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短九度を見つめ [クロスオーバー]

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 以前にもチラッと語った事があるポリ・コードにおいてリストが用いたとされるそれは、オリヴィエ・アラン著の和声の歴史p.137にて紹介されている。つまる所Eフリジアンにおける総和音を意味していて、現在のコード表記の流儀に倣えば下声部がEm7、上声部がFM7というモノですが、上と下とが長七度で収まるのではなく短九度を形成する所がポイントなワケですね。


 初歩的なモード奏法を獲得した時にマイナー・セブンスのコードが現れる時、モード奏法の簡便的な流儀に沿って演奏すると概ねドリアンを当てる事が多いものです。しかし、場合によってはマイナー・セブンス・コードはドリアンではなくフリジアンを当てることが相応しい状況もあるものですが、玉(=音符)を追う事なくコード・ネームばかりに注意を注いでしまっているとフリジアンに相当する所でドリアンを当ててしまうと調域から外れた音となるモノであります。通常ならアンサンブルを聴き乍らこうした状況に対応するモノでありますが、フリジアンが相応しい時でのマイナー・セブンスが現れる時には9th音はb9thとして使われることなく忌避するモノであります。

 というのもそれがアヴォイドとなる理由はE音をルートとしたとしてもG、B、D、Fという「短九度」として現れるF音が出現した時点でG7という属七の和音を包含してしまうために忌避されるワケです。しかしリストはなぜこうした総和音を使うのか!?という事を現在での音楽シーンにあてはめ乍ら考えていこうかと思います。


 通常、マイナー・キーでの流儀としていわゆるマイナー・サウンドとして一発系あるいは2コード系の流儀としてよく知られるタイプのものがドリアン一発系ですな。どういう意味かというと、仮にDマイナー・キーだったとしてそれをDドリアンで代用した場合、概ね「Dm7 -> G7」の繰り返しとか「Dm7 -> Dm7 (on G)」とか、こうした四度進行(ツー・ファイブ進行)の寸止めでドリアンを代用して、一発系の代用として用いられる事があります。モード奏法を覚えてドリアン代用というような時に誰もが覚える進行なので、通常ポピュラー音楽界隈の理論に慣れている人ならすぐにお判りいただける事かと思います(笑)。


 マイナー・コードが変化無くずーっとモノホンの一発系だと情感に乏しいのでメリハリを与えるべくこういう進行に育っている技法のひとつとも言えるでしょう。

 一発系から端を発しているので、曲中においては「世俗的」な変化音が現れたりすることもあるでしょう。いわゆるブルーノート系の音を忍ばせる、つまり増四度或いは減五度の音を用いることも現在の音楽シーンなら有り得るコトです。

 その変化音が経過的な音であればやり過ごすこともできるワケですが、こういう響きに固執して「和声的」に用いるシーンもあります。例えばDマイナー・キーにおいてG#もしくはAb音を用いようとすると、Dm7 -> G7というコード進行においてG7の時点で現れるB音(=H音)も一緒にBb音に変化させると一歩進んだメリハリを生むこととなります。どういう風に和声的な変化を起こすかというと次の様になります。「Dm7 -> Bb7/G」

 つまり、便宜的に現れる調域外の属七の「短三度下」にベースを記譜するというコードが生まれます。Gをルートとする三度累積にて用いてしまうとGm7に短九度を足してしまうような表記になってしまうのでそれを避けているワケですね。
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 こうして現れる情緒は、実は先のリストが用いたとされる総和音の抜粋に近しい用法となるワケです。奇しくもこれはチック・コリアも使っていて、チック・コリア・エレクトリック・バンドのアルバム「Light Years」収録の「Flamingo」の冒頭の一連の進行に用いられているモノでもあります。Dマイナーをブルージィーにした感じと形容すればもっと判りやすいでしょうか。加えて、Dm7というコード上では概ねドリアンを代用することで経過的にB音を使うことを想定しておき乍ら、Bb7/GとすることでDから見た短六度へと変化させ乍らDから見た時のブルージィーな音としてAb音が出現することで、結果的に旋法的なメリハリが即座に得られるワケです。

 つまり、作者としての意図はDから見たドリアンとしての特性音と短六度を使い分けてほしいという明確な意思表示がこうしたコード表記として現れていて、初見であってもそれを見抜く判断力が必要となってくるワケでありますね。

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 ツー・ファイヴ系から派生したようなコード進行は他にも「短調の三度」を忍ばせる意味でのセカンド・ベースを用いた例も嘗てアジムスの「A Presa」で語った事がありますね。今回のDm7 -> G7という方へ移調するなら「Dm9 -> F△7aug (onG)」というコード進行ですね。「A Presa」の原曲は「Fm9 -> Ab△7aug (on Bb)」ですので、当方のブログのサイト内検索を用いていただければすぐに引っかかると思いますので参考にしていただければ、と思うんですが、いわゆるツー・ファイブ系から派生したこうした変化した類のコード進行というのは色んなメリハリの使い分けがありまして、ただ単に調域内だけの解釈だけではやり過ごせない語法を理解しないとダメなんですな。


 では、上声部にFM7下声部にEm7と形成している世界において下声部Em7の四声体から見た上声部のF音は短九度であり、本来なら忌避すべき音です。勿論その「本来」が意味するものとは、古典的な調性音楽のしきたりである「属七の体を包含してしまうから」に当て嵌まるからなのであります。ではリストは何故使ったのか!?これこそが調性の崩壊が始まっていたからこその事実なワケです。Em7という四声体にb9thを使ってもイイのだと皮相的に理解してしまう愚か者を輩出するために語っているワケではなくてですね(笑)、あくまでも先のチック・コリアの例の様にマイナー・セブンス上にてb9thが使われる様な状況はG7/Eという世界観なのだと理解してもらいたいワケですな。リストの先の和声はこうした音のさらに究極的なモノだと理解していただければ宜しいかと思います。

 つまり、便宜的に表さざるを得ない包含されている属七の体はその後の進行としてドミナント・モーションとして帰結する方角は向かず「寸止め」となるかのようにチック・コリアの場合は「DとG」のツーファイヴの型から発展させた「Dm7 -> Bb7/G」なのであります。

 明確にドミナント・モーションを起こさない属七の体など探せばいくらでもあるもので、スティーリー・ダンの「Glamour Profession」だって最たる例ですし、ドミナント7thという母体を用い乍らもナチュラル11thを包含しているケースだって往々にしてあるワケです。


 いわゆる「一発系」というひとつのコードだけで延々と演奏する形態がありますが、クラシックで言えばラヴェルのボレロなんてとてもイイ例だと思うワケですな。さて、そんな一発系において色んなスケールを乗せて楽しんだり、亦はアウトな音を経過的に使ってみたりすると思いますが、その調域からの外れ方を至高の極みとばかりに愛して、それを今度は和声的に明示的に用いる、というのは現在のジャズを含むポピュラー・シーンの専売特許ではなく、そんなのは古くは古典的なクラシックの世界から追究されていた事でありまして、和声はそうやって進化して来たワケです。

 当時など今よりも保守的。科学的根拠として示すことのできる物も現在よりは少なくさらには宗教観が入って来て、さらにはパトロンという貴族からのオーダーを反映しなければならないという封建的な社会の枠組みで厳格なシステムというのがまずは古典的な所の音楽的枠組みだったワケですな。時代を重ねればそのシステムも徐々に進化していく様を周囲は受け止めつつ調性音楽の崩壊へと進んでいくようになったワケですな。

 現在の音楽を学ぶシーンにおいて残念なことは、方角など誰もが知っている筈なのに、車の運転を覚えなければいけない過程においてまともな運転の習得をしようともせずにドライヴをすることばかりを急いてしまう。しかも急いてしまって運転方法すらおぼつかないモノだから方角を知っていた筈なのに運転手目線での方向感覚を逸してしまうという風に形容できるかのような連中が実に多く生産されているように思えるんですな。この手の連中にまともな事を教えるとなると、最初からきちんと順を追って学ばせることよりも遥かに遠回りさせてしまうワケですな。

 そういう愚かな連中というのは自分自身のエゴの高まりこそが牽引材料なので、自分自身にとっての厳しい類という音楽をそうそう受け止めようとしません(笑)。知りもしないのに自分のエゴだけが全てと言わんばかり。オムツが取れた頃のわがままな子供と同じですな。しかも、その牽引材料となる引き金がアキバ系やらサブカル方面の性的欲求の類がエッセンスとなってしまっていたらコレはもう目も当てられません(笑)。音が歪んでなきゃヤダ!とかね(笑)。ヘッドフォンにディストーション通して聴いてんのか!?と疑いたくなってしまいます。


 音楽に対しての欲求の高まりが希薄だからこそ牽引材料が他にないと、そうした感性を引っ張って来れないのが現代人の特徴でもあるでしょう。そうした音楽の方の活気を覚醒させる前に、色んな物欲やメディアが目の前にあるという状況も一因だと思います。まともな情報や技術を習得していればネットに情報を求めてしがみつく必要もないのにネットに依存してしまったり、弊害も多いのではないかと思うんですな。何より、自分自身の欲求が何かの牽引材料に凭れ掛かっている受動的なモノであるというのが哀しい所なんですな。性的欲求などそれこそ能動的であるクセに。自分自身が備えている感性の一番強い欲求を牽引材料にしてしまっているモノだから、他を引っ張って来れないのは残念な事なんですな。


 短音階というのは実は曲中において最初から最後まで形を維持しているモノは少なく、変化音として様々な形に変化を遂げ、更には長音階よりも遥かに変化に富んだ語法があります。短音階の情緒を得つつ、一時的にでもフリジアンの特性音を欲する場面もあるでしょう。純然たる短音階の姿として例えばキーがAマイナーだとしたら、多くはマイナーの世界にドリアンを代用する世界観もありまして、そうした代用とオーセンティック(正格)な姿と比較すると調域は四度/五度の関係で隔たれているのがわかります。そこで今度はAフリジアンとしての変化を起こしたとすると調域はFメジャー/Dマイナーの方を向くコトとなり、Aドリアンとして代用していたト調の調域がFの調域という長二度違いとして変化した事にもなります。

 こうした仄かな移ろいによって曲の情感に彩りを加えるコトなど非常によくある手法でもありまして、特にキーを移ろわせる巧みなコツは、主旋律が調域全ての音を網羅しているのではなくペンタトニックに収まる程度のモチーフであると、彩りの変化は非常に冴え渡るコトとなり、ペンタトニックを固執して調域を逃げ水のように動かすと、チェレプニン音階から見えて来る調域を視野に入れるコトも可能となります。こういう手法は渡辺香津美が得意とする所ですが、元の素材となるモチーフがややもすると単純すぎて童謡を思わせるほど純朴なモチーフからの発展になることも多く、ベッタベタなジャズ的アプローチのフレージングを好む人が渡辺香津美のような調域を巧みに使い分け乍らシンプルな素材から発展させる手法を毛嫌いしてしまう層の存在も知ってはおりますが、解釈が進むと童謡のように聴こえて来ないのも耳というか脳の変化の不思議な所でもありまして、厳しい和声や旋律に慣れ親しんだ時のシンプルな音への発見というのは神経が研ぎ澄まされるかのような新たな発見があったりするものです。喫煙者がタバコをやめてシンプルな味を新たに開拓するようなモノとでも形容できるでしょうか。


 扨て、マイナー・キーのドリアンへの代用やフリジアンへの移ろいという手法において、特に元の世界(この場合はオーセンティックなマイナーの姿)を強調し乍ら旋法的な変化の彩りによってフリジアンを用いる際、概ね短九度の世界を強調するコトとなることもあります。

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 そうした世界の移ろいに和声付けをすると、通常のマイナー・キーにおけるダイアトニック・コードとは異質のノン・ダイアトニック・コードが形成されるのは当然のことですが、マイナーの情緒という後ろ盾がある時のモードの変化というのは実はそれほど突飛なモノではなく非常に自然に聴こえたりするものです。特にデヴィッド・サンボーンのライヴ・アルバム「Straight To The Heart」収録の「Run For Cover」の前奏のコード進行など最たるモノではないかと思います。

 マーカス・ミラーはこうした和声的な世界観においても短九度方向への欲求があったり、1stソロ・アルバムでマイナー・メジャー9thを用いたりするコード感覚を備えているにも関わらず、スラップしやすい方の曲作りの方向を向いてしまったのが実に勿体無いと思うことしきりなワケです(笑)。

 マーカスのハナシは扨て置き、短調という世界から短九度方向への音の欲求の高まりの例というのは、チック・コリア・エレクトリック・バンドの「フラミンゴ」然り、元はリストを起源とする様ですが、こうした例があるという事をお判りいただければ良い事があるかな、と。但し、コードネームにおいてマイナー7thという四声体にさらにb9thを付加するという解釈はダメですからね(笑)。

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 短九度という音程を好意的に捉え、且つ強烈な不協和音程と認識しないように取り扱えるようになることが最良の理解だと私は思うワケでして、例えばフランク・ザッパのアルバム「Waka/Jawaka」収録の「Big Swifty」においてジョージ・デュークのローズのソロで先日ツイッターでも呟いておりましたが「A△/F/E」という、Eを最下音としての分数の分数コードとよぶべきアプローチにて「謎の音階」(=エニグマティック・スケール)の断片をぶつけている事がお判りになるでしょう。この分数の分数コードの最下音と内声でのEとFという短九度を形成している所に注目していただきたいワケです。

 もちろん内声と上声部を一緒にしてしまえば「F△7aug」という風になり「F△7aug/E」という風にも映りますが、実際には先のように「解体」して捉えていただきたいアプローチなワケです。2分37秒過ぎ位にイイことあるでしょう(笑)。

 私も先日確認のためにあらためて聴いてみたら、その後E△/F△というペレアスもぶつけていたコトを確認し、私自身もあらためて再発見するコトとなったワケですが、そのアプローチの巧みさとさりげなさに異端に聴こえないほど溶け込ませていることを実感すると共に、それほどまでに「モノ」にしている所に心憎さを感じたりしてしまうモノです。もはやジョージ・デュークのソロ部分などマイルスのビッチェズ・ブリューとも区別が付かぬほど高次な演奏であることに加え、それほど昔の年代から先人達はこうしてモノにしているワケですな。

 その後のベーシストではバイロン・ミラーの和声感覚に私は興味を抱いたりしたモノですが、さすがにリアルタイムでは気付くことはありませんでした。バイロン・ミラーへの興味は90年代に入る時のコトですね。