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リスボン宣言とは言いません [回想日記]

本音を言えば病院という所はなるべく行きたくはないのが正直なトコロ。風邪とか貰って来た経験など1度や2度では済みません(笑)。しかしながらカラダが老いぼれて来るとお世話になるケースが増えて来るのも避けては通れぬ道だったりもします。


そんな医療の現場を目の当たりにせざるを得ない左近治が感じるコトでココ数年顕著なのは、まあ21世紀に入って来た辺りからパソコンとにらめっこしながらの問診というモノ。パソコンが爆発的に普及しただけでなくネットワーク整備も容易になったワケです。嘗てMacはRS-232Cケーブル1本で子供でもLANを組めたばかりか、遠隔操作まで出来、その後の「発行と引用」が簡易サーバ化となっていたのであります。私が子供の頃など医師の多くはカルテを手書きでしかもドイツ語で書いていたことが標準的なシーンだったと記憶しております。

音楽も亦、厳格なまでの音楽技法がはびこっていたのもドイツでしたが、やがてはフランス和声が別方角からハイパーなアプローチを仕掛けてくるワケでありますね。ドイツにもアヴァンギャルドな流派はあったのでありますが、ドイツ人ではないオーストリア人であるヒトラーによって迫害されていくのもあってドイツは保守的であることを強いられた不遇の時代もあったワケですな。とはいえ新たな和声的な彩りが芽生えてから四半世紀くらいは経過していたのでもありますが。

ハナシを現代に戻してPCの話題を語ると、オラクルがネットブートやクラウドの原型を提唱していたのが93、94年頃のコトでしたでしょうか。私の記憶が正しければ、この年代の辺りにインフォームド・コンセントが法制化された頃だと思っておりますが、もう20年近く経過したワケですね。


扨て、現場の医師が患者を前にタイピングそのものに注力していて、インフォームド・コンセント自体がまだまだ法制化されておらぬ時代の医療の現場の方がよほど人間味と温かみを感じたモノでしたが、20年くらいの月日が経過するとこれほどまでに様相は変化するモノだと思ってしまうんですな。私の言いたい部分は「心」の部分なんですけどね。コミュニケーションとは伝達であり、コンピューティングなどまさしくそうなんですが、先端機器やPCも入り込んでいる医療現場で失われつつある、と感じる側面は医師と患者との意思疎通ですわ。

道路だって意思疎通が希薄だから、ちょっとしたことでミラー越しのにらみ合いが殺人事件に発展する事件ですら珍しくなくなってきた昨今です。


医療現場とは異なる、例えば接客を必要とする分野においても、PCとにらめっこしながらのやり取りというケースは珍しくありませんが、多くのケースは「不必要に」パソコンが備わっており、PC操作にも目の前の接客態度にも拙い人間の仕事の現場はというと、オーダーに対して「これからパソコンにて探しますのでお待ちください」という言葉すら無しに目の前のパソコンを操作し出す始末。


「わざわざ言わなくとも目の前でシゴトしてんの判るだろ!?」とでも言いたげでもあるが、まあそれには目をつむるとして、


それから数分経過しようが、操作している本人は完全に探し当てることに「没頭」してしまっており時間の経過すら忘れている。目の前の客に対し状況説明も「もう少々お待ちください」の言葉すらないのであります。


いたずらにPCが普及しただけのコトで、本当の意味で使いこなせる人材が配置されていないのが現状で、利便性を追求するがあまりに見過ごされている側面って非常に多いと思うワケですよ。私のような人間が見ても昔と比較すれば人的サービスは低下していると感じているのに、そこに脅しを掛けて来るかのようなクレーマーに遭遇でもしたら相当手に負えなくなるだろうなとは想像に難くはないんですが、本屋などで売られているのはサービス提供側のクレーマー対策本が売れていたりするワケですよ。決してクレーマー視点やクレーマー擁護ではありません。その手のゆさぶりが「体系化」されてしまうと結果的に「ゆすりたかり」の被害に遭いかねないからですな。


しかしながら現場の意思疎通をやり過ごしておいてわざわざ本で学ぶことでもなかろうにとは思うんですが、つまり、目の前の人間に心が通い合っていないことを顕在化させてしまっている世の中になってしまっているワケですな。PC操作に注力するがあまり蔑ろにされている部分が少なからずあるというワケです。


PCやPCの普及が悪いワケではありません。しかしながら喋るコトと等しいほどにタイピング出来るような方に遭遇することも珍しい昨今、医療の現場やサービス業にそこまでタイピング能力を求めるのも酷というモンでしょう。目の前の相手を見過ごすことにも勿論非があったりするんですけどね。


1970年前半、私がそうした「端末」というモノを目の当たりにしたのは空港内やら旅行代理店のチケットサービスなんですな。空港内のサービスはそりゃもう非常に質の高いモノでして、ペンタッチによるインターフェースによるコンピュータ操作の実例を目の当たりにしたのは万博でもなくこうしたチケットサービスの当時の質の高さなワケですよ。現在のiPhone/iPadと比較しても遥かにロートルな技術であったであろうそんな時代でもサービスは行き渡っており、わざわざ機械化せずとも役所とて住民の管理を遂行していたのが実際なんですが、世の中総じて「PCありき」という世の中になってしまったのが嘆かわしいんですな。

航空会社やホテルの顧客サービスを思えば今でも高いクオリティを維持しているであろう業界でありましょうが、そんな業界でパソコン普及は非常に早期の時期から導入されていたにも関わらず、その他の業種ではそんな先駆者からマナーやサービスを学ぶことはなく、自分自身がラクであることを追求していった結果が、いたずらにPCだけが普及して、社内の資料などもFAXやメール任せ。通り一遍のマニュアル通りの対応で応用力も身につかず、イチイチうるせーコト抜かしてっとクレーマー扱いすんぞ、コラ!!と言いたげな社会になっちまったんでさあ。

客の立場であろうが仕事の側の人であろうが人的トラブルは極力避けたいのがホンネだと思いますわ。


仕事の現場での気の弱い人なら、客と目を合わせる事もたじろいでしまうかもしれない。

視線を合わせるというのは真摯な態度を示す重要な態度を表すものでもあり、一方ではトラブルの一因でもあったりします。おそらくPCという端末が間に入ることで彼らに心理的な楽な側面としてフィルタリングの類として機能しているのでありましょうが、それは間違ったフィルタリングなんですな。そこに胡座をかくからお座なりになっている接客態度をあろうことかクレーマーから指摘されるワケであります。

心にゆとりがある人は対面する人間のちょっとした拙い行動など目をつむります。自分の仕事などに関わるなら手厳しくするでしょうが。「客は総じて人格者」だのと思い込んでいるかのように胡座をかいてしまっているからこそ世の中どんどんギスギスしていくのではないかと思うんですな。指摘しようものならそこからクレーマー扱いされかねぬ時代となってしまったワケです。

そういうシーンを病院に置き換えたとして、ならば患者として来院しなければよかったのか!?とシーンが変わればこのような例となるワケですが、病院側としては患者が来てくれないと金にならないワケですからこれまた皮肉なモンなんです。


もはやそんな間に知らず知らずの内に浸透してしまったPCという操作そのものを見つめ直す時が到来しているのではないか!?と思える時に、iPhoneやiPadはタッチ・インターフェースを引っさげて来たワケなんですな。つまり、それぞれの立ち位置の間に、本来なら存在しなくてはいいはずの「わずらわしさ」というのは、PCという操作を介在していたことであり、情報としてそれを記録しなくてはならないため操作する側も真剣であるにも関わらず、不慣れな動作によって遅滞を招いてしまう。そういう問題からマルチタッチ・ジェスチャーというのは解放してくれる可能性を秘めている、と言いたいワケですよ。

だからといってあらゆるシーンにおいてマルチタッチの操作性が必要なのか?というそれは違うと思います。今まではそんなの無くともやっていけていたワケですから。車だってピアッツァのインストゥルメント・パネル周りに集約された操作スイッチ類には未来を感じたモノですが、本当の意味で車内での操作形態が変わってきたと感じてくるのはiPodが浸透するようになってからだと思います。


音楽だって、DAW環境が無ければ成立しないような音楽家ならやめちまえ!とでも言いたくなる程、DAWという、いくらでもギミックが利く(限界はありますが)コトに頼り切って音楽を作っている人間が増大しているのも事実。器楽的な経験が希薄で音楽の学問的な側面すらも学ぼうとせず、ただの酒の肴となるような知識程度をネット検索に頼る程度の浅はかな欲求と行動。DAWってそういう風に発展してしまっているのではなかろうにと思うことしきりなんですが、負の側面ってどんなジャンルにおいても実は敗者や弱者が見事に投影してくれているのが皮肉なモンなんです(笑)。その見事さがアイデアを生むワケですからね。


だからといって左近治はそうした社会にご立腹ってコトを言いたいワケじゃないんですよ(笑)。ネットでボヤく程度のコトでして実害も何もあるワケではないけれど、昔と比較すると確かに利便性は高まれど失っているモノの方が多いのではないかなーという社会の負の側面を感じるだけでして(笑)、他意はありません。

ただ、客側の良心によって目を瞑ってもらうコトでその場をしのいでいる人が現代社会においてはどんな業種でも増えてきたモンだなーとつくづく感じるだけですわ。


扨て、先の航空会社のチケット業務の端末を私が見たのは1973年頃でしたでしょうか。ブロック崩しはそこから5年後、インベーダー・ゲームは6年後となりYMOは一躍有名になるワケですな。そうしてあらゆるテクノロジーに人々は酔いしれながら80年代の到来があるワケです。


ymo_bgm.jpg国内の音楽界で大きな変化というのは80年代においては私自身は1981年が幕開けだったのではないかと思います。YMO基準で申し訳ありませんが、彼らのテクノロジーへの追求とフィードバックというのはとても大きな貢献をしていたと思うので取り上げるワケですが、1981年にはYMOの「BGM」というアルバムがリリースされます。車社会だとソアラがデビューし、ピアッツァもデビューし、3代目シルビア/ガゼールというのもブームになり大学生からは垂涎モノだったワケですな。ディーラー値引きがあれば最上級のリミテッドのソアラだって300万円を切って購入できましたが、今の貨幣価値で比較すればその時の300万円は今の500万円以上あったのではないかと思います。neuromantic.jpg


同年夏には高橋幸宏のソロ・アルバム「ニウロマンティック」がリリースされ、ymo_technodelic.jpg晩秋にはYMOの「テクノデリック」が発売。師走に入り鈴木慶一&高橋幸宏によるザ・ビートニクスの「出口主義」がリリースされるワケでして、「テクノ的」な側面でこれらのアルバムを見てもとても最先端を行っていたのは疑いの無い音と凝った作りのアルバムが集中しているワケですな。初のCDプレーヤー民生機もこの年なんですよ。beatniks_extentialism.jpg


そんな1981年に「なめ猫」ブームとかあったワケですが、私個人はその年の春にウォークマンIIを入手してオレンジ色のイヤーパッドのヘッドフォンを装着して街中を徘徊していた頃でした。ウォークマンを手に入れてからはLP購入しつつ同タイトルのミュージック・カセット(MT)も手に入れる習慣がつくようになりまして出費がかさむようになったワケですわ。なんだかんだ言ってオフィシャルのMTの録音された音の良さを超越するのは至難の業だったので(笑)。

 
同年、音楽界では実はレンタル・レコード反対という潮流が巻き起こっておりまして、レンタル業界って結構鼻つまみモノだったんですな。アーティスト側も反対に回る人が多くてですね、その後数年が経過してレンタル業界が聯盟化して著作管理団体にテラ銭を払うことで決着したんですが、決着した頃ってCDの爆発的普及はまだでしたがポケベルが徐々にビジネスマンの間で増大していった頃まで時を経るんですな。


1981年が終わり1982年になる時、ホンダからプレリュードがリリースされます。フロント・サスペンションにダブル・ウィッシュボーン引っさげて。それまでの国産車の大半はフロントがストラット、リアがセミトレが主流の時代でしたからねぇ(笑)。CMソングはラヴェルのボレロだったんで、その後のシルビアのプロコル・ハルム同様、車のCMソングの中でも強烈な印象として心に残るモノとして語り継がれるようになるワケですな。まあラヴェルはバイトーナルな音世界を咀嚼して導入した顕著な作曲家でもあるワケですが。


で、こうした車社会と結び付けるのは強引でもなく、車内という隔絶された空間のブランド化と憧れというモノが強く根差していたと思えまして、オーディオ装置を手に持って歩くというのがウォークマンの文化だとすると、これが本当に普及するのは松下が参入してきてコンパクト化でソニーを抜くようにならないとパンデミック的普及は無かったんですな。車にそれを持ち込む方が世代的には一挙両得という側面があったためか、音楽と異性と車にまつわる生活が欠かせないようなバブルな時代へ邁進するワケですな。


カー・オーディオにしたって、全く存在しなかったワケではありませんが録音機能(その後のMDのコピー機能を含)を付けた製品は少なかったんですね。つまり家で作ったものや買ったモノを車内に持ち込むというコトを前提としているワケですが、そこに文句を言う人間は限りなく少数だったワケですな。

ある意味、そうした手持ちのモノを持ち込む、という動作は現在のデータのクラウド化やファイルのストック(サーバ化)させつつ持ち歩くようなアイデアと大差はないワケです。物凄く計量・小型化しているのは確かなワケですが。


1981年というと今から丁度30年前なのですが、30年前の私が当時「携帯電話」をイメージできていたかというと全く無く、車載の電話くらいしかイメージできなかったモンです。まあ80年代末頃にはパーソナル無線ブームがあったので、その時に「一人1チャンネルという使い放題の無線が出来ればな~」という思いはありました(笑)。無料で使い放題で遠方にも届く電波が欲しかったワケで、まあなかなか無料とまでは言いませんがケータイがその役割を担っているワケですな。


iMaschine01.jpg今やiPhone/iPadにフェアライトは移植され、NIからはiMaschineなるものもリリースされました。LINNのLM-1だって発売されてはいなかった1981年だったのではないかと思います。それが今やケータイに入ってしまうワケですわ。車社会ではiPodの操作性はもてはやされ、やがてiPodと連携されるようになり、サードパーティー製のカーナビはすっかり力を失い、今やカーナビもiPhone/iPadで代用できるようになりました。車にもカーナビが搭載されていることがごく自然になってきた時代です。


それらが巧くリンクし合って機能していた筈なのに、それぞれが一人歩きしても良さそうな時代に各分野はぶら下がる場所を求めて弱体化してしまっているんですな。マルチタッチ・ジェスチャー機能を持っているモノを除いて。だからそこにぶら下がる。これが強固な牽引力だと皆がようやく理解したワケですな。そういう時代にあらためて気付いてほしい。不必要に普及してしまった前時代のPCという操作を次世代のマルチタッチ・ジェスチャーに置換するだけでどれだけ不安要素を払拭できるようになるのか、というコトを。


iMaschine02.jpg音楽だって単一的な調性や和声の機能、和声の構造を学んで行くと「単一の」世界でのルールは判るようになるものです。ジャズの多くも単一な調性を目まぐるしく転調させているコトの方が多いモンだから、そんな紐解きすら判らなかった人間にしてみればマジカルめいた紐解きによってジャズですらも軽視するかの様に近視眼的な見方を植え付けてしまい、その後の更なる音楽の発展的な方向に目を向けない人間が殆どであります。

バイトーナルという、ふたつの「各々が単一的な」調性が絡まっているだけなのに、それを紐解くことができないのが殆どなのです(笑)。ホントに「単一的」な世界を理解していたのかよ!?と思わんばかりでありまして、自分の成長をある程度の所まで留まらせてしまい、それ以上進むと自身が無知であることをさらけ出してしまうコトを拒むのか、自分より下の人間を卑下するかの様に、大して音楽のコトなど判っておらぬのに自分の断を下せる程度の所で識者気取って語ってみたりするようなエセな人間が多いのが事実です。

その手の人間がイメージし得る程度のことばかり追求していたのではテクノロジーの発展はないし、どこかでラクを見付けて他人様の良心に胡座をかいてサービスの質を低下させてしまうという悪循環を起こすワケであります。しかしながら奇しくもコイツらが反面教師であり、時には犯罪は負の側面から次なるテクノロジーの発見と発展があるのが不思議な投影です。


まあ国家として成立していない社会とてモラルは宗教うんぬんを超越して殆どの部分は同様でしょうし、法律は過去の負の側面を教訓を糧としているのも亦事実なワケでありますな。つまり、トコトン堕ちる所にもヒントはあるというコトですな。


例えば、私の30年という音楽観を振り返って見ると、30年前など楽理的な部分など右も左も判らないとまではいいませんが、右前方2メートル先くらいまで見渡せるような状況だったとは思いますが、先はモヤがかかっているかのように「理論」というカベがとてつもなく巨大で立ち塞がっているかのように感じていたモノです。

こうした人間も教育を受けていつしか音楽的な語法を身に付けていくようになった、というわけですが、ひとつ声高に言えることは、嘗て若い時分に性急なまでに理論的な部分を貪欲に学んではおりましたが、耳が成熟していないと決して理解できないモノでありまして、文面ばかりに頭でっかちになっても学べることはないんですな。その時点では、理論書に書かれた言葉を暗記しただけのコトでありまして。


音楽というものの深部は時には音だけではなく文面で伝える必要もあるかとは思うんですが、言葉に飢えているような、例えるなら人生において音楽的な寓意に出くわすことが少ない人間ほど文学的・文語的なボキャブラリーに身を委ねようとしてしまいがちです。

例えば、愛する異性に曲を作ろうとしましょう。それが学校から与えられた課題だとしましょう。しかしその課題には制限があります。

「歌詞を用いてはならない」というコトが絶対条件。

さあ、どうしましょう。好きという言葉なら幾つでもあらゆる表現が思い付くのに、音楽的に限定されてしまうとそれを表現することがどれほど難しいことかが判ります。作曲だと思い込んでいるコトなど、実はある調性のスイッチを押しただけのコトで、その調性から逸脱することがないようにフレーズが絶え間なく浮かんでくるだけの状態を、さもメロディ・メイカーのように自己陶酔してしまう人間すら珍しくはないのであります(笑)。

それすらも判らない人間にパソコン(DAW)というモノがいたずらに普及している環境がスタンダードモデルとして存在してしまう。一方でそんな経験を数年ほどの違いで経験してきた人間が当然のように教鞭を執るかのように(実際には教師でもないワケですが)、インストラクターのように幅を利かせてしまう。

医療が必要な小児科は少なくなり、先が短い人間には手厚く医療の手が忍び寄り、その一方で不必要な薬が処方され、患者の回転率を上げるためにパソコンが導入され、それはやがて市町村でカルテを共有されるなんてコトになると厄介なモンですぜ(笑)。

我々は音楽ソフトを共有することすらできないのに、別のシーンでは許容されてしまうフシギ。モラルはどんなシーンでも共通のはずですよね!?(笑)。

普段はヤブ医者だの揶揄しているクセして、いざ自分の体が傷付くと医者にすがってしまうのが関の山。音楽に寺子屋はあったのだけれども、殆どの連中はそんなコト忘れてしまっているんですな。それでネットで情報探ってるようじゃダメなんですよ。カラダの心配があったら行くべきなのはネットじゃなくて病院です(笑)。音楽も同様。観にいったり学びに行ったりせにゃならんのです。