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郷愁を誘う [プログレ]

扨て、前回のホールトーン・スケールを用いたメロディック・マイナーの世界という別世界の見方についてはいかがでしたでしょうか!?

まあ、シメのGm7 --> C7に用いた譜例はLogicProからそのまま出力してしまった、「やっつけ」譜面ではありますが(笑)、普段にも増して文章量が多いためFinaleにインポートして編集という作業をオミットしちゃったコトはご勘弁いただきたいな、と(笑)。

何はともあれ、発想を変えてアレコレ別の世界の彩りを楽しむのは心地良いモノでありまして、その世界がチャーチ・モード外に収まる世界観であれば私としては非常に心酔できる世界でありまして(笑)、さらにいえばドミナント7thコードのドミナント・モーションを極力避けたい私としては、ドミナント7thコード上であっても穿った見方をしたいものであります。

いずれにせよ、メロディック・マイナー・モードに沿った音を使うシーンというのはポピュラー・ミュージックにおいては少ないと思います。概ねジャズの世界において多く用いられるのが現実でありましょうが、実際にはジャズ屋の一部の人というのも真の意味でメロディック・マイナー・モードを棒弾きしているだけの、叙情的に扱えない人もいるワケで、少々扱いづらいスケールであってもそういう世界に触れていただければな、という配慮から先のような提示をしたワケであります。

和声の与えられていない単旋律というのは、その旋律から生じる構成音によって何かしらの調性を見出すことが可能なワケですが、仮にその単旋律が一部始終ひとつの調性の下に存在しているというコトまでは確定できないワケですな。勿論、すぐに想起しうる調性というのは旋律も持つ音価や拍のタイミングやらでも判別はできるものの、確定には至らないモノだって多くあります。

いわゆる「調性感が希薄」なフレーズというのは調性から見れば自由度は高いのでありましょうが、聴き手に「やさしい」、どこか調性の情感のヒントを与えるには、旋律のバックに流れている和声が「補強」しているようなモノも多くありまして、それこそ和声を与えなければ全く調性がつかめない、和声ありきの旋律だって普通に存在するのが現実です。

例えば5音音階。いわゆるペンタトニックという音階は多くの種類があります。

真の意味で5音音階で調性を確定するには至りませんが、たった5つの音から生み出される「唄いまわし」によって、調性を確定するどころか調性の呪縛から解き放たれたかのように調性を「うつろう」ようなフレーズの用い方など普遍的に存在するモノであります。


「君が代」の寸止め気分みたいなのがモードの世界を形容する最たる姿のひとつとも言えますが(笑)、例えば、「童歌」(わらべうた)。

これなんかは、実際にはどこかに調的な重心は備えているのでありましょうが、唄いまわしによって他の調的な世界を見せてくれるような移ろいがあったりする部分など非常に多くあるものでありましょう。それが譜面上では何かしらの調で表されていて臨時記号も発生していないモノだとしても、調的な世界はもっとより多くの世界を醸しているコトだって多くありますし、唄いまわしから得られる調的な移ろいの自由度というのは本来こういう所に存在するモノなのではないかと思うんですな。


例えば、終止音が確定していないのだけれども、幼い子供がご機嫌麗しくとにかく唄っている(笑)。予想もつかない音を選んで、調的な呪縛から解放されていて時折左近治を「ハッ」とさせてくれる音選びをして唄いまわす子供達の唄、これまで何度も耳にしたことがあります(笑)。彼らに器楽的な心得とか和声的な耳の感性の習熟度とか関係ない(笑)。本能から湧き出るフレーズですよね。感性そのものの。


そういった子供を愛でるように表現されている音楽は、例えばアクサク・マブールの1stアルバム「Onze Danses Pour Combattre La Migraine」収録の「Tous Les Trucs Qu'il Y A Là Dehors」という曲は、子供のご機嫌な様子にリハーモナイズさせている曲の一例ですね。とても微笑ましい曲です。

BTW、アクサク・マブールは2ndも良いアルバムですが、高度はハーモニーや旋律であっても且つ聴きやすいのは1stアルバムの方だと思いますのでオススメしちゃいます。特に、クリス・カトラーとフレッド・フリスが参加している「Mastoul Alakefak」という曲はメロウなエレピでカンタベリーの風合いのある曲で、これまた名作です。実は左近治がリリースを虎視眈々と狙っている曲でもあります(笑)。


扨て、ハナシを本題に進めますが、5月22日に久しぶりにKクリでリリースする曲は渡辺香津美の「Synapse」という曲です。

1985年発売の「Mobo Splash」というアルバム収録の中からチョイスしたのでありますが、前にもチラっと語ったように左近治にとって1985年という年は人生初のCDプレーヤーを入手した年でありまして感慨深いものでありまして、この「Synapse」を取り上げるにはやはりそれなりの思い入れがあるから故の選曲なのであります。

「Mobo Splash」というアルバムはマイケル・ブレッカーやデヴィッド・サンボーンが一部参加しているアルバムでして、このアルバムからは以前「着メロ」時代に「時には文句も」という曲をリリースしたコトもありましたっけ。

まあ、「十六夜」という曲も名曲のひとつだと思いますが、今回のこの「Synapse」という曲は、それこそ童歌のような素朴なメロディなのに(ペンタトニックではないですよ)、ハーモナイズの解釈が実に素晴らしいと思える曲でして、本来こういうシンプルな旋律を「単旋律」で唄ったとしても、人によってはこの手の自由度の高い、豊かなハーモナイズを心に抱いているのではないか!?と思えるくらい、音楽の可能性をしみじみと感じさせてくれる名曲のひとつだと思います。

和声的に耳が習熟されてなかろうとも、本来はこの手の調的な移ろいを許容できる感性を誰もが有していて、忘れかけてしまったそういう感覚をその「Synapse」という曲が呼び起こしているのではないか、という錯覚にすら陥ります。それくらい自然なハーモニーなのであります。実は非常に高度なコードワークですけどね。

巷でチャートを席巻するようなどうでもよい音楽に耳慣らされてしまって、この手の曲を聴いて今一度音楽を再確認していただきたいと思わんばかりです。神経構造から目覚め、覚醒されていくような気分にもなります。どこか郷愁を誘うようなシンプルなメロディと巧みなコードワーク。名曲です。


で、この「Synapse」のコードに覚醒していただいて、後日セカンド・ベースについてさらに語って行くこととなり、特殊なモードによる和声など語って行く予定となっております(笑)。