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『感情で釣られる人々 なぜ理性は負け続けるのか』を読んで [書評]

 世知辛い世の中、現今社会に嘆息する事は決して少なくないのが現状でもあります。その嘆息する源泉は果たして政治に対して己の期待する方とは異なる方面に政治が動くからであろうか。実はこの期待値こそが陥穽なのではないかとも思わせる程に、今回のブログ記事タイトルに用いた堀内進之介著『感情で釣られる人々 なぜ理性は負け続けるのか』(集英社新書)を読んでみて、あらためて痛感させられた物であり、久々に目から鱗が落ちた様な気にさせてもらった清々しい程の良著に遭遇できた物であります。


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 序文にある「バットとボールのセット価格」の例には誰もが「釣られ」てしまう事でしょう。釣られるどころか「食いついて」しまった物でしたが、この言葉に引き寄せられ正答を得られた人は普段から相当に熟慮を重ねている事でしょう。恥ずかし乍ら、我が家では誰一人正答した者はおりませんでした(笑)。これにヒントを得て、近々テレビのクイズ番組などで取り上げられる事があるかもしれません。それくらいハッとさせられた物です。

 この序文の爽快なまでの「掴み」がある為、最後まで牽引力を失う事なく読ませてくれる。理性的である事と感情的である事に対しての是々非々は、おそらく殆どの人が「期待する」答とは異なる角度からの見通しを立てて、それを拒否する事なく是認させられる程深く首肯させられる示唆に富んだ例示が第1章から語られるのです。誰もが思い描く「予見」が実は陥穽である事を、平易な別の角度からの指摘に納得させられてしまう訳です。これが実に清々しいのであります。


 私のブログは音楽の話題が中心である為いざ社会的な著書の書評となると、音楽にしか興味を示さない人によっては退屈な物であるかもしれません。しかし私が本書を手にして感じた事は、決して音楽とは無縁では無いからこそ、このように書評として取り上げているのであります。

 例えば徳川賴貞著『薈庭樂話』は関東大震災以前から書かれた物である為、音楽史を背景とすると「未来派」や第一次世界大戦が視野に入るのであり、そこには多くの音楽家も兵役に駆り出された時代とその後の全体主義を通じて来ている事をあらためて窺い知るのでありますが、侯爵であった徳川賴貞の立ち居振る舞いから鑑みるに、世俗的な側面が語られていない事が俗世間と乖離しかねない単に彼の贅を尽くした音楽への傾倒が語られているのではなく(その様に読んでも悪意を観ずる事は無いが)、『薈庭樂話』が昭和18年という、治安維持法の影響を受けて検閲される時代に上梓された事を加味しなくてはならない物であるため、不必要なまでに当時の国を礼賛する様な文章が序文にも見られたりする点を察しなくてはならないのであります。徳川賴貞侯爵がその後参議院議員となる頃は、数千億円の散財とも云われる没落の時代とも呼べるでしょうが、徳川賴貞の述懐は贅を極めた事に嘆息するのではなく、音楽を愛するがゆえの投資に迷いの無い判断力と行動力が描かれた物であるといえる物で、参議院議員は決して「代議士」と呼ばれないのは参議院議員が貴族院から発展した制度である所に加え、浮世離れした所から端を発しようとも、没落から垣間みる音楽への愛は、金さえあれば何でもできるが故の事ではなく、音楽を愛するが故の事が忌憚無く語られている物で、徳川賴貞の本意はおそらく『賴貞随想』の方の紀州に対する想いを読めばあらためて氏の想い(紀州和歌山の産業など)を窺い知る事ができる事でしょう。


 扨て、代議士と呼ばれるのは衆議院議員だけの事でありますが、それは国民の代表という事を意味しての呼称である訳です。中には「そもそも国民に主権があるのがおかしい」と発言する参議院議員の言葉をして、代議士ではない発言なのだからその発言は国民主権の下の選挙で選任されつつ国民主権を冒涜する発言であろうとも、彼等の論理からすればアリなのかもしれない。しかしそれは偶々「代議士」とは呼ぶ事のない呼称のあり方を鑑みる事で初めて是認される事だけの話で、既婚者に振り袖を着せる事はまかりならないからといって近視眼的に先蹤を拝戴するのはいただけない事でしょう。

(※和装に関して一般的な着こなしのルールを知らずとも、和装にあこがれ好意的に受け止め身に付けたいとする人は少なくはないでしょう。仮にそこで既婚者が振り袖を身に付ける事も厭わずに着用する人がいたとするならば、本人の気持ちを逆撫でしてまで和装の一般的なルールを押し付ける事は無粋であるかも知れません。しかし一方では着用して甘んじてしまう人も多少なりとも和装のルールを知っておく必要があるのも確かです。こうした喩えがシーンを変えれば、選挙に出向いたにも拘らず白票を投じたり「支持政党なし」という団体に投じて恰も選挙に参加しているかの様に振る舞う人というのは、物事の重要性は二の次で己の感情的な重し付けが行動として恰も反映されている様な短絡的な動機にしか過ぎないという事に投影しうる事で、そうした例は先の、和装のルールも知らずに己が悦に入る事とさして変わらない事なのですが、顰に倣ったり先蹤を拝戴するという事をその手の人達にハナから強要しても仕方がないでしょう、という意味で喩えている事です)

 
 本書を読んで特に印象的だったのが、p.135にあるレニ・リーフェンシュタールがナチスの記録映画に「荷担」した事に依る姿勢の表れ。これは政治など無関係に美を追求するという事の姿勢が、一歩構えて接している様で結果的には何の歯止めにもなっていない事の実際を、現今社会に対する政治への無関心の法学者の政治とは一歩距離を置いた荷担という物に投影しうる暗喩めいたそれには大変深い示唆があり大変深く首肯させられた物でした。この一文があるからこそ、p.139のナチスの敗北の現実を読み手には清々しい程の感覚を味わわせてくれるのでありますね。


 こういう事を目にすると、私には全体主義やドーポラヴォーロ、或いはトオキィ(talkie)音楽の手法など、多くの事を投影した物でした。それらについては詳述しませんが、先のタイトルにある様に「感情で釣られて」しまうのは恐らく己の論理的思考能力の希薄さに依る物であろうと考えていたのでありますが、何よりもそのタイトル・ネーミングがタイムリーだったのは、私が昨今の国内政治に嘆息し、安倍政権に顕著な詭弁や詐術の「見事さ」に抗う為には私自身どのように構えたら良いものかと懸念して、本棚から幾つかの昔の本をあらためて手に取っていたのが、J・Sミル著『論理学体系』 アレックス・C・マイキュロス『虚偽論入門』宇多村俊介著『虚偽論への誘い』 田原総一朗著『電通』などを中心にした物であったので、それ故「タイムリー」に感じた物だったからであるかもしれません。

 
 音楽界隈にてドーポロヴォーロを知るなどとは、『厚生音楽全集』を読まないとなかなか遭遇しない事かもしれません。笹川良一も監修に関わり、讀賣新聞社が警視庁工場課との蜜月の関係となり「厚生音楽運動」を国民に慫慂する事が詳らかに書かれた物ですが、つまりは特高に唱歌を無理強いさせられた物が美化されて掲載された物であり、戦時下の窮乏に喘ぐ国民を現実から目をそらすために唱歌でもって「空腹を紛らわせる」だけの策に過ぎなかった厚生音楽運動に編纂されている、多くの専門家の音楽を愛するが故の「寄稿」は、それが専門知として非常に価値ある物だけにあまりに歯がゆく忸怩たる想いを募らせてしまう物でありまして、そこにドーポラヴォーロといういわば健康保険システムですね、それにヒントを得て日本の厚生省は戦後を経てその後半世紀以上経過して何を齎したか!? という事を思えば、戦犯者である正力松太郎を英雄にして好意に受け止める民衆を欺く姿勢に、先の「空腹を紛らわす」という事と同様の馬鹿げた側面を投影してしまうのであります。


 示唆に富んだこうした「投影」が現今社会で窮乏に喘ぐ人達に真意が届かず、彼等が情動に靡くそれは中間層が下層に追いやられて空洞化している事を、p.123〈守られるべき中間層とは何か〉で詳らかに語られており、現在の国内に於ける共産党を除く野党が不甲斐なく捉えられている状況など、とても深く読み取れるのではないでしょうか。故に、従来のリベラル層という者たちも声を荒げて日々の生活に食うに困らぬ様な微々たる汗をかいているだけでは、その言葉は失われた中間層にエコーとして鳴っているだけの状態なのであろうと、目が醒める思いで読む事ができた物です。笛吹けど踊らずではないのです。踊る人も歌う人も無い場所に、空虚な理想論だけがエコーの様に鳴り響いている状況を思えば、特に民進党の人達は茲の当該箇所は何遍も読まなければいけないのではないかと思える程です。

 p.144の「ジーザズ・クライスト」およびp.150の結句を読んで、私はまるでボルヘス(ホルヘ゠ルイス・ボルヘス)の詩に遭遇したかの様な、太陽光の様な輻射を感ずるそれに対して見事な迄の息をつく箇所であり、こうした読ませ方の抑揚も見事であると感じた物です。


 私も予々論じて来ておりますが、私自身がそうである様に人は無知から生まれ知識を獲得するのでありますが、知識を専門的に身に付けるという事は決して楽な事ではありません。ですから平易な言葉に依る虚偽が其処彼処で生まれたりする。個人の考えの尺度は無限にあるので、個人が尊重されると彼等の抱えている誤謬は彼等にとって承認されたと錯誤する連中は少なからず存在する訳です。私も楽理方面で多くの時間を割いて語っておりますが、誤謬に充ちた音楽理論というのは、それが多勢になろうとも声を荒げようとも、決して正当に変貌する事はないのです。嘘が多数の信任を得たとしても、その嘘は「真」になったのでは無いという事をあらためて考える必要があるのではなかろうかと思う事頻りです。個人の発言の場が拡大しそれは恰も個人の自由という裁量の下で繰り広げられている物ですが、個人の行動が尊重されているだけで個人の戯れ言が社会的に承認されている訳では決して無いのを思い知る必要があると思います。その上で私は音楽の「真」を語る。ですから私のブログのタイトルは「たわごと」を謳っているのであります。そこいらのたわごとと異なる様に目に入る様に。「たわごと」←食いつき易い言葉でしょう!?

 
 堀内進之介氏は本書で首尾一貫して「ナッジ」と呼ぶそれを文中に鏤めます。それが情動性に嵌らない為の策として。実に読み応えがありました。今後も注目したい論客であります。