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属七提要 捨 〈コード・サフィックスが齎したもの 続編〉 [楽理]

 (承前)然し、そうした特殊なモードはもはや音階の名称として覚えるのは野暮な事でもあり、態々聞き慣れない名称のモードを覚える事が趣味であるならば構わないのですが、もっと柔軟性を持って音と接する為には市民権を得ていない類の名称に拘泥する前に単なるテトラコルドとして分解して解釈する事によって、それらのテトラコルドがどういう音程の組み合わせに依って生じている音列なのか!?という風に見た方が判り易く対応できると思います。


 その先に、聞き慣れぬ名称を覚えるか覚えないかはアナタ次第、という事を語っているワケであります。つまりex.3はB♭ブルース・ヘプタトニック・スケールの第4音から開始されるモード・スケールを生じさせているものの、単純にテトラコルドという4音列の組み合わせで、「減四度」「増四度」という2種類のテトラコルドとして認識している例という風になります。
Blue20Lagoon03.jpg


 私なら手段の一つとして、是亦聞き慣れないであろうex.4の様な「Supratonic Scale」というマルチ・オクターヴ・スケールを宛てがうのも一つの手段であると思います。「Supratonic Scale」というのは見ての通りマルチ・オクターヴ・スケールの一つでして、テトラコルドは増四度から生成されていて、各テトラコルドは全音で連結(=ディスジャンクト=分離)になっており、この音階は、主音から半音の数でいうと「1・2・3・2 1・2・3・2 1・2・3・2〜」という規則的な配列となっているのが特徴であります。
SupratonicScale04.jpg

 また、半オクターヴを有し乍ら各テトラコルドを全音で連結させるので、半音階を得乍ら短六度の同義音程である増五度で2オクターヴを3つに割譲し合っている構造という風にも見る事ができる、非常に興味深い音階なのであります。単オクターヴを超越しているが故に、横の線を誇張して使う事で、旋法的なメリットが出て来るかと思います。


 そうすると、背景にマイナー6th(♭5)という和音があっても、響きとしては実際には減七の和音と同じ。そこにディミニッシュ系統から得られる既知の音列(ディミニッシュトやコンディミ系統)を想起した所で、減七というのは短属九のオミットされた体として強く働くので、情緒があまりにも愚直な方角を向いた芳香を醸すのであります。

 ですので、そうした既知の体系に雁字搦めとなってしまうと閉塞感を伴いかねません。そんな時にスプラトニックの存在を思い出す事によって、今回のスプラトニックの主音はC音ですが、これをEに移調して使っても面白いかもしれません。勿論Eスプラトニックの音を全部使えば半音階な訳ですからディミニッシュに総じてスプラトニックが合うのだ!という風に理解されてはこれは困ります(笑)。「テトラコルド」の方を意識して使うのでありまして半音階の羅列状態に陥っては愚の骨頂なのです。そこは注意すべき点でありましょうが、この言葉の意味が判らないようでは音楽をやる資格は残念乍らありませんし、この手の事を覚える必要は全く無いと思います。コンディミやディミニッシュトとは異なる音列を学びつつ、いつしか半音階を網羅しているという所に魅力を感じる人が使いこなせばイイのです。


 つまり、単純に和音の「芳香」から脳裡に映じ易いモード想起だと前述の様にFハーモニック・マイナー・スケールのモードを想起しやすくなるもののそれだと楽曲の横の線で生じているC#音の存在を、想起するには簡単なFハーモニック・マイナー・スケールが包含しているC音の出来(しゅつらい、茲での表現はしゅったいではない)は釣合の取れないモノとなってしまうわけです。高中正義本人が単純に原曲に対してEの減七の和音しか与えずにストリングスの横の線も全く無いという状況でしたら、Edimトライアドの構成音を伴うモードを想起すれば何でも合う事になりますが、実際には異なるという話をこの様にしている訳であります。

 ストリングス音が無い状況であるという条件(ストリングス音の横の線が現われず単純に「Edim(※ディミニッシュ・トライアド)→E△7」というコード進行がある状況があるとした場合、その2つのコードを何度も繰り返す事によって1回以上はE△7のコードを奏する事になり、そのE△7はホ長調側の調的な残り香を聴衆に届ける訳なのですが、それがあった時初めて、その平行短調である嬰ハ短調のIII度上の和音(=EM7aug)の増五度の異名同音として働き、且つEdim上でFハーモニック・マイナー・スケールを想起した時に生ずるC音をそれぞれ「Similar note(=同一音)」として出自の異なるモード間を同一音が「紡ぐ」様にして結ばれる訳ですが、C音をそうした関係に持ち込むには、原曲のストリングス音がC#音を奏でない限定的な状況でない限り、dimトライアドに対して手前勝手にdim7に置換してしまうとこうしたジレンマに陥るという事が起こる訳です。ストリングス音が無い状況では恰もEディミニッシュ・Eメジャー・Eオーギュメント系列が交換し合っているかの様に響くのが「Blue Lagoon」のイントロなワケです。無論その「Eディミニッシュ」はストリングス音がある時こそ実際には「Eマイナー・フラット5th」系統の和音なのでありますが、こうした交換が、Eメジャーを母体とする調性に多彩な彩りを演出している訳であります。


 こういう事が理解出来ない限り、コード・サフィックスを覚えることはおろか音楽を理解する感性は備わっていない事を自覚すべきであろうと私は常々思います。故に、コード表記に眼が馴れたからと言って、その即断性に甘んじてしまっている様では駄目なのだといいたい訳です。つまり、コード・サフィックスはこういう状況を教えては呉れないので、コード・サフィックスが伴う視覚的な判断の優位性だけを頼りにしてその「甘言」に乗っかってしまってはいけないのです。


 半音階を巧みに使おうとするならば、心の中で易々と映じ易いモードを想起するという事は音階の情緒に手助けされた脈を選択している事に過ぎない為、モード想起をするにも思慮深く注意しなくてはならないという訳です。あまりに考えることばかりに註力してしまう様なら音楽は目の前を過ぎ去ってしまい、とてもインプロヴァイズだのと言える状況ではないでしょう(笑)。しかし、どんなにテンポが速かろうが、自身の判断と演奏の為の器楽的能力は苦難な状況を克服できるモノであります。ですから、考えに及びやすいだけの調所属の判定やモード想起というのは想起し易い物ほど罠に陥り易いのでもあります。そうした事を瞬時に判断できない事は結果的にマイナー系コードに於いてメディアント系か否かを見抜く事も出来なくなってしまいます。単純に和音構成音さえ奏でていれば良い状況であるならばコード・サフィックス通りに弾いていれば誤解が無い限りはその通り弾いている訳ですが、音楽というのはそういう物ではありません。

 和音表記とは和音構成音を呈示するだけで良いのだから、背景に存するモードや調所属まで和音表記の側がする必要性等ありませんし、実際にそんな表記などはしていないのであります。単なる奏者の経験が背景に見えてくる物を感じ取っている訳でして、能面に対して色々見る角度を変えて表情が変わるかの様にコードを捉えているのが和音表記に慣れた奏者の姿であるとも言えるでしょう。

 ただ、実際に場数を積んでいけば判るかと思いますが、和音表記そのものを捉える事は重要ですが、その先に重要な事は「和音外音がどうあるべきか!?」という事を読み取るという事なのです。和音外音は旋律の為にも必要な音脈なのです。それをスポイルしたまま、和音の響きばかりに依拠して、トンデモない和音外音を強要されるかの様にして、和音表記が示しているのは和音構成音なのだから和音外音まで映ずる事はモード想起をする事であり、それは和音表記の仕事ではない筈なのに、和音の既知の体系ばかりに遵守していると、先の様に減三和音を減七で充てるとどういう弊害が起きてしまうのか!?という事と同様の事をお座なりにしてしまうという事になるのです。和音外音まで強要される必要はないものの、和音外音の選択はジャズであろうとも奏者の自由を許さないシーンがあるのは、断片的に調性を利用するからであります。


 スプラトニックは半音階も兼ね揃え、増五度も兼ね揃え、半オクターヴも短三度等音程も全音音階も兼備している事になります。これを「抒情的」に扱おうとしている素振りが心憎い所であります。減三和音や減七の和音が醸す音楽的性格は、厳格なモード想起をもお座なりにしてもそれを掻き消してしまいかねない深い情緒がある為、時には先の様な、やってしまってはいけない置換で整合性を保てない音を奏しても強い抒情性が掻き消す様な事があるという意味なのですが、それに気付かずに自由気ままに演奏してしまっている様では愚の骨頂なのであります。均斉的な音並びはなにゆえにこの様に「掻き消す」作用があり、その作用に負けまいと、他方面由来の均斉を併存させる手法などもあったりする訳ですが、「他方面由来均斉の併存」というのは通常のジャズ/ポピュラー界隈でのコード表記やモード想起では軽く跳越してしまう音楽観であります。モード・ジャズには適しておりますし、和音体系としては必ずやバイトーナルの要素が色濃く出て来ます。


 扨て、凡ゆる音階の種類を覚えていくというのも一つの手段ではありましょうが、今回の例の様に、フレキシブルにテトラコルドに解体して覚えていったり、例えばオルタード・テンションの音を数多く聳えさせた和音表記を敢えて上声部と下声部の分数コードに分けた解釈をするという方法は、複調性を増せば増す程必要性が生じて来ます。というより、既知の和音体系を跳越した情緒に耳が傾倒している時点で、感性はそうした方面の芳香を欲しているのです。

 なぜ、そうした分割させる様な考えをするのかというと次の様なメリットがあるからです。

 健常者であれば、我々の聴覚は24個のフィルターに分割されていると謂われます。つまりイコライザー的観点ならば下限と上限がLPFとHPFとなり、それらの他に22個のBPFがある状況だと思ってもらって差支えないでしょう。茲からが重要です。

 人間が「協和」と捉える音程は不思議な事に別々のフィルターに存する音程を協和と捉える様に耳の基底膜はその様に分布しているのです。つまり、ある2音間の甲と乙という音がそれぞれ、甲はaのフィルター帯域にある音で、乙はbのフィルター帯域にある音、またはa以外のフィルター帯域にある音という音程こそが「協和音程」なのでありまして、不協和というのは同じフィルター帯域に音が存するからなのであります。

 とはいえ同じフィルター帯域内に音が凝縮されていってもそこには今度は認識できる限界もありますが、先の様にテトラコルドや分数コード的な割譲の解釈というのはこうした聴覚フィルターの観点から見ても非常に合理的な手段であるのです。一つの帯域として俯瞰してしまうと、そこには飽和にある状態をより混濁した状況として見做すからです。これが混濁としてなってしまうのは絶対完全八度という純正なオクターヴが必ず節目として存するが故に、混濁しなくても良い状況を既知の尺度が混濁させてしまう訳であります。ですから「解放的」な、オクターヴという絶対完全八度を棄てた直線平均律法では非常にオープンという形で拓けているのですが、こうしたオクターヴの無い様な社会よりも、平均律の「磁場」を認識していないと、直線平均律法の世界の認識には難儀すると思います。

 音楽を高次に聴こうとする方なら、集英社新書刊蔵本由紀著『非線形科学 同期する社会』のパイプオルガンの部分を熟読してもらいたいと思うことしきりです。なぜ逆相で同期しようとするのか!?という事を読み取るだけでも興味深い事ですが、これは「平均場近似」という現象なのであります(※同著では「平均場」とは述べていますが「平均場近似」という語句では語っておりません)。

 平均場近似の観点を異なる音高の2音にあてはめれば、2音の夫々異なる音高は互いの逆相にある部分を「スイートスポット」として捉えている事に等しく、そのスイートスポットに存する事が互いの連携の「均衡」を生むという事にもなり、平均律という「平均場」の出来は決して人為的な物でもないのでしょう。そのスイートスポットをもっと拡大解釈すればいわばこれはトリトヌスの音脈を平衡状態にするという風にも謂える訳です。残響のピッチが揺らぐ事があるのも平均場あっての事でしょう。無論、不協和音が不協和である限り、協和音程へ進めばそれは既知のドミナント7th型のコードでなくとも「ドミナント機能」があるのですが、トリトヌスが均衡であるという静的な状況というのは少なくとも平均律を看過する事はできない均斉的状況である訳でもあります。こういう所に着目しつつ、半音階や24平均律やら他の平均律にはどういう脈が隠匿されているのかという事と、そうした脈絡に枝葉を付ける響きはどういうものなのか!?という事迄を語ろうとしているのが私のブログなのであります。

 そんな事を心のどこかにとどめて、属七はなにゆえに均斉的な音並びを枝葉として持つのか!? とか、そういう因果関係を今後語って行く事になる訳です。