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IVのV7 [楽理]

 扨て、ドミナント7thコードやら分数コードなども語って来ているのですが、それはジャズ/ポピュラー界隈の楽理的側面を習得しようとする人の多くに、西洋音楽を軽視する嫌いがある為、そこに生ずる誤謬を排除する目的で私は敢えて西洋音楽に敬意を表し乍ら語っているのです。ブルージィーな響きがあるのも、それはジャズが貢献はしているものの、西洋音楽とて弱進行・変格終止・偽終止やらの方法論があり、概ねそうした方面との楽想と共通する所があるが故にこうして述べて来ている訳です。


 殊に、「九の和音」という物を学ぶに際して西洋音楽から学ぶ事は非常に多い物です。九の和音とは5声から成立しているもので、つまりはナインス・コードという風になる訳です。和音というのは3度累積にて体系化されているので、三度音程を積み上げて行くと3・5・7・9…という風に積み上がる訳でして、9度音が生じているという事は3・5度音はおろか7度音も包含している事が前提となります。

 とはいえ、ジャズ/ポピュラー界隈ではadd9というタイプのコードなど特に顕著ですが、附加音タイプの和音も一つのカテゴリーとして覚えてしまう物ですから、「トライアド+附加音」という考え方が先に生じてしまい、7度音をスポイルしてしまう事がどうしていけないものなのか?という、和音の成立の歴史を識る事なく習得してしまう向きがある為、こうした側面をきちんと理解して体得するには西洋音楽史に学ばなければならない事だらけである、という事を述べているに過ぎない訳であります。

 抑も附加音は付加六度から生じたもので、IV度上の和音に第6音を充てる事から端を発します。ラモーに依る功績です。以前にも6thコードで語った様に、この6度音が限定進行音として上向する為の在り方として与えられた訳でして、その後時代を進めて附加2・附加4度という風になっていくのでありますね。この辺になると最早西洋音楽とて20世紀になる訳にもなるのでありますね。
 

 そこで今一度話を戻して九の和音。これは元々属和音でしか許容されていない物でして、それこそ属和音とて七度が認められていたのは属和音のみ。つまり九度音が生ずるのも属和音という属九の形としてしか認められず、副和音には勿論認められなかったのであります。勿論それにはヘプタトニックの各音夫々が持つ「五度」の音程が歪つだった事もあるのは言うまでもありません。

 扨て、九の和音というのは出自から勘案すれば構成音は「ソ・シ・レ・ファ・ラ」という事になります。第四転回形というのを想定した場合、「ラ」が最低音になりかねないので九の和音に第四転回形というのは与えられておりません。その架空の転回形はG7/Aと見る事となり、基底音が他の音度(=複数のオクターヴ相=複音程に跨がる和音構成)になるからであります。しかし、これは西洋音楽での古い取扱いでの事でして、分数コードとしてそれを扱うならば、単一コードの転回形としてではなくとも分数コードとしての出来は有り得るという事を意味します。


 こうした音が西洋音楽で存在する為には、「偶成的」な事例として、つまり、G7という和音の下に通奏低音A音が生じているという風に解釈するのが古い体系での解釈であった訳です。この偶成的な取扱こそが機能を暈すものにも発展した訳でして、結果的に「弱進行」の用法が増えていく事にもなり、そこには偽終止も相容れる様な状況へと西洋音楽は歴史の扉を開けて行くのであります。


 扨て、先頃から私が口角泡を飛ばすかの様にして「藝大和声は偽終止を是としていない」という教え方に終始しているという部分はお判りいただいておられるでしょうか!?

 奇しくも2015年の春から藝大では和声の教本がそれまでの島岡譲監修のそれではなくアルテス・パブリッシング刊『新しい和声』に切り替わる様でして、内容がどれほど変るのか実に興味深い所であります。孰れ私のブログでも書評を述べる予定ですが、「藝大の和声教本が変る」というのは其処彼処で耳にしていた事もあって、敢えて私がこの様な話題とリンクさせているのは偶然ではなく企図したものであります。

 そんな訳で従来の「藝大和声」とやらを今一度考えると、偽終止に関する事に於ては和声学関連の教本に於いて相容れる事のない唯一の教本と極言して憚られる事は無いでしょう。それくらい機能和声に徹底しているのです。換言すれば、偽終止を学ぶには他の教本で学ぶ必要がある、という事なのです。それが今後どうなるかは現時点では不明ですが、少なくとも従来の「島岡版藝大和声」では偽終止とやらを学ぶのは不向きなのです。

 何故藝大和声はそうしたスタンスだったのか!? というとそれは、一定水準以上の教員を養成する為だからです。機能和声を厳格に取扱う事のできるエキスパートの養成。然し乍ら一方では、藝大に入る事を目指す為の教本であるのももう一つの側面でもあるのです。これらの側面を知らずに藝大和声というブランド力ばかりに心酔して、教本の類としては決して安くはない本だからとそればかりに依拠してしまってジャズ/ポピュラー音楽の理論と並行して、何故かそちらにはスンナリと関連性の稀薄な藝大和声を所有している人など相当数見掛けて来たのも事実。


 弱進行や偽終止の最たる特徴は、後続和音が先行和音の根音を上音に取り込まない所に「異和」を抱くからでありましょう。しかしこれとても、西洋音楽(=機能和声社会)の和音連結に伴う「起承転結」という感覚に耳慣らされるからこそ違和感を覚えるのでありますし、その違和感とやらも偽終止進行に多く遭遇すると、いつしかボキャブラリーの一つのように成熟して行くものであります。


 先の九の和音を語っていた中で、第4転回形が無いのは、それこそ根音が「あさって」の方向を向きかねないのでこれは当然とも言える訳ですが、九の和音とやらを今一度確認すれば、「ソシレファラ」の和音には「ソシレ」と「レファラ」の和音を包含している訳です。つまり「V」の和音と「II」の和音を同居させているのでありますから、II→Vという下方五度進行(=四度進行)を行わずに中和させていると見る事も出来、これはまさに現今のジャズ/ポピュラー社会のIIm7→IIm7(on V)やらの物と何等変わりない事なのでもあります。

 つまり、下方五度という進行は先行する和音の根音を後続和音の上音へ「取り込む」というのが最大の特徴なのですが、和音自体を重畳しくすれば和音進行が仰々しくなくなり、ひとつの和音で「九の和音」の権限を与えれば(※属和音以外にその地位を与えるという意)、和音進行という「儀式」は起らなくなり、静的な和音の聳えとして成立する様になり、その和音に旋律が纏い付く様になるのです。これは旋法的な物となり、結果的に「モーダル」な雰囲気として成立するのであります。



 ピストン/デヴォート著『和声法』では、興味深い言葉が書かれております。


《転調における軸和音は新しい調のドミナントでないほうが好ましいため〈中略〉、属九の和音も軸和音としては不都合である。したがって第2の調あるいは両方の調における2次ドミナントとして使った方が効果的である。》ピストン/デヴォート著『和声法 分析と実習』(音楽之友社刊)より


 実はこの「属九」は「長属九」つまりドミナント7thコードに長9度音が附与される事での意味でありまして、ジャズ/ポピュラー系ではオルタレーションされた9度(=♭9、#9)を能く使いますが、オルタレーションの9度を使う場合は、解決先のコードに対して「調所属」感を強めてしまう為、響きは大変仰々しくなります。

 そこで例えば、ドミナントのドミナント、つまりセカンダリー・ドミナント(=ドッペル・ドミナント)に於いて長属九を使って遣ると効果的だという事を


 長属九という和音は下方五度進行をするにしても、その和音そのものは先程の例の様に「II→V」を包含しているので、静的な色彩を持つ側面をも備えているとも謂えます。つまりドミナント7thコードが長9度音を持つ事で「静的」な性格を帯びているとも言える訳です。

 そうした静的な性格が見えてくるという事が、弱進行や偽終止を相容れる状況になって来るという訳です。何故なら、それらは先行和音の根音を後続和音の上音へ取り込まない進行であるので、進行感よりも和音そのものの色彩的な響きが静的に際立つ様になるからであります。そういう点を重視すると、V→IVという進行が視野に入る訳でもあります。

 こうした世界観がドミナント7thコードの「多義的」な側面を持つ様になって来るのは言うまでもありません。こうした事を私はこっぴどく述べているのでありますね(笑)。なぜ、この部分が重要なのか!?という事を。

 松本民之助は自著にて偽終止経過属七(=passing dominant)という風にも語っている部分もあるのでとても参考になるかと思いますが、こうした部分はジャズ/ポピュラー音楽が決して無視する事が出来ない西洋音楽の側面でもあるのです。加えて松本民之助は「突然転調」と称して、長短三度上下の調へ転調するそれを語っております。奇しくもこれはジャズのコルトレーン・チェンジやらにも充分に置き換えて判断できる事であります。

 ジャズ関連教本となると能く引き合いに出されるのがマーク・レヴィンの著書。同氏の著書『ジャズ・セオリー』303頁にて偽終止は「ディセプティヴ・ケーデンス」として紹介されているので参考にされると宜しいでしょうが、述べられている事は、ドミナント7thコードが下方五度進行をしない例を挙げているのは明白です。『ジャズ・セオリー』にて語られる長短三度上下に進行するそれは、先述の松本民之助のそれと同様なのであります。勿論例示してある曲はまるっきり違う事に歎息してしまうようであってはならないと思います。

 音楽ジャンルが違えど同じ様な局面を語れるのは、和音体系が三度音程に依拠する所に端を発しているからに外ありません。言い換えれば、和音の積み上げは3度音程なのですから、3度音で積み上げられている「隙間」が当然の事が和音外音なのであります。

 七度音を持つ和音は1・3・5・7という音度の構成音にて構築されている訳ですが、この和音の「和音外音」は2・4・6度であるのは明白です。ジャズというのは和音外音がダイアトニックであれば音を外さない事になってしまいます。和音構成音がノン・ダイアトニックであり乍ら先行していた調性の余薫を利用して、その都度和音外音も追従させて、ノン・ダイアトニック・コードであろうとも、ノン・ダイアトニック・コードの和音外音も重要な音脈なので近似的なモードを想起している訳です。

 ところがその「ノン・ダイアトニック・コード」も、ある程度ジャズに馴れてくると、卑近な呼び込みで大方推測に容易い音使いに遭遇する事も珍しくなくなります。硬い響きの和音であった筈の音にも馴れてくると、大概の和音など馴れてしまう物でもあります。

 3度累積の和音というのは、和音外音として使える音の間隙《かんげき》は1音しかありません。ドとミの間には1つの音しかありません。レでありますが、ジャズの場合はレが「レ♭」しても良いのか「レ♯」と奏しても良いのか!?という適宜選択が都度行われているのであります。和音構成音からは読み取れない音の使い方に最大限の面白さがある(筈)なのです。

 扨て、この和音外音にもっと自由度を持たせるにはどうすれば良いか!? 四度和音にすれば和音外音としての音脈は少なくとも倍に殖える訳ですね。尤もそこにはヘプタトニックが前提ではありますが。とはいえ四度音程累積を欲張ってしまえば、四度音程の重畳を累積して転回させれば二度音程の繰返しです。つまり和音外音としての脈が埋まるのです。四度音程の重畳しい累積が当初は全音なので、半音という間隙は残されておりますが、四度和音としての姿が六声ほど埋まってしまえば、そこから予測されるヘプタトニックはやはり、最も推察し易い共鳴的なヘプタトニックの網にかかりやすいものであるとも言えるのです。

 とはいえ推察に容易い類の和音ではない為、和音外音は、想像し易いヘプタトニックの音を態と避けるかのように選択するのも一つの手段ではあるでしょう。

 三度音程というのは五度音程を半分に割譲したものなので三度音程の累積は共鳴的な五度音程を生むのです。結果的に「卑近」な響きを得やすくなるのですが、四度音程というのは割譲しようにも巧く半分にはできません。亦、四度音程を積み上げても共鳴的な音を得るのは4音目が現れた時となります。

 因みに、四度和音は完全四度を等音程として積み上げるものと、不等四度として積み上げるふたつの側面がありますが、半音階の音脈を使うに際しては前者が有効でしょうし、オクターヴという構造を捨てて純正音程を扱い乍ら完全八度を捨て去る螺旋構造の音脈では後者が興味深い響きとなる事でしょう。ジャズという音楽に於いてピアノという楽器は避けて通れない楽器である事を思えば、後者の音脈が使われる可能性は低くなりますし、そうなると半音階社会に真摯に向き合うとすると、やはり等音程としての四度和音や、等しい平均律が功を奏するという事になります。

 ジャズというのは三度音程の累積から生ずる13度音までの和音構造として既に涸渇している様な状況です。モチーフの使い方が西洋音楽の組み立てとは全く異なる「即席」タイプの物が多いので、音脈が逸脱しようとも、和音構成から読み取れる音や旋法的な近似性から読み取れる類の音を使っているだけという事も容易に想像が付くアプローチを採っているのが多くのジャズであります。

 13度も積み上げれば総和音なのだから(全音階の)、進行感は薄まって行くか、他調の香りを見付けるか位になると言うものです。原調の残り香という「余薫」を漂わせつつ、他調の香りを欲しがる訳ですよね。これはどんな音楽ジャンルに於ても、ある程度調性感を頼りにしている音楽であればどの音楽でも使う「仕草」でありましょう。


 ジャズ/ポピュラー音楽から入る人は調性感覚はさることながら、殊にジャズ方面だと和音の響きそのものに馴れる事が急務でもある為、硬く響く複雑な和音の体得を余儀なくされる部分はあります。勿論それが「余儀なく」ではなく本人の心が欲している事が重要でもあるので、無理矢理ジャズを耳にしているのでない限りは強制されるかのように聴き取る人の方が少ないでしょう。しかし、そうした和声感の獲得はやはり体得度合は急いてしまう向きがあるのも事実でして、ジャズを好んで聴く人でも、和音に対しての熟達度は総じて高い面はあっても個人差はやはりある物です。

 それと、ジャズ/ポピュラー音楽に於いて顕著なのは、聴き手が有している器楽的技術に音楽を投影しないと深い追究が出来なくなるという側面。たとえばギターしか弾かない人がギターにしか耳を傾けられないとかそういう側面ですね。また、和声感とやらも和音を垂直的に捉え過ぎる嫌いがあるのも特徴です。多声的な線の追い方を苦手として、和声感を垂直的に捉えようとする訳ですね。

 スティーリー・ダンのハーモニーというのは横の線というのは稀薄で、和声感は白玉状に鳴っている事が多く、その響きが幾つか奇を衒う様に連結したり、聴き手の予測を裏切るメロディが出て来たりする事で深い耽溺に浸っている方が多いと思います。ジャズに耽る多くの人というのはこういう和声感の抱き方であるのは疑いの無い事実です。

 しかし、和声感の熟達に甘い時は、そうした和声感の捉え方で躓き易いのは、3度音程構造がスキップする類の和音構造(概ね分数コード)だったりもします。

 3度の延長で拾って来れない類の音に対して、垂直的に捉えようとすると絶対に基底は見えません(聴こえて来ない)。知覚に易しい音から拾って来る訳ですから、知覚に厳しい音は「連結」で追わないと見えにくくなるのは当然です。つまり、横の線を追わないといけないのです。ですから、概ね予想を裏切る低音の動きを水平的な横の線を感じない限り、熟達に甘い厳しい響きを追う事は難しいと思います。だからこそ私はそうした訓練にもなる西洋音楽の室内楽を聴く事をお奨めしているのです。

 そうすると、ジャズ/ポピュラー音楽から入った人がそうした室内楽を聴いてあらためて音楽の深みを堪能し乍ら、その後バッハなどを聴けば、たった二声の対位法という絡み合いがどれほど複雑なのか!?という事も孰れ遭遇する事が出来るでしょうし、「なんでこの音がハ長調なの?」という、半音階を使う音脈の紡ぎ出し方のそれは、単に近親的な調性ばかりを拾って来るだけの妙だけには収まらない(対位法は近親的な調性の併存と変形から生じていますが)音脈の使い方にあらためて深く首肯させられる事と思います。

 対位法を使う人の「余薫」と「予測」の使い方というのは魔術めいた物があるので、それこそ原調に対して近似的な旋法で「嘯く」程度ではまだまだケツの青いヒヨッコと罵られかねません(笑)。ですから私はこれまでジェントル・ジャイアントの例を引き合いに出して、そこから昇華し得る音脈に対して憧憬の念を込め乍ら語って来ているのであります。


 ですから、ジャズ/ポピュラー界隈しか知らない人にも、西洋音楽への理解を深める事がどれほど重要なのかと、決して軽んじる事なくリスペクトして体得する事が肝要だと慫慂するのでありますね。

 先頃私がTwitterで呟いていたクマムシの「あったかいんだからぁ」の曲をおフザケでリハーモナイズをさせてみたコード進行をアップした事がありましたが、こういう曲の例をひとつ取っても、西洋音楽方面と理解を異にしない重要な側面が在ったりする物です。
Attack-kind-dark-color.jpg

 「あったかいんだからぁ」の重要な部分は、譜例で言えば4小節の部分。つまり変ホ長調(=E♭)で言う処のI度の和音がノン・ダイアトニックのドミナント7thコードに変化するという部分です。

 セカンダリー・ドミナントというのは実は一義的に捉えてはいけません。西洋音楽ではノン・ダイアトニックに現れるドミナント7thコードに対して、原調の余薫とのコントラストの差異感を理解する為に、和音記号として区別しております。

 セカンダリー・ドミナントに於いて最も顕著な例は「ドミナントのドミナント」というドッペル・ドミナントと呼ばれるものですが、これは西洋音楽の和音流儀で呼べば「VのV7」と呼ぶのです。ポピュラー流に寄り添って語るなら、「そのドミナント7thコードは現在地から数えて5番目の音度が根音ですよ」と指しているのです。

 ですから、ハ長調域でノン・ダイアトニック・コードとしてIIm7がII7になりました。これを西洋音楽的に言えば、「g音から5度に位置する音度を根音にするドミナント7thコード」=「VのV7」となるのです。

 同様にハ長調域でE7が生じれば「VIのV7」ハ長調域でF7が生じれば「VIIのV7」と呼ぶのであります。同様にハ長調域でC7が生じれば「IVのV7」と呼ぶ訳です。

 つまり、「あったかいんだからぁ」の先の最たる部分は「IVのV7」という響きが顕著でありまして、且つ、西洋音楽では、主和音に解決しない時の二次的なドミナント7thコードでの九度音は本位九度の方が美しく際立つという風にも述べられている訳です。ジャズだと「ほぼ」(=馬鹿の一つ覚え)、ドミナント7thコード上で9度のオルタレーションを使っていたりする様な紋切り型「なんちゃってジャズ屋」が居て、こういうのがいざメロディック・マイナー・モードで必要な和音に遭遇したりするとテンテコ舞いになったりするので面白い側面でもあります。

 嘗て(2年程前でしたか)私に難癖付けて来た似非ジャズ・ギタリストも、ジャズ界隈の響きというものを和声的に聴く事はできてもボキャブラリーが全く習熟しておらずに自身の音楽観や楽理面も全く浅薄な物という事を露呈しておりましたが、ああいう風になってはいけないと思う事しきりです(嗤笑)。


 ジャズとて他調の拝借は頻繁に行う訳でして、飛躍が大きければ大きいほど原調の音度から見る事すら覚束無くなる事などあったりもしますが、ある程度原調の調性感を演出しているタイプの曲であれば、原調の「余薫」に伴わせつつのノン・ダイアトニック・コードのコントラストというのは、先の西洋音楽の和音の呼び方の様にきちんと理解しておくと、唄心と共にインプロヴァイズを伴わせる事が出来るのではないかと思います。

 猫も杓子も9度のオルタレーションに拘泥するのではなく、本位9度の美しさというのを今一度見直して、その上でジャズの語法を今一度見直さないと、本位九度の美しさを持つ原曲のそれを、オルタレーションという色素で色合いを変えてしまうのはどうかと思うんですな。勿論その差異感が決まる事もあるでしょう。しかし、オルタレーションする(バカの一つ覚えの様にオルタード・スケールを充てる様な演奏)事に心酔してしまっている様な輩に、そのメリハリが利く訳もありません。

 加えて、ジャズを遣るにしてもこういうポピュラー方面での「咀嚼」やアレンジメント感覚は兼備しておかなくてはならない部分ですので、西洋音楽に置き換えようとも其処を軽んじてしまうのは良く無いと思う事しきりです。

 先の「IVのV7」という用法にしたって、TUBEの「シーズン・イン・ザ・サン」のサビ部分(IVに進む直前の主和音がドミナント7thに変化する箇所)などでは顕著な例ですし、二次ドミナントの用例というのは、高次で複雑な和音を体得してきた者からすれば卑近に感じる事もあるでしょうが、だからといって軽んじてしまうようであってはいけないと思うのであります。

 そういう側面を勘案しながら、芸大和声も今後教本が変わるという時代に於いて今一度あらためてそうした側面を見直す必要性はあるかと思いますし、ここをこっぴどく扱う事で、あらためて「逸脱」社会を深く掘り下げる事も可能だと思う訳です。コルトレーン・チェンジなど松本民之助の著書にかかれば1行で語りきれるのですから、その辺をジャズ屋さんは理解しておかないといけませんね。