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坂本龍一の着想段階のコード進行と完パケとの差異 ─「Tibetan Dance」採譜に際し─ [楽理]

 私は今回YouTubeにて坂本龍一の「Tibetan Dance」の譜例動画をアップロードしたのでありますが、譜例として採譜した部分はダブル・ベース(=コントラバス)のソロ部分なので《なんで本編部分をアップしないのだろう!?》と疑問を抱かれる方は少なくないかと思います。



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 私のブログや譜例動画というのは、楽理的に語る上でブログの文字だけでは到底伝わりづらかろうという核心部分を楽曲例として取り上げている物であり、音楽の深部を掘り下げて解説するまでもない部分を敢えて譜例動画用のデモを制作する様な事はしていないので、本曲も「本編」となる部分は解説が不要であると判断したので斯様な拔萃となっている訳です。

 坂本龍一の高次な和声観が能く表れているのもダブル・ベース・ソロ部分だと私は思うのでありますが、喩えるならばスティーリー・ダンで高次な和声観を語る必要のない《調性感が支配して曲の見通しがズブの素人でも》把握しやすかろう「Peg」や「Hey Nineteen」を聴きたい様な人に《他当たってくれ》と言いたくなる様なモノでして、今回の譜例動画の当該箇所はあらためて楽理的に語っておく必要があるだろうと思い制作したという訳です。

 当初は全く制作しようとも思っていなかった楽曲なのですが、つい先日YouTubeの方をザッピングしていると「Tibeten Dance」をカヴァーする動画がサムネイルで目に入って来たので動画の一部を見てみたら、ダブル・ベース・ソロの5小節目となるコードを「C△7/F♯」と弾かれてしまっているモノを見付けてしまい《喂々、こりゃマズイだろ》と嘆息し、急遽デモを制作してみようと奮い立ったという訳です。

 そもそも前掲の箇所のコードは「Em6/F♯」という2度ベースの型になるのが相応しく、仮に2度ベースの型を採らない解釈だとしても「C♯m7/F♯」という4度ベースの型という何れかの表記になりそうな箇所を [cis] ではなく [c] として解釈してしまっているという人は、恐らく市場に出回っている信憑性の低い楽譜が斯様な表記あるいは採譜を鵜呑みにしてしまっているのかもしれないとも思った訳ですね。

 扨てそういう訳で譜例動画の解説と行きたい所でありますが、本記事タイトルからもお判りの様に「Tibetan Dance」というのは坂本龍一の楽曲としてはかなり広範に知られている事もあり本曲の楽譜やコード譜の類というのはかなり多く市場に出回っていると思います。然し乍らそれらの多くはかなり「ローカライズ」されているのではなかろうかと思うのですが、私はその手の楽譜を信用する事はなく今回の採譜も勿論独力で採譜した物であります。

 とはいえ、多くの方からすれば何処の馬の骨かも判らぬ様な私左近治の採譜よりも一般的に入手可能な「名のある」出版業者から刊行されている楽譜の方に信頼を置くのは致し方ない事かと思います。但し、その楽譜に僅か乍らも「違和」を感じ取られた場合、その楽譜はオリジナルの現状をきちんと捉えきっていないという事を仄めかす実態であるという事も同時に感じ取っていただきたい訳です。

 私自身、そうした楽譜を信頼してはいないとは雖も何らかの形で過去に目にした程度の経験はあり、その度に嘆息しているというのが現状なのです。自分が多少の骨折りをすれば採譜など然程難しい物ではないのですから、どうせなら信頼に足らない楽譜よりかは信頼できる採譜を施したいというのが私自身が抱いている思いでして、誤謬が広まる事を少しでも防ぐ事が出来れば之幸いと思っているのが私左近治なのであります。とはいえ坂本龍一関連に注力しているのではなく、楽理的に高次な部分を備えている楽曲をレコメンドしようと企図しているのが私の姿勢であるという事を今一度ご確認していただければと思います。

 加えて、坂本龍一の過去作品を掘り下げるに当たって底本となり得る書籍の幾つかに山本邦彦が著した『坂本龍一・全仕事』(太田出版刊)と『坂本龍一の音楽』(東京書籍刊)があります。

 それらの図版や原譜の確認という意味で第一の資料に相応しい物ではありますが、山下本人によるコード・アナライズは信頼できない部分も少なくなく、資料として載せているスケッチとなる「原譜」も着想時の物で楽曲がリリースされる実際の形からはかなり変化している楽曲も少なくないので、原譜そのものを鵜呑みにしてしまうと陥穽に嵌るというのも坂本龍一作品の分析を難しくしてしまう一因でもあります。

 例えば、私が最近記事にした「フォト・ムジーク」とやらも譜例動画を制作したものですが、私は敢えてオリジナル楽曲の形ではなく「原譜」のそれを踏襲してハーモナイズした物となっているので、オリジナルに拘る方からすれば「違う」形を確認できるかと思います。それは敢えて意図して制作した訳でありますが、今回の「Tibetan Dance」の譜例動画はオリジナルを踏襲した形としています。

 口の悪い方は《どうせなら譜例も踏襲すればよかろうに》という風に言うでしょうが、原譜を確認したければ当該資料を当たれば済むだけの事ですし、況してやデモ制作などオリジナル楽曲を耳にすれば済むのですから、そこまでして擬えて《似て非なる》ものを作ろうとは思いません。オリジナル楽曲から聴こえる現実の音と流通する市販の楽譜や分析のそれとの間に明らかな差異があるからこそこうして分析する為に必要なデモ制作なのであり、こうした側面の追究に関しては何れも坂本龍一作品に限った話ではありません。

 譜例動画やらのデモを用意する事に於て、決して少なくはなかろう人々が抱える杞憂というのは概ね《市場に流通している楽譜通りに表せば外野からやいのやいの言われる事などなかろうに》という点ではなかろうかと思います。私個人としては、市販の楽譜や本人の原譜となるスケッチのそれは単に《着想時のアイデアに過ぎず後に改変されている》事が多いという事実があるので、それに伴う坂本龍一の着想時の「独特の解釈」という点を見抜いていなければ、敢えて市場に流通する楽譜に抗う事は難しいとは思います。

 とはいえ、丁寧に音を拾えば明らかに異なる点というのが明確になるので、その辺りを詳らかにして行こうとしている訳です。


 そういう訳で本題に入る事にしますが、取り敢えずは私の制作した譜例動画の方を掲げておく事にします。後ほど動画に沿って解説して行く事となりますのでご寛恕願いたいと思います。




 ひとまずはコード表記の方に注目しておいて欲しいのですが、私が今回採った表記と「原譜」の方ではかなり違う事がお判りになる事でしょう。本来ならば「原譜」の方に分があるのは当然の事なのでありますが、坂本龍一独特のコード表記および原譜は着想時のアイデアに過ぎないという事もあらためて判る事でしょう。因みに「原譜」となるスケッチは2種類存在し、それらは微妙にコードが異なり、そのどちらも最終形態であるオリジナル楽曲のそれとも違うという事を示したいと思います。まずは原譜1となる『坂本龍一・全仕事』での図版に掲載されるコードは次の通りです。

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 そして次は、原譜2となる『坂本龍一の音楽』で示されるコード譜部分の物です。

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 これらの2つの原譜と私の採譜のそれとでは、5小節目のコードが明らかに違います。4小節目の「B♭7(6)」という坂本の書き方として、現在のコード理論の実態に沿えば「B♭7(13)」とやる方が表記の上では正確でありましょう。然し乍ら、それがどういう和音構成音になるかという事自体は坂本本人の独特の表記でも十分伝わる物です。

 私の解釈では5小節目を「Em6/F♯」としています。つまり [嬰ヘ・嬰ハ・ホ・ト・ロ] という和音構成音というのがオリジナル楽曲から聴こえて来るのですが、坂本本人の表記だといずれも異なる訳です。

 オリジナルでは中央ド近傍で5小節目拍頭から八分音符で [cis - d] と短二度上行した後、同小節2拍目からは中央ドである [c] と長二度下行を確かに採っております。その声部とは別に八分音で [e・c・e・c…] と八分音符で長三度下行するフレーズがあからさまに聴こえるのでドミナント・コードを優勢にした響きと採るのは自然かもしれません。

 唯、その [c] は確かに「D69」というドミナント・コードでのアヴェイラブル・ノートではあるものの、ギターのカッティングが優勢に聴こえる [e・g・h] の下で明らかに [cis] が聴こえるので私は「D69」というドミナント・コード何某の解釈を採らなかったという訳です。キーボードが [c] を内声で鳴らしているにせよギターのカッティングの [cis] が聴こえて来る以上、私は [cis] を優勢に採った解釈とした訳です。

 前掲 [cis] は音は非常に小さいです。もしかすると下で鳴る [fis] の倍音として随伴する音を私が聴いてしまっているのかもしれませんが、私は [c] を経過音として捉え [cis] を和音本体にしたという訳です。私のこの解釈が罷りならんとするならば、当該箇所では坂本本人に倣えば良いのであり、私のデモを「アレンジ」と受け止めていただければ事足りるだけでしかありませんので、本人よりも私の解釈を採れなどとは毛頭思ってはいないのでご理解いただければと思います。

 フライング気味に5小節目から語ってしまいましたが、2種類の原譜ではコード解釈が異なる点が他にもあるという事だけはお判りいただけると思いますので、あらためて順に追って解説して行こうと思います。

 譜例動画1小節目とはオリジナルの45小節目であります。以後私はオリジナルの小節番号を示しますが当該箇所のコードは「Fm9」であり、これは2つの原譜とも同様です。

 これが47小節目まで続き、48小節目では「B♭9(13)」としております。このコード表記は和音構成音を全て満たした上での解釈で、機能和声の技法として能くあるドミナント・コードでの5th音省略など為されてなどおりませんので、この表記こそがコードの実体を示している物です。

 処が坂本本人のコード表記は非常に独特で、原譜1では「B♭7(6)」とあり、その「6」が実質「13th」音である事は明確に伝わります。原譜2では「B♭9(6)」とあり、これは「B♭7(9、13)」を示す事も是亦理解に及ぶ物です。

 原譜は何れもが坂本本人の手に依る物であるのに、九度音の付与についてはそこまで拘泥していないという事が窺い知る事が出来ます。当初の案から更に配慮して九度を付加させたのかもしれません。唯、いずれにしても「13th」という表記の側を一般的なコード表記のそれとして配慮をしていない事を考えると、坂本本人にとってコード表記とはさして重要な物ではないという事も判ります。

 まあ、楽譜そのものの方がコード譜よりも明らかに重要である事は当然だと思うので、コード表記に関しては独特のものがあると念頭に置いていた方がよろしいかと思います。

 49小節目については先程語った「ダブル・ベース・ソロの5小節目」の部分なので再度語る事はしませんが、原譜の方では原譜1に於ては「D4(6)」という表記なので、これは「add4&6」と解釈すべき物であるのでしょう。つまり [g・h] 音の付与が念頭に置かれるという訳で、本位十一度相当(=単音程の転回・還元としての根音から完全四度上)となる [g] の存在にはあらためて目を瞠ります。

 私がYouTubeで見た動画は茲を「fis・c・e・g・h] と弾いていた物だったので、本位十一度=「♮11th」を包含する「D13」の断片として、その3度ベースを置く事で恰も「C△7/F♯」という状況を生んでいるという事でもある訳ですね。

 とはいえ、坂本龍一が「D何某」というドミナント・コードを基としてはいても、[fis] が下方にある状況ではどうしても [cis] が聴こえて来るのです。また、坂本自身はドミナント・コードと解釈してはいても「11th」音の取扱いに関しては《「♯11th禁止」》という意味合いで当初は「4」を強調していたのかもしれません。《「♮11th」よろしく》という前提で。

 50小節目4拍目では私の譜例動画では「B△9」としています。然し乍ら原譜のそれぞれ2つともコード表記は全く異なっており、原譜1ではなんと「D△7」という所には瞠目します。必要な [dis] は原案としては [d] を欲していたのだという事。

 加えて原譜2での同箇所は驚きの「A♭m9」(笑)。全然違うやん!コチラのコード表記での構成音は [as・ces・es・ges・b] となる訳ですから異名同音に変換すると「G♯m9相当」となる為 [gis・h・dis・fis・ais] となる訳ですね。実質的には「B△7(13)」の状況になれば構成音の体としては満たされる状況となる訳ですので「B△9」という私の表記については強ち誤りではないという事がお判りいただけるかと思います。

 唯、ベースの方に目を向けると、ハーモニーの状況として最低音は [gis] があるものの私はこのベース・ソロに関しては遊離的なフレーズとして [gis] を優勢に採らなかったのです。何故ならそのまま順次進行して [h] を優勢に鳴らすからです。

 但し坂本本人は異名同音の [as] として、その [as] に主導権を握らせた表記として「A♭m9」という変種調号の世界観を充てているのでしょう。唯、この解釈に関してはベースを遣る人の感覚ならば [gis] または [as] を根音として見做さない人の方が多いのではないかと思います。

 藝大修士号に対して烏滸がましいかとは思いますが、私は本箇所では [h] が根音だと思います。まあ、こうした解釈はある意味、ジャン゠ジャック・ナティエが取り上げたトリスタン和音の解釈が各者各様である事に重ねてしまいますが、それと同様に多義的であるという事だけは譲れない解釈であります。無論、作曲者である坂本本人の解釈が優先されるのは当然であるのですが決して一義的ではないという事も付け加えておきましょう。

 51小節目のコードの私の解釈は「F♯6add4」。坂本龍一が原譜1の49小節目で「D4(6)」と遣っていた事を思うと不思議な事に似た解釈であるとは思うのですが、坂本本人は原譜1では「B△7」と充てているのですが、原譜2では「A♭m9」の掛留なのですね。元は嬰種調号の世界観であった筈なのに変種調号の世界観をそのまま掛留させるという、異名同音の調性格に於ては無頓着な方なのだなとあらためて認識したのであります。

 ここまで原譜のアイデアが異なると、着想段階のスケッチというのは楽譜そのものよりも深い示唆は無いように思えてしまう訳ですね。ですので私は、坂本龍一の着想時の原譜というのはその後形を変えている事が結構多いので参考にする程度に留めているのです。着想の原案から、スタジオでの作業の方が作品醸成の場であったでしょうから、リリースされた楽曲の姿こそが全てなのであり、着想時の原譜を丸々鵜呑みにする訳には行かないのです。

 扨て52〜53小節目でのコード進行は、原譜の方ではいずれもが「G7(+9)→C7(6)→F7(+9)→B♭7(6)」という表記で一致しており、明確に下方五度進行を繰り返した表記であるものの、私のコードの方は根音が短二度&増一度下行を採る型としており、コード表記も丸っ切り異なります(笑)。

 私の解釈によるコード進行は52小節目3拍目では「B♭m△7(♯11)」であり、これは「C7(6)」と対応させるべき物ですが、和音構成音は然程違いはないと思います(笑)。というより、私は自己弁護する訳ではありませんが本箇所で「C7何某」という風なコードの解釈は全く捉えておりません。

 坂本龍一のコード表記のクセとしてあらためて取り上げておきたいのですが、彼の使うドミナント7thコード表記は時として《内含する三全音の存在こそが全て》という状況が多々あります。これは属十一や属十三和音が用いられる時など非常に顕著なのでありまして、遡れば「Plastic Bamboo」のAテーマ、KYLYNでの「I’ll Be There」のブリッジ、山下達郎の「Kiska」のAテーマなど非常に顕著です。

 即ち、分数コードで表して良かろうと思えるコード表記が属十一や属十三であったりするのは、それが属和音を基とする限り三全音は和音構成音として存在する訳です。同様に、三全音を包含せざるを得ないコードを属和音の体として捉える状況もあり、先の下方五度進行のそれらは後者の例に当たるという解釈を私は採っております。

 即ち「C7(6)」というコードは、恐らく「C13」が想起されうる状況であり、三全音は [e・b] という事になります。私の手前勝手な解釈である「B♭m△7(♯11)」には [e・b] があるので、そういう意味でも「C7(6)」の一部として見做し得る物と捉えていただければ幸いです。私が本箇所でこれほど仰々しいコード表記を選択したのは、和音構成音の各音を捉えて敢えて「副和音」の体を選択したという訳です。

 なぜなら、坂本本人が表している明確な下方五度進行が本箇所では無いと解釈したからであります。「B♭m△7(♯11)」というコード表記はアーサー・イーグルフィールド・ハルの『近代和声の説明と応用』やヒンデミットの『和声の手引』を読めばお判りになる物で、見慣れないだけのまともな表記ですので、その辺りはあらためてご承知おきいただければと思います。

 さらに続いて53小節目での「A△7(♯11)→A♭△9(♯11)」という部分での「A△7(♯11)」は、本人解釈での「F7(-9)」に相当する部分です。当該箇所では確かに [f] 音が中央ドよりも完全十一度高い所で [e] と短二度でシンセは鳴っているのですが、私はメジャー7th状の「♭13th」として捉え、和声的に施す事をしませんでした。

 加えて「A♭△9(♯11)」という私の採った表記は本人解釈での「B♭7(6)」に相当する訳ですが、[f] 音が私の解釈の方では無い訳ですね。というのも、この [f] というのはオリジナルでは中央ドを「C4」とした場合「F6」で1拍目の八分裏で鳴っているだけなので、和音構成音として私は解釈しなかったのです。

 そうしたオリジナルの「高い方」の音で際立つ「短九度」というのは、一応私の解釈でのコード進行「A△7(♯11)→A♭△9(♯11)」でも内在させる様にしてヴォイシングしているので、苦み走った響きになっているかと思います。

 何れにしても、本人解釈となるコード進行を事前に知っているにしてもそれに倣わぬ形で表したのは、私にもそれなりの理由があっての表記だという事がお判りになっていただければ幸いです。優先すべきは本人解釈であるのは当然なのでありますが。

 ほんの少しだけ前に遡りますが、52小節目1拍目拍頭でのベースのFセスクイシャープは、原譜の方ではこうした表記が為されている訳ではありません。唯、私はイントネーションに揺さぶりをかける類の微分音として聴こえたので、敢えてこの様な表記を採ったという訳です。

 同小節にて直後の2拍目で私は [cisis] と表しておりますが、本人解釈に拠れば茲は「G7(+9)」なのですからその5th音 [d] であるのでしょう。唯、私としては「F♯6add4」というコードが係留している状況として認識しているので、[dis] が既に6thという解釈である以上、[cisis] と解釈せざるを得なかったというであります。「G7何某」とするにはとても希薄な状況に思えるのですが、こればかりは本人解釈なので致し方ありません。

 それはそうと、本曲でダブル・ベース・ソロを弾いているのはアルバムにもクレジットされておりませんが、着想時のスケッチには「大仏」とデカデカと明記されているので恐らくは高水健司でありましょう。山下達郎、大貫妙子時代からの人脈と言えますが『音楽図鑑』の後のリマスターでアウトテイクが収録される様になって「M2 Bill」という、もろにスティーリー・ダン風のサウンドに仕立てている(「Your Gold Teeth II」を思わせる)楽曲のダブル・ベースが高水健司である事を考えると、ダブル・ベースへの拘りはかなりあったのだろうなと思います。

 CDメディアとして『音楽図鑑』は発売されていなかった当時、収録楽曲の選曲は難航し苦肉の策として2枚組でもリリースしておりましたが、それでも収まらなかったテイクがあったのですね。

 扨て54〜58小節目でのコードは「Em9(11)」としており、原譜1は「Em9」であるものの原譜2では私の解釈と同様に「Em9(11)」であります。拍頭でのシンセ・ブラスのベンド幅が「-3半音」であるのですが、曲中で他の箇所でも生ずるベンド幅はこれとは異なるので注意が必要です。

 59〜63小節目でのコードは「Fm9」としており、原譜2では「Fm11」と表しているのが相違点でありますが、パッド系の音が八分音符で [c - b - c -b…] と奏しているので、その [b] をコード表記の側に適用したのでしょう。私はこれを和音構成音と採らなかったの「Fm9」としました。

 59小節目1拍目拍頭でのベンド量は「-5半音」です。シンセの側で逐次リアルタイムにベンド量の設定を変えるのは現実的な方策ではありません。恐らくフェアライトCMI内蔵のシーケンサーを同期させてベンド量も打ち込みとなる同期でレコーディングがされているのだろうと推察します。思えば『音楽図鑑』がリリースされた3年後位にQX3とSBX-80の時代が俄かに訪れる様になるのですが、そうした時期は長く続かず、音楽界はMacとPerfomerまたはVisionに置き換わって行くのでありました。

 64小節目でのコードは「E7(♯9)」で、原譜1は同様なのですが、原譜2では三全音代理の音脈となる「B♭7(6、-9)」としているのは注目に値する所であり「B♭7(♭9、13)」という事でもある訳です。

 この原譜2からの大いなる示唆は [e] を空虚にしたいという事なのですね。確かにエレピのパートは [e] が無いので、そうした意図は多大に感ずる訳ですが、それが3小節続く解釈はどうかな!? と疑問を抱かざるを得なかったので、私は「E7(♯9)」と解釈したのです。

 65小節目3拍目でのクラビネットのパートでの拍頭が休符の半拍3連のスラッシュ符頭は右手、直後の「実音」が左手という解釈です。原譜とは異なると思いますが、こういう風に聴き取ったので致し方ありません(笑)。曷は扨措き、私は原譜のそれがオリジナルと全く同一とは微塵も感じていないので斯様な解釈となってしまう訳です。

 66小節目ではベース・ソロにはダブル・クロマティックのフレーズが表されているのが原譜に書かれているのですが、私は譜例動画の様に聴こえたままを表しており、同小節4拍目で「Em9」となるという風に解釈しております。

 尚、66小節目で現れるクラビネットのパートですが、これは注釈通り、ピッチと音量のどちらにも掛かるLFOとなるモジュレーション・エフェクトが必要です。私は今回、クラビネットに薄くロータリー・エフェクトを掛けて、後段にリング・モジュレーションを挟み、偶数次倍音を付加する様にピッチ・エフェクトを掛けて、最後にWavesのMondoModを噛ませております。一番効果が大きいのはMondoModでありますが、参考になれば幸いです。

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