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心理尺度 Thurstone Scale [楽理]

 ノイズという物でなくとも、楽音が煩わしい事がある。うなりの全く生じない純正比の振動数を是とする者も居れば、不協和音に耳慣らされた者にすれば単純な音に味気なくなり更に複雑な響きを欲してみたり、そうかと思えば、純正比の振動が長く残る残響を忌避してみたり等々。人間とは実に我儘といいますか、都合の良い生き物でありますね(笑)。


 先の残響成分への自覚・無自覚という側面や、不必要な迄に雑音を器楽的な楽音から真正さを求めて排除しようとするそれらは、自身の器楽的素養や音楽聴取能力の脆弱さが招いた主観が作用している事がかなりのウェイトを占めていたりします。つまり自身の好き嫌いに依る偏った聴き方で音楽を聴いているだけなので、多様な「音」を知覚する為の経路が脳細胞レベルで育まれていないのです。ところがその様に説明してしまうと自分可愛さもあって大体次の様な反論を述べたりします。

「音楽とは愉しむための物なのだから、そこにわざわざ不快感を伴わせるのはけしからん!」

と断罪する人の方が多いでありましょう。その「けしからん」という言葉に凡てが集約されています。

 扨て、その「けしからん」という言葉やらは、実際には音楽の成立の為に必要な表現ではありませんし、音楽の芸術的側面の重要性からの代弁では決して無いのですね。「けしからん」という音はどういう風に組成されていると「けしからん」という状態になるのか、という基準など、おそらくその手の人達の主観でしか判らない線引きだと思われます。

 楽理的側面など全く理解できなくとも、少なくとも文字や言葉の上の表現力なら語彙には長けているかもしれない。そういう人が自身の耽溺の源泉など探求する事なく、言葉次第でどうにでも表現できる言葉遊びをして、自身の嗜好する物を広大な空間とばかりに投影して、ありったけの言葉や文字で埋めてしまおうとするだけで楽理的&器楽的な表現が殆ど出て来ない様な人と、私の様に、楽理的に追求する人間は対極の位置にあるかと思います。同じ類の音楽を両者が好んでいる筈であるにしても、「理解」とはここまで乖離するものでもあるのです。

 音楽の築き上げてきた歴史という史実的な重みとは「権威」そのものでありますし、作品の背景に生じている世界観とやらを「徒に」自身の手前勝手な想像力(これが膨らむのは自身が嗜好するから)によってイメージを誇張してしまう。つまり単なる聴き手に過ぎぬ輩が手前勝手な「価値付け」を行なっているだけの事で、先の言葉の「けしからん」は音楽の代弁でもなんでもありません。そうして、その後に残るしきりにレコメンドしたいであろうという耽溺に浸れる御自身の自尊心を「言葉」でもって一所懸命投影しているだけの行為でしかありません。
 
 換言すれば、

『この”私”(←自分可愛さの為の価値付け)に耳障りと感じてしまう様な音を聴かせるなど、”価値ある私”に対して実に非礼千万、けしからん!』

という事を率直に言えない(それすら気付いていない)だけで、音楽を盾にしつつ本来無関係である筈の自身の主観をスルリと潜り込ませて激高しているだけの卑劣な行為に過ぎません。その音楽を「盾」に出来てしまう裏付けとなる自信とやらは、そこばかり(偏狭的な嗜好)に拘泥してしまう人種なので、その手の類のライブラリ数や鑑賞経験数は一定以上あり、それ等周辺の情報収集に事欠かないが故の事なのですが、肝心の楽理的部分は大抵無視してしまっていたりするのが関の山でもあったりします。

 このような人が擦弦楽器や鍵盤楽器のノイズ成分もしくは倍音成分はおろか残響とやらまできちんと聴いている訳がありません。無論、音の組成など本当は無頓着である筈なのです。せいぜい頓着するのは目に見える部分での差異位か耳によっぽど大きな差異と現れる類のものでしょう。

 停まった車などはどうでもいい(”私”はエンジニアやメカニックではないので、停まった車を動かす術を知らないし知りたくもない)。車は動いてナンボ。

 それが意味する事は、音楽という「横の線」が動いて呉れるのを待って、動きを愛でる。動かない”静物”には脈絡を見付けられないのが関の山。そうした動く「線」に酔いしれている事は動く車に似るのでありますが、その「動き」も実は惰性で読み取っているだけの事です。


 楽理的側面に拘泥する様な人間が、その手の人達の心理やらも包含した上での「音の知覚」面を研究すると、次の様な方面で話を括る事が出来るのであります。

 先述の、音波の物理的振動が人間に齎す知覚作用は医療方面ではとうの昔に定理化されているものでして、先の残響の不快感やらも"Thurstone Scale"(〈サーストーン・スケーリング〉=心理尺度)として図式化されて研究されていたりするので、医療シーンにおける研究は真に恐れ入るばかり。

 能く、「直感」と「直観」を混同している人に遭遇したりするものですが、両者はまるで違います。前者は曖昧模糊でありますが後者はざっくりとした捉え方を許さず”真”を捉える事に用いられる言葉です。古い図書や安っぽい辞書ですと「直観音楽」とやらも「直感」と分け隔てなく用いている本もあったりしますが、少なくとも1970年代以降でそうした無頓着な語句を用いる音楽書はないでありましょう。

「直観」(=intuite)が真に意味するものは「言葉の入らない真なるもの」であり、そうではない「直感」だと、言葉は要らずともざっくりした考えのまま既知の何等かの脳の「入れ子」に名付けてある感覚・知覚の名称を脳が読み取って、その言葉を"宿主"に伝えているだけの様なものを意味するものです。その伝達経路と順序は「平仄」として固着化してしまっているのですが、「直感」が作る入れ子や言葉が要らぬ物を「直観」が意味する事なのです。つまるところそれらが意味する事は、本質そのものに関連するという形態化(ゲシュタルト)において他の媒介を伴わぬ『直覚』こそが『直観』なのであります。

 たとえば怖い思いをして鳥肌が立つ、という反応に対して多くの人が有している誤謬というのは例えば、

「怖い物を見たから(遭遇したから)鳥肌が立った」

という風に大抵の人は思っておりますが、実はこれは感覚レベルで言うと全く違います。

 脳レベルでは〈鳥肌を立てる〉事が先にあり、その後〈怖い〉という感情を引き起すというメカニズムなのです。つまり、茲に感情を引き起すプロセスが伴っている以上、直観的見渡しで比較すれば感情というのは次段に生ずる従属・隷属的であるステップなのであります。
 
 そういう訳で神経的には「鳥肌が立ったから怖いのだ」というプロセスを経て感情が伴っているのであるという事が正確な理解であり、誤謬を正さなければ、音の知覚とやらにきちんと向き合う事などできません。

 このゲシュタルトそのものには、多くの思い(形態)を投影(置換)させる事が可能なので、こればっかりを有り難がって「置換」をあれこれと張り巡らせる人が殆どなのでありまして、こうしたプロセスを「自由空間」と無自覚に思い込んでしまっている人が先の誤った理解をしてしまっている人です。

 その人達に、『ゲシュタルトとして形態を付ける事は、どうにでも後付け出来てしまうというプロセスに過ぎないのですよ』と口添えしても、それまで口八丁手八丁で音楽をありったけ語っている人にしてみたら完全否定されてしまう様な物でもあるのでなかなか受け入れようとしないというのが実際なのであります。実際には「無智」である事に陥ってしまっている事なのに、それを「未知の自由空間」であると思い込んでしまっているので、なかなか是正されないのであります。ですから、「自由空間」と先に感じてしまっている事は往々にして「無智だからなせる業」だと思っていた方が賢明かもしれません(笑)。

 音楽とやらを考察するにあたって茲まで考える様になろうとは思いもよらなかったと思う人は少なからず存在するとは思います。漠然と浪漫的に浸り乍らありったけの言葉で形容している位の方が「自由」な感じを抱く事はできるでしょう。しかしその「自由発想」は誰もが共通理解として抱く事の出来る真を捉えたものではなくて、大体は、特定の人が発する言葉の表現に屈服・服従を孕んでいるだけの事で、そこの屈服・服従に対して敗北感やら自尊心を毀損する様な思いが伴わなければ大概の人が追従する事でしょう。それに倣った者同志の間では共通理解という風に普く人口に膾炙されるだけの事であり、畑違いから見たら異質な理解を伴わせている事も往々にしてある訳です。自身の偏向的な嗜好が絡んでいる為、その思いは宗教観とやらに振れ過ぎてしまう感情に似る物でもあるでしょう。

 聴覚の歴史を進化論的に見ると、聴覚はそもそも「触覚」であったのです。つまり皮膚の感覚と同等。これが外部に晒されている事よりも内部に取り込む様にして進化した方が好都合であったので、聴覚器官が発達した訳です。先述の「直観」を直感と同じ様に考えてしまう輩は、それこそ第六感だのと言い出すのではないでしょうか!?(笑)。科学的な分類では視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五感に加えて、第六感というのは「平衡覚」なのですよ。第六感が直感などと喧伝してしまう様な者は、自身の理解に及ばない物を「直感」でざっくり片付けたいだけの事なのですよ。本当は全く理解していないのです。その無理解さを外部へ覆い隠す為には言葉で言いくるめるしかないのです。楽理的見聞に乏しい輩というのは言葉で言いくるめているだけでしかない、という事をもっと厳しく、殊に音楽では判断しなければならないと思うことしきりです。

 このような数理的な側面というのは、それに興味の無い者からすれば、言葉にし難い表現こそが耽溺の源泉と盲信しているが故に、万が一にでも赤裸々に数値化して目前に示しようものなら、途端に罵声を浴びせるかのように罵り、妄信してしまっているそれに気付かせようと助言を与えた側が咎めを受けたりしかねない程彼等は拒絶したりするモノです。

 加えて、場合によっては、妄信してしまっている事に対して赤裸々に露呈させつつそれ迄以上に完膚無き程までに気付かせてやれば、今度は一転。吹聴する愉しみを奪われたとばかりに、それまでの魅力が興醒めしてしまい、まるで夢から覚めたかのようにそれまでの没頭が嘘のように興味を逸してしまうことも恐らく少なくない事でしょう。

 此処から言えることは、自身の耽溺の源泉が如何に脆弱であるか、という事を他者から知らされるのは死亡宣告と似た様なモノであり、広大(な筈)の自身の精神は自身が無智・無力が故に、狭い空間をも隈無く知ることのできないほどの深淵に感じてしまうほど脆弱(ちっぽけ)な自己に気付く事を心の何処かで畏れているが故の防禦反応でもあるのです。

 その防禦を他者に明け透けに露呈したくがない為に自身をひた隠す。しかし耽溺の源泉をありったけの言葉を駆使して表現したい(然し、器楽的素養がないかもしれない)、そうなると、言葉である程度は音楽の形而上学的部分はいくらでも表現であろう、ことを見出して器楽的素養の豊富な人間の言葉を真似ては、投影し易い別の言葉へとアレンジしたりして、今度は音楽ではなく「語彙」を活用して音楽を不必要に誇張して、自身の価値を高める(=私の好むものは素晴しい⇆価値ある私は良い芸術を選んで来る)という風にして、自身の価値付けの為にブランドとしての音楽を身に着けているだけに過ぎないのでありますね。

 佐村河内氏の一件と似た側面に挙げる事の出来る、例えば高級ブランド品。仮に、”あなた”がお気に入りのひとつのバッグや時計やらが残念な事に本物ではなく偽物だという事が判明してしまったとしましょうか。でも、その事実が判明する直前までは、その「偽物」は何の毀損もなく貴方の自尊心を高めて呉れておりました。処が、偽物だと知った途端に、「無害」(むしろそれまでは有益)だったその商品に一切の価値を見出さなくなるのは自明でして、ブランド品を好きな人ほど酷く掌返しをすると思うんですね。

 なぜかというと、ブランド品がトコトン好きだという真の姿は、それ自体(ブランド品を愛すること)が結論では決して無くて、その心理の正体というのは単に、「ブランド品を好む自分自身をトコトン好きな事は大きな価値に値する」が、その手のブランド好きな人の心理なのであります。

 ですので、佐村河内氏のゴーストライター疑惑でも途端に掌返しをする人というのは音楽そのものは聴いていませんね(笑)。然し乍ら、こんなことは音楽界のみならずどんなジャンルでも言える事で、何等かのプレミアム化を演出している所の客層の9割以上は自分自身の手前勝手な欲望の為に聴いているだけで、音楽が好きだから聴いているのではなく、「こんなプレミアムな音楽を聴いている私は素晴しい」という所に収斂する人々が殆どなのです。ほんの少し楽器を弄った程度の器楽的素養を補強にして自身の半可通ぶりを更に誇張したくなって、その為には研究者のようには器楽的素養を身に付けることは難しいので、音楽の所蔵数を競う様になってしまうのが関の山なのです。

 日本では何故か礼賛される、ピアノの音名を当てる程度の「絶対音感」は、直観ではなく、直感の方です。なぜかというと、ある音に対して音名が頭に浮かぶ様に記憶の回路が固着化した事そのものなので。それで相対音感が身に付かなければ、ちょっとしたコンサート・ピッチの変化や調弦にも対応出来ない耳になってしまうのは自明です。もしかすると自宅のピアノの調律が狂っている事にも気付かず、チューニングのそれも概ね甘かったりするモノです(笑)。本当に耳が鋭い人なら、ハンマーのフェルトのヘタリ具合も判るでしょう。でもおそらく「直感」型の固着化された人々はそんな部分音は聴いていないと思います、ハイ。

 倍音列の低次な音を読み取るのは、知覚面においてその処理が楽であるからです。我々が和音という複合音を聴いて最高音を聴き取りやすいのは、例えば倍音の基音と6次倍音と比較すれば判り易くなりますが、1次である基音を捉えきるまで、6次倍音を6周期読み取る訳ですね。ですから最高音が聴き取り易いわけです。然し乍ら聴覚レベルでは第6次倍音程度でもまだ低次レベルな方でありまして、低次な整数比が共鳴度を齎す事は今茲で語る必要も無い事でありましょう。

 でも、倍音を読み取る事は我々は通常、重い尻をよっこらせ!とばかりに上げて聴いているのではなく無自覚で捉えております。無自覚であり乍らも直観に作用する本質までは辿り着けない。多くの人はそこにゲシュタルトを与えてしまう。その先を知るには苦痛が伴うので自分自身に判りやすい「喩え」を「置換」として置いておけば、その後の記憶にも自分自身にも優しい(←近視眼的理解)という事に過ぎないのであります。
 
 奇しくも日本国内で広く人口に膾炙されてしまった「絶対音感」の音名当てというのは、音と一緒にゲシュタルトを付加させた事だけにしか過ぎません。それは「直観」に作用しているものとは違う記憶だという事をあらためて知っておく必要があるかな、と。


 ほぼ無自覚レベルで音を器楽的側面においても楽理的側面に於ても深く追究できるようにするためには、人間というのはそこに到達するまではとてつもない苦労が「必要」なのです(浅学菲才の私とて苦労しております)。楽器の熟達度で言えばソコソコ以上のレベルでなければなかなか無自覚レベルに到らないのではないかと思うばかりです。そうした本来必要なシーンを傍観してしまい「さわり」だけを知る位の方が「ラク」である事は明白ですね。この「ラク」な側面をかいつまんで、自身の日常において軽く小ネタとしてまぶす位で人生には弾みや揺さぶりがかかって堪能できるワケです。


 そういう訳で、苦労を伴う側面を知らない人ほど音楽的な話題は「感覚的」な表現になるモノなのです。無自覚で楽である事に加えて、言葉では自由に表現できてしまう広場でやいのやいの言ってるような連中というのは言葉は巧みかもしれませんが、器楽的側面を知っていると、不思議と彼らが一向に器楽的側面にはアクセスしてこない事で「エセ」だと気付く事ができるのであります(笑)。

 苦労を伴わずとも「感覚的」に音を意識できるのが「大きな轍」つまり、完全音程です。純正八度=完全八度は完全音程の中でも最上位の「絶対完全音程」として括られるものですね。その次に強いコントラストを生ずる「完全五度」の存在、コチラも強固な存在感を示します。処がコイツは、オクターヴのどの位置に生じても同一性を保てるのか!?というと実は違うのです。私の言っている意味はお判りでしょうか!?

 人間の聴覚というのは結構曖昧な部分、特に周波数帯域によって非常に非線形的な曲線で感応度が変化しているのですが、オクターヴ違う音をオクターヴと思わない帯域すら存在するのです。それとは逆に、とても協和する音程比ですら低い領域に持って行くとどんどん協和度が失われてしまい、協和的な音程ですら混濁してしまう現実があります。こうした現実が意味するのが「臨海帯域幅」と呼ばれるモノなのでありますね。
 
 こうした知識をさわり程度に覚えておいてもらえれば、今後の私のブログは読みやすくなるのではないかと思います。