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スーパートニック(上主音)なカンケイ (2) [楽理]

扨て、スーパートニックという「音程関係」とやらを今一度注目するコトにしますが、カンタンなハナシ、主音の上(長二度)にある音程関係だから上主音と呼ばれるワケであります。



調的な関係(近親性)を見れば、ひとつのプロセスで呼び起こせる隣接する調関係にはありませんが、属調の属調という近い関係にあるのは明白であります。


例えば、我々がツー・ファイヴを繰り返して12種類の調を行き来して元に戻ってくるように、ツー・ファイヴという進行は四度進行であるため、ハ長調からスタートすれば調号はシャープの記号よりもフラットの記号の数が増える方に転調を繰り返していくのがツー・ファイヴでありまして、元がハ長調ではなくシャープの数が多い調号からスタートすればシャープの数が減って行き、やがてフラットの数が増えてくる方向へ調が移っていくワケですな。


一方、属調の属調という完全五度の累積という方向の調性の移り変わりというのは、ツー・ファイヴの四度進行とは別に「旋法的な」性格があると思っていただいても差し支えないかもしれません。


仮に、ハ長調のフレーズにおいてトニック上で「ド・レ・ミ・ファ」というモチーフを「ド・レ・ミ・ファ#」と弾いて行けば、ファ#の所では調性外なので、これはトニック上であればCリディアンを示唆するワケでして、トーナリティーとしてはト長調のモノを借用する、或いはそれが経過的なモノでなければ転調を呼び起こしているシーンだと言えるでしょう。無論、楽譜に現れない「経過的な転調」という非常に短い転調感というモノが旋法的な技法や対位的なフレージングのそれには妙味となっているワケでもありますが、スーパートニックという関係はさらにその先(属調の属調)にあるというワケでありますが、別にさほど難しいモノではありません。


重要なコトは、さらに旋法的に追究していって、元はハ長調のモチーフをト長調→ニ長調・・・という風に進んでいった場合、ニ長調として変化させた時というのは、最初のハ長調の主音である「C」は自ずと「Cis」となるのはお判りですね。


ふたつのステップ・シーケンサーを同期させているとしましょうか。ひとつはCメジャーでシークエンスされており、もう一方がDメジャーでシンクロしている、という状況です。


開始する音がせーのでどちらも各調の主音である場合はあまり面白い状況は作り出せないので、概ねハモったり、1音分や何音分かズラしたりすることがこの場合面白い効果を発揮すると思います。ちなみにこれはカノンの技法でもありますし、フーガというのもこういうモノみたいに感じ取ってくれれば判りやすいかな、と。無論、実際にはもっと厳格な様式や制限があったりしますけどね(笑)。


で、基の姿を「ハ長調」という、こっちの色彩を強めたい場合、他の声部で発生したニ長調では当然のように変化してしまう「Cis」というのを敢えてハ長調の主音を変化させているように聴こえさせる方法は少し意図が変わって来ます。つまり、ニ長調「的」に聴かせながらも基のハ長調の主音CをCisとして変化させないような聴こえさせ方というのは、ニ長調側を平行短調にしてロ短調のフレージングをすれば、ロ短調におけるCis音というのはそれほど重要な音ではないため、他のモチーフとして発展させることができ、ニ長調の平行短調としての姿を保って、基となるハ長調との世界を「併存」させるという異なる調性が並立状態にある世界を作り上げるコトが可能なワケです。対位的なアプローチというのはこういうコトでもあるのです。

無論、基となるハ長調の主音を用いながら、ニ長調の特性音であるCis音を省いてニ長調orロ短調の音を得ようとする、という理屈はなんとも矛盾しておりますが、完全に調性を「確定」させるものでなければ、動機付け程度では十分な「調性のフラ付き」感覚のような多調感を得るコトは可能であります。勿論、これはあくまでも「垂直レベル」で複数の調性を見た時の場合ですね。

奇しくも、ふたつの異なる調性によるフレーズが「せーの」でハモっているのではなく、ズラして(輪唱のように)いる場合だと、基の主音が変化しようが特性音が変化しようが構いません。明確な多調観を得るという技法であるならば自ずと限られてくるかもしれませんが(例えばふたつのパートがそれぞれチャーチ・モード)、単一の調性では語りきれない世界観を手に入れるコトは可能なのであります。


左近治ブログでは対位法を学ぶためのモノではありませんから(笑)、その辺を学びたい人はバッハから学ぶべきでしょう。少なくとも左近治の語りたい事は、如何にしてコードの機能を跳躍するか若しくは調性を超越するかというコトを声高に語っているワケでして、その技法が対位法やフーガの技法に収まるモノでもないワケであります。


多くのハイパーな和声というのは、もはや単一の調性では呼び起こせない(説明が付かない)ため、いくら単一の世界観だけで分析しても限界があります(笑)。その手の、フツーでは説明がつかないような音というのはアレコレ音楽を沢山聴いて分析しているような人は少なからずそんな音楽に遭遇しているコトと思います。

一番重要なコトは、そのような「特異な」音に対する作者の意図を理解することと、その音の会得が必要となるワケでありまして、この手の特異な和声というのは子供が苦い薬を飲まされているようなモノに例えるコトができるかもしれません(笑)。大半は耳に慣れていない厳しい和声には拒絶反応を示すことが殆どだと思いますので。でまあ、フーガの技法とやらは近親的な調への「移ろい」を利用したものが多いのでありますが、ヒンデミットのルードゥス・トナリスという「調性遊び」とでも形容すればよろしいでしょうかね。それは近親性というのは排除した部分から構築されたフーガでありまして、こういう所からも学べるコトは多いかもしれません。必ずしもフーガでなくとも良いんですけどね(笑)。学びやすいという点では音形やらキッカケを重要視するのがフーガの技法の最たる点でありますから、あるフレーズを基にして調性や和声の機能を逸脱するという世界観においてはやはり動機付けという部分は一番蔑ろにしてはいけない部分ではないかと思うので、その辺を無視せずに学んで行くと興味深い発見があるのではないかと思います。


でも不思議なモンでして、そんな苦い音というのは耳が習熟されれば不思議とそれが無くてはならないくらいにカラダが欲しがる位変化するモンなんですよ(笑)。ココに達するのが遅いか速いかという個人差があるだけのコトで、そんなに難しく考えてほしくはないんですな。もちろん、この感覚を知らないまま天命を全うされる方もおられるでしょうし、誰もが必ずしも遭遇するワケでもないのは確かです。しかし、音を追究すれば出会す可能性は高まるってぇだけのハナシであります。

今回注意してほしい部分というのは、いわゆる属調の属調という九度関係にあるスーパートニックな方向という近親性を文章面だけで覚えるのではなく、そういう例を実感してから理論的に再考していただきたい所がポイントです。まあ今更言うのもアレかと思うんですが(笑)。


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では、そういったスーパートニックな方角は一体何を示そうとしているのか!?という所を語って行きたいのでありますが、率直なハナシ、スーパートニックな音程関係というのはバイ・トーナルな世界から見ればまだまだ入り口にしかすぎないようなモンですが、そういう世界を意識的に実感できるという点においては非常に遭遇しやすい所であるので、こうして取り上げているワケでありまして、あらためて色々と掘り下げていってみましょうか。