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小方厚著『音律と音階の科学』新装版(講談社ブルーバックス)を読んで [楽理]

 音楽書関連の大半は隈なく目を通す私ですが意外にもこうした新書界隈は行き届かない物です。否、この経験があったからこそ今では新書界隈にも目を光らせる様に心掛ける様になったのは小方厚著『音律と音階の科学』の存在があったからこそとも言えるのでありまして、今回〈新装版〉が刊行される事を知ったのもSYZYGYSの冷水ひとみさんがTwitterにて紹介ツイートをしておられた事できっかけとなったのでありました。
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 旧版となる『音律と音階の科学』を私が手に入れたのは意外にも遅く、こうして書評を語るのを機に奥付を確認して見たところ旧版は2011年3月18日 第13版発行 という物でした。

 本書は非常に簡潔に物理学の側面から「音」と「協和」の側面を語るので、音楽の楽理的側面ばかり拘泥している人にしてみると、こうした側面からも音楽を科学的に考究可能な物なのかと深く首肯し得る物であると思います。その判りやすさは文章のみならず適切な図版が用意されているので、楽譜やコードシンボルの世界とは違った側面から音楽の深部を知る事が出来る為、広く知られているのだろうと思います。

 今回新装版となった事で、旧版とは異なる図版・文章、割愛された文章、加筆された文章という風に、本を読み進めると共に旧版には無かった部分が加えていたり、目を瞠る部分が多く、単なる加筆程度では収まらない程に新しくなっております。私としては旧版と読み較べる事で得られる知識もあるかと思いますし、旧版を所有していた方が新たに新装版を持っても損をするような事はまず無いであろう思います。


 それというのも、新装版にて私が最も注目した加筆部分は、ポリゴノーラを語っている箇所でありまして、ポリゴノーラが示すクラドニ・パターンであるドーナツ・モード、ピザ・モードおよびそれらの混合モードで生じている螺旋音律を取り上げている部分は必読となるでありましょう。このポリゴノーラが示す「協和」は通常の1200セントを1オクターヴとする音律とは異なる体系で「協和」が作られているので、オクターヴ観も異なれば、協和する音階の音程構造もまるっきり異なる社会を述べているので、ウィリアム・A・セサレス著 'Tuning Timbre, Spectrum,Scale' を日本語で読めない現在からすれば、大変貴重な例示でもあるので、こうした世界観をあらためて知らされるだけでも本書〈新装版〉の価値は充分にあるのではないかと信じて已みません。


 直線平均律法、所謂 Linear temperament の類となるオクターヴ回帰の無い「螺旋音律」体系にてポリゴノーラの様な楽器が示す協和曲線というのは、ビブラフォンやマリンバにもあったりする物です。それらの楽器には整数次の倍音やオクターヴを繰り返さない螺旋音律が非整数次の倍音成分として潜んでいるのですが、ビブラフォンおよびマリンバのそうした側面に敢えて新装版では多くを語らず割愛して、他の側面であるポリゴノーラとの文章とのメリハリを考慮された物であろうかと思います。


 寺の鐘とて螺旋音律は含んでいるでありましょうし、そうした音響を分析して微分音を駆使して作った黛敏郎の「涅槃交響曲」の第1楽章などをあらためて思い知らされる物でありますが、黛敏郎の辺りまで時代を遡る事で「直線平均律法」という側面を知る事ができた国内刊行物は田邉尚雄の関連図書を漁らないと難しかったであろうと思われますが、そうした時代と現今社会を比較すると、あらためて本書の税抜き1000円というとても安価なブルーバックス新書として刊行されている事で読み手がアクセスしやすくなっているのはとても高く評価できると思います。


 無論、こうした側面をよもや機能和声社会に即座に反映させようとしても無用の長物となりかねませんので、機能和声社会だけを甘受する様な層がこうした音楽的側面を援用する事など甚だ愚かしい事である為、その辺りを錯誤する事なく吟味しなければならないのは大前提となります。


 前回のブログ記事でも語りましたが、ハリー・パーチの 'Genesis Of A Music' に出てくる「1本足の花嫁 (One-Footed-Bride)」は、協和曲線を半オクターヴを折り返して形成させている物であり本書でも協和曲線は頻出する為、今一度念頭に置いて本書を読んでみると新たな発見があるのではないかと思います。


 旧版に用いられていた譜例の中には、15maとすべき所を「16ma」となっていたりした物でしたが、新装版ではそうした瑣末とも思える細部も訂正が為されているのもあらためて述べておきたい所です。


 古典音律から現今の等分平均律という変遷を見るに、幾世紀の時を閲して音律の変移の様子を今では歴史的証拠として俯瞰し乍ら文献等を追って確認する事が出来るという体系も実際のところ現在では等分平均律が齎す「不協和度の現象」に時代の趨勢を実感するのでありまして、これが無ければセリエルも登場する事はなかったという事も本書では触れられております。こうした音律体系とは別にポリゴノーラが示す様な螺旋音律での「協和」社会は、音楽の新たなる可能性を感じさせてくれるのでありまして、この協和は通常の音律の尺度から見れば「不協和」に属するのでありますから、我々の聽覚の「協和」というのは実に興味深い物であります。


 よもやドミナント7thコードですら後続の協和音に未解決する事なく単独の生硬な主和音として聴かれる様にもなった具合ですから不協和具合というのも時代の流れと共に変化する事は過去の歴史を見ても証明される訳ですが、概して不協和の世界というのは、曇りなき協和の世界が見せる「一義的」な姿に比して立ち居振る舞いを脆弱にするきらいがあるものです。そうした厳格なまでの機能和声社会の尺度だけで音楽が齎す調性感覚や協和感覚で現実の音楽を捉える事は危険が孕んでいるのでもありますが、そうした人々に警鐘を鳴らすのではなく優しく例を示してくれるのが本書であるからこそ確たる販売実績があるのでしょう。


 本書を読むにあたって読み手が念頭に置いておくべき事は、〈純正律という音律体系〉と〈整数比で表す事の出来る微小音程となる純正音程〉は違うという事を肝に命じて微分音を捉えてほしいという事です。本書に於てもそうした前提を踏まえておけば混乱する事なく本質を捉える事が出来るでありましょうし、不慣れな微分音体系を「皮相的」に知ってしまいそうな場面にて純正律と純正音程の違いを理解する事なく捉えてしまうという人があまりにも多いので私はあらためて強調しておきたい事です。微分音体系を理解するに当たってそのように努める事で、更に深い理解を得る事が可能となるでありましょう。


 本書の脚注は、旧版では無かった物が新装版では頁内に加えられており、また図版の説明書きに加えられる注釈も旧版と比して読み応えのある部分であるかと思われます。旧版は図版の説明書きのみで、その級数の大きさにスペースを割かれていた様にも見られるのでありますが、新装版の方では新たに注釈も書き加えられていたりするのでとても配慮された内容で充実しております。

 加えて旧版の参考文献は巻末に「関係図書」と紹介するだけでありましたが、新装版では「参考文献」と名称を変え、書籍への寸評を併記している部分も見逃してはならない読み応えのある配慮された内容だと思います。


 こうした良著を手に取って見て、読者の中にはセサレスの著書 'Tuning, Timbre, Spectrum, Scale' に興味を示す方も居られると思いますので、入手の際の注意点を語っておく事にします。現在流通しているのはセカンド・エディションなのでありますが、旧版は連動式のCD-ROMが付属しておりました。処がセカンド・エディションではそれらのデータは出版社である Springer のホームページからダウンロードする形式となっているので、この辺りの改変は出版社がコスト削減を方便にネットを利用してしまう「改悪」だと思われる悪しき側面のひとつでもあると思われるので、手に取られる時は是非とも注意され度し。