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アナログな頃 [DAW]

過去には「デジタル」というものが礼賛されたこともありますが、音楽テクノロジーにおけるアナログな音にしても最近の実際は、アナログを現実に導入するのではなく、殆どの場合モデリング技術による「アナログ・ライク」な模倣された音を用いているのであります。


嘗ては私もプロフェット600を使いながらバンド練習勤しんでいた時代が30年前のコト。しかしまぁ、アナログ・シンセってえのは個体差にも依りますがピッチがなかなか安定してくれないモノなんですわ。

チューナー片手に演奏するのは当たり前。本番数時間前から通電しておかないとトンデモないくらいにピッチが破綻してしまうコトなど珍しくもないコトでして、今を思えばそんな苦労も楽しい思い出のひとつですわ。

そういう煩わしさから解放されたいという思いもあってデジタル・サウンドへの欲求は更に高まるワケなんですが、当時から私がやっていた音楽にはベタなデジタル・サウンドが不向きだったのが功を奏するのか、デジタル・ライクになるには一気にMac導入するまで待つコトになるワケですわ。シンセにしたってDW-8000とかJX-8Pとか使いながら、周囲はM1やらDX7やらD-50使っていたのを指加えて見ていたモンでした。


M1の辺りまで時代が進むとオルガンやらクラビネットやらエレピの音を欲しがるようになりまして、世間様がこーゆー状況になってるってこたぁ、最早デジタル・サウンドってえのは飽きられているコトの裏返しでもあったワケです。

デジタルな音が飽きられるとアナクロニカルな潮流が生まれ、01/Wシリーズが爆発的人気を博すようになります。その一方では取り扱い店が比較的少なかったE-muのVintage Keysでも結構売れていたワケでして、その時代から現在まで音の在り方というのはそんなに変わってはいないのでありまして、アナログ・ライクな音が如何にスタンダード化したのか、というコトがあらためてお判りになるのではないかと思います。



まぁしかし、時代が移り変わりパソコン・ベースの制作環境で処理能力の向上に伴い、ソフト・シンセにはあらゆるキャラクターを求められるようになります。

Oberheim_SEM_V.JPG多くの稀代のシンセがソフト・シンセとなっていた中、オーバーハイム関連は大手からは不思議とリリースされていなかった最後の大物だったワケですが、この度ようやくArturiaからOberheim SEM Vとして発売がアナウンスされました。

単品としてのシンセサイザーへの憧れからシンクラヴィアに代表されるようなハードディスク・レコーディングも可能とした完結型のハードが示した顕著な側面はプリプロによる制作コストの抑制に加え、弾き手側の連中が場所を変えるコトなく制作へ注力出来るようになったことが最大のメリットだったワケですな。

そうした完結型がオールインワン・シンセを経てDAW環境導入に至って今日に至るワケですが、いざ恵まれた環境に身を投じてもスンナリと制作アイデアが湧き出るワケではないのであります。しかしながら、アイデアが不足しているのに徒らに時間を費やしてしまっているだけのコトだって実際には多いモノでもありまして、利便性に慣れてしまうと理想的なシゴトの進捗具合に反して、停滞させてしまっている現実が見過ごされていても寛容なのは、多少なりとも滞ろうともそれまでが捗っていたり、多少の遅れを取り戻せる環境があるからでありましょう。

嘗てMTRすら持っていない者が楽器1つで曲作りに勤しむのは珍しくもなかったワケですが、作業の質に関して見れば千差万別でありまして、自身の器楽的な能力をフルに発揮して制作に勤しむ人がいる一方で、楽器は弾けても採譜はままならないわ、得意な楽器が手元に無ければ自身が思い付いている音すら採れない人もいるモンです。


その後者の1人の笑い話を挙げてみますが、外出時に希代の名曲と思しきメロディを思い浮かべた所、手元に楽器が無いので思い付いたメロディをメモに取る手段がなく苦悩していた所、ふと思い付いたという最終手段は、泣く泣く鼻唄で公衆電話から家の留守電に録音するということでした。

彼はこの時点で安堵してしまったためにその後トラブルに直面してしまうワケです。

折角録音したメロディがどういうコードに乗っかっているのか皆目見当がつかなくなりまして、楽節からキーを判断出来る類のモノであったのが救いであったのではありますが、率直に言うと、音感に乏しいために調的な道標を失ってしまったことが大きな問題であり、こうした人がQY10を導入したり、DTMを導入したり試行錯してきたのでありましょう。


フランシス・レイの「男と女」のようなメロディであった場合、「シシシシシ シシシシシ」という階名が背景の和声の長七だというトコロまで把握していれば救われたのだと思いますが、背景のコードや調的な方角が判らなければ先ほどのメロディですら「ドドドドド ドドドドド」とか全く意にそぐわないメロディとして認識しかねない恐れすらあるワケです。希代のメロディだと思っていたにも関わらず(笑)。


この手の感覚すら磨かれてないというコトは、単一的な調性の世界においても音楽的な熟練度が極めて乏しい例だというコトであります。四半世紀も昔の左近治の周辺のひとりの真実です(笑)。


扨て、ソコまでひどくなくともお笑いレベル級の音楽性を持っているモノなど珍しくもありません。まあ、メロディが思いついた所で、そのメロディの大半は、ある断片的なモチーフが「調性」を引き連れてきてくれて(調性を引っ張ってきてくれたコトには無自覚でありましょう)、首尾よく調性内に収まるフレーズが絶え間なく生まれて来る行為に自画自賛するような人など、小学生時代、特に12歳未満までで葬り去りたい経験であろうと思います。でもたぶん誰もが通る道でもあるとは思うんですよ(笑)。


酒や女や薬や恋愛など、歌には共通するテーマが存在します。でも恋愛なんて当事者以外の人からすればオイシイ話でもないし、ましてや恨まれるコトだってありまして、甘ったるい世界をチョメチョメまさぐって当事者達だけが喜び合うような歌など聞きたくないモノです(笑)。まあ、立場を変えれば嫌味はなくとも「ゴメンナサイ」状態だったりするワケですよ。

歌詞が無ければ音楽を通して伝えるメッセージが無ぇ!とか言い出す輩なら、せいぜい文学的な方面や舞台やら俳優業を目指しても構わんでしょうし、わざわざ音楽に固執する必要はないと思います。

倫理観を歌えばさぞかし礼賛の嵐なのではなかろうか!?と思うかもしれませんが、これまでの社会で築き上げられたモラルに簡単に乗っかってしまうというのも浅はかだと思います(笑)。そんなモン、誰かに歌にしてもらわないと判らないモノでもないから(笑)。

つまり、あらゆる方角の自身の思いなど、悪気があろうと無かろうと、善悪やら倫理観を反映した音楽だろうが、反映されてしまっていることすら世界を狭めた音楽に過ぎないワケですな。

そんな方角からも揺さぶられてブレることなく湧き出たフレーズこそが本当の楽節であり、思いそのものを反映させる必要はないワケですな。ただ単に「欲求の果て」であり、欲求の中身は何でもイイんですよ。色んな情景を浮かび上がらせてくれるような語法を沢山持っている人が器楽的にも音楽的にも素晴らしい人間なのであります。誰かのことを褒め称える歌を作ることばかりが褒められたモノではないんですな、決して(笑)。Shikisaiscore.jpg

そんな単一的な世界を知ろうが知るまいが、左近治はバイトーナルな方向の話題に固執するワケですが、まあ、単純に並べた異なる旋法から、色彩的な「ハイパーな」和声まで今回は使ってみましたんで吟味してくださいな、と(笑)。


そういや、レディー・ガガがもてはやされる時代なんだから、サッフォーのようなメランコリックな音楽も再認識してもらいたいモンですなー。

MR2のCMで初めて知った当時の左近治は「Le Train de Paris」のフェアライトCMIと思しき音に心奪われたモンです。iTunes Storeでも聴けますので、この曲のAメロの独特なメランコリックな世界にヤられてみるのもよいのでは?!sapho_pp.jpg