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オリヴィエを聴き乍ら [散歩]

ジャスミン茶はぁ~♪♪♪

今年、左近治にとって密かなマイブームでした。香り高き伊藤園さんのジャスミン茶にはお世話になっております。


そんなハナシは扨て置き、話題はポップスな方面ではなくてですね、ツイッターの方で私左近治はブツブツつぶやいておりましたが、10月22日、私は久方ぶりにNHKホールに足を運びメシアンの「トゥランガリラ交響曲」を観に行ったのであります。NHKsymphony1710program.jpg


過去に小澤征爾による演奏は「トゥーランガリラ交響曲」と表記しておりましたが、表記に関してはその都度開催者に倣いたいと思うので今回は「トゥランガリラ」と表記しているのであります。過去にも散々語っておりますが、和声的な方面でチラッと述べたコトがあるのは第3楽章のコトでしたね。


ま、それにしても本日は朝から結構強めの雨に祟られてしまったのでありますが、人々が行き交うのが増えて来る時間帯よりも少し早く出掛けて、国立国会図書館にて午前中は待機しておりました(笑)。こうしていれば予報では昼頃から雨が止むとのコトだったので案の定雨も止んで日差しが出て来たのもあって、三宅坂から代々木公園までテクテク歩って行った左近治でありました。

代々木公園内ではエコな感じのイベントが開催されておりまして、奇しくもガムラン・サウンドを繰り広げている団体がございましてですねついつい見入っていた私でした(笑)。ミュウミュウの方まで足を伸ばして(骨董通りの方じゃないです)、時間つぶしながら久方ぶりのNHKホールでのコンサートだったというワケです。


メシアンだし、こんな天気だったから足止め食らって客足伸びないんじゃないかなーと思ってタカをくくっていたらトンデモありません。かなりの客の入りでビックラこいちゃいました(笑)。全部で10楽章あるワケですが、多くの人は各楽章の区切りはよ~く理解している人達が多かったとは思うんですが、静寂の余韻を楽しむコトなく忌憚なく「ここぞとばかり」の咳払いが多くてですね、アルミンクだったらこうした余韻を嫌う客にはかなり厳しさを求めただろうになーだとか、下野だったら客が落ち着くまで徹底的に静寂を待つんだろうなーとか思い起こしたモンです(笑)。客のマナーに関して言えば残念ですがハズレの日でした。


会場内で、もしかしたら別人かもしれませんが湯浅譲二先生にソックリの方がおいでになっておりまして、お声を掛けようかどうか迷った挙げ句お声を掛けない方を選択する左近治(笑)。見間違いだったんだろうなーと思いつつ、夏の紀尾井ホールでの湯浅先生の作品はどうしても観に行けなかったので悔いが残っている左近治でありまして、そんな後悔が別人の方を投影させてしまったのかもしれません。ただ、普段よりも更にご年配の方が多い客層ではあったようですが、音楽を離れれば耄碌扱いされてしまいかねない高齢者ですが、加齢で可聴範囲が狭まろうとも音楽的語法が耄碌していると思ったら大間違いです。高次な音を聞き分ける能力は鼻骨と同様に成長して行くと思って過言ではありません。

プレヴィン氏とて足は相当弱っているのでありましょう。補助車で現れタクトを振るそれに温かい拍手が惜しみなく送られておりました。震災後、放射能事故の影響も懸念される日本においてわざわざ足を運んでくれる人達にあらためて感謝したいキモチでいっぱいです。


扨て、トゥランガリラ交響は後述のように全部で10楽章からなる大作でありまして、5楽章毎に「判りやすい」楽節にて展開されるワケでありますが、その「判りやすさ」というのが、メシアンが云う所の長調の最も安定した形に収斂する姿、として形容しているものだと思われます。勿論その「ツカミ」として判りやすい楽節の至るまでの音の色彩の魔術は凄まじいモノであることには間違いなく、私は前半なら第3楽章が最も好きなのでありますが、「2、3、4、6、7、8楽章」は個人的には欠かすコトのできないモノです。


1  「導入部」
2  「愛の歌 I」
3  「トゥランガリラ I」
4  「愛の歌 II」
5  「星の血の喜び」
6  「愛の眠りの園」
7  「トゥランガリラ II」
8  「愛の展開」
9  「トゥランガリラ III」
10 「終曲」


第2楽章では、きらびやかなアンサンブルが印象的ですが、本日のアンサンブルはウッドブロックが遠慮しているかのような(木管と少々ズレる)ようなアンサンブルに聴こえたものです。前半の第4楽章までは比較的テンポも遅めで始まりましたが、私のお気に入りである第3楽章は本テーマに入る直前の静寂の余韻を感じさせるコトなくガツンと入って来ました。その後ピアノの増三和音のハイブリッドの体はガツン!と鳴らすモノではなく、キモチ右手と左手をバラけさせるように弾いておりました。シンバルには打ち消されることなく聴こえておりました。


第5楽章までを前半とすると、前半は総じてオンド(オンド・マルトノ)のビブラートは浅めで他のオーケストレーションに完全に溶け込んでおり、曲の構成やらの前知識もなく聴いている人ならば電子楽器のそれだと言われなければ気付かない人も居たのではないか!?というくらいクセの少ないビブラートでした。今年の春前辺りに「題名のない音楽会」において高嶋ちさ子が「絶滅危惧種」の楽器として取り上げていたコトがありましたが、私自身まともに観たのは今回が初めてでした。


前半の大部分はオケのどこに主導権があるかのような「引っ張って行く」ようなモノではなく、打楽器やらグロッケンシュピールなどのアタックの強い楽器達に極力配慮したようなリズムの取り方になっていて少々及び腰のような気がしたんですが、トゥランガリラ交響曲が「交響曲」のように真価を発揮するであろう第7~10楽章の運びは見事なモノでして、特に本日の第8楽章はお見事でした。


kolb.jpg第6楽章は、多分聞き慣れない人はココで眠りについてしまうであろうという所なんですが、現音のピアノ曲好きならコレこそが真骨頂でしょう。特に第6~7楽章のピアノは最大限に「アピール」し甲斐のある所ですし、奇しくも私はバーバラ・コルブの「Appello」(イタリア語でアピールの意味)を思い起こしながら聴いておりました。


後半の何処かは失念してしまいましたが第8楽章だったかチェロを互いに交換して弾く所がありましたがこれは興味深いシーンでした。兎にも角にも第7楽章以降は「これぞ交響曲」と思わせるオスティナートが続出なので、ピアノ協奏曲のような側面はあるものの、後半に進むに従ってオケも輝きと重きを置き、聴衆も耳を研ぎ澄ませるように進んで行くという緊張感を持っていたんですが、いかんせん各楽章の余韻を吟味しないというか寛容というか(笑)、この辺が少々残念だった所でしょうか。

第7楽章の冒頭のピアノには同一鍵盤によるトレモロではないんですが、A音の装飾音に続く同一鍵盤の打鍵は鳥がついばむような音に聴こえる所でありまして、装飾音はメロウに、その直後の音は倍音をきらびやかに聴かせるような音に聴こえるんですが、若干装飾音が強いように思いました。実際の楽譜ではどのようになっているのかは判りませんが。

いずれにしても今回は先述の様に第8楽章の出来が最も良かったのではないかと思います。それまでの楽節が走馬灯のようにシンメトリカルにも入り乱れ工作しながらのカウンター・プンクト。コレには圧倒されますね。普段は鳥達の世界でも弱肉強食があるんでしょうが、あらゆる種がハーモニーを奏でて鳴いているかのようなアンサンブルを見事に聴かせてくれました。



そんなワケで、ポリトーナリティーの極みのひとつでもあるトゥランガリラ交響曲を堪能してきたワケでありますが、季節と良い、気温といい、申し分ありませんでした。オリヴィエ・メシアンの著書「わが音楽語法」にも書かれているように、多くの調性を積み上げながらも実は単一的な朴訥な調性感覚をも有しながら厳しい和声感覚の耳をも有しているという、そういう優しさと厳しさを備えた耳で聴くことが重要なワケでして、複雑に絡み合う混紡も、紐解けば実は一本の糸である、というコトを教えてくれる好例なワケですな。

単一的な調性でめまぐるしくモード・チェンジを行い各種の調を行き交う音楽に耳を馴染ませるコトで、ジャズという音楽の大半も概ねソコに収めるからと言って、一端近視眼的な解釈として捉えてしまうとやがては自分自身の感性の方に重きを置こうとするためか、いつしかそんなジャズにも軽視・蔑視したりするようにもなります。単一的な調性の方向ですら不完全であるのに、単一的な調性が複数絡み合う世界を紐解けるワケがないのであります(笑)。それを知らない事がいけないコトではないのに、諭してしまったりするとそれが暑苦しく煙たがられたりするコトもあるワケですな。

自尊心というものをくすぐられれば、音楽とは無縁であってもついつい感情的になってしまうこともあるかもしれませんが、音楽に対して貪欲に学ぼうとするのであれば、音楽に不必要な動機を与える必要など無いワケでありまして、人にとやかく言われようとも音楽においては無心であることが重要なコトなのでありましょうな。だからといって私が無差別に他人を愚弄しているようであればそれは別の方面で咎められるべきコトなのでしょうが、何もケンカ腰でブログ書いているワケではありませんからね(笑)。

音楽を好きであることが重要なコトであり、私の戯れ言に付き合ってる場合ではなく目の前の音楽を聴くことが重要なワケですな。忌み嫌っていた音ですら、その複雑な音は歳を重ねると不思議と理解できるようになるワケで、若いと理解できないコトも多いってモンですが、時間だけは皆不思議と等しく持ち合っているワケですな皮肉なコトに。限られた時間の中でどれだけ音楽を吟味するか、これが重要なコトなんですが、のんべんたらりんと音楽聴いてばかりだと理解は進まないってぇモンです。