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A Tribute To N.J.P(坂本龍一)について [楽理]

 記事タイトルは坂本龍一のアルバム『音楽図鑑』収録の「A Tribute To N.J.P」(以下「NJP」)の事でありますが、ビデオ・アートの第一人者ナム・ジュン・パイク(白南準、Nam June Pike, 백남준)に捧げられた曲であるのは知られた所であります。

 韓国系アーティストであるものの、出身大学は東京大学、ミュンヘン大学(LMU)で美術のみならず音楽の学位も有しており、アイメルトやエップラーをはじめ、シュトックハウゼンでも有名なケルン派によって設立されたケルン音楽スタジオ(WDR)にも勤務していたという、ビデオ・アートのみならず現代音楽をも股にかける人物で、妻も日本人の美術家久保田成子という事もあり、日本との関係は非常に深い人物であります。

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 西洋音楽フィールドで見れば、尹伊桑、ナム・ジュン・パイクは当時から相当に前衛的であった事もあり両者共に日本と関わり合いの深い人物なのでありますが、史実を専門的に学ぼうとしない限り、尹伊桑はおろかナム・ジュン・パイクの名前と活動のそれは一般的には皮相的にしか知られる事がないのかもしれません。

 そうした人物に楽曲を捧げるという曲名になっている「NJP」は、アルバム発売頭初はアルバムB面の最後を飾る楽曲となっておりました。

 アルバム『音楽図鑑』は、色々な形態でリリースされた物で、付随するボーナス盤的存在である物も含めて2枚組となっていたりしておりましたが、CDというメディアが普及する前のアルバムでしたのでアルバム「本編」と呼べるそれは、A/B面各23分以内に収まる様に収録する必要があった事から、坂本本人も選曲に悩み苦渋のアルバム形態となっていたのであろうと思われます。

 今でこそ『音楽図鑑』はアウトテイクも含んだCD2枚組としてリマスタリングを施されてリリースされておりますが、日本生命のCM用の楽曲やNHK-FM番組用の楽曲なども纏めて収録されている事を勘案すると坂本本人にとって『音楽図鑑』は単なるアルバム・タイトルなのではなく、この辺りの時代のライフワーク全般が『音楽図鑑』と呼ぶ活動時期なのではなかろうかと思います。

 名作の誉れ高い『B-2 UNIT』の後にリリースされた『左うでの夢』となると一般的に評判は芳しくない。アルファ・レコードと付き合いたくないかの様にYMOとも距離を置いて『Merry Christmas Mr. Lawrence』や『Coda』をリリースしていた事を考えると、フェアライトCMIを手にして大貫妙子のアルバム『SIGNIFIE』辺りからが、坂本の転換期=『音楽図鑑』だったのではなかろうかと思うのです。

 そうした転換期にリリースされたアルバムの最後に収録される楽曲だからこそ、作者が思う大いなる音楽的な意味を持たせているのであろうと思います。

 レコードというメディアが中心だったアルバム作りというのは概して、B面の最初に収録される曲がアルバムの「顔」という位置付けでありました。勿論セールス的にもヒットを目論む楽曲が多く、こうした選曲はアーティスト側と制作側とで話し合われて最終的に収録曲順が決定されるものの、収録曲順に関しては原盤制作に費用を投資している側である制作側の声が強く反映されていたであろうと思います。

 坂本龍一の様なアーティストの場合、楽曲そのものはポップスのフィールドの範疇に収まらない程に作風は多彩であり、曲調においても徹頭徹尾調性が機能和声を維持するという楽曲の予見が容易い物とは対極にありますから、商業音楽での曲順のノウハウがそのまま活かされるという訳でもないので、どの曲が「売れ線」となるかという判断は難しい所があります。

 とはいえ、B面の最初に収録された「旅の極北」の存在をあらためて語るとすれば、ブラームスを思わせる様な線の強さがありますし、「NJP」がB面冒頭を飾るというのは遉に趣きが異なるであろうと思われる事でありましょう。

 特に「NJP」の線運びは複雑であり、冒頭から和音進行は三全音調域を三半音(=セスクイトーン)に依って遠隔調を近しく引き寄せる様(主和音からの後続への進行が単に唐突であるに過ぎない是認されるべきもの)に出現するので、まるで半音階の海を雄大に泳いでいる様にすら思える曲であります。本曲の調を一義的に特定する事は難しいでありましょうし、無調号が相応しいと思って採譜をしているのもこうした理由からであります。

 孰れにせよ本曲「NJP」はアルバムの中でも相当に厳しい響きがあり、誰もが聴きやすかろう「Self Portrait」とは一線を画すタイプの楽曲であるので、人によっては好まれないタイプの楽曲でもありましょう。私個人としては『音楽図鑑』で好きな曲は本曲と「Replica」なのでありますが。

 楽曲の調性を特定しやすく(ハ長調や嬰ト短調など)、それらをアルバムに収録するとなると、制作サイドは概ねソナタ形式をヒントにして関係調などの近親的な調性を並べてアルバム作りに活かす事も多々ありました。

 然し乍ら、アルバム制作というひとつの目標に向かって、未だ作られてもいない楽曲の調性まで計画(=tonal plot)されているという状況はどちらかというとシンガー・ソング・ライターの領域で多く見られた手法でもあり、多くのクライアントの要望と作者も多くの人を起用して楽曲が集められるとそこには総合的なアルバムのテーマからは逸脱した寄せ集めになってしまう事も多いものでした。

 調性の側から関係調などを見立てて曲順を思案する様な悠長な事を言っていられなくなったのが商業音楽の悲哀なる現実で、その後それらは「シングル・ベスト」と揶揄されるアルバム作りに向かう事を鑑みればアルバムに収録される曲順というのは単なる羅列でもないという事がお判りになるかと思います。特にレコードB面の3曲目以降というのはアルバム収録楽曲の中でもマニア向けというか、一般受けしなさそうな楽曲が収録される事が多く、坂本龍一もそれは例外ではなかろうと思います。

 今でこそ『音楽図鑑』はアウトテイクも収録されて「M2 BILL」の様にスティーリー・ダンを感じさせる様なインストゥルメンタル楽曲もあったのかと驚かされますが、「BRUC」というのは「Bruckner」の事なのであり、これに関しては山下邦彦著『坂本龍一・全仕事』などで存在を知られていた物でした。いざ「BRUC」を耳にするとあまりにチープな音で拍子抜けしてしまうのですが、楽曲終盤で実際には複調を企図しているという事が判るという仕掛けがあったりもします。

 前掲『坂本龍一・全仕事』での坂本龍一へのインタビューおよび『坂本龍一の音楽』で追記された同氏へのインタビューによると、「NJP」は1975、76年に作られたという物で、1920年代のフランス音楽の手法があると書かれております。その後「NJP」という標題を付けるに当たってはジョン・ケージのナム・ジュン・パイクとの関係が着想となっているというメモの図版が載せられております。

 そうした「複調」へと飛躍しうる物が「NJP」にも確認する事ができるので、「NJP」の核心に触れて行こうと思うので、茲から譜例動画と合わせて語って行こうかと思います。


 扨て、茲から「NJP」の楽曲解説に入るとしますが、現在ネット上で販売されている「NJP」のPDF楽譜の多くはアウフタクトで書かれてしまっております。結論から言うとこれは解釈が甘いと言わざるを得ない物で、本曲は「強起」である物です。




 加えて、拍節構造も複雑で混合拍子で書いても遜色ないのですが徹頭徹尾3/4拍子の中で拍子を謾いているのが特徴です。勿論そこにはヘミオラを使っている所もあれば、5小節の間に5/8拍子の拍節構造を6回続けているという箇所もあるので、非常に手の込んだ構造があるという事を前提に本曲の解説をして行こうかと思います。

 1小節目。コードは「E♭△9」です。多くの人々が冒頭の3連符部分をアウフタクトだと解釈してしまうのは、オリジナルでのサックスの単旋律を聴くと、冒頭の3連符のそれが確かに複前打音たるアウフタクトであるかの様に聴こえてしまうからでありましょう。

 無論、単旋律としての振る舞いこそが「ギミック」なのであり、その後で伴奏が付けられるとなると左手 [es・b] の五度からスラーで囲って [d・f・b] が和声的に補完される様に施されている訳ですが、茲で仮に3連符の拍部分をアウフタクトとして採ってしまうと、左手最低音はアンティシペーション(先取音)なのか!? という疑問を抱かざるを得なくなってしまいます。

 というよりも、伴奏が入った時点で《なるほど、本曲は弱起ではなかったのだ!!》という風に聴かれるべきなのですが、多くの人は冒頭のサックスの単旋律の印象が強すぎて恰もアウフタクトとして解釈するのであろうと思います。

 アウフタクトと強弁せずとも、この3連符の部分を「1/4拍子」という風に解釈があってもそれは別の意味で良い判断ではありますが、冒頭から1/4拍子を与えた時点で拍子の世界の神から見ればアウフタクトの音楽的粉飾でありますから、強起として聴かざるを得ない作者が脳裡に映ずる小節線を吟味してこそ、楽曲の持つ側面を聽者の手前勝手なイメージと照らし合わせる事が新たな理解が生まれるであろうと思います。

 まあしかし、冒頭の最低音さえ伴奏を耳にすれば決してそれが移勢(シンコペーション)ではない事がお判りになるとは思うのですが。

 仮にも、スラーで結ばれる上音へのそれが同時に [es・b・d・f・b] という風に和声的に弾かれていたとするならば移勢だと捉えざるを得ないでしょうが、そうではない所に本曲の拍節構造としての複雑さと、拍節的に謾く意図があらためてお判りになろうかと思います。

 2小節目。コードは「F♯m11」ですが、先行の主和音からすると実に唐突なコードです。とはいえ主和音の後続はどこへ進んでも咎めを受けないのも事実でありますし、実質的には三全音調域を近しく呼び込んでいる訳です。その近しさが「三半音」=セスクイトーンという距離なのです。

 この「F♯m11」は実質的にイ長調でのⅥ度の和音と見る事が出来るでしょう。すると調域としては変ホ長調(E♭)とイ長調(A)という対蹠関係にある調を、三半音進行させて手繰り寄せているという訳です。加えて、1〜2小節間ではそれぞれの和音構成音三全音を形成し合う組み合わせが増えるので、2和音間での生ずる三全音を恰もドミナント的に見立てる事が可能ともなります。

 2和音間で三全音を形成する音群は次に挙げる様に、

[es・a]
[g・cis]
[b・e]
[d・gis]

という風に4組の三全音を形成する事になります。十二等分平均律には6組の三全音を形成する訳ですから、その内の4組も形成するという状況となれば、和音はほぼ半音階のどこにでも帰着可能かの様にも振る舞える訳です。

 心憎いのは、これらの2和音の和音構成音の間に異名同音としてのコモン・トーンが無い所であり、換言すれば2和音間で掛留を呼び起せない唐突な脈絡であるという事の裏返しなのでもあります。

 また、1小節目のコード「E♭△9」は「Gm7」を内含しているとも言えるので、3小節目まで短和音が半音下行進行している様な動きにもなっているのです。

 こうした半音下行進行をジャズ的な視点で捉えるた場合真っ先に思い浮かべる事が可能な手法がトライトーン・サブスティテューション(三全音代理)での「♭Ⅱ→Ⅰ」であります。

 所が坂本はドミナント・コードを使っている訳ではありません。これが副和音を知り尽くしたが故の解釈に伴う音楽語法のひとつとも言えるでしょう。つまり、1小節目の「E♭△9」の調域でのドミナントは「B♭7」であるのですが、「B♭11」を積み上げれば代用は可能な訳ですね。[as] さえ除けば副九の和音と同様なのでありますから。

 ですので、「B♭7 -> A」と進むかの様にして進行させているという訳です。こうした副和音の捉え方というのはKYLYNでの「I’ll Be There」のブリッジ部でも顕著でありますが、副和音の和音構成音が重畳しく発展している姿というのは、属十一や属十三の和音の根音を取り違えただけの姿でドミナントという機能を暈滃しているに過ぎないという所に帰着する訳です。

 そうした解釈を伴わせる事で、ドミナント・コードが存在している訳ではないのに調域を想定した上で磁針が北を指すかの様にしてドミナントの位置を意識していれば、自ずとドミナント・モーションに類する動きを副和音上でも活かす事ができるという考えに基づいて作っているのであろうと思われるのです。

 こうした考えは、属和音でもないのに三全音を包含する副和音の例などに応用が可能になる訳です。元はアルフレッド・デイの《Ⅳ6は属十一・十三の断片》であるという所に端を発して近代和声が拡大していく訳であり、アーサー・イーグルフィールド・ハルの『近代和声の説明と応用』やその後のヒンデミット『作曲の手引』でも三全音を含む副和音の紹介はある様に、音楽的語法として1920年代のフランスと述べているのはこうした理由があるからでもありましょう。

 扨て、2小節目2・3拍目での低音部の八分音符のフレーズは私の創作でありますが、ここでの八分音符の1〜3音目は上声部の反行形で三度音程を採っただけのフレーズなので私の創作と言うのも烏滸がましい、元の旋律が存在するが故の考えうる三度の随伴に過ぎぬ物で、決して創作とも言えぬ動機であります。

 無論、直後の4音目は上声部に対して転回位置で見た時二度音程を採っているので、三度の随伴という形からはそれますが、対位法をヒントにしつつも対位法的な線運びではなく(下声部のそれは上声部と3度を保っただけの分散和音)、後続和音の [f] に対して増一度下行を採った形で入りたかったが故の変応になっています。下声部の創作部分の4音 [a - gis - cis - fis] は、[a] の後に完全四度を重ねているフレージングの妙味があるという事はあらためて示しておきたいと思います。

 3小節目は「Fm9」。調域が半音下行しているという事と同時に、1小節目の主和音が変ホ長調の上主和音に帰着している様にも考える事は可能だと思います。つまり、1小節目からの「イチロクニーゴー」パターンでの「Ⅰ→Ⅵ→Ⅱ」という風に。この想定をする場合、2小節目「F♯m11」は、変ホ長調のⅥ度上の和音「Cm」の三全音対蹠関係となっているという事もあらためてお判りになろうかと思います。

 同小節2拍目のショート・フェルマータはデモとしてほんの僅かなルバートで歪つな演奏にしかなっておりませんが、もう半拍分ばかり延ばしても好い位です。

 4・5小節目はコードが「Fm9」のままなのですが、5小節目の3拍目高音部については語っておく必要があろうかと思います。坂本本人は本箇所3拍目の下行旋律を [b - gis] と書いています。コード表記が「Fm9」のままであるならば当該部分の [gis] は [as] であろうと思われるかもしれませんが意図的かつ明示的に [gis] を書いております。

 それを勘案するに、[gis] は後続和音となる「Bm11」から類推されるアヴェイラブル・モード・スケールからの「♮13th」の [gis] なのであろうという判断におよぶと共に、随伴する左手の伴奏も茲で和音を奏する必要があるのだろうという推測が成り立つという訳です。

 畢竟するにコードの関与を受ける音楽的な段落は、[gis] が現れる3拍目八分裏という事を示唆しているのであろうと推察するのですが「NJP」のオリジナルの伴奏および「MBL」での伴奏は6小節目1拍目拍頭で弾かれています。

 それならば当該箇所を態々 [gis] で書く事もなかろうにと思うのですが、[gis] はやはり後続和音「Bm11」の先取音なのであろうと思わざるを得ないのです。なにせ作者は坂本龍一ですから、楽譜に残した「底意」は深く掘り下げる必要があろうと思うからです。

 確認し得る坂本本人による楽譜のそれは、あくまで着想時のスケッチなので主旋律とコード・ネームしか振られていない物です。低音部のそれまで書かれているという物ではありません。然し乍ら「Fm9」上の音符の表し方としては矛盾した表記となるその明示の仕方は音符に示された「インデックス」の様な働きで書かれているのであるのでしょう。

 今回私は、5小節目3拍目拍頭までを「Bm11」が関与する音脈と捉え、坂本が [b] と示していた音ですらも [ais] にして [ais - gis] を形成させ、当該箇所で「Bm11」の先取音として和声を弾き始めています。但し、根音を決定的に強調するのは6小節目での1拍目拍頭です。

 こうしたアプローチを採る場合、ヤン・ラルー風に言えば小節線を跨いだ「ハーモニック・リズム」という訳ですから、実質的には同小節3拍目で「Bm11」が関与する事となります。とはいえ後発の6小節目でB0とB1によるオクターヴの強調こそが、先行させた「Bm11」の断片とをスラーで接続しているのは、楽曲冒頭での《アウフタクトか否か!?》というそれこそが、ハーモニック・リズム形成と伴奏のない拍節感に伴うジレンマである状況をスラーで括ったのと同様のアプローチとして改変しているのです。

 無論、私のアプローチを採れば5小節目3拍目低音部に内含する [a] と 同箇所での高音部 [ais] とが転回位置で増一度としてぶつかってしまう事を批判する方はおられるかと思います。然し乍ら直後の6小節目1拍目の拍頭で「安寧」が来る事を思えば、直前の不協和は牽引力を更に得るための強烈な和音外音として「Bm11」を先取りさせているという私の狙いがあっての事なのです。余談ですが、パット・メセニーは4/4拍子の場合、明らかに異なる調域となる2コード間で、2拍先取りする事は珍しくありません。 

 なにはともあれオリジナルに勝る物は無いと私自身思っています。その上で、「Fm11」と「Bm11」という2コードを接続するに際し、これらは「三全音進行」を形成しているのであるから、結果的にドミナント・コードではない三全音を形成している以上、過程での不協和は後続への推進力に変える物であると私は信じているからこそこうしたアプローチを「臆面も無く」やっているという事はご承知おき下さい。

 2コード間が三全音進行であるという事は、それを俯瞰した時にドミナント・コードを1つ用意してオルタード・テンションを使うよりも更に半音階社会に寄り添っている状況であるという事を今一度念頭に置いた上で、私の先取音のアプローチが牽引力を更に得る為の不協和という反発力なのだという事を吟味していただければと思います。私とて単に闇雲に弄っている訳でもありません。


 6小節目。安寧の「Bm11」が聴かれますが、2・3拍目での声部交差は注意が必要です。「LH」という風に左手の注記を与えておりますが、従前での主旋律を右手で奏していた流れから、2・3拍目は左手で主旋律を奏する必要があるという事です。その上で右手は上音を更に稼ぐというアプローチです。勿論、1拍目低音部 [B0・B1] のオクターヴから高音部の上音へスムーズに左手を交差させられるのならば、主旋律を右手のままで弾いても構いません。

 このアレンジの場合、オリジナルのテンポならば左手を交差させる方がスムーズでしょうが、速いテンポとなるとどうでしょうか!? 力量を試されかねない動きではありますが茲に関しては各人の解釈にお任せします。

 7小節目のコードは「E△9」となり、先行和音からは調的な下行五度進行となっており、リハーサル・マークも「B」を充てているので音楽的な段落として非常に明瞭な部分であります。

 唯、最も注目すべき点は、本小節から11小節までの5小節間にて八分音符×5つのパルスを1組とする拍節構造が6組を為して旋律形成を施している所にあります。

 このポリリズムは実に凄いです。拍節感に伴うリズムの発想そのものよりも、5/8拍子フレーズを6回続ける様にして拍を欺き乍ら歌心が横溢する線運びのセンスに脱帽せざるを得ない凄みを感じるのです。プログレに慣れ親しむヘヴィー・リスナーでも、本曲当該箇所の5/8拍子となる拍節構造を紐解く事の出来る方は相当少なくなるのではないかと思います。

 加えて、坂本龍一という人は「5」という拍節構造を非常に好む方の様で、自身の特徴としていた様に思える所があります。例えば、高橋ユキヒロのアルバム『Saravah!』収録の「Elastic Dummy」でのシンセのソロの出だしは5連符を執拗に明示し、YMOのアルバム『TECHNODELIC』収録の「Stairs」のピアノ・ソロには小節線を跨いだ2拍5連が出て来たりと、5連符を非常に得意としているという特徴も見受けられます。













 8小節目のコードは「C11」。ドミナント系の和音として本曲では初めて登場しますが本位十一度=♮11thを纏っている所が素晴らしく、実質的には「B♭△/C△」のポリコードという解釈も可能な訳です。とはいえ、同小節3拍目では伴奏を空虚にした上で高音部にて [des] と変応させているのですからこの箇所では「B♭m/C△」という風に変応したとも解釈する事が可能とも言えます。

 9小節目のコードは「F♯11」。11thコードが連続しているだけではなく、先行和音からの三全音進行であるという事も見逃してはなりません。半音階社会により一層近付いている事を念頭に置いた上で、2和音間を俯瞰していただきたい所です。

 加えて同小節1拍目での高音部の付点八分音符ですが、これは「MBL」での演奏の重み付けをそのまま援用した物です。歪つなウインナー・ワルツではより一層「癭」を作るので平滑な八分音符のフレーズから敢えて逸脱させました。

 10小節目もコードは引き続き同様ですが、3拍目高音部での16分3連符拍頭の [a] は「F♯11」の第3音 [ais] に対する下接刺繍音としての装飾的な和音外音でもあります。

 11小節目も11thコードが連続しての「D11」となります。つまる所、Bパターンに於ける3つの11thコードをそれぞれポリコードとして見立てると「B♭△/C△」「E△/F♯△」「C△/D△」という風に、B♭△から五全音を使っている状況を確認する事ができる訳です。六全音となれば半音階を満たす事となる訳ですから、半音階社会に近付き乍ら機能和声的な全音階社会は疾っくの疾に逸脱している事があらためてお判りになろうかと思います。

 尚、この後の12小節目からヘミオラが明確化しますが、実際にはヘミオラは本小節の低音部で示されています。私は更に最低音の方で3拍子を4分割した上での [3:1] 構造を充てたセスクイテルツィアを採ってCパターンへと繋いでおります。


 12小節目からはCパターンとなり、コードは「G△7(♯11)」です。前述の様にヘミオラが明確化する箇所であるので、本来ならば3拍子構造を付点四分音符×2で表すのは異端なのですが、状況がヘミオラなので敢えてこの様に書いております。

 本譜例動画の初稿時には同小節上声部2拍目裏の最高音を [g] にして先行音からの [cis] と増四度下行として改変しておりましたが、原曲の主旋律を弄ってしまうのは遉に罪悪感を抱いたので原曲通りの線運びにしてアップロードをし直した次第です。

 13小節目のコードは「C♯m9」ですので、先行和音からは三全音進行という事になります。但し、和音の前後関係は長・短として互いに入れ替わっているので、後続和音のカウンター・パラレル(全音階的に三度上方の意)を見れば「E△7」を内含している事にもなるのはあらためて注意して欲しい所です。

 14小節目のコードは「G♭△7(13)」となり、先行和音を考えれば下方五度進行として「F♯△7(13)」と記しても良さそうですが、坂本本人がこの様にコードを充てているので、私は今回それに倣って斯様に表記しております。

 15小節目のコードは「D△7(♯11)」が現れるので、13小節目の「C♯m9」が「E△7」を内含する事を思えば、12小節目からは「G△・E△・G♭△・D△」という風に、「D△─G△」という完全四度の間を巧みに短二度・長二度・減三度間隔で「塗りつぶす」様に和音を配置している様に見立てる事もできます。

 コード進行として見れば非常に唐突な進行であるにも拘らず、それほど突飛にも聴こえない事に驚かされますが、メジャー7thコードが三全音である「♯11th」を纏うのは矢張り半音階社会を導く為の音脈である事に違いは無いでしょう。

 16小節目のコードは「F♯m7」ですが、カウンター・パラレルを見れば「A△」を内含するので、これにて「D△─A△」という完全五度間を巧みに和声的に埋めている状況をあらためて確認する事ができます。

 17小節目はDパターンへと移行し、コードは「F11」となります。これをポリコードとして見立てれば「E♭△/F△」と同様なのであり、前述の5度間を塗りつぶす様に配された長和音が無かった所に半音階的に配されている事があらためて判ります。

 斯様な状況が常に視野に入っているという事が同時に半音階社会が常に視野に入っているという風に言い換える事が可能なのですが、本曲の主旋律は背景の拍節構造や和声と比較すればよくぞ歌い上げていると思わんばかりの線運びであるので、あらためて和声付けの巧みさも窺い知る事が出来るでしょう。

 18小節目のコードは「Em9」ですが、カウンター・パラレルに内含されるのは「G△7」という事を思えば、先行和音「F11」をポリコードと見立てた時との長和音の進行の対比があらためてお判りいただけるかと思います。

 19小節目のコードは「C9(♯11、13)」という「♯11th」を纏った属十三の和音という事となります。然し乍ら、同小節3拍目低音部で [g] を鳴らしている箇所は、オリジナルもそうですが響き的にはこの拍と次の小節の拍頭の八分音符分だけ掛留させた「Gm6」に聴こえます。

 ですので20小節目の1拍目拍頭での低音部では「Gm6」と見なしうるヴォイシングが施してあるのがお判りかと思います。とはいえ、この「Gm6」は「C9(♯11、13)」に内含される断片として捉えられているのでしょう。加えて、局所的に現れる「Gm6」をもひとつの和音の断片として見立てているという本曲の和声の捉え方というのが本箇所で明らかになる訳です。

 そうした点を鑑みれば、2コード間が三全音進行している状況を俯瞰して「ドミナント」の様に見立てたり、本位十一度を含む属和音をポリコードとして捉え乍ら調性を飛び越えようとする様を解釈したりするのは、この状況こそがヒントになっている物として理解していただきたい訳です。

 そうして20小節目の1拍目八分裏からは全音音階の上行形を採っているという姿で表しております。全音音階ですのでコード表記の側からは埒外となってしまう「G♭」が発生してしまいますが、線の追い方を優先すればコード表記に靡いた形で「F♯」を書いてしまうと全音の上行進行が崩れてしまいます。

 とはいえ、高音部の最後の音は [fis] に帰着せざるを得ない全音音程での順次上行進行という流れとして表す必要があり、異名同音が併存してしまうというのは全音音階のジレンマに過ぎないのす。

 例えば能く見受けられる全音音階(ホールトーン・スケール)の解説で [c] から上行形を採った際、[c・d・e…] の後に [fis] が現れ、そこから [gis・ais] と採らずに [as・b] と充ててしまう例を屡々見受ける事になります。まあ、前者を選択した所で [ais・c] は減三度になってしまうというジレンマが起きてしまう訳ですが。

 但し本曲は全音音階の5音列である為、全音音程の横の流れを綺麗に保つ事が可能です。右手と左手で開始音が異なる事で横の流れとしての全音音程を維持出来ても声部毎での異名同音が生じてしまうというジレンマを針小棒大に論ってもらっては困るのでご容赦いただきたいと思います。

 悲しい哉ポピュラー音楽での配慮の浅い楽譜というのは、こうした線運びでもコードから想起されるアヴェイラブル・モード・スケールに準じた表記に落とし込んでしまう嫌いがあるので、その辺りの考えが私は違うのであるという事もあらためて理解していただければ幸いです。

 21小節目も「C9(♯11、13)」の関与は続きます。とはいえ前小節3拍目が「Gm6」の様な響きを使っていた事もあり、本小節1拍目から2拍目拍頭までは「Gm6」っぽい名残りとなるフレーズが左手からも感じ取る事が出来ます。とはいえ和音本体の響きをあらためて示すかの様にして同小節3拍目で [b・d・fis・a] という、7th・9th・♯11th・13thの4音で結んでいるのです。

 22小節目のコードは「A♭13」なので、A♭音を主音とする変イ短調の全音階の総和音という事になります。余談ではありますが、内含される11度音は本位十一度=♮11thであるという所にはあらためて注意が必要であろうと思います。

 23小節目は終止和音となり、坂本本人はコード表記を「F♯7(♯9)」と充てていますがオリジナルおよび「MBL」での終止和音は「E♭7(♯9、♯11)」です。然し乍らコンデンス・スコアでは「F♯7(♯9)」と表記されています。

 なぜこうした解釈変更が起きているのか!? という所に疑問を抱かざるを得ないでありましょう。考えられる点として先ずは和音本体の相違よりも、先行和音「A♭13」から「F♯7(♯9)」という、スコアに示されているそれら2つのコード間が「減三度」であるという所。ココがまずひとつのポイントであろうと思います。

 つまり、これら2つのコードの間には暗々裡に [g] の存在があるが故に「G♭7(♯9)」とは表記選択を採っていない事が明白である訳です。ならば [g] の関与がどちらかに存在する筈です。

 無論、[g] の存在はコード表記がどうあれ終止和音に使われております。それで私が採った解釈は次の通り。

 着想段階では [fis・ais・cis・e・g・a] だったのであろうと。それが後に [es・g・b・des・fis・a] という風に変化したのでしょう。次に示す様に、

異名同音が [ais|b] [cis|des]
コモン・トーンが [g・a・fis]

つまるところ、当初の「F♯7(♯9)」に内含する第7音= [e] が [es] に変化している事となる訳ですが、私は着想段階の「F♯7(♯9)」を尊重しつつ、「♭9th」相当となる [g] 音を加えた「A7/F♯7」のポリコードにしたという訳です。

 その理由に、[g] 音さえ加えれば [b] との結合差音として [es] は得られるので、知覚的には十分補完されるという事が先ずひとつ。それに加えて、着想段階での「A♭とF♯」という減三度が意味する [g] の存在。それが後続和音にはどうしても必要だった訳です。

 すると、ベルクのヴォツェックの様にドミナント7thコード上での「♭9th」と「♯9th」の和声的併存という状況を視野に入れる必要があり、結果的にコード表記はポリコードとなるという解釈をしたという訳です。


 まあ人によっては《凡ゆる譜例動画はオリジナルを忠実に反映しろ》という声もあるでしょうが、それを望むならご自身で採譜するなり演奏するなり録音物や譜例に仕上げてくださいな、と私は言いたい訳ですね。

 仮にも私がオリジナルへの配慮が無く手前勝手な臆断だらけとなってしまっているならば批判されても已む無しでありましょうが、実際の私は凡ゆる方角から対照させた上で己の手の内を明かした上でオリジナルと異なる箇所を赤裸々にしているのに、手の内を明かした途端に槍玉に挙げるというのはちょっとお門違いではないですかね!? という主客転倒な気がして私としては腑に落ちない訳ですね。しかも見てご覧為さい。ネットで出回っている有料PDF楽譜の「NJP」のそれらを。総じてアウフタクトで書かれているそれの何処がオリジナルに忠実なのか!? と(笑)。

 過去にも私は「フォト・ムジーク」の譜例動画を制作するにあたって、リリースされた形ではなく着想段階と思しきコンデンス・スコアのコード進行でアレンジを施した事もある様に、原案を無視しない為に敢えて手を施しているのです。

 オリジナルに勝る物は無いと私自身思っております。定旋律が用意されていた場合、対旋律は手前勝手な創作物なのか!? それは違います。定旋律がしっかりとあるからこそ《予見しうる》對旋律はオリジナルの影響下にある物です。それと同様の改変に過ぎないという事をお判りいただきたいと思います。

 特定アーティストへ抱く偏愛が無謬主義である事を助長してしまう側面は多々あります。音楽を偏愛なさらず愛していただきたいと思わんばかりです。

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