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ウォルター・ベッカー「メディカル・サイエンス」解説 [スティーリー・ダン]

扨て、ウォルター・ベッカーの1stソロ・アルバム「11の心象」日本盤限定ボーナストラックの「Medical Science」について解説する事にします。

思い起こせば14年前、左近治がベッカー自身の初ソロ・アルバムとなる「11の心象」を耳にした時は、「この人の和声感覚はなんと素晴らしいのだろう!」と非常に驚いたものでありまして、その後色々分析を重ねた左近治でしたが、このアルバムに出会った事で自身の「耳」が本当に変わったと実感できたモノです。それほどの邂逅と呼べるに相応しいアルバムだったのです。

「11の心象」に出会う以前から、私自身楽理面においては熟知していたつもりでしたが、知識ばかりが先行していて肝心のハーモニーを扱いきれていないというのは実感しておりました(笑)。それでも少なくとも周囲の人達とはひと味もふた味も違うハーモニーは追究していたんですけど、ベッカー先生に前には土下座しても足りぬくらい、タモある所で垂直にこうべを垂れても足りないくらいのノックアウトでした(笑)。

「11の心象」を聴くまでは私は「フェイゲン派」だったかもしれません(笑)。というのもベッカーは薬物中毒のリハビリを経てポツポツとプロデュース業を行っていたものの、彼独自のハーモニーを知ることのできるようなものには出会うことができず、なかなか実像が見えにくかったというのもあります。

と同時に、崇拝されるフェイゲンのソロ・アルバムなど手にしても、過去のSD作品の中で私が好むタイプの和声をなぜかあまり多く聴くことができずにもどかしい気持ちを抱いていたのもダブる時期でもありました。

強いて言うなら、フェイゲンの2ndソロ・アルバム「KAMAKIRIAD」収録の「Tomorrow’s Girls」のイントロは私の好きなタイプの和声ですが、今を思えばベッカーが加えたのではないかと思えるくらい、ベッカー色の強さを感じ取ることができるワケですね。

まあ、そんなイントロがフェイゲン本人かベッカーの加えたものなのかどうかは関係なく、ひとつ言えることは、ベッカーの和声の追究がSD内で影響力はかなり強く(毒ッ気も)、だからこそフィードバックなど普通に起こりえることだろうなと思います。

とはいえフェイゲンのそれはブルージーでジャジーで、ベッカーのそれと比べればかなり正統派の部類に属するものではないかと思います(それでも他のアーティストと比較すれば作曲面においても異彩を放っているのは明白)。SD関連作品において私が好むタイプの曲というのはベッカー色が強いと思われるタイプの曲だったのだろうと思うことになったワケです。

ベッカーの和声的な特徴というのは、特徴的なモードを導入して、それを和声的にではなく旋律的に聴かせるアプローチがSD初期(1枚目〜3枚目)は特に顕著だと思います。「旋律的」という意味は、例えばチャーチ・モードには収まらないモードで曲の調性を支配する。その特殊なモード上でダイアトニック・スケールを保って「一風変わった」音列を生むことで、「面白い音使うなー」というフレーズを活かすようなアプローチなワケです。

さらに、特殊なモード上でダイアトニック・コードを形成すると、通常の音楽シーンにおいてオルタード・テンションをふんだんに用いたような和声の代理的な音を呼び込むことが出来て、ドミナント・モーションに頼らないアプローチで多調感を生むことになる、と。

つまるところ「オルタード・テンションの解体」と呼ぶべき技法がちりばめられることになります。E7(-9、+11、-13)というコードがあったとします。ベッカーがこれを解釈すると、ベースに♭13thから入ったり、そこからメジャー3rdへ行ったりしながら、本来のルートを示唆する音をこのコードが現れているのが1小節内だとすると3、4拍目に置いたりとかという技法があるので、ベッカーのベースの音使いは調性を探る上でも決して他のフレーズに置き換えることができないほど意味のあるもので、一方でベッカーがギターを弾いてソロを取る時などは、一風変わったモードを想定しているので、その音並びというのがモードを探る上で多大なヒントになるのであります。バッキングがどれだけシンプルな和声でリフを構成していたとしても、ベッカーが本来想定しているモードをなぞってくれるので聞き逃すことができないんですね。

それらの「技」が「11の心象」では凝縮されていたことを確認できて、ようやくベッカーの凄さというものが理解できたというのが14年前だったというワケであります。

その後「Two Against Nature」とSDの再スタートでリリースされた曲を聴くと、「ベッカー色」というのはこちらの推測の域を出ないにしても判るようになったんですな。

例えば、「一風変わったモードを示唆する旋律的なアプローチ」というのは、アンサンブルにおいて和声はシンプル、メインパートのフレーズで用いる旋律でモードを示唆することによって生まれるアプローチの意味です。初期SDというのは概ねこういうアプローチが多いです。誰もが予想しているようなありふれた音をイイ意味で裏切るような旋律的なアプローチですね。

さらに「オルタード・テンションの解体」というのは、以前にもメロディック・マイナー・モードやハンガリアン・マイナーの導入によって形成されるダイアトニック・コード群関連の記事で詳しく述べた事がありましたが、オルタード・テンションを構成する和声を省いて行くと、メロディック・マイナーを示唆するようなマイナー・メジャー7thコードやディミニッシュ・メジャー7thを形成させることができます。そうして形成された和声を、本来の母体の7thコードの機能としては用いずに、省いたことで形成された和声が生じる世界観を演出するワケですね。

和声的に欲張ればジャズ的な音にもなりますが、その機能は遥かにジャズよりも多様性を生じることが多いです。ドナルド・フェイゲンはそういうコードをジャズ的に用いますが、ベッカーの場合は「解体派」の使い方が多いのです。

こういう世界観に目覚めている人の共通点は、長七はおろか、短九の使い方が巧いです。和声的に。

マイナー9thというコードがあったとして、その9th音、つまり2ndベースとして分数コードを用いるような、その響きを咀嚼できているタイプの人は、この手の世界観が強く現れます。例としてはCm9というコードがあったら「Cm9/D」というコトですな。短九の例は何もこればかりではありませんけどね(笑)。

以前に私がこのブログ用に用いたサンプル曲の中で「分数コードの分数」という和声を用いたことがありましたが、そういうアプローチもウォルター・ベッカーのヒントが多いに役立っております。

というワケで次回はコード進行も列挙しながら語る事にします。