、D#音という音以外はピアノの白鍵におさまる様なモードの想起となるので(半音音程が連続するテトラコルドの想起)、今回はこうした類のモード想起を前提とせず他の想起でハナシを進めていきます。



 同様に、ノン・ダイアトニックで生じた♭VI7という形態は「(短調の)♭VI△と♭VII△の断片」(※この例の場合は新たにB♭音も出現するので、今回の例とは同一視してはならない)亦は「♭VI△と♭VIIaugの断片」という複調も視野に入るので、先の例を含むと解釈はひとつどころか可能性がとても広大でありひとつになど収まらないのですが、私が一番最初に提示した例がジャズでは概ね理解されやすい体系だろうという「配慮」から出しているだけの事です(笑)。後者の増三和音はAm調から見た♭VIIに生まれたモノですが、調所属はハ短調(=Cm)の短調のIII度の和音であるという風に想起が可能となります。


 ここで強く念頭に置いておきたい知識が「短調の♭VI△と♭VII△の断片」の事なのですが、これは通常の調的社会の枠組みでは「長音階での属音をルートとするメジャー・トライアドと下属音をルートとするメジャー・トライアド」が併存し合っている状況と等しいのです。つまる所G△とF△という事ですね。Gを下声部にするとG11という和音体系です(長属十一の和音)。ドミナント7上で発生する本位11度(=ナチュラル11th)は本来アヴォイドですが、こうした体系があるのも少々和音の知識がある方ならご存知でありましょう。

 同様に下声部にF△、上声部にG△という、例えば短調に於いて上声部にG△下声部にF△とやると、偽終止の体系として使われる事の多い和音であり、これはFリディアンの性格を強く出し乍ら本来の短調の牽引力(=記憶)を利用して嘯く方法のひとつともいえるでしょう。一應、appendix1として譜例にしてありますので参照されたし。
appendix1.jpg


 こうした「機能中和」というのは何故起こるのか!?例えば、六声体系としてドミナントの性格とサブドミナントの性格の和音を鳴らすと、夫々の性格は中和して、其れ自体が変格化してトニック的要素を持つ調的牽引力の暈しの大前提の理解についても先のツイッターの発言者はご存知無いかと思いますので、この機会に複調由来の知識を敢えてこうして与えているのですが、まあ、これに関しては今回そこまで詳しく語らなくとも今回の件については語る事ができてしまうモノなので、頭の片隅にでも「強く」置いていて欲しいと思います。但し、どちらかの声部を簡素化してしまえば、簡素化した和音の牽引力が強まるというのも不思議な妙味であり、結果的にサブドミナントとドミナントの中和ではなく「稀釈化」という事に繋がります。

 こうした使い方が「絶對」なのではなく、元の機能を提示し乍ら使う形式もありますので、紋切り型な理解にならぬ様ご容赦を。


 これらをきちんと知りたければ、今後私のブログを継続して目を通すなり過去の記事を参照にしていただければ良いのですが、こうした話題は、私の述べている事の信頼度を強化する為に読み手に与えている情報部分ですので、先のツイートと巧く絡めたり分離し乍ら判断して欲しいと思います。では、先のツイートの件にハナシを戻しましょう。

 さらに言うと、本位11度(=ナチュラル11th)を包含する属和音の体というのは通常「長属11度」の和音として出現しますが、この和音の体は先の例からも判るように単一の調性内では機能が稀釈化されている事に加え、上下に二組の長三和音を包含しているという事から、調所属を共通とする近親的な調性由来の長和音を借用した世界という考え方も可能となります。
appendix2.jpg

 短調では通常属和音に現れる五聲以上の和音の体の九度は短九度がダイアトニックの姿でありますが、調所属を柔軟に解釈する場合はそうした限りではなくなる為、短調のV7で生ずる所を「V11」として拡大解釈した場合は、前述した様にやはり複調要素が視野に入る事と等しく、appendix2で表した様に上声部にはそれまで現れる事のない「脈絡」の音を持って来ていますが、短調で生ずるメディアント(=本位6度)を生じている事も注目して欲しいと思います。複調という事を学校やらで詳しく扱わなかったとしても、それは単一の調性社会を最初に学ぶために必要な時間でカリキュラムが充てられていただけの事で、それ以上学びたい者は他に方法があった筈なので、そうした事を学ばなかったという事を短絡的に教育の側の責任にしてはいけませんし、仮に教育機関で学ばずテキストで自身の判断で体得してきている者は殊更そうした短絡的な責任逃れをするなとあらためて言いたい所です。

 なにせ、この発言者はいつの間にかリットーミュージックの名前や武蔵野音楽学院で使われる教本とか持ち出す始末ですからね(笑)。


 複調の方面の理解が乏しければ理解も不十分になるとは思うので、そうするとたったそれだけの私以外の人達の主観に依る要因で私は信憑性を欠いてしまうのでしょうか?自身の無理解を棚上げして何故他人の提出する情報には紋切り型で對應するのでしょう。そんなお門違いな理由に依ってこうした理解を勝手に歪められてしまったら本末転倒極まりありません。それでも、この複調由来で「Fリディアン・ドミナント+他調由来E音」は腑に落ちない!という方はいずれじっくり語りますから焦んなさんな、と言っておきましょう。こうした方向に目を通せるだけでも感謝してもらいたいモンだ、特にツイッターのヘッポコ発言者には(笑)。



 まあ、取り敢えず、全音階(=7音)にブルーノートを1音加えた、という状況を、彼なりの世界観とやらで見つめてみる事にしましょうか。


 抑もノン・ダイアトニックとして出現する属七の和音それは一般的にはセカンダリー・ドミナントとも呼ばれますが、この和音の出現時点で、本来存在していた調性の存在は「揺らぎ」、他調の「拝借」が視野に入っていなければいけない筈、という理解に及ぶのが属七の和音に於ける「大前提」となる理解の筈であります。

 しかし、彼はこうした理解も持ち合わせていない様なのです。ドミナント7thの体がその後解決しない他の曲の例を彼は持ち出す物の、私だってそんな例は知っており、實際に私が指摘している先の例と他の曲に置換できるモノではない。然し乍らそんな彼が私は可哀想になってきて、私は次の様に誘い水を翌日向けるのです。


 和音の解決が絶対とは言っていない。ジャズ体系の矛盾は属七の後の和音に調性変化という所属概念があるため他調由来の属七が登場するとその時点で他調への所属という理解にならないのが偏狭的且つ無理解の発端。 2013年4月27日土曜日 10:49:06 http://twitter.com/sakonosamu/status/327962577072189442



 どうでしょう。ドミナント・モーションが行われるべき!とかトニックに解決しなければならないなどと私は全く彼に呟いてはおりません(笑)。先の私が冒頭で述べている「和音の解決」とは、属七がトニックへ解決しない例を彼は別の曲を提示したので単に私がそれに返答しているだけの事で、当初の指摘とは別の側面です。私の言っている事は誤りどころか、彼の不足している理解を補ってまでこの様に咀嚼して説明しているのです。私のこの発言で真意を理解できなければ彼自身の国語力の欠如が考えられます。


 そこで、そうした理解が無い彼に私はもう半ば諦めておりました。然し乍ら、発言者本人が意図しているかどうかは扨て置き「罠」という物は「詭弁」として現れる様になって来るのが以下のツイートで判るかと思います。



《そもそも、音楽理論は「後追い追認」です。だから「言葉」と同じだ、と言ってる訳です。例えば「食べれる」「食べられる」のラ抜き言葉の論争と同じなのよ。「食べれる」で通用する以上、それも現在の日本語では「正しい」のよ。音楽理論の「正しい」とは、そういうこと。》 2013年4月27日土曜日 9:26:47 http://twitter.com/neajazz/status/327941860309995520




 ふむふむ、詭弁ですね。「喩え」としては非常に巧みです。私の様などこか高圧的な文体よりか、こうした文体でどことなく含蓄に富んだ感じで、コチラに加担したくなる人というのは意外と大半じゃないかと思います。正否を判断瞬時に判断できない理解力乏しい者がこうした喩えを目の当たりにすれば、私の様な厳しい方を選ぶのは少数でしょう。詭弁という喩えの見事さに理解が及ぶ人というのは本質を見極められないから「暴論の見事さ」に賞賛するだけ。バカな政治家でも見事に詭弁を弄する類のが居て、それについつい判った氣になっちゃう人いるでしょう。こういう私の置き換えの論法は成立可能なモノで、詭弁は何いっても答には成り得ないんですよ(笑)。そこで、私のツイート。



 喩えとしての表現の巧みさは評価するが、世間のら抜き言葉と、短調の♭VI7の出現で短七が元のV飛び越してまでその時点でも前の調を堅持するなんて暴論は同一ではない。ら抜き言葉の現實には同意するが先のアナタの短調の扱いは詭弁に過ぎない。 2013年4月27日土曜日 10:30:49 http://twitter.com/sakonosamu/status/327957978756026368


 冷静に考えてもらえれば、ら抜き言葉と音樂の「不整合」(!?←卿(おまえ)の勝手な解釈だろ、ソレ)とやらを、さも同一に騙る「詭弁」以前に、本題のすり替えでしかない譯ですね。これぞ詭弁の代名詞と呼ぶべきモノです(笑)。



 そんなやり取りの後に、漸く彼なりの理解の礎となっていると思われるソースとやらを提示するも・・・



《「Minor KeyのDiatonic ChordであるbIVM7が一時的にドミナント7thに変化したものと考えうる」(Jazz Theory Workshop/小山大宣著、60pより》 2013年4月27日土曜日 10:41:03 http://twitter.com/neajazz/status/327960551659560960



 バークリーの何処から情報をたぐり寄せるかと思いきや「武蔵野音楽学院出版部」からの教本だと。武蔵野音楽学院さんを批判するつもりは毛頭ありませんが、抑も当人がバークリーに習いバークリー理論をあれほど振りかざすのであれば、こういう情報提出はフェアではないと思います。その後彼は付け加え、この理論もバークリー基準に則った物だからコレでイイのだと(笑)。
 私は然も情報の提出などは求めておらず、彼がきちんとした理解に及んでいればそれで良いのでありますが、私の追及に回答が無いままこの様に唐突にバークリーではない所の情報が現れるのですね(笑)。で、それを私が問い質すと、ジャズ理論はバークリー理論が基準となっている為これでも参考になるのだと。


 はぁ、まあ彼のそうした恥ずかしい行動も「なんちゃってジャズ」の立場だから出来るモノなのか、良識ある大人の對應ではない事は事実だが、そこには目をつぶって彼が提出したソースというのはバークリー理論が集約されているのでありましょうからならば乗っかってみましょうか。

 そして彼の凭れ掛かる情報とやらに目を通してみると、ディグリー表記がいつの間にか「bIV」←ナニコレ!?♭4??ローマ数字の「IV」と「VI」を間違えているのだという事にも目をつぶってやって、目を通してやると、彼が提出した情報とやらの教本は残念乍ら私は所有していないので、彼が提出してきた情報をそのまま準えるのは非常に「危険」ではあるのだが(笑)そこも目をつぶって情報に目をやると・・・!?


 賢明な方なら、先の小山大宣著書の一文には著者自身に依る「2つのアンカー」が打たれているのがお判りになると思います。
 それらについては後述しますが、その2つのアンカーという理解の為に、この文章以外に前提とする理解亦は「注釈」が与えられていれば、教本としては最適であり、私が査読する立場だとすれば、この一文のままではなく注釈を付ける様に私は要求はするものの、仮にこの一文のままであっても先の著書に何の責任もないのであります。私の言っている「2つのアンカー」という事が理解に及べばそれで充分だからであるのです。

 本当の無知ならば、2つのアンカーが意図する物など理解はできないでしょう。おそらく彼は贔屓目に見てやっても「1つ」のアンカーしか見えていないのだろうと推察が及びます。では、先の一文のディグリー表記を「♭VI」に訂正してやって(笑)今一度列挙すると、次の様に「2つ」のアンカーを与えているのが判るのです。


《Minor KeyのDiatonic Chordである♭VIM7が一時的にドミナント7thに変化したものと考えうる》


 この一文の「一時的に」という語句は、その七度が変化しただけでなく、ドミナント7thとして変容した後の姿の際には、一時的に調性の変化(他調の属七の引用)という風に理解する事が可能なのです。

 抑もドミナント7thという体がノン・ダイアトニックとして発生する場合は、他調の属七の引用という理解が大前提にあるため「一時的に」という言葉は長七度だった音が短七度へ変化すると「同時に」調的な関係も一時的に変化が及ぶ、と理解できていないという事を彼は露呈しているのであります。

 加えて、この一文の最後にも「考えうる」と書かれていて、文章としては確定までには至っていません。この様な分を与える場合の多くは注釈が併記されている事が多いのが實際だと思え、これについては私の仕事でも何でもないのでどうでもイイことでありますが、仮に注釈が与えられず読者がそれで「不親切だ!」と責任を求めてしまう様では是亦彼同様愚かな行為を繰り広げる事に等しい。一冊の本がどうであれ、そこに自分の無理解を押し付けてはいけないのです。



 私はこのソースを唐突にツイートされてきた直後に閉口してしまいブロックしたのでありますが(なんて理解が及ばぬ人なんだ、この人は!と呆れたという意味。彼自身が出してきたソースの一文をも、という意味です)、これほどまでに理解に及ばぬ愚か者とツイートし合っていた私はつくづく時間を無駄にしたと痛感したモノでした(笑)。先の、彼のら抜き言葉で恰も音樂と言葉の現實を喩えた言葉の様に、それらは全く置き換える事のできぬ物で詭弁にしか過ぎない。


 その様な論法が通用する以前に私が通用する類の論法を述べるとすれば、彼が何のために私へバークリーの名やらリットーミュージックの名を挙げていたのかは知りませんが、バークリーにどれだけ学ぼうとも、「どんな学校にも落ちこぼれは居る」という論法の方が成立すると私はあらためて思うのです。彼の様な理解に収まる者は推して知るべしである。音樂理論方面を全く知らない者ではないだけに理解が不十分なのは實に殘念な姿であるといえよう。

 彼はあまりに唐突にリットーミュージックに問い合わせれば?と言うので、彼はリットーミュージックと契約している者なのかとも思ったのですがどうも違う様で、どういう意図でリットーミュージックの名が出て来たのかは未だに不明。この人に名前を出される人や企業はイイ迷惑でしょう(笑)。


《バークリーが弊害だと感じるのはあなたの自由だけど、ジャズの教本の殆どはバークリーに基づいているので、僕のツィートが迷惑と言う前に、リットーミュージックにでも電話したらどうですか?笑》 2013年4月26日金曜日 22:37:33 http://twitter.com/neajazz/status/327778475559751680


 バークリーが弊害だと私が彼に呼び水を出してあげたのは彼自身のプライドを損ねない為の配慮と皮肉だったのに(笑)そうすると、ドミナント7thがトニックに解決しない例とやらを振りかざしハナシを逸らそうとする始末。当初の私の指摘に對してきちんと正答を用意するどころか、自分で着地点を求めようとしてしまっているだけで他の曲のドミナントが解決しない例を挙げて来る始末(笑)。私の指摘に正しく答えるなら140文字も要らないだろうて。で、こんなツイートを突然よこすのです。



《例えばオーティスレリングのDock of the bayはI-III-IV-II、そしてまたIへ、と戻ります。そして、これら4つを束ねる共通の「長音階」なんて無い訳です。IIIも、IIも、「解決しない」。しかし、それを「ダメだ」と言ったって、実際こういう曲がある、ってことです。笑》 2013年4月27日土曜日 9:51:06 http://twitter.com/neajazz/status/327947980822949888



 そんな例があるのはコチラから訊いてもいないのだが(笑)、元の私の指摘する♭VI7の話とは全く別(笑)。当初の事に答えるだけでイイのに、この有様。で、私は此処でツッコミ入れますが、この人、オーティス・レディングという名前を言いたいんだよね?(笑)。人の名前間違えるのは一番気を付けないと(笑)。こういう所に同調する必要など全く無い。当初の指摘に對してきちんと答えろと言いたい(笑)。然も、「共通の長音階」という所までの理解は彼にとっては實に惜しいのだが、共通の長音階とやらではなく、束ねる事ができるテトラコルドに目が向かない所が彼の理解が及んでいないという事もあらためて實感するのであります。

 オーディス・レディングの先の曲名なら私も知っているしザ・セクションの「Sitting of the Dock of the Bay」が私は好きだから九分九厘オーティス・レディングだと、こちらから彼の間違いなど指摘する事もなく受け止めなくてはならぬやり取り(笑)。詭弁どころか子供の強弁です。で、ドミナントがトニックに解決しない例をこの人なりに例を出して来たのだろうけれど、当初の私の指摘には全く答えていないのだから實に卑怯である。彼の頭の中は、ドミナント7thという和音が用いられていればどんな体系の曲でも引っ張って来る行為なのです。「調所属」も見抜けない輩が体系化された「なんちゃってジャズ」やってるんでしょう(笑)。こういう輩が恰も正しいかの様にジャズを語れてしまう所に音樂の衰退はあるのだと痛感します。



  数年位前から私はブログ上で何度も言っている事ですが、理論書の類は簡潔な文章に咀嚼されきっており、惰性で短い文章を読んでしまうと本来ある重みのある意味すら捉える事ができずに読み飛ばす事が起こりがちなので注意が必要だと述べてきていたものでしたが、愚の骨頂ココに極まれリ、という感じです(笑)。


 とまあ、先の彼の提出してきたソースに準えて「きちんとした理解」をするならば、彼は順次進行の扱いも、トライトーンの扱いもまったく理解を伴っていない事が判るのです。「なぜそこまで深読みできるのか!?」と興味がある方は次以降の私の挙げる例を読んでいただければすぐにお判りになります。




 先の、彼が提出してきた著書の一文を譜例にするとこういう事となります。ex.2を参照してみて下さい。この譜例では便宜的にキーをAマイナーに移調しています。
twex02.jpg

 ♭6th上に現れるコードは「♭VIM7」でこれはFM7であります(記載はディグリー表記のみ)。この和音の長七度音が「一時的に」短七へ変化すると♭VI7となるのはお判りだと思います。


 先の著書の一文では、冒頭にマイナー・キーとあるものの、「一時的」という言葉の後に元のマイナー・キーという姿を維持する様な一文は全く見られません。寧ろ「一時的に」という言葉が現れるならば、その後の文は「転化」している事が読み取れて然るべきなのですが、彼の理解では「堅持」するのです(笑)。


 先にも彼は宣っておりましたが、調性を「堅持」する理由は、ブルーノートを全音階(=元のダイアトニック・スケールという7つの音)に加える体系だからなのだと(笑)。この全音階+ブルーノートというのはバークリーがこうして教えていて、ジャズ理論の基準なのだと(笑)。馬鹿か、コイツは。まさに唾棄すべきジャズ野郎である。


 で、此奴の詭弁に付き合い乍ら、私が当初から指摘しているのですが、それがex.1の通り。
twex01.jpg


 ♭VI7という和音の構成音はF、A、C、E♭となるのですが、長七度の音が短七度と変化したものの、元からあった長七度も視野に入れているので、結果的に8音列になっているのであります(笑)。まあ、それは許容しつつも、私の指摘は、

 「元の調性を堅持するなら、E♭という短七の音は元のVの音スッ飛ばして、体よくVの音避けてるだけだろ!」

という事を指摘しているのに、彼の言葉からはコレでイイのだと(笑)。




 百歩譲って、ドミナント7th上で「経過的に」この譜例での元のVの音がクロマティックに使われる事は先述の様に他の曲の例でも偶にあります。とはいえその現實は彼の詭弁を正当化する例では決してありません。加えて、こうした例外的な方法論を呼び込むには音樂面での全く別の異端な理解が必要なのですが、彼はそこにも理解が及んでいないのです。それは何故か!?


 E♭音というブルーノートを追加して調性を堅持するという詭弁を前提とすると、経過的にでも♭VI7上でVの音を使ったら、元のVの音はF音(=F7=♭VI7)から見たら何度の音を使っているのか!?と私も更に訊ねれば彼をもっと追いつめる事ができたのですが、ここまでやらずとも充分醜聞を披露していると思うので、彼の偏狭的な理解に、少しばかりハイパーなジャズ方面を説くのも無駄だと思っていたので訊ねなかったんですね(F7上ではE♭が短七度という7度由来なので、8つ目となるE音が七度由来というのは有り得ない)。
 まったく手応えの無い輩なのですが(糠に釘)、彼のあまりの無理解に私は激高したこともあり、これを機会に折角こうして取り上げたので色々と周辺も語るワケですね。これは彼の為ではなく、他の人の正しい理解の為です。


「経過的にでも♭VI7上でVの音を使ったら、Vの音はFから見たら何度の音を使っているのか!?」


 「長七度!」

 こういう答をする人は彼と同じ穴の狢になります(笑)。長七度とのエンハーモニック(=異名同音)という事ではありますが、決して七度の類ではないです。Vの音は8番目の音なので、七度に収まるのは有り得ないのです。但し、ヘプタトニックではない8音以上の音階に於いて「便宜的に」度数を用いている事があるのですが、それは「複調」という世界観を一緒に教えないからなのです。


 で、私は彼に「複調由来ではないのか!?」と何度も誘い水を向けているにも関わらず、彼はそこに乗っかって来ようとせずに自分の安っぽいプライドを堅持して溺れるワケですね(笑)。
 

 「何故、複調由来と考える必要があるのか!?」


 これをバークリーで教えているかどうかまでは知りませんが、私がなぜこうした方面を知っているのかを教える必要も無いのですが(笑)、どこかが教えてくれる事は無かったから、という事を言い訳にして今度は「バークリー、遅れてるな」などと判断する様では早計です。そもそも彼には責任逃れの人間でしか無かったのですし、私が数回前のブログ記事に於いて「転調の正しい理解」に於いて、下総皖一の言葉に依る「完全な転調」の大前提を語った事がありますよね!?

 しかし、彼の理解では転調の大前提という事も理解していないという事まで私は読めなかったので、「不完全な転調であるジャズは~」というクダリで私がつぶやいた時に、ココでエセ扱いしてしまったのだと思われます(笑)。

 完全な転調というのは、その調所属の主要三和音の機能を前部使って初めて完全な転調なのだから、ツーファイヴを延々に繰り返して12のキーを一巡するのは、その過程では各調性の主要三和音を総じて経由していなければ「不完全な転調」なのですよ。転調という音楽理論の根幹の理論は。ジャズ・ポピュラー理論はそんな教え方をしていないと教本のせいにした所で、偶々一冊の教本で言葉が賄いきれなかっただけの事で、理解が及んでいない事を責任逃れしているだけなのです。ですから本来ならジャズでもクラシック界隈でも全く無関係で同一な扱いであって等しい転調の大前提の理解に及んでいないモノがこうして不利益を被るようになるのです。




 「では、複調由来はどうすれば良いのか!?」そうですねー、♭VI7上で調を堅持して(ブルーノートを付加として)和音上ではアヴォイドだけど、経過的にVの音を使った時の8つ目の音は長七度ではなく「減八度」という扱いを少なくとも与えてあげなくてはなりません。


 「減八度なんて聞いた事ねーよ!?」という人が殆どでしょう。しかし複調を視野に入れないと、私が冒頭から挙げているように、二組のテトラコルドには収まらないから仕方の無い事なのでありますね。少なくとも二つの「調性」とやらを視野に入れなければならなくなるのです。それがテトラコルドという大前提でもあるので。複調方面を、特に今回の減八度の扱いをもっと知りたいという人は、その後ブログ上で展開する事もあるでしょう(笑)。元々、そういう題材へ向きそうな話題を展開しているのですから。


 通常の調的枠組みのヘプタトニックの世界では、「八度」という音程が上限ではなく、三度堆積の和音に依る体系が一般化している様に、度数の空間は「十三度」まであるのが通常です。先の「減八度」というのはあくまでも便宜的な物で、複調を視野に入れた本当に正しい音程の与え方は、先の減八度は減十五度の事を指しています。しかし、この理解は今回必要の無い事で、いずれこういう世界観を知りたければ私のブログを読んでいればいつしか語ることもあるでしょう、という事に追々語るから焦んなさんな、と言っているワケですね(笑)。


 私は、彼への最初のツイートの時点から「ジャズは寛容的だから・・・」という前提に、そのように彼に寄り添って迄ツイートしていたのですが、ケンカ売られちゃったんですねー(笑)。


 そもそもジャズの寛容な部分とは多くの方面がありますが、代理ドミナントなどイイ例だと思います。なんで寛容なのか!?という事は数年前にも増四度と減五度の違い、というのをやりましたが、ジャズはこの違いを都合よく省きます。では、調的社会の仕組みで本当に必要なトライトーンへの知識というのが次のex.3の通りです。
twex03.jpg



 ファ~シで生じる増四度は「階名が4つ」だから「四度」であるのですが、完全四度よりも広い音程なので「増四度」。

 シ~ファで生じる減五度は「階名が5つ」だから「五度」であるのですが、完全五度よりも狭い音程なので「減五度」。



 こうして例を挙げれば小学生でも理解してもらえる筈なんですが(笑)、さて、前述の「完全音程よりも広いor狭い」と強調している所に私の「意図」があります。


 その意図とは私の手前勝手な推論ではなく、調的社会に於ける大前提です。因みにトライトーンを侮ると、ジャズのツーファイヴとて崩壊してしまいますからね(笑)。

 ジャズの調性は調的変化の目まぐるしさから調性が希薄になっているだけの事が多いだけで、實際の場面では調的なシステムに乗っかっている事が殆どです。主要三和音を全て使わないことが「モード」ですからね、因みに(笑)。「モード奏法」は亦意味が違いますからね。「モード奏法」の獲得の初歩は、そのハーモニーの所属する調性を見抜くor亦は嘯きつつ決定する事がモード奏法の最初の段階ですからね。

 主要三和音を使い果たさない事で「不完全な転調」という事を示唆している事も見抜けない物だから私は彼にアホ扱いされているのですね(笑)。おととい来やがれって感じですわ(笑)。



 で、完全音程よりも広いor狭いという事の意図というのは、これ、對旋律を書いた事のある人なら順次進行の取扱いやらもお判りになっている基本的な事であると思われるので、本当なら理解に及んでいる事が当然なのですが、おそらく彼には理解が及んでいないと推察します。私もこの際語るワケですが、「全音階」というダイアトニックの取り扱いの中で、音程の「拡張と収縮」というのはとても重要な事でして、トライトーンだけで見ても次の様な理解にあるのです。


 音程というのは、元の音程から拡張しようとする音程は更に拡張を続け、元の音程から収縮しようとする音程は更に収縮を続ける事が、当てこすりな演出ではない「自然な」動きなのであります。


 この大前提、どれだけの人が抱いているでしょうかね。

 つまり、増四度というのは「四度の体系」である基準の「完全四度」よりも広い音程なので、その拡張はさらに拡張して良いのです。なぜもっと拡張した方がイイのか?その先にダイアトニックな音があるからですよ。


  ex.3ではトライトーン(=三全音)を取り上げています。「大前提」をあまりに普遍的で忘れてしまっている人も多いのですが、トライトーンは先ほど括弧にも括った様に「三全音」という音程であり、平均律の空間で600セントという音程幅なのです。「三全音」の「三」が示しているのは、「全音音程×3」という意味であります。
twex03.jpg


 ジャズやポピュラー体系は非常に寛容なのでトライトーンは「F - B」および「B - F」も等価に扱うのですが(音名はドイツ音名表記は今回併記しませんので、Bはドイツ音名のHではありません)

 例えばex.3の増四度でのトライトーンの動きで、上声部のB音(ドイツ名H音)がC音に行くのは「拡張」ですが、仮に元の増四度が完全四度方面に収縮したとなると「B♭」というノン・ダイアトニックな音に行ってしまうのがお判りですね。調性社会でのごく当然の動きなのです。調的な社会を外れてトライトーンは解決しようとはしないのです。調的な牽引力を利用しているのがトライトーンの齎すドミナント・モーションなのです。


 同様に「減五度」は五度という体系の基準である「完全五度」よりも狭い音程なので収縮方面にダイアトニックな牽引力を伴う事になるので、「しぼむ」ように動くワケです。


 
 ジャズ体系では「寛容」な部分があるため、ex.4の様にあてこすりな体系を用いる事も充分可能です。但し、今回の場合ex.4までを視野に入れる状況とは全く異なる為無関係の事です。重要な事は、拡大しようとする音程はより広がろうとする動きを継続させて、収縮しようとする音程はより狭まる、という調性を利用した牽引力の大前提(=音程が持つ情緒)を知らないと、先の彼が提示した著書の一文とやらにある、
twex04.jpg


「Minor KeyのDiatonic Chordである♭VIM7が一時的にドミナント7thに変化したものと考えうる」



 この一文だけに頼ってしまうのも本来は危険な事なのである、と私は言いたいのであります。敢えて「彼」の間違いを訂正してディグリー表記を「♭VI」に変えてあげております(笑)。何がキケン!?それは次の通り。


 というのも、ダイアトニックな仕来りの♭6M7(F、A、C、E in Am)の長七の音であるE音がE♭音へ「一時的に」変化となると、これは長七度の音が短七度の音へしぼんだという事を意味するのですが、ダイアトニックが齎す音程の牽引力というのは、長七度音程にはそれ以上広がる音空間は8度の空間なので、8度の空間へと更に広がった時にダイアトニックの音があるため、そちらに音が働く事が通常の牽引力なのです。

 ところが長七度をわざわざ短七度にしぼませている、という事は先のダイアトニックな世界が持っている音程の牽引力に矛盾する事になります。


 因みに、短調の枠組みに於いてのドミナント・モーションで発生するトライトーンの解決する動きは、V7 -> Im7という流れに於いて長調でのV7 -> IM7と比較すると「半音」の動きは稀釈化している為、短調のドミナント・モーションはトライトーンの動きよりも稀釈化されていて、四度進行という流れが優先されて和音の構成音それぞれが持つ調性の原理であるドミナントの機能に下支えされている、という事があらためて判りますが、そういう知識も備えているかどうかは疑問です(笑)。私がブログで以前、短調の枠組みでは四度進行の方の牽引力が強く出ると数年前にも述べている事なのですが・・・。


 ジャズ・ポピュラー界隈のドミナント・モーションというのは寛容的な所があり「調所属」そのものを借用しますが、借用の時点で他の調体系を用いてはいてもドミナント7thの次の和音にて調を決定づける点で理解が深部に及んでいない所があります。寛容的であるからこその弊害とも言えるでしょう。近年私がポピュラー体系の音樂事典の類でとても関心した事は、先の増四度はさらに拡張しようとし、減五度はさらにしぼもうとする様を、私の様な言葉を用いてはおりませんが、きちんと譜例として載せているドレミ出版の「実用音楽事典」の150頁の解説はとてもイイものだと思います。もう初版から10年以上経過している物ですが、親切だと思います。これは知人の子供さんが持っていた本を今回拝借させていただきました(笑)。


 余談ですが、「四度進行」の仕来りというのは、前の和音の根音は次の和音の根音以外の「上音」(=倍音)へと取り込み乍ら進行する大・大・大原則はご存知であろうと思いますが、E7 -> Am7という進行があった場合、E7の和音の構成音「E、G#、B、D」の機能は「D、S、S、S」となっているので(※D=ドミナント、S=サブドミナント、T=トニック)、トニックの5th音のドミナント機能はやはり前の和音の根音なのですね。この大原則、まさか知らない人が居たとしたらモグリです。先述の「上音への取り込み」を倍音への取り込みを好意的解釈に依って17次倍音やらへの取り込みも可能となるのですが、そうした体系は、こうした体系を知らない人が覚える必要の無い世界観なのですが敢えて語っておく事にしましょうかね(笑)。


 こうした「矛盾」をリセットできる体系があります。それが、「調所属の変更」。言っている意味判りますか!?もう少し判りやすく述べましょうか。私がよく言う「不完全な転調」と同様の意味です。


 この「調所属」という事を私は何度も彼のプライドを守ってやろうとしてやってコチラから誘い水を向けてやっているにも関わらず、彼は私の述べている事が暴力や罠だと思い込んでしまっているのか保身に入ってしまい、自身の誤りをも認めなくなってしまっており、結果的に音樂の根幹を歪曲している暴論を繰り広げているだけになってしまっているという醜聞をさらけ出しているのであります。しかも当初の指摘にはまだ答えようとせず、自身が長年旨に溜め込んで来た様な疑問をチャッカリこの機会に私にぶつけて来る様な有様(笑)。それが例えばこーゆーの。


《一番有名なのは□7♯9、というコードで、これは長短、両3度が「同居」している。長短3度が同居してしまうBluesを、これを菊地成孔さんは曰く「半分涙目で」バークリーは取り込んだ、と書いてる。笑。つまり、半分涙目でも、許容していかないとしょうがない訳です。理論とは=通用だから。》 2013年4月27日土曜日 9:55:52 http://twitter.com/neajazz/status/327949182931456000


 もう、全然本題と無関係な方向へ(笑)。しかも出自が判らないままなぜか菊地成孔を引き合いに出す始末。この人にとっての信頼性のあるソースというのを私に押し付けて来ようとしているだけで、当初の指摘などどうでもよくなっちゃってる(笑)。これがオンモに出てたら、突然通行人の腕引っ張って「アナタ、この人になんか言ってやって下さいよ!」とか言い出しかねないですね(笑)。この手の行為に及ぶ人って、前にも私は経験したのですが、某有名楽器店スタッフが私のブログを「好意的」に引用して、私がやめて欲しいとお願いしたら、トラックバックに何を言い出すんだ!?と某掲示板に書かれた行為をも思い出しますし、そういう行為を繰り広げる輩と同じフェーズにある輩なのだともあらためて痛感しております。

 たかだが、Webサービスが面倒くさいであろう挨拶とやらの接点を端折っただけの広義の一機能に過ぎないトラックバックを、さもWeb上の許容された厳格なルールだのと、てめえらの使い勝手の良さの前にはメリットありきでなにもかもガメようとする強欲さは唾棄すべきモノです。仮に私が楽器屋の店員でもう一押しの接客で何かが売れそうな時があったとしても、他人のブログを勝手に拝借して店のオフィシャル・ブログに堂々と掲載する様な愚行を犯すことはしないですなあ。いくら私のブログが悪態付いてる様に思われていたとしても、そこまで落ちぶれてはいませんわ(笑)。


 まあ、その手の愚か者は同じフェーズに属するモノなのだなーと痛感するワケですがハナシを戻して、先の例は、所謂「ジミヘン・コード」ってヤツです。悪いけどバルトークは涙目でそんな和音使って曲作ってはいないであろうし、「#9th」とは便宜的表記で本当は「♭10th」です(デイヴ・スチュワート)。然し乍らデイヴ・スチュワートも懇切丁寧ではなく親切ではない。コステール亦はパーシケッティやらに倣って言えばそれは17度由来の音(複調を視野に入れた)。知りたければ勉強しなさい。無学を恨みなさい。

 それと、その菊地さんの言葉の引用は一体何の理論書からの物なのか判らないが(笑)、菊地さんのその言葉、杓子どおりに受け止めたとしても、それを拠り所とする程の言葉として本人が語っているとも思えず、「くだけた」感じで喋ろうとしている程度のモノじゃないのかい?
 菊地さんとバークリーが「涙目」と言っていたからだの、或いはこの言葉を頼りに「こんな言葉は言葉足らずだ」などと判断する様な人間が居たらそれこそ愚か者です(笑)。

 なぜ17度などという眉唾にすら思えるような見立てをする!?それは、こうした次元の理解が無い者が及ぶ無理解だけの事です。知りたければ後述にでもサラッと語っておきましょうか(笑)。


 そうして今度は、あれほど音樂理論に對して懇切丁寧に長文ツイートを繰り広げていたにも関わらず、こんなツイートをよこしてくる。


《でね、そんな「頭でっかち」になっちゃうくらいなら、むしろ音楽理論なんて勉強しない方がいい訳です。だって目的は、音楽理論を語ることではなく、「音楽で話す」ことなのだから。笑。で、その際の整理整頓の為に音楽理論がそもそもある訳で。音楽理論自体で悩んでたら、意味ない訳です。笑》 2013年4月27日土曜日 10:18:22 http://twitter.com/neajazz/status/327954845451571200


 「調所属」という調性の方角すら判っていない奴が「音樂で話す」だと。出鱈目喋る様じゃ終いだろう。

 抑も、音樂理論の話題を呟いていたのは彼だったでしょうに。その音樂理論呟いてたアンタが頭でっかちなんじゃねーの!?と言いたい(笑)。その理由に、貴方が誰に言われるまでもなく懇切丁寧に音楽理論を引っ切り無しに呟いていたでしょうに(笑)。吾(おれ)から言わせて貰えりゃ、それほど迄に無理解だから「寧ろ、音樂理論なんて呟かない方がいいです」と返してやりたいね(笑)。



 彼の音樂理論面の呟きは、私の指摘する点以外に目を通す限り間違いはありませんでしたが、私の指摘に對して「虚偽」で整合性を取ろうとしてしまっているのか、他の實例とやらを引き合いに出して着地点を図ろうとするも、正しくない理解をどれだけ盛っても正しいモノにはならないという事をおそらく本人が痛感している筈です。


 ネットの「集合知」とやらに参加したい気分で、自分の知識を披露するだけの「無責任さ」とは信憑性というのは全く別物です。加えて、ネット上ではどんなに間違えていようとも多数が潮流を作る事で正当性を得ようとするきらいもあったりします。間違いがどれだけ集積されようとも正しい答にはならないモノなんですよ。愚か者が多数集積しても「三本の矢」にすらならず烏合の衆となり「集合恥」を形成するのが、彼の様な誤った知識を披露して仕舞には論理破綻を招く様になるのです。


 音樂理論の講釈垂れていたのは彼の方であり、いざ誤りを指摘すると正しい答を披露する事ができずに、なぜかバークリーやらリットーミュージックやらを引き合いに出す始末。

 私はその手の人間も多数見て来ているので、最初の段階で誘い水を向けたのですね。「それがバークリーの弊害かもしれない云々」というツイートを。コレは私があくまで最初の時点で彼の顔を立ててやっているからの事であり、私は「バークリーの弊害であるかもしれませんね」と推論調にて「弊害であるかもしれません」と述べていたのであります。ところがそのツイート後に彼は謙って非を認めるどころか(私は、敢えて顔を立ててバークリーに非があるとばかりに仕向ければ彼が謙虚に非を認めると思っていた)、全く違う(笑)。それどころかバークリーはもとよりバークリー基準となる理解は総じて「不整合」だと宣う始末(笑)。




《ジャズでは短調bVIの属七化は他調引用ではなく「ブルーノート」の出現、と説明されます。これは、これが合ってるかどうか、という話でも「僕個人」の見解でもなく、そういうバークリーの定説です。》 2013年4月26日金曜日 21:53:12 http://twitter.com/neajazz/status/327767316823699456


 定説ですか。言葉通り受け止めてしまうと、「定説」という風に表現を暈す所に矛盾を来すのであります。
 
 理論に整合性などないと言い切るこの人は、自身の無理解から音樂の根幹を覆さざるを得ない状況を作り出してしまっているのです。少なくともこの人の発言を正当化するとすれば、「定説」とやらは誰の見解であり且つ何処其処出自の「定説」をいわんとしているのか?バークリーの定説とやらはそんなに曖昧なのか!?という事を挙げなくてはならない。少なくともこの人以外の意見を傍証として持ち出さざるを得ないが、他の人の言葉の引用ではどんな権威のある人の言葉でもまだ不十分なのである。誰彼構わずテトラコルドへの正しい理解があればいいだけの事だが、それすら及んでいない。



《また、自然、和声の両短音階から自然に生成される和音はbVIM7ですが、それはジャズでも衆知のことで(教本のかなり初期に書かれています)、そんな話題(前提の話)は今してませんよ。》 2013年4月26日金曜日 22:03:38 http://twitter.com/neajazz/status/327769940130136064

 
 そういう事は判っている上で私は指摘を重ねてツイートをしていたのだが(笑)。私の当初の指摘をこの人は少々違う受け止め方をしてしまって私への理解も不十分に誤解をしてしまっているので、私の指摘がまるで、短調のダイアトニック・コードで生ずる♭VIM7というコードが当然の姿である筈で♭VI7の体は認めない、という近視眼的な誤解をしているのが判りますね。



《そこはバークリーの不整合なところです。ただ、そもそも「理論は不整合なものだ」という前提に立っていない点で、あなたはアホですね。》 2013年4月26日金曜日 22:13:59 http://twitter.com/neajazz/status/327772547791847425




 不整合どころかお宅の理解が及んでいない理論とやらを私はツイートしていたのです(笑)。自身の理解の及ばない事を不整合と片付けてしまうのはこの人の悪しき側面ですね。この人の知らない事は音樂理論の不整合ではない、という事は小学生でも理解できる論法の図式です。
 
 彼の持論が正当化するシーンがあったとしたらそれは、調性とやらが単なる主観に過ぎず共通理解を得にくい類の仕来りであればそう言っていいかもしれませんが、實際は人間は共鳴体の器官を備えて音を聴いていて、音という空気の振動もやはり「共鳴的な振動」を経て耳に届き、共鳴的でない振動数はその時点で消失するのです。共鳴の果てで耳に届いて知覚した事実は主観で歪められる類の物ではない。共鳴体であるからこそ「完全音程」は強固になり過ぎ、シーンにおいて忌避される時代も経て来たのだという事すら理解に及んでいないトンデモない野郎であります先の発言者は。@neajazz、卿の事。



 私が先の詭弁を次の様に図式化してみましょう。



 彼曰く、「理論は不整合である→バークリーは不整合→その前提に立てていない左近治はアホ」という図式を立てているというのは前述の通りです。


 まあ、私がアホなのは認めるが(笑)、彼の言葉の図式は次の様にも解釈が可能なのである。

 
 「不整合なバークリーに学び不整合な音樂理論をツイートしていた発言者はアホである」


 私をアホと片付けた論法の図式を逆行した様な物である。「整合性」は逆に置き換えても成立する。それを置き換えるだけで言葉の意味はこうなってしまうという事は、最初の彼の発言が如何にトンデモ発言という事が判る。

 文章としてきちんと「整合性」が成立している言葉の場合、前後の位置を入れ替えても「=」という図式は成立する筈なので、この様に言葉の立場を入れ替えて矛盾が生ずる事を世間一般では「詭弁」と呼ぶのです。


 という譯で、彼の「不整合」と断罪してしまう事はこの様にして自分の言った事を否定してしまう事になってしまうのに、そこに彼は気付く事無く自分自身の論理破綻を次第に招いてしまう様になるのであります。


 私は彼の矛盾を後々指摘する事になるワケですが、当初の「バークリーの弊害かもしれませんね」という言葉すらきちんと理解できていない彼は私の次のツイートで敢えて彼の立場を考えて呼び水を出しているのですが、


 バークリーが弊害と言い切るのはまだ早計です。あなたの最初の不適切な言葉がそのままバークリーの代弁ならば弊害となるでしょうが。 2013年4月26日金曜日 22:44:09 http://twitter.com/sakonosamu/status/327780137082957824


 この私のツイートに對して彼の方から「どっちだよ」と返される始末(笑)。彼はツイッターという短文すら読み取れぬ人である事が判るのでありますが、こうした彼の理解度の低さというのは時を経ると共に次第に馬脚を露す様になるので或る意味注目です。



 彼はバークリーに習ったらしいのですが、その権威ある筈のバークリーを蹴落とすかのように「不整合な所です」と片付けようとツイートしてきたので(先述の通り)、私は「コイツはただの詭弁に生きる下衆野郎だな」と痛感したワケでカマを散々かけることにしたのです。コイツが憎いのではない。この手の輩に右往左往する他の人間がもっと酷い事をやらかす事で更に迷惑が増長する事を嘆いての事で、元を断とうとしている譯ですね(笑)。


 自分可愛さばかりが先行しているからこそ、権威に凭れ掛かる癖して、無理解を指摘されると「だって、そうやって俺は習って来た!」と強弁を述べる譯ですよ。

 私から言わせてもらえば先の件に於いて、自身の無理解が生じた責任を教育側に求めてしまう事が本末転倒であり、自分の無理解を棚上げしておいて教育者に責任を押し付けるなと言いたい譯ですね。

 自己愛に生きるか(←この選択は心身共に楽な事ではある)それとも謙虚に生きる可きなのか(無理解に真摯たれという意)、という他人の姿勢を見極めるには、先述にある様に当初の誘い水の向け方で判るモノなのです。故に私は彼のペテン行為を見抜く事ができるのです。

 ところが私のブログやらツイートの大半は、文体がシニカル且つどこか高圧的で嫌悪される人もおられる(これは無理解に収まる者をフィルタリングする為の演技のひとつ)譯で、私がどんなに正しい事を言っていても感情的に判断されてしまう人も居たりする。それは自身にとってラクな方の選択をする事とやはり等しいのです。

 先の愚かな人間の様にうわべでは物腰の柔らかい文体で論理展開をしていても巧みに手前勝手な解釈を忍ばせられる事というのは、本質を見極められないと、物腰の柔らかい姿勢に誤摩化され、音樂理論とやらのご高説を訊かせてもらったと誤解してしまい、誤りも見付ける事ができずにへぇへぇ理解する様な人間に成り下がってしまうんですね。

 抑も、感情の在り方で正答の在り方が変わるようじゃマズイでしょ。法律がてめえの好き嫌いで勝手に適用されたらどうなるよ!?音樂理論の部分というのは法に形容し得る根幹部分だ。それを歪曲するなど言語道断である。


 
 悪意の無い真の良心的な人というのは、ある程度自身に心理的な負荷が加わろうとも、他者を悪と判断する前に自身の良心的な立場を固執したりする所がある為、良心的で好意的な感情という物は時として善悪の判断すら誤る事もしばしばなのです。悪意を含んでも悪を見抜けない事になっているのと等しくなるので。同様に悪意の無い嘘も見抜けなくなるのです。言い換えれば、これらのケースに遭遇して善悪の判断を付けられない事と同様になってしまうワケです。悪意の無い嘘や悪意の無い無理解からのアドバイスというのも何の役にも立たない譯です。

 

 その後の私のツイート2件。

 調性の正しい理解が無ければツーファイブさもありなん、だよね。そこの解釈は大事だよ。セカンダリードミナントにしたってそう。 2013年4月27日土曜日 10:59:45 http://twitter.com/sakonosamu/status/327965259140853762


 偉いじゃない、フォロー返しまでしてくれて。はらわた煮えくり返っているかもしれないけど音楽面のなあなあを許せない物で。アナタ個人への憎悪は無いから逆恨みしないでね。 2013年4月26日金曜日 23:46:30 http://twitter.com/sakonosamu/status/327795830423687169



 その後、このツイートの意図というのは私のささやかな配慮でありまして(笑)、私が敢えてこのヒトをフォローしたのは(今はブロックしました)、彼は引っ込み付かなくなって、こちらがフォローでもしておけばDMでメッセージが来て詫びるだろうと思っていたのですが、翌日になったらこのヒトはまーだ怒りがおさまらなかったのかまた長文ツイートをブツクサほざいていたので、こーゆー事に(笑)。


 
 チャーチ・モードに属する体系のヘプタトニックの調的社会というのは、我々がこうした空間を扱う際、コードとして体系化されていて「使いやすい空間」として3度堆積型の和音を利用し、調性とやらを感じ乍らも、その調性を「ガッツリ」使うのではなく(笑)、嘯いてみたり、他調の拝借を用い乍ら楽曲が形成されているのがジャズの大半のシーンです。ジャズでなくともそうですと言い切ってしまっても過言ではありません。

 扨て、そうした3度堆積の和音の仕来りというのはジャズでもポピュラーでも体系化されていて、「通常」よく知られている体系の和音の最も重畳しい姿というのは13度音程までの空間という事もご存知でありましょう。ex.5を見れば13度の空間というのはあらためてよく理解できると思います。
twex05.jpg

 3度音程の空間というのは、5音目の累積時でオクターヴを超えてしまう(九度以上の音程はオクターヴを超える)ので、2オクターヴに跨がるのは3度累積に依る物とも言い換える事ができるでしょう。元々7音列を3度堆積にすると2オクターヴに跨がるという、こうした理解にあると、今回の私が指摘した調性外の♭VI7で生ずる短七度の音というのは、こうした三度累積の空間に放つには13度以降の方へ目を向けないと矛盾してしまう事になるのです。
 同様に、今回の文中で「減八度」という音の発生も便宜的な呼び方であり、減八度は減十五度を意図している音の扱いという事になるワケです。


 ツイッターで私が指摘した発言者の言葉に倣って、「仮に」全音階+ブルーノートという体系で調性があるとするならば、それは全く新しい音世界でもあるでしょうし、そんな音空間は調性ではありません(笑)。首尾よく全音階の方面の本来の調性感という色彩に凭れ掛かって使っているだけの事です。

 しかし、ブルーノートを導入するという事は、本来はそうした調性を利用して調性外の音を使うという事ではなく、もっと拡大した世界に目を向ける必要があるという事を視野に入れない限り、ブルーノートを加えていっても元の調性を堅持するというのは出鱈目に過ぎないのです。ブルーノートというのは1音だけではありません。他のブルーノートも首尾よく元の調性の情感を利用し乍ら沢山加えていって仮にもっと音が増えていった時の調的情緒など、一体どうやって残すのだ!?と矛盾が生ずる事になります。

 彼の述べている事をそのまま解釈して8音どころか、10音ほど視野に入れた時、それでも元の調を堅持する事に等しくなります。そうやって音が増えていった時、11音12音という社会的枠組みをも元の調を堅持するとなった時には、目も当てられない状況となってしまうでしょう(笑)。


 スケールとして体系化されている方面では7音を超える音階があったりしますが(スパニッシュなど先述の通り)、これらとて、テトラコルド同士の組み合わせで音階を作って行った場合、8音だと二組のテトラコルドは音を持て余すので、さらに別のテトラコルドを組成しない限りは結果的に形成する事ができなくなるのです。この状況は元のひとつの調性ではまかないきれない為、結果的に複調を視野に入れなければならなくなるのです。

 複調由来で生ずる音は、たった一つの音を加える為に別の調を想起する事になりますが、實質的には4組のテトラコルドが出来たとしても1組は共通していて、3組のテトラコルドを使用するという形がもっともスムーズな理解であてこすりも少ない想起でありましょう。

 
 他調由来となる牽引力という事をきちんと繙くと、なぜメジャーとマイナーが同居した様な音や5度の音がフラットした音が一緒に鳴ったりする様な体系が生まれたのか!?という疑問をきちんと繙かなくてはならなくなります。


 今を生きる我々は幸運な事に、音樂を自発的に聴く頃にはジミ・ヘンドリックスはおろかジャズ然り、バルトークやら、そうした希代のアーティストやら音楽ジャンルをごく自然に受け止める下地が出来ている世界で生きております。私は「シャープナインス」という呼称で知られるドミナント7thコードの「#9th」を意識的に知った最初の曲は「パープル・ヘイズ」ではなくBS&Tの「Spinning Wheel」が最初でした。


 こうした音を違和感無く聴く事ができるのは、先人の提示が巧いからこそ体系化されているワケです。尤も、ジミヘンの場合はシャープ・ナインスをドミナントの場所で使うのではなく、トニックという振る舞いでの「変格」で使うからこそカッコイイのでありますね。


 こうした旋法的な「嘯き」というのは今に始まった事ではなく、これらは調性の崩壊が齎しているモノでもなく、調的世界が寛容になっているに過ぎない音の空間なのであります。


 我々はメジャーやマイナー「感」を嘯こうとして、結果的には和声的にも「ガメついて」採り入れようとする。そうした欲求の萌芽は對位法音樂にもあった様に、その欲求が時代を超えてジャズやロックでも起こっているだけに過ぎないのです。ブルーノートを発生とする音の起源など、西洋音樂の比較的新しい部分で言えば、フーゴー・リーマンに依る下属調短調との複調的な對旋律を作ろうとする時点で、充分に説明する事が可能です。奇しくも濱瀬元彦のブルーノートの由来も古くはフーゴー・リーマンの傍証を取り上げて語っています。また、長調での三全音(対蹠点のF#音)の起源は二重導音の発生の時点で生まれますし、平行短調がドリアンとして嘯く時でも生ずるものです。

 こうした事に興味を持ち、もっと知りたいと思った場合は気になる語句を私のブログ内検索をかけてみれば自ずと理解できるでしょうし、今後の話題の展開でもお目にかかる事はあるでしょう。ただ、ココまで語っても今回の当初の私の指摘は逸脱していくので、これ以上は本題から逸れても仕方が無いので今一度結論を言いますが、先のツイッターでの詭弁にのほほんと理解してしまう様な知識でしかないのなら音楽を学ぶ必要はありません。文体やら私への好き嫌いで音樂そのものへの理解を曲げてしまうのであればそれでも構いませんが、私がなぜブログでシニカルに繰り広げている理由があらためて判るかと思います。

 判ろうとする欲求に従順に、その過程で不要な歪曲を選別できるスキルを発揮し乍ら、そこで初めて正答を得る人間が登場して、そうした人間同士で共通理解が得られる事が重要なのです。共通理解とやらが聞き慣れぬ難しい類の物などネット上では特に権威も知名度も無ければ途端にオカルト扱いになるのが関の山です。ですが、私から言わせて貰えれば、ネット上で繰り広げる「心優しい間違い」がどんなに大挙して集まってもそれが正答になる事は絶對に有り得ない、という事だけはあらためて強調しておこうかと思います。何度も言う様ですが、愚か者が何人集まっても三本の矢にはならないのです。

 
 先のツイッターの発言者の様に、とある著書のソースを提示した所で、文章をきちんと咀嚼していないという事はお読みいただければすぐに理解できたかと思います。或る意味彼は類稀な「無理解者」のひとりだったのかもしれません。私の予想を遥かに超え閉口してしまいましたから。


 まあ、とりあえず今回のシメとしてあと少しだけ複調についての事前知識みたいな面を語っておきますが、通常のヘプタトニックの世界というのは文字通り7音なワケですから、12平均律空間で使われていない音は残り5つとなります。「複調」なのですが、複数存在する世界も「調」的因果関係があるという前提でハナシを進めると、少なくとも「最小」の複調たる体系は2種類の調性の併存ですが、それとて少なくとも2音は他の調と共通して持ち合う事はすぐにお判りいただけるかと思います。

 つまり、7音という元の調性に加えて「5音」もガメついた場合は、この時点では12音使い切っていますが、2音は共有しているワケです。ところが、あるヘプタトニックの体系に1音だけ加えた体系を想起する場合は、1音だけが共有していない状況=他の調での残り6音は共有しているという状況を想起すれば充分なのです。

 という譯で、テトラコルドを想起すると、2オクターヴを4組のテトラコルドに分けた時、1組は同一であると考えられるワケです。


 ではC/Am調に於いてE♭音が付加された状況を考えると、元は調号の無しの調性に加えて、鍵盤で言うならE♭以外は白鍵の状況と等しいので、Cメロディック・マイナー由来のモードを併存させれば済むのです。


 但し、ここからは、今回私が指摘している事をさらに先を見据えた世界を語るので、ココからは全く別の次元ですので、先の指摘の件と混同しない様お願いします。

 ブルーノートをさらに加えようと意図した場合、Cメロディック・マイナーという姿はハ短調由来の世界になる為、それ以上の拡張となると、メロディック・マイナーを元のナチュラル・マイナーに変化させるかハーモニック・マイナーに変化させないと音の拡張は生まれませんが、こうなると元のC/Am調で意図している他のブルーノートと違う音を発生する事になるので、他のブルーノートをも使うという所迄考えを飛躍させると、Cメロディック・マイナーの想起とは異なる想起をしなくてはならなくなりますが、当初の私が指摘した事との世界ではもう異なる領域のハナシですので、分け隔ててきちんと解釈して下さいね。私は、先の指摘のその後の世界の事も老婆心乍ら語っているのです(笑)。


 元々の調域(=C/Am)での「幾多」のブルーノート発生を想起するというのは、「恰も」奏者が便宜的に元の調性をイメージし乍ら拡張的に音を使う事であるだけで、本来こうした元の調性を堅持してしまう曲の捉え方をしてしまっている限り、モード奏法という初歩的な理解(調所属を一瞬で判別する手法)やら一時的な転調の在り方の理解が全くできていない事を示していて、元の調性を堅持するなど、これは調性とは絶對に呼びません。

 仮に、Am調というヘプタトニックに加えてE♭音とF#音を発生させる合計9つの音を想起したとする場合、ここでの複調はAナチュラル・マイナー・スケールに加えて、Gハーモニック・メジャー(和声的長音階)をモードとする音階(G、A、B、C、D、E♭、F#)を想起すればいいのです。無論、これは私のブログをお読みの方はお判りでしょうが、ハーモニック・メジャーというのは「混合長旋法」のひとつであり、テトラコルドが長旋法と短旋法の性格を持つ組み合わせで生じている為の呼称で、リムスキー=コルサコフはこうして体系化しているワケですが、そもそもこうした旋法が発展する理由は、對位法音樂も調性が希薄になり複調・多調が発展した経緯で生じている高次な音の世界というワケです。ex.6の譜例bを参照。因みにex.6譜例aは、C/Amの調域にE♭音を付加する想起のやり方のひとつです。
twex06.jpg

 因みにex.6のa、b各譜例の左側のテトラコルドに於いて赤い音符で示している音は、通常の単一での調性で取り扱わない調性外の音を呼び込んでいる事を示す音です。


 ブルーノートの扱いを私が懇切丁寧に説明する必要など本来は無いのでありますが、ブルーノートを取り扱う際に「便宜的な」理解として備わっている筈の前提とやらをとりあえず私があらためて語っておく事にしますが、ブルーノートというのは本来想起し得る「調」にぶら下がるハイブリッドな感覚で安易に使ってしまうのは、「長調のブルース」「短調のブルース」という安直な体系化の存在があるのも誤解を生みやすい(複調が視野に入らない)状況となっている側面がありますが、だからといってこうした現實があるとはいえど、結局は無理解が生じてしまえば音樂の深部を未消化なままに取り扱う事に繋がるのです。

 通常、平行長調で生ずるブルーノートは3・5・7度がそれぞれ半音下がった音の事を言うワケで(結果的に短三度、減五度、短七度の音を生むが減五度は本位五度と本位四度との併存もある為、出自は増18度である)ヘプタトニックに最大3音のブルーノートを与える事が可能ではありますが、短調でのブルースというのは「通常」、平行長調側で生じていた短七度の音を平行短調側では用いない傾向があります。

 余談ですがブルーノートというのは、今回例に挙げている例が「偶々」十二平均律空間という暗黙の了解に依って、私と先の発言者は衝突と理解がある譯ですが、本来のブルーノートの扱いは平均律空間に寄り添う事のない微分音であるのが抑もの由来であり、それが平均律に均されて取り込まれているというのが多くの音樂の實際なのです。ブルーノートとは「都合良く」解釈されている音でもある、という前提の理解をも併せて持っておく必要があります。

 此処で本題に戻ると、つまり、平行長調側で生じていた短七とは、平行短調側でのナポリタンの音=♭9thとなり、これを短調側で使う時は避ける事が多いのですが、こうしたブルースの世界が「安易」に体系化されてしまっているため、皮相浅薄な理解に収まる輩は長調も短調も、調性を堅持してまでハイブリッドに音を使おうと志向してしまうのです。ココに大きな矛盾を孕んでいる、という事を私は指摘しているのであります。

 だからこそ私は当初、ツイッターの発言者に對して「バークリー教育の弊害であるかもしれませんね」と、彼のプライドを損なう事なく呼び水を出してあげたのでありますが、そもそも最初にバークリーを振りかざして来たのは彼の方であり、権威に凭れ掛かる様に出して来たにも関わらず、私の指摘の前にはバークリーという立場を曖昧にして自分自身を保身してしまい、恰も誰の見解でもないなどと責任逃れの発言をしてしまい、その後は調性や理論は不整合な物だと詭弁を弄する始末(笑)。


 前述のex.6にもある通り、これらは複調を視野に入れた時のテトラコルドの扱いです。「共通のテトラコルド」と括った部分は、全く同一の音であるという事もあらためて申しておきましょう。異なる調性をもうひとつ用意して併存させて、3組のテトラコルドを得ている状況であり、これは単一の調ではない状況です。
twex06.jpg

 単一の調性を維持して「経過的に」ブルーノートという類の音を使う事などごく普通にあります。そうした時に複調がどうのこうのなどとは言いません。ブルーノートの取り扱いというのは複調という事を実感させぬ様な体系として大雑把に理解されてしまうのは早計です。調性社会をきちんと理解していれば、トニック、ドミナント、サブドミナントという機能を使う事が調性であり、それらを一時的にしか拝借しないジャズ体系は、不完全な調性を行き交う物だと私は言っているのであります。

 加えて、調性という構造が希薄なジャズにあっても「調所属」を想起する事が朧げな理解であっては言語道断です。ノン・ダイアトニックで出現する短調の♭VI7という和音で生ずる短七度の音の調所属は前の調性にあるのではなく、他調に所属由来の音だと理解しないようでは、その後曲がどういう調性に進もうが、ツイッターの発言者の様な愚か者からすれば常に同じ調から曲を眺めていないと曲を理解できない様な者とあらためて言っておきたいモノであります。言い換えるなら地図を見る時、北が上になっていないと方角すら判らない様な物と同様です。北極点行って北でも探せと言いたいですな(笑)。こういう馬鹿げた理解をしてしまっているから、北極点で北を眺めて北に唾吐く様な事をしてしまう譯ですね(笑)。


 「調所属」というのを瞬時に察知できない限り「モード奏法」の獲得はできません。抑もモード奏法というのはモードという言葉そのものをきちんと理解していないと、その言葉がまるで「ロータリー奏法」とか(笑)「チキン・ピッキング奏法」とか(笑)、この手の楽器の物理的な奏法の類という風にしか意味を履き違えている様な愚かな輩も居るのであらためて言っておきますが、「調性を曖昧なまま」(=調の所属先の主要三和音を全て使うことのない)調所属を「とりあえず」決めて掛かって演奏する事を「モード奏法」と呼ぶのです。モードの想起は本来の調を「嘯いて」いてもイイのです。重要な事は調所属を瞬時に察知するという事。これの獲得如何に依っては、初めて耳にする曲に對しても、調所属を瞬時に読み取る為、ノン・ダイアトニックな音が現れても瞬時に音を外す事なく對應できる人間に遭遇することなどごく普通に身の回りに居たりするでしょう!?モード奏法とは瞬時に調所属を決定する事で称される言葉だという事も先の発言者は理解していなかった様なのであらためて申しておきますね。

 ああいう人に騙されてウンウン頷いている様な人は、もっと悲惨ですけど、私の文体はシニカルなのでアチラさんを信用していただいても構いませんので(笑)。変な音樂理論学んで、こっちに来て「ケツ拭いてくれ!」と言われても困りますけどね。駆け込み寺はきちんと探しておいて下さいね。彼を駆け込み寺にでもしてあげれば良いのではないかと思いますが。

 こうした理解にきちんと及んでいれば、7音超(=つまり8音以上)の音世界に「調性」などと呼ぶ事は有り得ず、そもそも「調性」という物も、所属する主要三和音の三機能であるトニック、ドミナント、サブドミナントを「経由」して初めて調性というのはクッキリ顔を出すワケなので、そこが曖昧に他調を拝借しながらツーファイヴを繰り広げて行ったりするジャズの「転調」というのは、厳密な意味で「不完全」な転調なのです。


 ところが先の発言者は、私が敢えて「不完全な転調」と述べた言葉の意味には「主要三和音全ての機能を経由しない」という大前提を含んだ言葉であるのに、そうした理解に對して完全に欠乏している彼はおそらく、

「おいおい、ダイアトニック・コードの枠組みも判ってねーよーな奴が難癖付けてきやがった」

 とばかりにしか思っていない事が手に取る様に判っていたのですが(笑)、そんな所でやり合っていても仕方がないので、元の調所属など失っている世界で調性を堅持するとはトンデモ野郎だな、という事で憤慨したというワケです。

 
 
 そこで、私のツイート。


 短調の♭VI7としたら、元のVの音スッ飛ばすならそこに元の調ねーよな、ってハナシ。憶えてる?


 Amで喩えればE音というVはスッ飛ばしてE♭音使いつつ、E音は元の調にある音だから意識してるんだって(笑)。E♭音ってF音のルートからみたら短七度だよな。だったら使わないだけのE音って何度の音なの?長七度に見えて長七度じゃねーぞ。8番目にある音を七度と数えるのか!と私は言っていた譯なんですね。

 ですから、こーゆー体系は複調由来を視野に入れて、少なくともどんな場面に於いてもテトラコルドに解体して音組織は判断する必要があるという大前提すら心得ていないエセな知識しか持っていない輩に文句言われちゃったのが私なんですわ(笑)。「おとといきやがれ」と流石に私ツイートしちゃったんですが、おとといどころか原生生物に戻って人生やり直して勉強してこいと言いたいですね。


 「大原則」や「大前提」への理解を疎かにしてしまうと、その方面の理解を深めて行く度に隙間を生じるのですが、その隙間は知識に大きな亀裂を及ぼすほど甚大なものではなく僅かに罅が入る様なものなので、策(=言葉の拡大解釈)に溺れてしまう輩はそうした隙間を比喩やら時には全く異なる物すら詭弁に置き換えてしまっている事に気付かないまま隙間を埋めてしまうため、結果的に言葉の表現の置き換えに依って自身の解釈を正当化しようとし、何を説明するにしても本質を捉える事なく喩えから入ってしまう典型なのが彼の様な誤った解釈を是正しない人間の例なのです。

 私の知る限りですが、近年のジャズ・ポピュラー界隈の音樂理論の著書では「調所属」についてきちんと書かれていないと私は感じております。とはいえ、そうした文面が無いからといって出版社や著書を責めるのではなく、責めるべきは自身の無学と無理解が先に無くてはなりません。

 無理解がさらに進行すると、
《「Minor KeyのDiatonic ChordであるbIVM7が一時的にドミナント7thに変化したものと考えうる」(Jazz Theory Workshop/小山大宣著、60pより》

 こうした短い文章をもきちんと理解できないという事があらためて判るのです。
 冒頭の「Minor Key」が係るのは「一時的に」の直前迄だ。
 加えて、「一時的に」という言葉は調所属も一緒にすり替わっている事と、元の長七度が短七度に変化した2つの意味も捉えられない愚か者という事がこれにてお判りでしょう。本を読んでも理解に及ばぬ輩は、飯を食っても味が判らないのと同じなのであります。味が判らないのなら糞食うか?そこまで落ちぶれてんのかてめえらは!?と私は言いたいのですよ。


 正当な理解がきちんとある人が比喩やら含蓄に富んだ表現を愉しむ事は構わないのです。中にはそうした事をも気付かせぬ様に做為的に表現する人も居たりするのでしょうが、その巧みな表現を駆使しても本質の理解が乏しいと言葉の端々にはボロが出てしまうモノなのです。音樂への樂理的な側面の知識が希薄だとしても、楽音の輪郭やら共通理解としてイメージし得る「文節」の抜粋というのは、それを抜粋しただけでも「息づかい」を共有しようとして抜粋するモノです。それを素直に抜粋して表現できる方は、樂理的な知識などなくともとても息づかいが伝わる音樂の捉え方が巧い人も居たりします。但し、主観を徒にデコライズし過ぎると、その厭らしいほどの誇張は返って皮肉に映ったりする事もあったりする物です。

 巧詐は拙誠に如かず。巧みな嘘は、拙い乍らも誠意がこもっている事に及ばない、という意味ですね。とはいえ音楽の原理への理解を悪意が無ければ勝手に歪曲しても良いなどとは誰も認めないでしょうし、そんな事を言った日には信頼も地に堕ちる事でしょう。


 先述した様に嘘が多数集まっても正答になる事はありませんが、ネットというのは何故かそういう風に作用しようとしますし、愚か者が集まっても三本の矢という風に機能しないという事の表れ。悪意の無い無知・無学であったとしてもそれで欺いている様ではダメなのですね。誠意とは、少なくとも音樂に於いては本質をきちんと理解する事であり、整合性が取れない雲を掴む様なハナシと思い込んでいる愚か者に、それ以上の理解が及ぶワケもない。そういう輩の発言に騙される様であれば、いずれは同じ道を辿りかねないワケですね。ペテンを目指すなら別ですけどね(笑)。

 本質への理解が脆弱な人の特徴は、言葉の置き換えという「対偶」に凭れ掛かるのです。二者間であればAはBであるという論理の成立を推論する事に容易ですが、正当な理解が得られていないと、AはBである、BはCである。それならばAはCであるという風に勝手に置き換えてしまうのです。演繹が合わなければそれは詭弁に過ぎないのです。「言葉の綾」の愉しみを拡張するがあまり、理解がスポイルされてしまっている「ひび割れ」を詭弁で埋める様になってしまうのが最大の特徴なのです。その詭弁を無意識にもレトリックとして多用している人も多いのが實際です。正しさを判断出来る理解が備わっていれば、他人の「ひび割れ」に基づく理解に手を貸す必要も無いのです。故にボロが見えるようになる譯です。
 
 言葉だけの世界に於いても平仄を合わせる事は重要で、文脈の並び替えすら改竄が行われる事も出来ぬように前後の文字にも脈絡を付けるかの様な語法まで存在する譯ですから、唯単に言葉の表面的なニュアンスの違いだけを楽しんでいる様では、言葉で表現する事が愉しみに置換されてしまっているだけで音樂でそうした表現方法を根幹の理解が無いままにしてしまえば結果的に言葉遊びになってしまう危険性を孕んでいるのです。


 私の場合は音樂を点描にしてみたりしているようなもので、輪郭一つ描くにも少々異なる所があり、息づかいの捉え方も違う事があります。態とそうしている譯ですが、無理解から生ずる幾多の隙間を言葉巧みに埋めよう等とは微塵も思っておりません(笑)。そうした表現が出来ないからこそ、私には文才などなく、長ったらしい文章になってしまうのでありますが(笑)、文章を短く咀嚼できぬ能力を嘲笑されようとも、音樂の根幹への理解を歪曲したりする事など決してありませんよ。我々が健常であるならば耳にしている音というのは共鳴の形態で音として知覚できる譯ですので、共鳴の安定と不安定の区別も付かぬ輩に音樂を吟味する資格等無い。
 

 無知・無学から伴う虚偽発言となってしまった事を認められないという事は、この先も間違った音樂の解釈で音樂を続ける事になるのであり、そうした所で習う人は實に哀れだな、と思うと同時に、言葉の妙味に騙されて選別した結果であるならば同じ穴の狢とでも呼べるのだろうかと思う事しきりです。まあ詭弁を習いに行くのなら止めはしませんが。

 私とて調性が希薄な音社会を好む傾向が非常に強いタイプではありますが、調性の根幹を揺るがすような歪曲があっては調性が希薄な社会ですら破綻してしまいます。ジャズとは寛容的理解を適用してもヘッポコを許容するモノではありません。然し乍ら、無理解であっても方法論が体系化されている事で、ヘッポコですらも「なんちゃってジャズ」を出来てしまうのが悲哀な現實ですね。