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綿菓子の柄にもぶら下がろうとする者 [おバカ]

 私の場合、インターネットや嘗てのパソコン通信に接続するためにATARIやMacに始まりパソコンとやらを入手したワケではないため、そうした下地が無いのが幸か不幸か、私にとってインターネットというのは正直二の次三の次のメディアでしかないのが事実です。


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 一般的なパソコンの利用と言えばおそらく大半はネットツールでありましょう。ネットに触れるという側面だけをピックアップしても確かにそれは便利と言えば便利な所もありますが、かといってメール程度なら態々パソコンじゃなくても今やiPhoneやiPadで充分でもありますし、ネットの本来の有り難さという物を顧みると意外にも数十年前には実現していなかった「未来のツール」とやらの幻想は、今になってみると、その当時未だ見ぬ物への欲求と幻想を抱いていた頃の願望の強さの割に實際にそれらが実現した所で、当初予想していた程の衝撃度が得られない物の出現が殆どであったと感じていて、本当の衝撃度の高さは私に取ってはiPadやiPhoneの操作体系の変化こそが本当に世界が変わったと實感したモノでありました。

 ドラえもんの世界まで飛躍する必要は無いのですが、概ね30年前ほど遡るだけでも私個人はウォークマンでも充分「未来」を感じたモノで、絶対音感は無く器楽的能力のある人がひとたび外出中にメロディが浮かんで公衆電話から「留守電」に録音するという行為が礼賛されたり(笑)、そんな時代が80年代前半から後半にかけての世界なのです。

 黒電話(勿論ダイヤル式)でキャッチホンを付けていれば充分進んでいた家庭でした(笑)。異性の家に電話する時は21時前が大原則。その大原則の前の時間帯に電話しようとも電話口での言葉には非礼さは微塵も許されず、その節度たるや「貴方の娘さんを僕にください」と常々意識させられているかのような敬語を要求されるのが日常でした。恋心を抱くなどほど遠いクラスメートの連絡網で回って来た電話でも、「お宅の娘さんを私に下さい」という言葉をも上回る程の丁寧さを要求されるのが当時の電話だったワケですわ。これが学生時代は常につきまとう足枷だったんですね。そうした制限下で思いをはぐらせるワケで「手紙」という物にウェイトを占めるワケですね。まあ、昔の雑誌など「文通募集」という類のスペースがどれほどあったモノか(笑)。

 
 今の時代に「書く」という事が昔とどれほど違うモノなのか、そこまで實感はしていない物の、私など文字を書く時点で「ハイユニ(=Hi-Uni)じゃないと手が疲れる!」とか我が儘なモノでしたが、「手書き」の文字があらためて注目されるのはそこに「心」を感じ取るからでありましょう。自分自身の書く文字がテレビの美文字ランキングに見られる様な藻翰(そうかん)たる物に仕上がってくれれば良いのでしょうが全ての人がそうではありません(笑)。とはいえ丁寧さが伝わる文字は、上手ではなくとも心が伝わって来るモノです。

 日本語というのは江戸時代は「駄洒落」から転じて「当て字」も活発になっていて、言葉そのものに揺さぶりと幅を持たせていたのでありますな。勿論、句読点を使うのは読み手に非礼極まりないという文化すらあったワケですから、権威を重んじる場所での書物となると漢語が多くなり、書かれた文字の事実とは別の読み方が生じたりして、書き言葉と話し言葉が併存する社会は明治時代にもあり、政府が発令する「言葉の在り方」という変遷に伴って言葉は書き言葉と話し言葉の併存が少なくなっていき、当て字文化や、注視させる為に態と漢語を用いたり外来語に漢語を当て嵌めたりする様な語法すら少なくなってしまうワケで、現代社会に於いては言葉に揺さぶりを与えた表記をしようものなら途端にネット上で披露してしまえば揚げ足を取られかねない始末です(笑)。


 ネットでの情報の在り方というのが、それそのものが虚偽でない限りはメッセージ自体は大したモノではなくとも虚偽ではないため発信する行為が与えられた事で情報そのものは行き場を求める推進力を得ます。この「推進力」が誰にでも等価でありますが、価値そのものは取り敢えずは無視する事にしましょうか。

 例えば「酷い」と「非道い」というふたつの表現を例に挙げれば、後者は当て字(或る場所ではこうした表現も許容されている所もあるとは思いますが)であり、言葉に「揺さぶり」を与えて注視させている狙いと、「酷い」事への悪辣な感じを更に演出している語法でもあります。とはいえこうした表現が受験の様なシーンで問題にされるかというと模範的ではないのは確かでしょう。

 ネットの発信する情報が虚偽でなければ信憑性とやらはトコトン増幅してプレスを凌駕するほどのポジションを得られるのか!?というとこういう人は10億人中一体何人ほど生まれているのでしょうか!?(笑)。ネットというのは情報の発信機会を等価に与えられてはいるものの、情報の精度や確度、価値・信頼性という類の本来誰もが指標とする「権威」は殆ど皆無に等しいワケですが、情報の根幹に読むべき価値が無ければ発信そのものが徒労に終わりかねないのでありますね(笑)。ところが馬鹿は馬鹿なりに數を集めれば英知を結集できるだろうと短絡的に考えてしまうと、ネットというお手軽なツールに埋没しているだけになってしまい決して「三本の矢」に変貌を遂げてくれないワケですね。それは何故か!?ネットとは拓かれたスペースで何人であろうとも自由にアクセスできるというのが前提なのではないか!?


 私がネットで「検索」をして面白いと感じた事はあまりありません。それは私が全知全能ではなく(笑)、私が知りたいと思う情報がネット上に少ない事が最大の理由であります。抑も私にとってパソコンの類とはネットを行うツールではないという理由も加えるべきでありましょう。しかしパソコンだけに囚われる業務をこなしているワケでもないので第一の理由にはしていないのであります。

 とはいえ、「情報」という本来持っている筈の価値というのは確度・信頼性に依って培われるのでありまして、どこぞの馬の骨の聲と信頼性の高い方面から蓄積された情報とやらでは、それらが同じ事を述べていても前者は利用価値の競争に身を置いた場合負けてしまうのです。これのどこが「等価」なのか!?という事を先ず気付く必要があります。

 「ライブラリ」。今では色んな方面で多くの意味を含みますが、この言葉は蔵書であり、図書館であります。図書館の類や官僚が蓄積してきた文書の類に改竄の歴史があったとしてもその蓄積自体は有効且つ膨大な「ライブラリ」です。いわゆる「詰め込み」的なデータの蓄積が「資産」とやらに化けるには、確度とデータ量に他ならないワケですが、0か1かも判らない様な曖昧なモノではなく両面を語っているか或いはどれかひとつの解答を得られるデータが蓄積されていればデータは多角的な「語彙」を持たせて繙く事ができるワケで、単に知識の物量だけではなく確度と多角的な方面からの傍証も伴ってライブラリの価値は強化されるのであるのは自明です。但し、専門的分野というのは先の「どこの馬の骨」やらにも猛者が存在するのが常でありまして、これらが集積して英知を活用できるのなら良いのでありますが、ネットでは大概この辺りに衝突が起きるのも常なのです。


 情報の確度や信頼性というのは=権威力に依って決められてしまいます。どんなに平たく見ようとも同じ感想ひとつ述べるにしても私がその感想を述べるよりも著名人が述べた方が確度が高くなるのは間違い無い事です。


 此処で注目すべき事は、本来ネット上にて発信される情報は「等価」であって良い筈なのに、結果的には権威力を求めてられてしまうのは矛盾が生じているのではないか!?という疑問ですね。その答は、正答というのはひとつであり、経験の蓄積はある一定の目的に對しての定点観測だったりするので、ポッと出の発言者の言葉に重みが軽んじられてしまうからにしか過ぎないワケです。然し乍らその発言者が門外漢であろうと専門知識の塊のいずれかであろうとも権威力の前には無力なので、説得力が弱くなってしまうという所が難点なのでありますね。その難点を熟知し乍ら情報発信を継続できなくなってしまいがちなのは、結果的に専門的な知識が枯渇してしまうのもひとつの側面だったりするのでありますし、多くの体験談というのが既知のモノだったりする程度で「共感」という物に共有したくなる欲求がいつしかsame oldなモノに変容してしまう事に無意識に気付いてしまうからであります。


 結果的には、即時性の情報やらがごくごく一般的な発信者が提供する情報として生き残るのが一般的な例でありまして、本来等価であった筈のポジションだった物が數をこなせえばこなすほど権威的側面が求められ、情報の蓄積は求められ、確度が求められ、信頼性の向上の為には限界を迎える様になり、いつしか枯渇する、と。こうした枯渇が増大してしまうのは、枯渇してしまう発信者同士を取り込んでいく事ができないのでありますが、情報を共有してナンボのネット社会が、自分の知恵は自分の物とでもいう独占が災いして持ち合う事ができないワケですね。ですから専門的分野の知識同士は点在して補強されたりする事もなく枯渇を待つ様なモノでして、その枯渇を防ごうと安易に共有してしまおうとするのが国内では掲示板やらに出向く事に繋がってしまっているのが顕著な例というワケですね。


 だからといって私のブログは、自身の枯渇を防ぐために某掲示板に出向くのか!?というと全く違うワケですね(笑)。私のブログが枯渇しない理由は、情報の提供の在り方が全く異なる所でして、既知の音楽の「規律」に対する解釈というのが私にしか出来ない解釈を述べているからに他ならないワケですね。この解釈の繙きに何のヒントも得られないのであれば私のブログなど信憑性は皆無に成り自然の成り行きで存在意義が無くなる筈ですが實際はそうではありません(笑)。私の行う情報発信を自分自身でガメようとすれば閉鎖的なスタンスが軈て「枯渇」の道を辿る事になるのかもしれませんが、實際は違うのですね。一般的な情報発信者の多くが枯渇して私が枯渇しないのは何故なのか!?という事を今一度考えていただくとネット社会という物がよく見えると思いますので、その辺りを今一度考えていただいて読んでいただければ幸いです(笑)。


 本来はオープンであるはずでネットで誰もが情報を共有する事が理想であるかもしれません。それが発揮されるのはウィキペディアの様な百科事典の様な在り方や「辞書」系のモノが活用されるワケで、●●の音楽を聴いた単純な感想を器楽的なコメントすらなく感覚的な言葉にいつまでも凭れ掛かる様な解釈は、少なくとも私には必要の無い情報のひとつであり、音楽という物への理解が常に曖昧である事が最も忌避したい部分なのに、それを大事にしてまでネットの「オープン・スペース」を欲して検索かけて時間を潰そうとなど思っていないのですね。ですから私には『ウェブはバカと暇人のためのもの』という著書内の前提が当て嵌まらず、検索するネタや引っ張って来られたネタで一稼ぎしてやろうとかそうした打算が働く事もなければ、検索する事すらムダでしかない私に、そもそもネットが必要なのか!?という様な者が発信している情報提供にやいのやいの言われようとも笑止千万でしかないワケであります(笑)。自分の尺度を勝手に押し付けるな、という事ですね。そのアンタらの音楽的な尺度、どれくらい説得力があって適用できるモノですかと問うてみたいモノです。



 結果的に「権威」を求めてしまっている事に気付かない人は居るモノです。例えば似た様な事をネット上で発信している全く別人の言葉の解釈に對して「言葉の揚げ足」的な解釈や意図を「比較」して推論する様な行為にそれが顕著に表れたりするモノです。それらの別人の発信者がまずAとBという人が居たとして、客観視する人をZとしてみましょうか。すると、AとB夫々のメッセージが似たモノであっても、使われる言葉の違いがある場合、その言葉そのものの適用の在り方をZは比較してAとBのどちらが自分にとって利益を齎すのか!?という比較をします。仮にZにとってA>Bだったとしましょうか。するとBというのはZから批判されたりするもするのです。これがエスカレートすればネットでの「叩き」や「炎上」にもなったりします。

 しかしZにとってAよりも更に確度と信頼性を伴う発信者にいずれ遭遇します。その新たな発信者をXとした場合、X>Aとなり、Aは下位に押し込められます。結果的にZにとってはXが増強していればイイだけであり、プロセスで生じている情報の蓄積にリスペクトは何も求めておりません。権威にぶら下がるだけです。「いやそんな事はなく今までの人達をリスペクトしてきた結果だ」と宣っても、情報の欲するベクトルの先を見れば優劣の付け方そのものが権威的であるので、この時点でZはたやすく「虚偽」を発信する事にも気付かない。つまり、自分自身の防衛の為には虚偽の発言をする人物の類という事が見て取れるワケです。

 権威にぶら下がる類の者は他人の権威を利用して隠れ蓑にするのが得意技ですから、それを見抜く人間からすれば、その手の連中が身を隠す所など見透かしているので先が読めるワケですね。

 結果的に「権威」にぶら下がろうとする者は、自分自身の意見を膨らます事なく他人の意見を借用しつつ、先の不等号で記した様に他人の意見を取り込む際に優劣を付けて自身の中で先鋭化させていって武装化する事で脆弱であった筈の自身の意見とやらを強く誇示しようとするワケですが、ここでアピール(=主張)が可能にするのは他人の意見の借用を体よく言葉を変えただけのモノで、實際には権威とやらに溺れてしまっただけの事で、専門知識を有している者からそうした人間を見る場合はとても滑稽に映るモノであります。概ねSNSの中でも偉人や著名人のBot化だの、どこかで感化されただけで言葉に陶酔してるだけの者とか、他人の意見を論っては理想論を繰り広げている様なタイプというのはこういう所に集約できるモノなんですね。

 自身のアンテナに他人の言葉が巧く受信できればどうにでも取り込んでしまう寄生虫の様なモノなので、専門知識というのは自身の体験で得た物ではない事が多い為机上の空論を振りかざすという行為に陥るタイプなのですが、ネットという物を「活用」した結果がこの手の本来は門外漢の人間に近視眼的な専門知識を植え付けてしまうと結果的に権威へバイアスが触れてしまい、それを強者&猛者と思い込んでしまう事でオープンであった筈の共有可能な知識は、その手の我が儘なバイアスをかけた人間に依って閉鎖的(=独占欲の方向)へ持って行こうとし、果てはそれにてビジネス化すら目論もうとする「転んでもタダでは起きない」馬鹿共を生産するだけになってしまうのであります。


 音楽とやらの本質を見る事はそれほど苦難を強いられるモノでしょうか!?唯感覚的な言葉の羅列を幾多も目にさせられ、その表現力に依って理解が左右されるのであればその手の人は音楽を聴くのではなく、文学の世界に身を置いて陶酔すべきです。音楽を聴く耳がなく言葉に揺さぶられてしまうのであればどんな耳を持っているのか!?という事が自ずと判るでありましょう。私がネットで披露している様な内容が他では目にかからない様な事なのは当然です。それを権威力あるものにしようなどとは微塵も考えておりません(笑)。音の違い位はきちんと取り上げてみたいな、と。つべこべ言ってるヒマがあったら音に耳を傾けろって事ですね。他人の言葉を聴いて「誰々の音がする」なんて聴き方しませんよね!?(笑)。言葉を聴くにはその言葉の持つメッセージという意図を理解してナンボです。音のメッセージを読み取るというのは言葉のコレとは亦違いますからね。その辺を取り違える事なく違いをきちんと「耳にする」事が肝要かな、と。

 耆艾(きがい)と呼ばれる年齢に達すれば有る程度の成り立ちが判りますし、一言二言言いたくもなるワケでして(笑)。