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パーシケッティの投影法に学ぶ [楽理]

メロディック・マイナー・モードでのIV度上の和音ではドミナント7thコードを形成しますが、これの進行先はとても閉塞感があるもので、通常のドミナント7thコードの勾配を使えません。最もスムーズなのがV度への平行進行なのですから、私が言わんとすることは茲でお判りかと思います。


 つまり、メロディック・マイナー・モードでのIV度上の和音の代理和音に相当するコードを駆使すれば、よくあるタイプの四度進行などの和音進行する必要がなくなる訳です。なぜなら、そのIV度上の和音は閉塞感を伴う多義的なドミナント7thコードだった訳ですから、閉塞感を伴いながら代理和音を使う事も問題ありません。併し、3度累積和音に拘泥していては和音の体を乱してしまいかねないので、取扱には注意が必要ともなる訳です。

 このような、「閉塞感」を「中性的」へと捉えてほしいのです。チャーチ・モードの世界でもIIm7 -> V7という進行においてII -> IIm7/Vという風に「中性化」した訳ですから、ここには属音だけしか利用しておらず属和音としての強烈な薫り付けを利用してはいないのです。つまり、中性化という世界観の為にはドミナント7thコードの多義性が必要であり、動的進行の方のドミナント7thコードの挙動は寧ろ抑制したいのであります。ですからドミナント7thコードを経由せずに「そぶり」だけを見せて静的に進行する事が「II -> IIm7/V」という状況として現れているのです。

「そぶり」だけを見せる事の方が、調性感の稀薄な中性的な響きが演出される訳ですから、既存の3度累積の和音構造を使ったとしても、そこでトニックやドミナントやらサブドミナントという機能的な区別など必要なくなるのです。モーダルな社会での和音取り扱いというのは、「トニックとして類する物(和音)とそれ以外(の和音)」という2通りの行き交いとして和音が連結されていれば良いのです。そうした状況下で例えばドミナント7thコードが既知の機能和声的な強い薫りを漂わせてしまっては逆効果なのです。

 とはいえ、一義的に響きそうなドミナント7thコードが登場する前に、某かの中性的なモーダルな印象を齎すコードが前掲されていれば、後続として現れるドミナント7thコードは、ある程度音楽に熟達している人であれば「多義的」に響く様に聴き取る事でしょう。

 次に図示するのは以前にも掲載した事のあるメロディック・マイナー・モードのダイアトニック・コード群なのですが、これをあらためて見れば能く判るかと思います。因みに上段の譜例が四声体、中段が五声体で一部アヴォイド音を示しております。で、下段は六声体。六声体は特に重要な物としてIV度とV度上の和音を抜萃させている訳です。

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 例えば、ドリアン・モードであれば2コード・パターン循環で能く用いられる物が、ハ調域で生ずるDドリアン・モードだとすればDm7 -> Dm7 (on G)やらDm7 -> G7という、G7というドミナント7thコードを充ててもDm7に戻るという手法を採ったりする事も珍しくはないものの、やはりモードという世界観を好むとドミナント7thコードが酪酸臭さを伴わせるのか、ドミナント7thコードに於ても本位十一度を好んだりする様になり、G7はG7sus4としたり、あるいはF△/G△の様にポリコード化させたりする事の方がG7として坐して用いるよりも遥かに多い用例に遭遇するのは容易い事です。

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 そんなドリアン・モードの進行を模倣しつつアジムスのアルバム『Aguia Nao Come Mosca(邦題:「涼風」)』収録の「A Presa」のイントロの美しいコード進行は冒頭こそマイナー・メジャーではなくIm9ですが、その次は♭III△7aug/IVという2ndベース(2度ベース)で、爰にメロディック・マイナー・モードへとモード・チェンジを巧みに行います。つまり、Fm9 -> A♭M7aug/B♭と進行させている訳ですが、ここで和声的に聴かれるG音を連続8度とやいのやいの言う人はアホかと思います(笑)。



 まあ、嘗て私がデヴィッド・サンボーンのライヴ・アルバム「Straight to the Heart」収録の「Run For Cover」のコード進行を載せた([かわいい]?ブログ内検索をかけて下さい)譜例では、単に和音の基本形を載せただけなのでバッチリ連続八度とした譜例になってしまっておりますが(笑)、それを隈無く厳密にヤッてしまったら権利上無理に決まっておりまんがな、と敢えて言わせてもらいつつ、あの「Run For Cover」のコード進行で最も重要な理解はドミナント7thコードに対して三全音音程関係にある音を分数コードの分母として充てる、という事を説明できれば十分の物であるので、原曲のヴォイシングのそれと便宜的に連続八度がバッチリ使われた単に和音の基本形の羅列である事が「好ましい」という事はお判りいただいた上で、その辺にケチを付けられているようではまだまだ私の意図はご理解いただけていないかな、と思う事頻りです。

 無料で閲覧可能な状態であるのにコードも拾えない様なのが原曲とヴォイシング違う!などと悪罵の声を張り上げる位なら、差異が判るなら自分で音採れ!と言って遣り度くなりますな(笑)。


 とまあ、この様にアジムスのそれ(♭III△7aug/IV)を見ると改めて判る事かと思いますが、メロディック・マイナー・モードのIV度上で生ずるドミナント7thの和音の体すら回避して使っているのが判ります。こうする事でドミナント7thコードが持っている動的勾配の強い薫りを「防ぐ」ことが出来乍ら、中性感漂う様にして一層色彩感を引き立たせた和音として響かせているのです。因みに短調に於けるIII度の音(=ポピュラー界隈では♭III)で生ずる増和音は「短調のIII度」と呼ばれるのです。エオリア調であるならばIII度で増和音には変化しないのですから。

 こうした事を勘案すると、どうもドミナント7thコードをアッパーに積み上げて少なくとも五声体にして、上下分離させる様な世界観で演出するという解釈の方が功を奏するのではないか!? という風に考えていただきたいのです。それを能く示した例が先の譜例の下段の六声体の部分なのです。

 
 六声体が表しているのは、一義的に和音の体を見ればどちらもD音とE音を根音とするドミナント7thコードの型ですが、ポリ・コードとして見ると、上声部と下声部で三和音を見立てる事が出来るのは勿論、D9(#11)が包含するD△は、たすき掛けとしての倒置となってE11への上声部へと上下が入れ替わっているのがお判りでしょうか!?

 つまり、D9(#11)にあったD△は、次の和音へ「平行」的に且つ上声部へと倒置したのです。和音の体は同じなのに度数は「動いて」いるのです。つまり、E11側ではD△の為の基底音が必要なのです。基底和音とまで必要としなくても良いのですが、6声がそのまま動いているよりも判り易いだろうと思いそのような表現にしている訳です。


 これをチャーチ・モードで応用してみる事にしましょう。仮にハ調域のヘプタトニックがあったとしてG△という和音があったとします。G△を掛留させたまま後続和音の基底和音としてF△が現れG△/F△が出来たとしましょう。それが次の譜例です。G△はタイで結ばれているので次の小節で下声部にFメジャー・トライアドが現れ乍らG△が維持している体となっている事が判ります。

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 その際上声部G△はGミクソリディアン・モードを貫いているとして、その上で後続和音ではG△/F△にてF△がFミクソリディアン・モードとしてのFメジャー・トライアドを弾いているとしたら、この様な世界観は最早一義的ではなくなります。GミクソリディアンとGエオリアンの混合の世界と同様の併存が生ずる訳です。次の譜例を見れば一目瞭然ですが、次の譜例では下声部のそれをFミクソリディアンを充てています。つまり下声部のモードではG音から見た時はGエオリアンを形成する事となり、上声部のGミクソリディアンとの異なるモードの併存が起る訳です。上声部と下声部で音階固有音としてのそれが異なる音には逐一親切臨時記号を充てているのは上声部と下声部とのモードが一義的ではないので混同させない為の配慮からです。

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 これはGミクソリディアンの対称形がGエオリアンであるという「投影法」のひとつです。和音の平行という挙動は、モードの性格も茫洋となった時、こうした「滲み」で更に世界観が多様になるのです。

 投影法を知るに際してメロディック・マイナー・モードを例にするという所が示唆に富み且つ重要であるのです。

 以前にも語った様に、メロディック・マイナー社会で副七の和音(=属音以外を根音とする音階固有音を根音にダイアトニックに構築される和音)では、副七にも拘らずIV度上にドミナント7thコードが出来るというのは、以前にも詳しく語った通りです。ドミナント7thコードという和音の形が下属音上に出来るのでありますね。しかもこの和音はドミナント7thコードの持つ本来の「動的」な進行となる行き場の無い、閉塞感(=中性感)を伴わせた「多義的」なドミナント7thコードのひとつと理解できる訳であります。


 が、しかし。メロディック・マイナー・モードにて今回私が口角泡を飛ばすかのように力瘤を蓄えて語って来たのは、モード内に存在するIV度とV度上で生ずるドミナント7thコードの閉塞感と機能の稀釈化という多義的な性格の方です。つまり、ドミナント7thコードが本来持つ動的な進行感を弱める方の世界観を声高に語っている事を今一度思い返してみて下さい。

 そうすると、アジムスの「A Presa」にて語っていた「♭III△7aug/IV」という体を今一度引き合いに出しますが、ジャズでのオルタード・テンションやら通り一遍のドミナント7thコードの体に「ヘタに馴れてしまった人」というのは、先のコードに対して在りもしないドミナント7thコードの断片として見てしまう悪癖を持つ物です。

 つまり「A♭M7aug/B♭」というコードに対して、B♭7(9、#11、13)の断片と見てしまう嫌いがある、という事です。これはいけません。何故ならB♭7として本体を坐すかの様にしたいのであらば、B♭音と完全音程を為す音とB♭音に対して上方に3度音を包含する体という基底和音が無ければB♭7としての機能とやらを態々存在しない音まで引っ張り出して、その上避けて通りたいドミナント7thの薫り付けを行うというのは、掬った灰汁を入れる様な物です(笑)。

 ドミナント7thコードの断片を見つけてしまう人というのは結果的にドミナント7thコードの「一義的」な性格の方を強く感じ取っている和声感の熟達に甘い事を示しているのです。加えて、仮にドミナント7thコードの体として見做す事が可能であろうとも、少なくとも9度音がオルタレーションを起していない本位9度=ナチュラル9thの体である場合、それはドミナント7thコード的というよりも寧ろポリ・コード的な性格に依って「複調感」が醸し出されている事が殆どです。その後続和音に明確な四度進行をしていたとしても、です。少なくともドミナント7thコードが後続和音に対して醸す進行感は別としても「点描的」に複調感が演出された響きに聴こえていい筈だからです。


 音楽というものは興味深いもので、単純な旋律は難解な和声を欲し、単純な和声は複雑な旋律を欲したりするものです。ジャズの場合はプレイ・スタイルに依っては孰れも(=旋律・和声)複雑ではありますが、主題を「聴かせる」類のタイプはメロディは比較的聴き易く、そこに難解なコード進行が鏤められたりする事でありましょう。しかもその和音の充て具合が、本来ならシンプルに一つの和音でも十分であろう部分に、調的な雰囲気をやや歪曲させた他調の借用的な和音進行を忍ばせ乍ら和声感を強力に弄ったりするのが、通常のジャズの醍醐味であるとも言えるでしょう。

 ところが、です。ジャズのこうした「体系」に聴き慣れると、プレイヤーの癖であるフレーズや和音進行の妙味も陳腐化を招いてしまっているのは疑いの無い現実です。ですからバップとして、仮想的に想起する和音から導出される和音外音を奏してもその音を聴取する事に慣れてしまえば奏者が想起している仮想的な和音をも聽者は感じ取ってしまう訳です。インプロヴァイズの直後に意図を知るのです。この意図を知る事にある程度時間を伴う人達には壮大な感動になるのですが、器楽的に熟達していくと瞬時に出される音から判断(予見も含)が可能となるのです。ですからバップがその後モード・ジャズへと移行して行くのは奏者達の欲求でもあり挑戦でもあった事でしょう。


 21世紀に入って、半音階を駆使しつつ、新たな和音進行の模索というのはかなり難しいのではないか、換言すれば大概の和音進行はやり尽されていると言っても過言ではないほど奏者も聴き手も大方どういう和音が生じるか、ジャズを長く付き合っている人程それを實感しているのではないかと思います。

 総じて陳腐化してしまって無価値になってしまったとは言いませんが、少なくとも、和声面だけに力点を置くような進行だと、その和声が大概は使われている既知の物となり、複調を視野に入れても二つ同時に奏しても愚の骨頂。他のプレイヤーのインプロヴァイズの阻碍にもなりかねず予定調和を生むことになり、結果的にプレイヤーのインプロヴァイズは特定奏者に偏りがちにもなる、と。

 あれほど礼賛されたジャズの風合いも、陳腐化してしまうと脆いモノで、ジャズ界の音楽観をこれから学ぶ!という層しか取り込めていないのが現状ではないかと思います。その新たな層も先人の顰に倣う形で半世紀前におけるジャズの巨人達のプレイに倣うのが大半でありましょうし、現今のジャズだけに身を委ねる事の不確かさという立ち居振る舞いは実に嘆かわしい事実であります。

 これらの陳腐化させてしまった背景には、和音構成音がプレイヤーが奏する音脈の暗示となっているのですが、和音重畳が激しければその音脈は和音構成音から引っ張り出しただけの事で、それだといつしか分散和音になってしまいます(笑)。その分散和音という音脈すらあからさまに聽者に見せ度くはないから、適宜オルタレーション用に聴かせて呉れる8音超の音階を充てたりする事で、重畳しい和音構成音が既に持ってしまっているヘプタトニックの脈を使い果たしてしまうそれを見破られたくないが故の行為でしからありませんし、寧ろオルタレーションを醸し乍ら半音階的に使っている時ほど音程跳躍は乏しく、スケール・ライクに陥っているのが大半なのがジャズの悲哀なる側面でありましょう。半音ですら長七度や短九度に転回する脈を使おうとする人すら少ない。それが残念な所です。


 処で、モード・ジャズとは、想起するモードを一義的に見れば良いというモノでもないのです。先の投影法で生じたミクソリディアンとエオリアンの混合を見ていただければ、夫々異なるモードとは雖も「共通音」がある筈です。

 マイルス・デイヴィスはこの「共通音」の世界の方をモードとして見ている訳です。或る意味マイルスからすれば、異なるモードが併存し合っている状況であっても、共通音など「たった一音でも良い」と思っている筈です。いわんや一つの音で掌握する、という風に思っている事でありましょう。マイルスはその共通音を奏するのではなくて、共通音として複数の獲物を串刺しにした後に備わる共通していない音を使うのです。この意味が判らないと、投影法の音脈はきちんと使いこなす事など出来ません。大半の人達は愚直にモードを嵌当する事ばかりに拘泥します。それなら、ドリアン・モードの時どうするのか?

 ドリアンはその旋法は上行も下行も元から対称形ですから投影法をしようにもそのままでは「滲み」を生みません。ですから、ドリアンの主音から見た時の、少なくともエオリアンの方角を見つけるのであります。ドリアンからエオリアンは5度上か4度下にあるんですよ。

 つまり、ドリアンとして奏していた音形を近似的短旋法の音形に変化させ(奇しくも対位法と似た手法)、そのエオリアンの投影はミクソリディアンを呼び、そこに「滲み」が生ずる。滲みはアウトサイドの為の音脈です。そうした投影法は、通常のチャーチ・モードでも、ロクリアンはリディアンであり、アイオニアンはフリジアンという「滲み」を生じさせる訳ですね。

 この様な、一つのフレージングの為の原形モチーフを4/5度に移旋させる様にそれこそ対位法にヒントを得ているアプローチが顕著なのはマイケル・ブレッカーであります。ですから彼のインプロビゼーションにはあるモチーフを移旋させた動機を使ってアプローチする手法が多く、その中でバップ的転がり勾配も付けて細分化する訳です。兄ランディー・ブレッカーの方が投影法に依る滲み出るアウトサイドの脈を顕著に使いますけどね。

 アイオニアンとフリジアンとの滲みで生じた併存は奇しくも下方倍音列が視野に入る訳です。滲みの内の一つの世界の音脈が偶々そうなる訳であり、非チャーチ・モードが生ずる「滲み」をもパーシケッティは自著『20世紀の和声法』で語っている訳であり、こういう事を咀嚼したのが濱瀬元彦著『ブルーノートと調性』であるという事を知らないといけません。『ブルーノートと調性』をきちんと理解できる人なら私の述べている事が腑に落ちる筈です。こういう所に気付いていないジャズ屋は、出て来る音もエセか80年前のジャズ界の音を出している事でありましょう。