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「ルパン三世 その2」に学ぶ 導音とは!? 架橋音とは!? [楽理]

 通常、一般的な音楽的素養の下で理解されている「導音」という物は、主音に対して上行形に半音音程で隣接する音階上の第7音という風に理解されている事でしょう。それは実は「上行導音」と呼ばれるひとつの事例に過ぎず、フリギア調の主音に対して「下行形として半音音程で隣接」する音階上の第2音という時にも導音という名称は充てられ、此方は「下行導音」と呼ばれる1シーンな訳であります。



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 音楽をひとたび理解すれば、例えばセカンダリー・ドミナントという風にノン・ダイアトニックの音が生ずる「導音欲求」という、ダイアトニックからの音を逸脱して臨時的変化を起して後続の和音が主和音でなくとも後続和音の為に先行和音の構成音が半音という音程で行き着き易くする為の動作というのも勿論あります。

 こうした導音欲求が逐次多数生ずる事を俯瞰して単純に「導音を與えて」とか「導音のクサビを入れる」だのという文章には色んな音楽書で多く出会す事と思います。これらの文章から理解しなければならない重要な事というのは何れの文に於いても、生じた導音は必ずしも第7音ではないという事の暗喩であるという所です。

 文章ではそれが音階上の何処に位置する音であるかという事など全く述べていないものの、読み手が《導音とは音階の第7音の事である》などと一義的に覚えてしまっていたとしたら後々になってそれが誤謬となり陥穽に陥ってしまい本意を汲み取れずに終ってしまう訳です。

 ある曲でセカンダリー・ドミナントの類に見られる音階固有音の臨時的変化が起った際、確かにそれは明確な転調として楽譜に記されていなかろうとも、実質的には某かの調性の音を「借用」して来て仄かに調性の重心が他の調性へ足を跨いでいる様な状況である事は往々にしてあるでしょう。此處で転調というダイナミックに調性が変わったという儀式が無いまま、導音が第7音だとばかり一義的に解釈してしまう人は、臨時的変化を起したそれを第7音だと思いかねないワナがある訳です。


 大掛かりな転調であろうが小規模な借用程度の他の調性の和音組織の物であろうとも、それらに共通するのは「共通する音組織を用いる」事で借用という行為をスムーズにしている訳です。ハ長調のCメジャー・トライアドがト長調の下属音(=サブドミナント)かもしれない、そういう事です。和音が共通する事で異なる調性間を「橋渡し」をする事がある訳です。

 ポピュラー界隈ではそれをピボット・コードと呼ぶ事もありますが、実は共通する和音に依拠するばかりでなく、コモン・トーンつまり「共通音」という、和音でなく単音にてその橋渡しを橋渡しをする事も往々にしてあります。しかしピボット・コードであろうがコモン・トーンであろうが、こうした名称を覚える事はさして重要な事ではなく、本当に重要なのは「他調との橋渡し」を理解する事が重要な訳です。

 
 例えばソルミゼーション。つまり音符を読み乍ら唄う「視唱」のシーンの際、通常は移動ドで行う事が殆どですが、移動ドとはいえ臨時記号の音に対してどのように唄うかとか、転調や移旋が伴うと階名は「大胆」に変貌を遂げてしまう事が足枷となる事があったりします。何故ならそれは後にも述べますが、ハ長調からト長調に転調して階名が大胆に変わっても、実際は両者の音階固有音は1音しか違わないのに階名は大胆に変わってしまう訳ですね。ソだった音がドに変わる訳ですからね。

 ハ長調から途中でト長調の音脈が中間転調及び一時転調などとして使われる場合、それらの音組織(=ハ長調とト長調)ではヘ音が嬰ヘ音になるだけで後は共通音ばかりなのでありますが、トニック・ソルミゼーションの場合は、後続の音組織の特性音として使われる音を「シ」と読み替える訳です。その「シ」から数えて現在地となる架橋音と名付けるべく音はどこに存するものか!? というものを示すのが架橋音なのであります。

 例えば次の様に、

ド シ ラ ソ ファ ミ レ ミ ファ# ソ ラ シ ド レ ミ・・・という旋律があった場合、「ファ#」出現以降はト長調の音組織となっている訳ですが、先行する下行形の「ファ ミ」の箇所の「ミ」が架橋音として「転換」する必要性が生じます。何故なら次の「ファ#」では調組織が此處にて変わる訳ですから変わる直前の転換としてその先行音の「ミ」が橋渡し役となり、これこそが架橋音なのであります。

 次の譜例ではもっと判り易くなると思いますので参考までに採り上げた今回の曲はTVアニメ「ルパン三世」初代のチャーリー・コーセイが唄うエンディング曲、その名も「ルパン三世その2」であります。

 この曲は要所要所で移旋を伴わせてスルリと一時的に転調する為、積極的にセカンダリー・ドミナントを用いて転調する曲とは少々趣きが異なる部分があります。調所属が小節単位で明確に変わる所は調号を変えて転調させて居りますが、5段目の架橋音を2つ示している小節では小節内の中間転調も入る為そこでは調所属として調号を変化させた表記はして居りませんのが詳しく後述しますのであしからず。


 扨て、架橋音を移動ド唱法で視唱する際、特に厄介な事になるのは短調を扱う際の第7音が導音となっている時です。少ないケースでは短調でも短調の主音をドと読む同主調読みという物がありますが、通常は短調をラシドレミファソラで読む事が通例です。しかし「ソ」が導音化して「ソ#」の1モーラ読みというのは整備されていないのです。トニック・ソルファ法が整備されているイギリスではそもそも「シ」を「te」と読むのですが、「ti」と「te」を使い分けていたりします。処が日本国内でこれらに1モーラを充てる階名としては充てられていないので、多くの点で障壁が出てきます。

 例えば近親調、特にハ長調からト長調の場合は前述の通り、ヘ音から嬰ヘ音だけ変化すれば用足りるものの、階名としてはガラリと変化し、嬰ヘの時点で「シ」と読み替える必要があり、その直近の音が架橋音と為すとしたのは記憶に新しい所です。

 しかし、短調の場合の第7音が主音と半音関係にある、いわば上行導音である音を「se」と読みます。日本国内では一般的にも恐らく普及はしていないかと思いますが、短調の場合、和声的短音階と旋律的長音階上行形の階名は次の通りになります。

和声的短音階「ラ シ ド レ ミ ファ 《スィ》 ラ」
旋律的短音階上行形「ラ シ ド レ ミ 《ベイ》 《スィ》 ラ」

 《スィ》が示すのは英語圏の「se」をその様に充てている為ですが、東川清一に依ればこのソ♯に相当する音を「シ」にした上で、日本で人口に膾炙されている階名「シ」を「ティ」に置き換える方が妥当として居りますが、この辺りの整備は実際には施されていないのも実情ではありましょう。ですが、今回私は、短調での導音化する第7音を今回「スィ」と充てる事にしているのでそれは「ソ♯」を意味しているのだとご理解いただければ幸いです。

 余談ですが、ドリア調でも生ずる本位6度(=長六度)に生ずる短調の第6音であるシャープ・サブメディアントは「ベイ」と言う風になっている所も併せて理解されれば宜しいかと思います。今回は特に扱いはしませんが一応この機会に載せておきました。

 
 という訳で本題に戻りまして、今回譜例に挙げる「ルパン三世 その2」を元に語る事にしますが、譜例に音符の符頭を割愛しているのは権利関係上の事なので致し方無い処理なのでありますが階名は振ってある為、何の音を意味するのかは概ねお判りいただけるかと思います(笑)。

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 ロ短調から入りますが巧みに移旋と一時転調と中間転調も使って調性を移ろいます。故に徹頭徹尾1つの調性として階名を振る事が出来ない好例でもあるのでこのように今回採り上げているのです。8小節目(2段目4小節目)の「Bエオリアン」と注意書きをしているのは、通常ジャズ的アプローチだとトニック・マイナーに対してドリアン・スケールを想起して嘯く事が殆どです。山下毅雄はジャズに造詣が深い人でもある為、そうしたフレコミが却って禍いしかねない為に、ここでは原曲の様に短六度が重要なアプローチこそが健全なる対処であろうと感ずるので今回の様に注記した訳です。またそれが最初の「架橋音」であるのです。

 架橋音の後続音は調所属が変わるのです。つまり転調ならば小節単位で明確に変わる事が多い為調号の変化に依って明確になるかもしれませんが、中間転調の場合だと調号の変化に頼った理解を遠ざけてしまう為架橋音の役割や存在が視覚的に稀薄になりがちです。ですから私は今回、原譜はどうあれ、敢えて局所的な転調・移旋でも調所属を明確化する為に、中間転調を除いて調号を変化させ転調表記にして居ります。そうする事で架橋音が明確になるであろうという配慮からです。


 扨て先の1番最初に出て来た架橋音の階名を見てもらうと「ミシ」と充てております。1音に対して「ミシ」と視唱する訳ですから実際の符割としては付点二分音符ではなく、逆付点の形で八分音符×1 + 付点四分音符 (+タイ+四分音符)という符割で唄うべきでしょう。架橋音とはそういう物です。

 架橋音は2つの階名を合一させるという風に理解する必要がある為、先行の「ミシ」を例にすれば、前発の「ミ」が原調の調所属を示す物で、後発の「シ」が後続の調所属を示す音組織内でのコモン・トーン(=共通音)を示している、という事です。つまり「ミシ」の「シ」は後発の長音階の第7音であり、そのシは「ト長調/ホ短調」の音組織の「シ」という事です。茲まで言えば架橋音というのが能くお判りになる事でしょう。いわば架橋音とは、交差点の直前でどちらかに曲がる時の意思表示として点滅させる方向指示の様な役割だと思ってもらえれば良いでしょう。

 このコモン・トーンが受け持っている架橋音こそが「pivot」なのであり、これが前後の調性で共通する和音同士であれば「ピボット・コード」と呼ばれる連結となるだけの事で、pivotという言葉の仰々しさよりも、共通音や架橋音という呼称を覚える事が遥かに重要なので、聞き慣れない類の横文字にやたらと重み付けが起って記憶に負荷がそればかりに掛からない様にご理解する事をお奨めします。

 すると10小節目(3段目2小節目の「G△」部分)でも「ミシ」という架橋音が出て来ます。これは調所属がト長調/ホ短調の音組織である所の「ミ」と後続のイ短調での「シ」に相当する音をコモン・トーンとしているからこその架橋音なのです。

 余談ですが11〜12小節目での「E7→F△」というのは偽終止ですね。通常ならこのE7はイ短調の主和音Amへ行く為の属七ですが、それがF△に進行している例です。これまでもD→S進行やら戸田邦雄の小論のレコメンドと共に偽終止弱進行のそれについて語ってきましたが、今一度こういう一般的に広く知られる曲にて体現してみると、偽終止の類など然程違和感を抱くものでもない物だという事をあらためて実感出来るかと思います。茲12小節目「F△」部分での注意点は、「ラレ」と架橋音がある通り、次の小節で調所属が変わる(つまり転調)があるのを実感する事が肝要です。

 というのも、14小節目「E7」の個所でも「ラシ」と架橋音を振るのはその前の13小節目のB7がE7へのドッペル・ドミナントでありイ短調のⅡ度が属七化した訳ですが、本来ならBm7(♭5)が現れて良い個所がオルタレーションそれがイ短調のE7へと進行しているのであり、13小節目で起きているオルタレーションが起ってB7という和音を生じる事で調所属が変化(つまり転調)を見抜くのがポイントです。

 15小節目「Am」で表れる「ミシ」も架橋音ですのでイ短調(Am)からニ短調(Dm)へ転調している訳です。

 最大のポイントは18小節目でのA7(+9, -13)→F#7(+9, -13)の所でしょうか。これは厳密に言えば2拍ずつで中間転調しています。ですので最初の2拍はニ短調での「ミ」と後続の嬰ヘ短調の主和音が属七和音へオルタレーションという解釈で「ラスィ」が登場します。階名での「スィ」というのは前掲の通り、短調に於ける導音(=主音と半音)を示す便宜的な階名です。

 トニック・ソルファ法を推し進めた場合、このような半音階的動作の個所では非常に難儀する場面ではありますが、三全音に対して「ファ or シ」を充てる原則を鑑みればF#7(+9, -13)の第3音である嬰イ音(ais=A#)は「シ」であれば良い筈ですが、短音階の階名には「ベイ」「スィ」が生ずる事を思い出していただければ、後続のロ短調は「スィ」を持たないという、架橋音はそれぞれがコモン・トーンである筈なのですが、F#7(+9, -13)が示唆する後続の調所属を示す為には「シ」ではなく「スィ」であるべきなので、今回こうして充てている訳なので混乱の無い様にご理解願い度い所です。

 処で18小節目のコードだけ何故これほど仰々しいのか!? と言いますと、15小節目からは特に顕著なストリングスの線というのはカウンター・フレーズを生じているのであるのが重要なポイントなのです。そのカウンター・フレーズとは背景に備わる調性や和音から感じ取られるモード・スケールを逸脱する和音外音が生じていて、それが半音階的に移ろっている音との妙味に加えて、私が勝手に味付けしている和音なのではなく、A7(+9, -13)→F#7(+9, -13)での夫々の和音の第5音をオミットした上で奏してみれば自ずとその自然さが理解できる事でしょう。亦、これらのドミナント・コードの進行はrelativeな音度へのパラレル・モーションであるという所も重要であります。




 扨て、「ルパン三世 その2」の架橋音からお判りいただける様に、架橋音の殆どは後続和音の為の半音的勾配を付ける為にオルタレーションをしている音を唄っている、という事が判るかと思います。簡単に言えばハ長調にて通常ならC→Am7→Dm7→G7・・・という所をC→A7→D7→G7・・・という風にオルタレーションさせるとA7の第3音であるC#音は後続のD7の為の半音の勾配を作った物であり、D7の第3音であるF#音は後続のG音の為の半音勾配である事が判ります。つまり、勾配をスムーズにしたこうしたオルタレーションを、音階固有音の各音が持つ機能の一部の第7音の「導音」とは異なる處の「導音作用」という意味で「導音」を捉える必要がある訳です。

 とはいえ和音の響きのハイパー化が進むと「導音」が主音に、又は後続和音の構成音に「未解決」の動作などごく普通に存在します。先日もスパイロ・ジャイラの曲「Incognito」でのマイナー・メジャー9thコードで例示しましたし、何より山下達郎の「土曜日の恋人」のGmM7(on C)での上声部の長七度音であるF#は導音として順次上行はしません。GmM7(on C)→Bm7での進行間に於けるF#音は解決どころか寧ろ掛留です。

 こうした例にある他にも、早坂文雄著『日本的音楽論』に於いて氏が田中正平著『「日本和聲の基礎」』の文中の言を借りて《終止の先行和音はその中に成るべく導音を含むことの必要に迫られる》という一文もあり、興味のある方は是非一読してもらいたいのでありますが、導音が必ずしも半音ではないという畢竟するに全音の導音もあるという風に論じたのは日本国内では田中正平が最初の様である事が早坂文雄の論述からも窺い知る事が出来ます。とはいえ"西洋音楽ナイズ"された田中正平の日本的和声に対して反駁を載せているのも早坂の『日本的音楽論』にて詳述されているので、こちらの所謂「旋法的和声」の例示というのは目を瞠るべき素晴しい物であり、その和声進行例はその後の松平頼則著『近代和声学』の五和音の項から箕作秋吉を語る辺り迄の旋法的な和声という物を知るには充分な資料となるのではないかと信じてやみません。

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 更に、アンドレ・ミシェル著『音楽の精神分析』(音楽之友社刊)175頁《七度音および九度音は未解決のままで放置され〈中略〉不協和音は、対位法の始原、つまり二つの潜在的旋律の瞬間が重なりあったものを含蓄している》 という文章があり、非常に注目すべき且つ深く首肯すべき一文でありましょう。この書は凡ゆる音楽的な線からどのような音楽的メッセージが内在しているのかという事を哲学的な方面から考察しているのでありますが、思弁から生じたとは思えぬほどの深い音楽への洞察があり比較的安価で出回っている事に歎息してしまう程の名著であります。

 換言すれば、音階固有音として主音との音程が半音として持っている音階は一般的に「導音」と扱いますが、主音に必ずしも解決しない振る舞いが俄に訪れる様になり、それを受容する様になる音楽観の熟成が聴き手に求められている所に、舊來の「調性音楽」の仕来りの体得に甘んじてしまった人が、それ以降の音楽観を否定してしまうきらいが往々にしてあるもので、これでは主客顚倒と言わざるを得ない事でありましょう。

 なにゆえ音楽観が熟達しない聴き手の「真正直」「愚直」とも言える程の卑近な音楽観の評価に高次な和声感を体得しようとする者が甘んじなければならないのか!? と考えてもらい乍ら、私がこれまで紹介しているコード進行を体得してもらいたいと思う事頻りです。


 調性感という音楽観はほぼ誰しも体得している事でありましょう。半音階的全音階の社会や無調の世界や微分音の世界を知ろうとも、それにて涙を流す事すらも忘れてしまった冷血な人間に成ってしまうのではありませんからね(笑)。高次な和声感覚の体得に依って自身の音楽観(真正なる調性感)が崩れてしまうなどと思い込んでいる様な人は、音楽理論を覚えると自身の感性が駄目になってしまうなどと妄言を垂れている輩と変わりありません。

 自身の感覚に尻込みする人は自身の感覚が育っていない事を知っている筈ですがそれを認めたくないから足踏みをするのです。調性感の体得すらままならぬ音楽観を持つ人が調性感の獲得に尻込みしてしまったら、その人は如何して熟達を高める事が出来るでしょうか!? 調性社会に対して現実の世界以上に偶像崇拝している様な人の音楽観など矛盾だらけという事があらためてお判りになる事でありましょう。


2021年11月17日追記


 扨て、前掲のコード譜にて《この手の中に》と歌われる箇所となる《に〜》のメリスマ部は [a - ais] という風に2拍ずつ歌われており、2拍それぞれコードが異なるのは明白なのですが、私はそれらのコード解釈を次の様に

先行和音を「A7(♯9、♭13)」
後続和音を「F♯7(♯9、♭13)」

としており、これについて疑問を抱かれる人が居られる様なので縷々述べて行こうと思います。




 前述の2つの和音となる当該箇所での先行和音部分=1・2拍目(先行和音)でのベース音を見ると [f] 音から開始されています。その後2拍目で [a] 音へ下行している事を《「F△」というコードに於いての2拍目は3度ベース》という風に解釈する人が存在する様です。

 但し、ビオラとして採った私の解釈する譜例の方では明らかに [d] 音が鳴らされているので、仮に [f] 音を根音とするコードとして解釈したとしても「F6 -> F6 (on A)」という風になりそうですが、私は決してその様に解釈はしないのです。それは何故か!?

 このビオラ(ビオラが相応しい中音域のパート)が奏する [d] は和声音とはせず「倚音」と解釈すべく音であると位置付けます。加えて、この先行和音は「A7何某」という風に見做し、ベースは2拍目で根音を奏するという物で1拍目のベースはアプローチ・ノートなのであるという解釈をするというのが先ずひとつの理由です。

 ジャズ/ポピュラー音楽の解釈の場合、特に拍頭で音価の長い音は何がしかの和音構成音およびアヴェイラブル・モード・スケールの音に準ずる様にして考えられます。他方、西洋音楽の場合は全てが何某かの和音体系にある音が和音構成音に括られる音になるという事はなく、和音外音(非和声音)が生ずる事は頻繁に起こります。これは何故かというと、西洋音楽は総じて和声法で書かれず、和声体系を飛び越える対位法書法も混ざるが故に頻出するものなのです。

 加えて、西洋音楽に於ける和音外音というのは、旋律形成の為の強固な牽引力の材料として「好意的」に使われます。無論、それがあからさまに「外れた」音としての脈絡のない物でしかなければ忌避される音なのでありますが、先述のビオラの [d] 音は、明らかに《必要とされる》和音外音なのであります。

 そうした牽引力を別のシーンで喩えるとするならばリニアモーターカーを例に挙げる事が可能でありますが、そのリニアモーターカーの電磁力に於ける反発力は、自身の推進力の為に利用される物です。

 実は音楽の旋律形成という物も、聴取者の心理的な協和と不協和という感覚を知らず識らずの内に旋律の方から弄ばれている様な状態なのであり、「この音に進むだろうな」という予測は協和感に依る物であり、その予測する音に向かう為の動機付けとして必要な推進力こそが不協和感から生ずる物なのです。

 音楽の伴奏として背景に「ドミソ」という和音があった時に「ド・レ・ミ」「ミ・ファ・ソ」という2組の拍節となるメロディーを歌い上げた時、過程の「レ」と「ファ」は次の音の為の牽引力となっている重要な役割の音なのです。音価が短ければそれらは単に「経過音」でしかありませんが、拍の強勢しかも拍頭という強拍から決然と非和声音という和音外音が長い音価で堂々と「倚音」として聳えるそれには、相当な狙いがあっての事でありましょう。

 前述の重要なビオラの [d] 音は、コードの根音が [f] 或いは [a] のどちらを採ろうとも根拠の薄い音なのであります。しかも、第1ヴァイオリンは2拍目で [cis] を奏するので、これにより第2ヴァイオリンが全音符で奏している [c] と半音でぶつかっているのであり、少なくとも2拍目からは「F△」というコード表記の根拠が [cis] に依って失われてしまうのです。

 無論、そこでFハーモニック・メジャーというモードを想起すれば [cis] と想定していた音は [des] としても解釈する事は可能ではあるものの、第2ヴァイオリンが [c] を掛留させている為、1拍ずつコード・チェンジする「F△ -> Faug」という風にも解釈する事ができなくなるのです。

 こうした状況下、つまり《[c] と [cis] が同居》している状況、且つ [d] 音までも存在するという状況を単音程に還元すれば、ダブルクロマティックという二つの半音音程のクラスター状態となっている訳でもあり、コード表記を用いるジャンルではなかなかこうした状況を容易くコード表記する事は難しい事でありましょう。

 通常、こうした状況に遭遇する時はポリコードを想起する物ですが、ポリコードを想起する為の複数の基底和音を想起する状況を見出すにも根拠が薄いのです(※ポリコードを根柢とする状況を想定した場合、和音構成音は [a・cis・e・g・his [c] ・d・f] を見渡す必要があり、ひとつに《A7上のCsus4》或いは《A△上のG7sus4》という風に見る必要があり、どちらか一方が完全和音=普遍和音とはならないのでポリコードから想起される複調の内のどちらかひとつの調性が希薄な呈示となってしまう.事前に同様の複調を呈示する状況があれば斯様などちらかの調性が暈滃される状況は是認されうるが.)。これは、ベースの1拍目はアプローチ・ノートであって、2拍目がコードの体として収斂する場だと解釈する方が自然であろうかと思います。無論、[cis] が現れるのは2拍目なので、

F△ -> A7(♯9、♭13)または
F6 -> A7(♯9、♭13)

という風に1拍ずつコード・チェンジをしているという風に書いても問題は無いとは思います。但し、これら2拍を1つのコードとして「F△」という風に見る事は出来ない筈です。


 コードの構造というのはスクリャービン、シリンガー、スロニムスキーという系譜を辿った所を勘案すれば、ドミナント7thコード表記体系が基軸となっている訳でして、属和音以外のコードはメジャーであろうがマイナーであろうが「副和音」に過ぎず、ディミニッシュとオーギュメントはドミナントの変化形に過ぎないのもまた然りです。

 そこで「A7(♯9、♭13)」という和音の体へと一旦の帰着を見る単なる先行和音のそれは、長和音という完全和音(普遍和音)という姿であるにしても、歴時が短く、その普遍性は他の声部に依ってすぐに壊される状況であるという事を鑑みれば、後続の属和音としての体の方が優勢となる状況である事は明白なのであり、これは後続和音である「A7(♯9、♭13)」または「A7何某」というドミナント7thコードとしての和声的牽引力を見抜く必要があるという風に私は解釈しているのです。

 その上で [d] という音が随伴している。これは [a] から見れば本位十一度となる「♮11th」の音ではあります。ドミナント・コードではアヴォイド・ノートでありますが、私のブログではハーモニー状況を示す為に、物珍しくはないコード表記ではあるものの今回和音の方には組み入れてはおりません。

 この [d] という倚音は、少なくとも1・2拍目では何某かの和音構成音へ進行する事なく「2拍」という歴時を終える音ですが、後続和音での和音構成音には姿を変える事はあるかもしれないという「牽引力」を持った音なのです。こうした牽引力を伴わせている旋律形成は、和声法書法だけでは起こり得ない(※完全に起こらないという意味ではない)物であり、対位法書法をも組み込んだ物でないと斯様な音にはならないと私は解釈する訳です。

 常に何某かの和声的状況を念頭に置く人からすれば、和声法書法しか想起しない事と似ている訳ですから、和声法の埒外にある音の解釈となれば頭を痛める状況であります。無論、その解釈の難しさは私にとっても同様であり、単なる和声法書法では到底収まる事のないアプローチであるという事はお判りいただけるかと思います。

 山下毅雄という人はジャズ・フィールドが先にある人物でありますが、こうした弦アレンジでは和声法の外にある対位法の解釈を拡張的な和声に仕立て上げているのであろうと思います。無論、西洋音楽に於ける対位法のそれとは異なるのですが、和声法では生じないアプローチが対位法の延長である事が、特にビオラの旋律形成に強く現れていると思います。

 ですので、ベースの1拍目で生ずる [f - c] は、「A7(♯9、♭13)」というコード上での「♭13th」と「♯9th」相当となるオルタード・テンションから入るアプローチであるという解釈に到る訳です。

 勿論、ベースが [f] 音の付点八分音符を奏している歴時の間は「F△」または「F6」のハーモニーを形成しているのは間違いありません。ただ、この響きは1拍で終わり、2拍目のコードの響きが結果的に「優勢」にしてしまうのであれば、先行する1拍目は2拍目に隷属する型であって然るべきであろうと思います。

 加えて、後続和音「F♯7(♯9、♭13)」へ下方五度進行またはツーファイブ進行(※この場合の「ツー」は「Ⅱ7」としてセカンダリー・ドミナントという副次ドミナントを想定している場合の含意)している訳ではないという事も、先行和音「A7(♯9、♭13)」というコードの姿は、より一層、このコードが「独立峰」とも呼ぶべき《協和音へ解決しないドミナント7thコード=不協和音》という位置付けとなる事で「ドミナント7thコード」たる姿は、後続の解決を待たない「より強固」な不協和音の存在を示す事となっています。

 つまり

《アレ、おまえ「F△」だと思ったんだけど「A7(♯9、♭13)」の断片じゃねえか。それならこっち来なよ》

 と、1拍目の「F△」は《より強固》である不協和音「A7(♯9、♭13)」の和音構成音をコモン・トーン(=共通音)としている以上、より強い存在の側へ隷属するつもりはなくとも隷従せざるを得ない状況でしかなく、後続である「A7(♯9、♭13)」という型である事を明確にしてしまうに過ぎないのです。

 無論「F△」として響く局所的な部分だけを拔萃すれば、それは「F△」という響きではあるものの、直後に響く後続和音の断片という姿ではなく、「本体」として鳴らされれば、先行和音の姿は後続のそれに収斂してしまうのは、親に連れられる子供の様な姿と同様の様になってしまうという訳です。

 ですので、私は1・2拍目という先行和音をひとつのコードとして「A7(♯9、♭13)」という表記を充てているのです。

 しかも、その次の3・4拍目として現れる後続和音「F♯7(♯9、♭13)」は、和音の体として単にセスクイトーン(=一全音半)移高しているに過ぎない物でもありますが、中心軸システムを念頭に置く事で機能的には同義であるので、ドミナントを2回「しつこく」繋げている状況となる訳です。

 但し、1拍目では「A7(♯9、♭13)」というコードを柔和な形で「F△」または「F6」という響きに聴こえさせているという風にも捉える事は可能でありましょう。とはいえ、その柔和な形は直後の「強固な姿」に収斂するという音楽的な意図を明確にしたいが為に、斯様なコード表記を示しているという訳です。


 私のブログでは「ハーモニー状況」をコード表記で表そうとする為、一般的なコード表記の流儀と異なる事が多々生じます。

 例えば今回の先行和音「A7(♯9、♭13)」にしても、本コードの七度音相当の [g] は楽譜ではどのパートも奏されていないではないか!? と疑問を抱かれる事でしょうが、ボーカルに掛かる先行小節の最後の音である長いリバーブ・テール(残響)が後続小節への「掛留」となっているのですね。

 つまり先行和音「A7(♯9、♭13)」の和音構成音としての [g] は、本小節の当該部分では和音構成音として存在はしないものの、先行小節での《この手の中》の《か》の [g] が掛留となっているが故の表記なのです。

 和声が発展して来た歴史は、掛留が荷担して来た事をお忘れになっては困ります。そもそもコード表記とは、伴奏がどんなリズムや楽器であろうとも、原曲を毀損する事なく満たしてくれる状況であれば済む、簡便的な策である事が本来のコード表記です。

 ですのでハーモニー的状況を隈なくコード表記として済ませる必要の無い物がコード表記の姿なのでありますが、西洋音楽を能く知る方であればハーモニー状況を隈なく拾って各音を示す事が重視されるのもお判りでありましょう。

 私は、ジャズ/ポピュラー音楽に於て「ハーモニー的状況」からスポイルされる音の実際を何度となく遭遇している為、ハーモニー状況を示す為に、楽譜をおいそれとブログでは使えないので(YouTubeを使えばYouTubeという運営サイドが著作権を担保してくれる)、一般的なコード表記ではない、ハーモニー状況を示す為にコードを用いているという事をあらためてお判りいただけるかと思います。

 こうしたハーモニー状況は今回の後続和音でも同様でして、「F♯7(♯9、♭13)」の「♭13th」は、先行でビオラが奏していた倚音 [d] 音の残響です。

 ジャズ的な響きに慣れている方は、先行和音の残響など邪魔だと取扱う人の方が圧倒的に多いと思います。唯、残響を無くしたとしても「記憶」が掛留を作り出すのも確かで、そこから逃れる事は非常に難しいものです。

 残響と記憶が和声を発展して来た事を思えば、単に残響として片付ける訳には行かないのです。とはいえ私とて、あらゆる楽曲のあらゆる先行音を総じて後続和音の構成音にしてしまうという安直な考えなど毛頭有してはおらず、本曲の残響、テンポなどを勘案した上で、本来なら楽曲はシンプルなトライアドで始まっているにも関わらず、移旋と転調を重ねたら途端に楽曲のリバーブが功を奏するかの様に複雑な和声的状況を生み出すそれをどうしても看過できない訳ですね。和声的状況として表さざるを得ない、と。

 こうした点をあらためて注意していただいて私のブログをお読みいただければ幸いでございます。