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半音の分かち合い (2) [楽理]

そもそも「半音」という所に目(耳)を向ける理由に、そこには器楽的な多くの意味を含んでいるためにそこに狙いがあるのですが、例えば人によってはメジャー7thというコードで生じる「ルートと長七度」を転回したコトで得られる半音を「汚い」などと忌み嫌う者も居るのは知っておりますが、概ねこういう人達は耳が未熟です(笑)。和声的にはそんな半音のぶつかり合いとやらを好まないクセして、旋律的なアプローチとして「予期せぬ所に導音を導入」したりすると、途端に楽音の色彩感覚が高まるのかこういうのは許容したりしちゃうモンなんですね(笑)。


ところが今に始まったコトではないのかもしれませんが、今巷では、音楽を聴くための耳を肥やす指南書(笑)みたいなガイドブックみたいなのが売れているそうで、耳鍛えなければイケない場面で本で情報を得ようとしている所がそもそも本末転倒という所に気付かずにそーゆー本を手に取る人は一向に後を絶つ事はないようです。

こういう現実なのは私も重々承知です(笑)。音楽を好きになるキッカケや動機は人それぞれですから、そこに制限を持たせるようなコトは左近治は致しません。元がアニメやマンガといういわゆる一般的には忌避されるようなサブカルチャー側からの出自だとしても、です。ただ、ひとつ注意すべき点は、出自がどうであろうとそこから音楽の器楽的な方面の見識を拡大した際には自己の出自に作っていた自分自身の「カベ」というのを取り払って音楽観を拡大していっていただきたいんですな。

それには特権意識とはいかないまでも独占欲がそうさせてしまうのでありましょうが、本来心はオープンで在るべきなのになぜか自分自身の「陣地」をまるでドラえもんの四次元ポケットかのように何でも詰め込もうとしてしまう人がおりまして、この行動心理は滑稽なモノですが、自身のコンプレックスに箔付けしたいからが故の行為なんですな。ブランド服を買った。似合うに合わないは別として所有欲には満たされるコトでありましょう。

いくらそれが似合うとはいえ一番褒められるべき点は服の方でモデル側の方ではありません。無論、着こなす人間の資質も問われるモノでありますが、コレを音楽に例えればもっと判りやすいかもしれません。どんな音楽を聴こうとも楽理を学ぼうとも自分で作品を作るワケでなければ、それまでに所有して来た音楽については聴いている側が褒められるべき点となるコトではないのは明白ですね。音楽を追究する、というのはこういう心理に惑わされるコトなく身に付けなければならない、というコトを肝に銘じて取り組みたいと思わんばかりであります。


でまあ、先鋭的な世界感やら楽理的な方面での異端で先鋭的な部分も皮相的に見ればカッコ良く見えるコトもあるかもしれませんし、体系的になれば誰もが扱える音となる。ジャズの世界だってかなり体系化されているにもかかわらず、ジャズで用いるコードが体系化されているのにロック界隈で浸透しているでしょうか!?というとそうでもなさそうです(笑)。でもレディオヘッドやKORNの連中は「何か」に気付いているような音を出しているようです。

その前時代のグランジがもてはやされた時代から7度や9度方面は確実にロック界隈でチョットしたブームになっていたのは事実でしょう。常時そういう音を鳴らすのではなく、エッセンスとして使っている所もミソですね。でも大概のフォロワーやファンはこういう「ミソ」の部分には気付いていないヒトが殆どなのが実情です。

ましてや気付いても体系化を施しても自身にそれを扱う感性が宿っていない。大体こんなモンです。だから、こーゆーヒトが敬愛するアーティストの世界観を自分の利益にしようとして独占しようとしても、楽理的な謎めいた部分を全く理解していないから結果的に自分の敬愛するはずの人達ですら皮相的に扱っていることにも気付かない。そこに気付かないヒトがたかだか数ヶ月・数年程度では左近治の楽理的側面を理解するのは無理だとも思えるので、その辺巧い事解釈していただきながら理解していっていただければな、と。


「予期せぬ所への導音の導入」というのは、いわゆるそれまでの耳に馴染む一定の調性の感覚がダイアトニックな世界だとすれば、突然ノン・ダイアトニックの音を滑り込ませられるようなモノだと思ってください。結果的に「半音」の導入なんですよ。例えば全音音程であろうと思っていた所を半音滑り込ませられたり。そーゆーこってす。

密集和音としての形で長三和音・短三和音が成立している所の予期せぬ所に半音を滑り込ませるとすると、音程幅が長三度の所に半音を滑り込ませるコトで半音+短三度(短三度+半音)という音程幅に一時的に変わるというオプション的な技法が散々もてはやされるような時代が数百年以上も前から存在していたワケですよ。そうすると和声という体系化がまだ行われていない時代においても旋律は多様化して、対位的な技法は進化して、単一的な調性では語ることのできない多様な響きを生んだりするようにもなってきたワケです。

過去にも左近治が例として取り上げたように、増三和音というモノを解体する際に長三和音を分割する(短三度と半音)例を挙げてマイナー・メジャー9thのカタチを呼び込んだり、様々なアプローチを用いることで普段は使い慣れない(聴き慣れない)音形を、普段ごくありふれた音形の似た側面から呼び起こそうとするモノとして説明してきたものでして、これについては過去ログをお読みいただければと思うんですが、私がこういう方面を語りたいというのは、一般的には忌避されがちな高次な音楽の部分を少しでも別の角度から語っていくことができればな、と思っているモノでありまして、その説明の過程で、色んなメディアに登場するモノや現在入手可能なCDやらをレコメンディッドすることで話題を繰り広げているというコトはご理解ください。

そこで、NTVの「深夜の音楽会」でシルヴァン・カンブルランが言わんとする、番組内で紹介する「ペレアスとメリザンド」やリストの「ファウスト交響曲」を取り上げるというのも、それらの特徴的な部分は左近治の語っている事と非常にリンクすることが多いと思うので「題名のない音楽会」含む、クラシック音楽を皮相的に捉えないためにも私はリンクして取り上げているつもりなんですな。奇しくも「ファウスト交響曲」という最初のモチーフで顕著なのはオーギュメンテッドなフレージングなワケですからね。

リストとショパンは同時期を生きた人でありますが、ショパンは旋律的な方面での半音階の導入の巧みさ、リストは和声的な方面での半音階の導入の巧みさについて語られることが多い二人なワケでして、こういう風に見るだけでもクラシックの世界というのは興味深いモノがあります。しかしそんな楽理的な側面とは別のバックグラウンドをわざわざ語ろうとは思ってはおりません。重要なのは「音」なのでありまして、音にして聴いてみないコトには何も判らない。故に文章読んだだけでは結局意味がないのであります。音を文字で提示することで頭の中できちんと鳴らすコトのできる人ばかりが左近治ブログを読んでいただけているのであらば文字オンリーにするでしょうが、全員がそういう人達というのは有り得ないでしょう。とまあ、そんなワケで左近治のクダ巻きにお付き合い願えればな、と。


扨て、「予期せぬ所の導音の導入」というのは、その後近親的な調性への移ろいへの技法に体系化されていったりすることになります。そうして色んな調性への「移ろい」を大胆な転調ではなく経過的に移ろうミクロ的な転調、それは旋法の変化を伴うというコトで色んな技法が体系化されていくワケです。そうした楽音がまだまだ各パートの単旋律の集合体がアンサンブルを担っていたワケですが、いずれはそれが「和音」という風にさらに体系化を進めていくこととなります。

さらには、そんな安定的な長短の三和音のそれぞれの構成音の音程幅が長三度に値する所に「半音」というクサビを打たれたとしましょう。これはもちろん前述にもある通り、短三度と半音によって分割されるようになります。これは経過的に見れば長三和音から半音を「削る」ことで減三和音を生じるコトになります。この減三和音の滑り込ませるというコトが大胆な転調を生むコトにも繋がりまして、減三和音はより拡大して減七のフレーズを生みますし、短三和音からさらに3度下に根音バスを求めてハーフ・ディミニッシュと置き換える事が可能なトリスタン和音をも生じるコトとなり、これらは数世紀前の大流行でありまして(笑)、もてはやされたワケですな。


今日のディミニッシュの滑り込ませやらハーフ・ディミニッシュの使い方よりも当時は非常に「柔軟」でありまして、例えばトリスタン和音も構成音そのものは今日のハーフ・ディミニッシュと同じですが、根音の置き方が今よりも柔軟性に富んだモノで、dim3rdやdim5th、m7thをベースにしたりなど現在よりも柔軟性に富んだ技法があったりします。無論、当時の流行期において2つの異なる減七の分散フレーズを組み合わせた今日のコンビネーション・オブ・ディミニッシュ・スケールというのも生まれたワケですし、このような多様化された世界から今に伝えられているワケですな。

旋律的な響きの「オプション」を求めて、本来在るはずではない所に予期せぬ導音(半音)を生じさせるコトがひとつのテクニックとなり、そこから生じる和声が減三和音を得ることとなり、この減三和音がダイナミックな転調の可能性を拡大させたワケですが、なんと言ってもこのダイナミックな転調というのは結果的に平均律の導入を推進することとなったワケですね。


このような「半音」の魅力というのは、旋律的にあらゆる所に導音を滑り込ませる手法をミクロ的な物とするならば、結果的にそこから発展してゆくゆくは複数の調性の旋律が半音違いで折り重なろうとするようにまで発展するようになる、と。こういう世界観を導いた時というのは結果的にマクロレベルの楽音の構造がミクロ的な半音の持つ力によって潮流が作られるようなモノでして、そのマクロ的な構造というのは結果的に高次な倍音列に見出される音への牽引力を生じて、さらにはチャーチ・モードでは姿を見せることのなかった「隠れた」鏡像システムが見えて来るようになるワケです。


その「隠れた鏡像システム」というのを今度は語るコトとしましょうか。