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呪縛と解放 [楽理]

 扨て、前回は結合音の差音・加音の中でも特に加音を重視して語った訳ですが、音を知覚するという事に於て複合音(異なる振動数を持つ音波=つまり和音的状況)のエネルギーおよび持続状態如何で、耳が実音とは異なる誤認をせざるを得ないシーンもあるという事を暗に述べていた訳です。


 とはいえ、そうした結合音という状況が生ずるのは不可避なのだからそれを聴音・採譜の誤りの口実としてしまうのはあまりに早計でお粗末な訳です。そんな口実が罷り通るのであれば世の中に聴音・採譜など結合音が邪魔をして作者監修以外の楽譜は信用に足らない物となりかねません(笑)。


 加えて、音色というのは幾多の「部分音」から組成される音であり、整数次倍音・非整数次倍音という部分音から組成されているわけでありまして、仮にフルートが特定の音高を1つだけ鳴らしていても、その音には前述の様に整数・非整数次倍音という部分音から成り立っている訳であります。

 異なる音高が複合化されている(つまり和音)音を判別する事もそうですが、単音であってもその部分音の組成を判別するという風に、音のピッチを判別するに際して此等の様な違いがあるという所を理解してもらいたい訳です。

 例えば、ピアノの1音の打鍵で音高を判別するのは勿論の事、判別如何に依っては、ピアノのたった1音の音色組成の為に部分音を判別する側面もあると事を意味している訳であり、採譜というのは基音だけを採れば良い物ですが、部分音を拾い上げるという作業は更に探究の度を高めている作業である訳です。


 音色という物が幾多の部分音で組成され整数次倍音も包含している状況となれば、例えば「ド・ミ・ソ・シ」というC△7というコードが鳴っている状況では、各構成音が包含している少なくとも第7次倍音まで含んでいるという風に仮定すれば、C音を単音で鳴らした状態で部分音の集合体全体ではC7が鳴って居り、同様にE音はE7、G音はG7、B音はB7という風に部分音という集合体が4組も組成されて居り、これは本来のC7というコードの響きを倍音の集団が疏外しているのではないか!? と考える人が居りますが、倍音組成と実際の和音の実体の作用は元の和音を疏外する様に働くよりも「同調」し合う状況で強く働くのであります。「同調」とは何か!?

 それは実体の和音の側が倍音成分と非常に近しい類型として和音が響く状況、つまり、和音自体が属七タイプの和音の時に和音構成音の根音が持っている部分音組成と合致して和声的重力が強化されるという解釈で持って、この和音状態から「解放」される感じが起るのは、属七が三全音を包含する不協和音状態から協和状態の和音へメリハリを起そうとする所から生ずる事であります。

 とはいえ弱進行や転調やらも視野に入れば、属七のその後の和音連結というのも、その自然的な親和性ばかりに拘泥してしまえば卑近な形式として聴取される事もあり、多様な和音進行が生じた訳です。


 今一度和音の歴史を振り返ると、ダイアトニック(=全音階)の世界では、属三和音と副三和音という孰れも三和音というトライアドで構築されましたが、属三和音が第3音として包含している導音(=音階の第7音)の上行進行(順次上行進行すれば僅か半音ステップで全音階C音に遭遇する)だけに依拠せずに、下行進行(順次下行進行すれば僅か半音ステップで全音階E音に遭遇する)の働きを与えて上と下で挟み込む様に「圧」を加えた事から、七度の音を附与する事を属和音だけに認められたという歴史を認識する事ができます。

 勿論その後副三和音にも七度の附与は認められる様になり副七の和音も登場する様にはなりますが、属和音に於ける「圧」と「力」という所に力瘤を蓄えて語る私の意図はお判りいただけるのではないかと思います。

 先日Twitterにて興味深いつぶやきをしていた人がおりましたが、それは属七の和音の七度がマイナス31セント低いという和音についてエサをTLにバラ撒いていた訳です。そのセント数が意味するのは自然七度というのは歴然でありますが、仮に自然七度を7度音として持った属七和音はどういう作用を起すのか!? と問われれば先述の様に下行導音としての作用はより全音階に近くなる訳ですから本来なら下行導音としての作用は強化されます。ところが、自然七度は不協和音程(※不協和音ではなく不協和音程)なる純正音程ですから、仮にこの属和音の第3&5音も純正長三度&純正完全五度だった場合、完全なる純正音程で構築される和音となってしまいます。こういう和音の場合は、属和音が持っている後続への解決の為の和声的勾配の牽引力というよりも、この和音が独立体としての色彩が強まる訳です。つまり、純正音程なので不協和度が希薄化されてしまう訳、ドミナント→トニックという進行にある様な不協和→協和という作用ではなくなるという事を意味する事にもなるのです。

 純正音程など高次倍音にはまだまだ自然七度以外にも高次倍音に多数ある訳ですから、不協和音程且つ純正音程など幾らでもある訳です。純正音程同士の6:7ならば相対的には平均律の短三度よりも33セント程低い、結果的に1単位三分音(=66.6セント)を得られる物ですが、平均律半音階から33セント程も低い音を得られる純正音程同様、先述の自然七度の様に31セント程低い純正音程もある訳で、

 自然七度の「純正音程」は比較的低次な倍音に現れるにも拘らず、ある程度無頓着で居られるのは、そのイントネーションの違い具合が協和的音程(8・5・4・3度)ではない2度/7度に現れる為でもあり、且つピアノとかになるとハンマーがこうした倍音を響くのを「殺して」響かせる為に設計されている所にも影響があるでしょう。とはいえ無頓着でなくなれば、こうしたイントネーションに鋭敏にもなる訳で、そのイントネーションの違いに馴れる為には少なくとも律された半音階の熟達が必要な訳でして、イントネーションに鋭敏になった時にはそれらに近しい音程の差に鋭敏になっていくという訳ですね。

 一度でも調弦・調律をされた事がある人ならお判りになるかと思いますが、例えば12弦ギターやマンドリンや大正琴でも良いですが、主弦・副弦をチューニングする際、それらの音程が仮に100セント(=半音)ずれていたとしましょう。同音に合せる必要がある以上、半音も違ったチューニングはどちらかの弦を高めるか低めるかしない限り同じ音にはなりません。それにしても「遠い」音です。

 ではそれらの弦が31セント違っていた場合(※この場合でも実際の調弦ではあまりに広い音程ではある)、先の100セントズレていたよりも「狭い」ので合わせ易い筈です。尤も、チューニングというのはそれらの音程が狭ければ狭いほどビート(=うなり)を知覚し易く、合わせ易くなります。ビートが聴こえなくなる感覚というのは、導音の作用が最高潮に達した時であるとも言える訳です。

 ですから、導音という作用を思弁でしか知らない様な人というのは、殊に古典的な音律(≠等分平均律)とやらに神格化を与えてしまうきらいがあり、そうした世界観と現代社会に於て情報として不可避な現実を受け止めざるを得ない事象をすり合わせも出来ないまま、自身の主観で互いを線引きしてしまい勝手に優位性を決めてしまう訳です。

 そうなると古楽にとっては古い音律の凸凹感がオーセンティックな風合いを纏ってはくれるでしょうが、それにて現今の和声的発達に伴った同等のスケーリングで音の良し悪しとやらを判断するなどとは実に無謀な事でして、能く在る「導音を高めに採る・採らない」という誤謬とやらは、とある奏者の「上行導音」を示した限定的な言葉である事を理解せぬままに、その言葉を金科玉条の様に真に受けている人が、下行導音のシーンに対しても「導音を高めに採る」などと判断してしまいかねず、どちらを判断していいのかは導音(上行・下行含)をきちんと理解さえしていればすぐに判りそうなものを、愚かなツイートをしたりする物なのです。


 だいいち、4度チューニングに於て隣接する弦の第3次倍音と第4次倍音同士で調弦すれば、フレット楽器だと押弦する事で互いの弦は異名同音であっても2セントずれる事になってしまうという悲哀なる現実に無頓着な輩が、チューニングとやらに厳密になれる訳もないでしょう(笑)。

 
 ドミナント7thコード(属七)の和音というのは、音律の熟成を経ても猶、上方倍音列に下支えされる(※第7次倍音は短七度と見做す事が前提)自然発生的要素と、協和音への解決という牽引力(三全音を包含するため)という大きな力を持ち合わせているとも言えます。処で、不協和音と不協和音程とは全く別の意味です。不協和音から協和的な和音へ進行するのは結果的にはドミナント→トニックという解決感を示唆します。不協和音程というのは二度/七度音程を含めば自ずとそうなるのですが、純正音程として見た場合の純正3・5・7度を含んだ場合、自然7度部分は根音と不協和音程を作る物の総べてが純正音程であるという先述に挙げた矛盾。これが属七和音の色彩的で独立峰的な意味合いを持つ、という事はお判りいただけたかと思いますが、音程 or 和音が不協和という事がどういう事なのか!? という事をあらためて区別して理解されているかどうかをこうして述べていた訳です。

 というのも、ドミナントは確かに解決を待っている状態とも言えるかもしれません。しかし属和音が3度堆積にて9・11・13度・・・という風に和音を積み上げて行った場合、その積み上げたアッパー部に登場するのは解決先に用意される和音を包含している状況でもあるのです。それこそ半音階12音総べての音を属音を根音として3度堆積の和音としてエドモン・コステールが属二十三の和音を例示した様に「拡大解釈」をさせる事も可能ではありますが、23度まで音を積み上げなくとも13度まで見渡せば「全音階」は見えてきます(とはいえコステールの云う総てに首肯し得る物でもない)。

 何故なら、ドミナント7thコードに於てジャズ/ポピュラー体系の和音流儀ではなく本位11度を包含させたタイプの属和音を13度まで3度堆積で積み上げれば、7音を積み上げた属13の和音を得た時には「全音階の総合=総和音」となり、これはG7というコードの上にF△もC△も存在する事になります。つまり、属和音が進行を止め、属和音という物がワン・コードとして成立する様な体系が起れば、和音進行を積極的に起す事なく上方に積み上げた音脈を使う事を意味します。分数コードの使い方が発展し、ドミナント7thコードの解決感を避けて曖昧にした用法が多く見られる様になったのも、ドミナント7thコードの解決感よりも、独立的に響いてくれる色彩感と進行感の希薄さを選択する様になったからであります。

 その結果音楽はどういう風に開拓されていったかと言うと、諸井誠は次の様に論述します(『音楽の現代史』岩波新書より)。


 《属和音から主和音へ向かう磁力を徹底的に拡大解釈し、その連鎖を無限に続けることでの無調音楽への転進と、この磁力をまったく無視することで調性をなきものとするアルカイズム(擬古趣味)の方向とは、現象的には完全に対立する方向にあるが、17世紀から19世紀までの音楽を支配した調性機能を崩壊に導き、あるいはその画一主義的支配を希薄化せしめる点においては、両者は同じ目的を持っていた》


 アルカイズムとはドビュッシーに代表される様に、教会旋法や民族的旋法を採り入れる手法の事を指しております。つまり、長調・短調とは異なる性質を探し求めて旧来の教会旋法の変格の姿や民族的な音階を用いる事を指している訳です。

 諸井誠の言葉には深く首肯できる物で、半音階的全音階の世界とセリエルが結果的に同様に半音階の音脈を使った背景には、音律の熟成があったからなのです。

 特段耳の熟達を待たずとも、幾多の音律の僅かなイントネーションの違いはもとより、音律とは異なる旋法的なイントネーションの僅かな違いなども容易に判別できる物です。ですから「音痴」などと感ずる事も出来る訳です。音程の採り方の良し悪しなども容易な事です。

 つまり我々人間の耳というのは、協和音程を細分化していって生じた各音の凸凹のある微分音的尺度から歪つであった音律を均一に整えて行った訳ですね。こうして半音階が均一化される事になった訳で、この均一があるからこそ微小音程を持つ微分音がより映える様になった訳です。

 本来、テトラコルド体系が出来る太古の時代では、全音階的テトラコルド・半音階的テトラコルド・四分音的テトラコルドの3種が存在したという事は以前から述べている通り。古代でも微分音はあったのだけれども、それはいびつなイントネーションを持っていた物で、幹音も歪つだったからこそ幹音に取り込まれて行ってしまったとも言えるでしょう。


 そうして早坂文雄は次の様に述べるのです(『日本的音楽論』より)。


 《認識とは鑑賞の基礎になるものであり、作者がそこに一体何を表現しようとしているのか理解されるような意図の確実性を与えるために具体が求められ抽象は否定されるのである。》

 結果的にセリエルの衰退も本当の意味での抽象が否定された結果でもあると云う事が出来るでしょう。処が音の具体性となると是亦難しい問題であり、音は音として存在せざるを得ない物なのですが、視覚化させてみたり、言葉で表してみたりと、殊に音の場合は異なる表象を必要としがちな側面がある物です。FFTで示された波形の振動とて実際にはイメージに過ぎない訳です。

 音という物を一旦他者と共有・伝達する際には必ず言葉や表象を以て接し合わないと通じ合せることが出来なくなるものだから音を語る際には、音を語る前に言葉を仰々しく語ってみたり或いはアイコニックであったり視覚化された物を示し乍らコミュニケーションを採ろうとするものです。併しそうした現実に甘んじ過ぎるがあまり、音楽を形容する際に多くの人は知らず識らずの内に音楽だけを語るシーンで多くの言葉と表象を必要としてしまっている事が普遍的な為、音だけでは伝えきれない事を是としてしまっている嫌いがあり、更にはそのような前提を多くの人が抱えているものだから、個人の手前勝手な主観を導いて表現してしまうという悪しき側面が常に横行しているのが現実なのです。

 音を判別できない者に対して言葉と表象だけで説明しても音を聴かせなければ無理という人も居る様に、音を聴いても他の助けを借りないと理解できない人も多い訳です。どちらの側も共通しているのは音への熟達が甘いのです。不思議ですね。異なる立場である筈なのに行き着く場所が大差ない、と。異なる立場で行き着いた場所が同じだとするならば、その両者は腕を取り合い其處が音の境地とも誤解してしまうかもしれません。それは単に熟達に甘い者が骨を休ませたくなる山中の平らな場所にすぎないと言えるでしょう。

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