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転調感 (2) [楽理]

ココ最近、周囲から何度か訊かれたコトがあります。


「コレ、何て曲だっけ!?」
「コレ、元の曲誰だっけ!?」


フムフム。確かに最近CMでよく耳にする曲ですな。


中山美穂が出演しているドクター・デヴィアスやらソフランのCMでも使われているかと思います。

「コレ、元の曲誰だっけ!?」と訊ねて来た者は「モーツァルト!? ショパン!?」とかダメ押しで訊いてきましたっけ(笑)。


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この曲の正解はご存知の方も勿論いらっしゃるでしょう。無粋ではございますがサティの「Je Te Veux」ですな(笑)。


世がバブルな時代な頃、ピアノ曲ブームってぇのがありましてですね、ジョージ・ウィンストンのオータムやらに端を発して、サティのジムノペディやらショパンやら、その頃は「癒し系」なんて呼称はなかったんですが、いわゆるヒーリング系としての走りはこの辺りから端を発して、そこに便乗するかのように胎教なんてのが付いて回るようになったモノもありましたね(笑)。胎教なんてぇのは私は取り上げないのでその辺は語りませんが(笑)、まあ折角なのでサティの「ジュ・トゥ・ヴ」を語ってみましょうかね、と。


なんで「Je Te Veux」を題材にするかというと、「転調」を語るにあたって非常に好都合な曲だからです。

前回、転調を語るにあたって、転調を確定する直前の「動機」が無く、そのままごく自然に関係調という近親性の高い調に転調する云々、というコトを語ったと思うんですが、サティの「Je Te Veux」というのは実はさりげなく「動機」を忍ばせつつ、その「動機」というのも非常に希釈化させているものの毒を忍ばせるかのように転調させるんですな。

「Je Te Veux」は4つの調性から成立しています。主題はハ長調から始まりまして次のように列挙できるワケですな。

「C、G、F、Bb」

つまり、五度圏で見れば隣接し合う調を行ったり来たりするワケです。例えばト長調におけるナポリタンな音(As)やヘ長調におけるサブメディアント部の和声など、今日のポピュラー音楽においても興味深い味わいがあるのではないかと思います。


ところで、仮にこの曲の主題をペンタトニックで構成しうる主旋律にしたとして、先ほどの4つの調性に転調するような世界を構築したとすると、もしかするとそういう音世界の音価を半分もしくは四分の一くらいに凝縮させて聴いた場合、チェレプニンの世界に寄り添うような一部分を発見する事が可能になるかもしれません。


私が「Je Te Veux」で一番参考になる音というのはヘ長調の部分ですな。ヘ長調に転調するとは言え、転調部はいきなり属九の和音からヘ長調のトニックに解決するような世界ですが、低音部が「II -> V」という動きをすることによって属九をほんのり希釈化させているんですな。今日のツーファイヴ解体の原点みたいなモノを感じたりするワケですが、そのヘ長調のトニック部分も六の音使って「D -> Des -> C」とダブル・クロマチックさせるワケですね。私、ココが非常に好きなんですよ(笑)。特にDes音の引っ掛かり感が実に心地良いと言いますか(笑)。サブメディアントな音ではありますが、先ほど語っているヘ長調のサブメディアント部というのはその次に出てくる低音のDes部分ですのでご注意を。


先ほど列挙した調性は、ハ長調を基準とした場合、下属調、属調、属調のメディアント・メジャーという風に大別するコトができるワケですな。余談ですが「メディアント」というのは基準とする音から長三度高い方の音のコトを言いまして、「フラット・メディアント」というのは短三度高いというコトを意味します。一方、その転回形となる長三度低い方はサブメディアント、短三度低い方はシャープ・サブメディアントと呼びますのでご注意くださいね、と。


扨て、転調という情感には色んなタイプがありそうなモンですが、器楽的な面で習熟しきれていない人は転調をどう捉えるのか!?というと、実は耳というよりもアタマが追っ付かない状態になるようで、単純な転調という感覚を身に付けるだけでも最初は苦労してしまうようです。脳レベルでその手の情報が整理されると、初めて「転調感」というライセンスを発行してもらえるようなモンでして(笑)、無免許状態だと器楽的な情報が乱されてしまう状態にあるそうです。

この手の情報については、音楽之友社から出版されている「音楽の科学」に詳しいワケですが、実に素晴らしいこの本は特に第4~5章の部分は、楽理的な部分でも音楽という「情報」を認知する能力として考察する上でも非常に参考になるモノだと思いますのでオススメします。入手できなくとも国立国会図書館に行けば著作権保護期間内の書物であっても最大50頁はコピーサービスがありますので、その辺りも巧く活用するとよいかもしれません。少なくともこの「音楽の科学」という本の中には、我々がなにゆえ「断続した」(例えばオクターブを十二等分)ピッチを選んで情報として整理するのかというコトや、神経伝達系の側から見た楽音の情報処理など、実に興味深いことが載っているので読む価値は満載だと思います。一部の文章には同じく音楽之友社の「音楽の物理学」という本と類似する部分もあるのですが、いずれにしても両者ともに秀逸な本ですので一度は目を通されるコトをオススメします。


まあ、神経伝達系やら脳レベルの面は扨置き、「転調」というのは五線譜レベルでは転調を確定した所で調号が変わるワケですが、ジャズなどの場合主たるテーマの調が際立っていても、敢えて調号を省いて記譜することがあります。結果的に調号の無い所から変化記号で対応した方が煩雑化を回避出来るという所から、敢えて調号を用意しなかったりすることもあるモンですが、そのようなケースを留意しなくとも、大方転調というダイナミックな世界の変容の直前には、何かしら暗示している世界があるモンなんです。


その「暗示」というものが、転調後の世界を暗示するモノでもあれば、転調前と後とは違う調性だったり、前の調を引きずったモノなど色んなモノがありますが、大概の楽曲というものは、それが結果的に楽曲をマクロ的に見ると12個の半音階を用いている楽曲だとしても、断片的に見ればなんらかの調性をあてがっていることが大半のケースなので、なんらかの調性に支配されながら調を変えているのが大半の楽曲構造なのであります。無論、それとは違うタイプの楽曲構造など後日色々と語る予定なんですが、その辺は順序立てて語って行こうと思っております。


左近治の場合、楽曲をマクロ的に見た時にその結果として半音階を扱っている、というケースは軽視します(笑)。例えばハ長調のコード進行において「Dm7 -> G7 -> C」というコード進行があったとします。


「Dm7でCis音とFis音を使えるようにする根拠は?」

というコトに対して答を出すようなモノでして、Dm7上においてCis音はある程度モードに精通されている方なら難儀なモノではないでしょうが、Fis音となるとチト手をこまねいてしまう人が殆どだと思うんですな。


「和声」という括りは時として非常に便利なモノです。最たる例で言えば主旋律と歌詞が掲載されていてコードネームが記されている、と。和声という体系化した音の群れは、伴奏のリズムなど無関係に曲を支配しているモノです。あるシーンにおいては各楽器が担当するパートの旋律を奪ったという議論もあるでしょうが、和声が体系化していくことで音楽そのものが変化して行ったコトは間違いないのでありますが、多旋法な考え方を導入すれば、それは一度、和声の機能を超越するコトがあるワケであります。そういうシーンでは単一的な調性をも遥かに超越します。


それを超越するには「動機付け」が最も重要なんですな。「キッカケ」でもイイですわ。あるモチーフを基に変奏することは勿論、カノンの導入による発展というのは、それそのものを「カノン」と知らなくともポピュラー音楽に身を投じている人でも無意識レベルで行うくらい日常的な変奏が、こういう所に現れるのではないでしょうか。かのシェーンベルクとて「動機付け」というのは非常に重視します。ジャズ界隈で最も端的シンプル、且つ判りやすく異端でもあるのがセロニアス・モンクと言えるかもしれません。


まあ、モンクやシェーンベルクがどうこうよりも、和声を超越する「動機」、つまりアプローチの重要性というものを意識しながら、単一な調性を離脱するのがハイパーな世界に足を踏み入れる第一歩だと考えてよさそうなんですな(笑)。目まぐるしいほどの一時的な転調を行って結果的にそれが十二音という半音階を使ったモノではなく、常にミクロレベルでも半音階を意識しているようなモノと解釈していただければ宜しいかと思います。

しかしながら、調性をも完全に無視して常に半音階ばかり弾いていては「無学な音」に等しくなりかねません(笑)。ところが無学な耳として習熟しきれていない自己の聴取能力には実に寛容なクセして、偉大なアーティストの音に遭遇しようとも、それが異端であり奇異性の高いモノだと自己のボキャブラリーを超越しているが故にすぐにダメ出しをしてしまう愚かな輩が存在するのも世の常。この手の人達というのは自分の音には説得力を伴わないので、声を大にして荒げる程度が関の山なんですな。悲哀なことにこの手の人達というのはある程度楽理的側面に精通してしまっている所が更にダメな点(笑)。知らない方がもっと柔軟であったろうに、と思わせるモンです(笑)。まあ概ねフィル・ミラーやアラン・ホールズワースの「感性」というものをバッサリ断罪してしまうような人に多いかな、と(笑)。自分に無いボキャブラリーで責め立てられていると途端に情感が判らなくなってしまっているだけなのに「変な曲」とか言い出すワケですね(笑)。

九九を湯船で覚えている児童に平方根や三角関数ふりかざしてしまえば、これは教える側が愚か者(笑)。それらを通ってきて経験してきて、ましてや音楽の楽理面も追究してその場で実際に音楽を耳にしているにも関わらず、自分の感覚だけで音楽を選別してしまう者が本当の愚か者。こーゆーのに付ける薬探してあげてほしいモンですな。

こういう固定概念を生んでしまわないために、今一度「基本」という立ち位置を見極めながら、最前線の方を同時に語るかのように左近治は語って行こうとしているワケでありますので、その辺を誤解されぬようご容赦を(笑)。