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ゆっさゆっさ♪ [散歩]

 舌の根も乾かぬ内に、結局今回も前回の続きを語るコトに。


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 まあ、前回では呼吸と足のステップとの「同期」という事に最大の注目を払ってもらいたい所だったのですが、そうする事で呼吸が乱れなくなりますよ!だから走りましょう!という事を言いたいのではないのであります。然し乍らウォーキングやジョギングやらを例に挙げてみると、運動という苦難を伴う所へ心は持って行かれてしまうもので、私が先の様に挙げた「律動」に器楽的な要素を感じる余裕を持つ事が難しいと思える人が少なからず居るであろうと思います。そこが最大の注目ポイントなのです。


 運動という「負荷」を与えると、その先にある器楽的な側面を直視する事に難儀する様になってしまう。では、運動というファクターを取り払った場合、多くの人は音樂の器楽的な側面に對して直視出来ているか!?というと疑問符が付く場合が多いのではないかと思うのであります。しかも負荷を与えると、そこに気が回ってしまうというジレンマも。


 音楽的素養の希薄な人というのは、楽音とは別の要素が持つ「牽引力」を伴わないと音樂を味わえないモノであります。例えば、印象的な「歌詞」というのは、楽音そのものに於いては本来は二次的な要素ですが、歌詞の存在が無いとメロディを憶えられないとか、メロディの良さという物が歌詞ありきという風にしか考えられなかったり、主旋律という物が希薄な音樂は総じてダメ出ししてみたりとか色んなケースが考えられますが、共通して言えるのは判った様で實は本質を全く理解していないというのがこうした例なんですね。

 歌詞ありきの場合、他言語だと圧倒的に不利に成るのかもしれませんが、外国人の場合の多くは日本人にないスタイルやバックボーン、日本にはない社会での立ち居振る舞いがパワーや権威を感じさせて受け入れる事が往々にしてあるかと思います。社会への反抗はロックなモノばかりではなく、マフィア社会の粗暴な在り方が若年層に受け入れられたりするのも、結局は「牽引力」という物が音樂とは別の所にあるという事に気付かないまま受け入れているという側面が魅力となっているケースも往々にしてあるかと思います。

 つまり、音楽を直視している筈がいつの間にか二次的なモノにすり替わっていて、自身の欲求がすり替えられている事を自覚できない所に誤解を生じている事が往々にして多いワケですね。食欲の為の音樂であったのがいつの間にか酒を一緒に呑まないとメシを食えなくなる様な感覚のすり替えに気付かずに、その先には酒を呑まないと飯すら食えなくなる様な欲求のすり替えに感覚が騙されていき酒に溺れる人など實にイイ例だと思いますが、これで音樂を直視できているか!?と問えば間違いなく直視出来ていないワケですね。こういうタイプの人が、別のファクターから感覚を増幅してくれないとダメなタイプで、音樂を形容する言葉ひとつでも文学性を要求する様になったりするのですが、概ね読譜力を養おうとしたり樂理的側面を学ぼうとしようとはしないのも特徴だったりするのです。

 私からすれば読書をし乍ら音楽を聴くという行為すら殆ど不可能でして(笑)、気持ちはどちらに絶対に持って行かれるので集中できなくなってしまいます。ですから読書の時は周囲が静かでないと全く頭に入りませんし、音樂を掛け乍ら本を読んだり勉強したりするというのは昔から無理な事だったりもします。全ての人に当て嵌まるかどうかは扨て置き(乍ら勉強をこなすタイプの人も多く存在する)、私からすると、そうした二次的な要素というのは邪魔でしかないワケです。もちろん根幹をきちんと理解した上での二次的要素の方面を「解釈」していく事はありますが。


 そんなワケで前回の続きとなるワケですが、運動を伴うと、体が運動に向いていない人は自身の身体の律動に頓着する以前に疲労を意識する筈です。つまり疲労は「負荷」なのですね。疲労が邪魔をするから本質が見えなくなる。人に依っては運動が気持ち良いと感じる人が居るにも関わらず、気持ち良いという感覚など対極に位置するかの所で疲労と闘っているというのが、運動を苦手とするタイプの人なのですね。

 運動を苦手とするタイプの人がひとたびジョギングに於けるトリビアを披露したとしてもそこに説得力を伴うでしょうか!?おそらく門外漢として片付けられ、ジョギングをこなすのではなく挫折してしまった人達との間で得られる共通理解という共感はあってしても、運動をポジティヴに捉えられる共感は得られないかと思うんですね。その「ポジティヴに得られる事のない共感」というのは得てして学問を学ぶ際に於いて結局道から外れてしまって習得できなかったモノの言い訳と等しくなってしまうのと同様です。学業の落ちこぼれと同様です。音楽を学ぶ上でも「音樂理論に縛られる事なかれ・・・」とか言い出す様なのも大体こういう所に収まるモノです。


 読書し乍らの音樂鑑賞というのも乗り越えなければならない負荷ではないのか!?と言い出す人も居ますがそれは強弁にしか過ぎません。どうせ飯食って糞するなら最初から糞食らえと言われている事と等しいです(笑)。コンサートやらの会場で読書し乍ら観ている人に遭遇した事は少なくとも私の経験ではありません。パンフレット眺め乍ら聴いている人はいるでしょうが、おそらくそうした人は既に興味が別の所に行ってしまっているからに過ぎないと思うのです。つまり「乍ら勉強」とは推して知るべし、という事ですね。


 先の私のジョギングを譜例にしたモノも、あの時点では私にとってはまだまだ機械的とも言えるシーケンサー的なノリにしか過ぎず(笑)、負荷が高まるシーンほど私は「メロディック」に走ろうとしています。例えば勾配のきつい上り坂は確かに負荷が高く、疲労感は激増します。しかしそれを乗り越える事はやはり気持ち良いモノですし、その高い負荷を愉しむ、という事を伺えると思えるのが次の譜例です。私は次の様にして本当は上り坂を走っています。
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 譜面からはルンルン気分が伝わって来るかのような符割ですが、各拍はステップを表していたのだから「何故3連符がつきまとうのか!?」という疑問を抱かれるかと思います。走り慣れている人というのはひとつひとつの律動の中にも微妙な「ニュアンス」を感じ取っていて、更に喩えて言うならば次の様な「ニュアンス」を感じ乍ら走っているという譯です。
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 譜例の3連符の最初は「踵」。これは地面に着地した時を示していて、その直後の脹脛(ふくらはぎ)に力の配分が移動するかの様な感じを表現していて、その直後に大腿(※實際にはハムストリング筋)へ力の配分が「スラー」で移動していて、最後に臀部の筋肉で地面を蹴る様に「ムン!」と筋肉のしなる反動で一歩一歩ジャンプしていくかの様なイメージで走っているワケです。ですから前回の様な譜例で走っていると、まだまだ愚直な走り方であるとも形容できるのです。

 揺るぎないほど正確なリズムで記譜通りに走っているという譯ではなく、符割は概念的なモノなのでその辺りの解釈の「揺れ」はご容赦いただきたいと思わんばかりですが、ひとつひとつの何気ない動作の中に「根拠」を見出せる程慣れる事も必要であり、ひとたび器楽的な側面に目を向ければ、楽器を演奏する事の指使いひとつにもそうした細かな挙動の連続をあらためて知るという事の重要さにも繋がるワケで、そうした一連の行為を客観的に傍観するだけではあまりに勿体無いとも思えるワケですね。とはいえ、器楽的な能力を知るために誰しもが須く演奏習得すべしと言っている譯ではなく、細かな表現を言葉巧みにアレコレと使い分けて表現するだけではなく、根幹の真の細かさを理解するだけで表現し得る言葉など後から付いて来るモノなので、言葉ありきで音楽を伝えようとしても無理が生ずるワケですな。